
お盆前、懸案の件があり青森出張です。
早朝4時半に出発してクルマで函館まで走る。
いろいろ経路を考えるのですが、今回はあえてクルマを選択。
というのは、函館から9時19分だかの特急があって、靑森に11時18分に
到着する、という時間もぴったりのがあったのです。
これはいい、ということで、接続を確認したら、
当日の札幌からの汽車での連絡はムリ。
ということで、クルマで出たのです。
札幌を出るときはけっこうな雨降りで心配していましたが
道中は特段の天候の崩れはなく
おおむね順調な走り。
途中、3回くらい朝食も含めて休みも入れての走りです。
で、函館駅到着は予定通り、8時半。
余裕で時間クリアでした。
意気揚々と、駅に入ったのですが、靑森方面行きの案内掲示には
10:21が「次の列車」欄に案内されているのみ。
9:19というのは表示されていない。
で、恐る恐る駅員さんに、事前に自由席乗車チケットを購入していた
「琴似駅」でもらった運行表を見せて尋ねたら、
「あ、それはお盆期間用の特別列車で8日からの運行です」
「本日は7日なので、まだありません」
という説明・・・。おい、であります・・・。
そう言われてからはじめて子細に見たら、
列車の表示の前に●があって、その下の欄外に小さい字で
「8月8日〜17日運転」と、確かに書いてある。
大失敗であります(笑)。う〜〜む。
憤懣やるかたない。でも、自分の不注意が原因であります。
で、件の10:21ならば、札幌始発6:36の汽車で接続しているのです。
クルマでわざわざ走る必要は、なかったわけであります(泣)。
まぁ仕方ありませんね(笑)。
年を取ってきて、ややあわて者ぶりは進行しているようです。
この結果、靑森県内、青森市と弘前市の2箇所での打合せ日程が
ややタイトになった次第。
で、アポの13:00靑森には直前の12:14到着。やや10分ほど遅れですから、
約束までは事前に片付けるべき仕事も出来なかった。
で、靑森と弘前の間の移動をJRでするとなると
時刻が縛られて不都合なのと、どうせ駅に着いても
そこからタクシーを使ったら、往復で4000円近く飛ぶので
靑森駅前でレンタカーを借り上げ。
なんですが、これが「靑森ってこんなにひと多かったっけ」と
あきれるほどのねぶた最終日の混雑に巻き込まれ、
アポ先には時間ギリギリヒヤヒヤで、滑り込みセーフ。
終了後、時間を見たら、次の弘前のアポ時間16:00の1時間前。
移動距離は60km近く。やばそ。
そこからの「ねぶた渋滞」で、次のアポにもギリギリ到着。
終了後、靑森駅前のレンタカー屋さんに返却したのは
これも時間ギリギリ。
で、19:09発予定の列車を待ったのですが、
ねぶた最終日の花火大会混雑で、「列車は満員かも」という
駅員さんの説明を真に受けて、すぐにホームに直行です。
ところが、これもまぁ大袈裟なおせっかいで、
並んでいるのは、到着時約2名のみ。
まことに、ふ〜〜〜であります(笑)。
で、さすがに疲労困憊の極みで、函館にて1泊であります。
っていうか、靑森で泊まりたかったのですが、
さすがにねぶた最終日、靑森のホテル満室間違いなしという特異日。
という珍道中でありました。
まぁ、きょうはすこしゆとりを持って行動したいと思います。
ふ〜〜〜やれやれ。
Posted on 8月 8th, 2014 by 三木 奎吾
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さて、きのうの朝日新聞、やはり購入することにしました。
この問題、それほどメディアからは大きく扱われてはいない。
NHKでの放送もきわめて抑制的。
読売がやや批判的ではあるほかは、産経以外は静かな扱い。
で、件の朝日新聞。
1面になぜか、団塊世代を含めての好感度バツグンの吉永小百合。
朝日の意図を感じざるを得ない。
まぁしかし、商業新聞なので仕方ないでしょうね、こういう「配慮」。
前日に続いて検証記事と銘打っている割りには
自社取材記事は1ページだけで、
あと1ページは「識者の声」で占められている。
で、その1ページも、まるで傍観者的に
日韓関係と慰安婦問題の推移が、まるで他人事のような書き方で
延々とつづられている。
韓国側の対応については、どうしてこうなるのか、の
背景解釈のまるでないまま、いわば出来事を傍観的になぞっているだけ。
これが「記事か」とため息をつかされられるような無内容な駄文でした。
識者の声に至っては、いまの日本国民の心情との乖離の甚だしさが際だつ。
吉見某という中央大学の教授に至っては
「吉田証言が虚偽であっても、この問題への影響はない」とまで言っている。
そうか、はたして。
32年間、朝日が真摯に検証しなかったことで
国際社会のなかで、日本だけが性奴隷を容認しているかのような
そういった根拠の曖昧な誹謗にさらされてきたことに無反省な
あまりにも無責任な論議だと思う。
これは、朝日新聞の国会喚問は避けられないと思う。
報道の自由を守るためにも、無軌道な報道を32年間も放置し続けた罪は
やはり問われるべきだと思う。
自由には、それを担保するだけの責任が絶対にある。
そして朝日新聞は、国会喚問の機会が訪れたら、
むしろ好機として、大いに自らの「報道の自由」を訴えれば良い。
戦後社会を覆っているヌエのような報道という権力もまた、
しっかりと検証される必要がある。
自己検証をここまで放置したということひとつとっても、
朝日にはその責務があることは明白だと思う。
かつて、わたしも投稿した意見が、朝日で「声」欄で掲載されたことがある。
だから、自分自身をも問うというような気分ではあるのだけれど、
やはりここまで生きてきて、責任の感覚こそ、もっとも必要なものだと思う。
朝日は、正面から責任に向き合ってもらいたい。
Posted on 8月 7th, 2014 by 三木 奎吾
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きのう5日の朝日新聞で、ついに朝日自身がいわゆる「慰安婦」問題に触れた。
1面では戦時の性について、それが女性への耐え難い冒涜であるという
人権的一般論に、ことの「本質」をそらそうという論説を書いた上で
中面で見開き2ページを使って
自社の慰安婦問題キャンペーンの検証を行っている。
そこで書かれている事実は、まさに常軌を逸した報道の暴走「事件」といえる。
写真では、慰安婦募集において強制性があったと
繰り返し証言したとされ、朝日が都合16回も登場させた吉田某という人物の
証言の信憑性について、ハッキリ虚偽だと認め、
そのうえで、朝日の対応として、「記事を取り消します」としている。
また、女子挺身隊という言葉と、「従軍慰安婦」とを混同したということについて、
自らキャンペーンを張った言い出しっぺにもかかわらず、
「当時は研究が進んでいなかった」という、外的要因に混同の原因を求め、
自らを免責しようとしている。
暗澹たる気分で、この報道に接した。
これが700万部売っているというメディアの責任の取り方なのか。
朝日新聞というメディアは、わたしはリアルタイムではもちろん知らないけれど、
戦前は日本を戦争に引きずり込んでいった
軍部独走のお先棒を先頭に立って担いできたそうだ。
そしてその反省からか、戦後は一貫して反権力的な立場で
あるいは、アメリカのリベラルに依拠した親「欧米」、
人権派的な立場で戦後民主主義の論壇を率いてきたと言える。
戦争の前後で180度立場を変えた、と言われているけれど、
はたしてそうなのか、体質はまったく同じではないのか。
冷静な判断能力を持っているとは言いがたい体質ではないのか。
いま、世界の中で日本が危機に立っている問題の
初源的当事者であるのに、「記事を取り消します」で済ませられるのか。
もとより、戦時の性の問題は人類社会が克服しようとして
これまでできなかったテーマであり、このことは
人類共通の負の遺産として、戦争を抑止し、平和を求めることでしか、
解決のしようのない大問題だと思う。
そのことは、当然のことだ。
しかし、いま、日本が置かれている立場はそんなことでないことは
誰の目にも明らかであるのに、それに問題をすり替えるとは。
朝日新聞よ、なにを血迷っているのかと思わざるを得ない。
しかし、本日も朝日はこのテーマでの検証を続けると言っている。
その記事をも再度読んでみて、
朝日の今後の「記事の取り消し」とは、どういうものになるのか、
社会に対してのメディアとしての責任は、どう取るつもりなのか、
もうすこし、注視して行きたいと思います。
<このブログは、5日遅くに書き上げているものです>
Posted on 8月 6th, 2014 by 三木 奎吾
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先日、わたしとしては新発見した「オオウバユリ」です。
アイヌの人々の貴重な炭水化物栄養源として
言い伝えなどでも、重要な植物。
で、毎日の散歩コースの円山公園周辺で発見してから
その位相変化を楽しんできておりますが、
先日発見時の花の時期は過ぎて、果実生成の方向に移行しているようです。

上の写真が、先日発見時の花の様子であります。
わたしたちには、この植物の食用的価値は食文化的には薄いわけですが
さて、どんな食味になるものか、一度は味わってみたい。
レシピなどを見ると、どうやら製粉して団子のようにして
オハウなどに入れて食するようです。
オハウというのは、三平汁のような鍋料理。以下Wikipediaより
オハウ ohaw(煮込み汁)
獣肉や魚肉、山菜、野菜を鉄鍋で煮込んだ汁物。
単なるスープに留まらず、鍋料理とも言えるほど具沢山の汁物で、
「主食」が存在しない狩猟・漁労民族であるアイヌの
食生活の中心を成す料理だった。
現在、北海道の郷土料理として名高い石狩鍋、三平汁の起源とも言われている。 具材に特に決まりはないが、大体以下の様な方法で調理される。
鍋に水を張り、獣骨や小魚の焼き干しを入れて火にかけ、出汁を取る。
大まかに切り分けた肉、魚を入れて煮る。
乾肉、乾魚の場合は時間をかけて煮る。
肉や魚のアクは一種の薬効成分と考えられているので、取り除かない[62]。
野菜は根菜などの煮えにくいものから入れ、つぎに繊維の多い山菜、
そして葉物野菜を入れる。それらが柔らかくなるまで煮込む。
動物性脂肪、魚油、少量の塩で味を整え、最後に風味付けとして
焼き昆布の粉末、乾燥させたプクサ(ギョウジャニンニク)をふりかける。
※肉のアクが気になるようであれば、後から入れる野菜や薬味に吸わせる[62]。
中心となる具材からそれぞれ
「チェプオハウ」(cep ohaw 魚汁)、
「カムオハウ」(kam- 肉汁)、
「カムイオハウ」(kamuy- 熊汁)、
「キナオハウ」(kina- 野菜汁)などと呼ばれていた。
ニリンソウは汁と相性が良いため「オハウキナ」(ohawkina 汁の草)と呼ばれ、
具材として特に好まれていた[63]。
一度だけ、アイヌ料理として食べたことがあるのですが、
案外薄味だった記憶があります。
こういうエスニック料理って、北海道でもあんまり聞いたことがない。
あんまり受けないのでしょうか?
でも調べてみたら札幌市内にもあるようです。一度、行ってみたいと思いますね。
Posted on 8月 5th, 2014 by 三木 奎吾
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わたしは伝統的な演劇などを鑑賞するのが好きなんですが、
そのたびにいつも感じさせられるのが、日本人が生きるときに
必ず持ち続けた人生価値観としての「義理と人情」です。
以下、OKウェイブからの要旨抜粋。
〜「義理人情」と一括りにされますが、義理と人情は全く別物で
時には両者の板挟みにあうこともあります。
義理とは、簡単に言えば、人間関係のしがらみに基づく義務。
目に見えない貸し借り、力関係と思えばいいです。
例えば、恩人に対しては借りがあります。
恩人や恩人の家族、遺族が困っている時に、その人を助けてあげることは
かつての借りを返す行為であり、「義理」にかなった行動です。
これに対して人情とは、損得貸し借りを超えた、まさに「情」です。
人間関係のしがらみ、貸し借りは一切関係無し。赤の他人でもOK。
見知らぬ国の子どもたちが飢え死にした話を聞いて
かわいそうだ、とか、気の毒だ、と思うのは人情です。〜
大体、古典的な芝居の演目では
かならず義理と人情の板挟みで懊悩する姿が描かれ
その観客との感情の共有が、いこか、もどろかと
七転八倒する人間の姿に仮託されて劇的空間が盛り上がっていく。
その内面世界の葛藤に、日本人であることの
深い共感なり、生きる辛さなりが表現されている。
そしてはるかな時代を超えて現代を生きているわれわれも
同じ心性を生きるものとして、親近感を持たざるを得ない。
古典芸能を見る最大の楽しみは、案外こういった部分にあると思う。
江戸期に繰り返しヒットした演目である心中ものなどは、
まさにこの世界を描いて、日本人のこころを涵養した。
この義理と人情、言い換えると
「顕教と密教」というようにも言い得るのかも知れない。
常に顕教的世界がこの世を支配しているのだけれど、
その「ことの内側」では、濃密な密教的人間の煩悩、懊悩が
逆巻くように波打っているような感情世界が展開している。
しばらく、こういった古典芸能に接していない。
やはり北海道にいると、こういう日本人的心性を確認するような
機縁が少ないと、いつも思っています。
やや悲しい。
<写真は空蝉。諸行無常であります(笑)>
Posted on 8月 4th, 2014 by 三木 奎吾
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わが家は新築したのが1991年春であります。
築23年が経過してきています。
途中、15年ほど前でしょうか、大規模なリフォームをしていまして
そのときに増築しています。
それが、ここにきてあちこちから要メンテナンスのサインが・・・。
まずは、居間のハニカムサーモスクリーンの巻き上げが5日ほど前に不調に。
業者さんに来てもらって、巻き上げ部分の紐が一部切れていて
持って帰ってもらって修理中。
続いては、お風呂の蛇口、混合栓なのですが、漏水事故。
半年ほど前にもメンテナンスに来てもらったのですが、
選んでいた商品は欠番になっていて、パッキン関係の部品がないということ。
一応、応急で漏水は治まっていたのですが、
それが一昨日、また漏れ始めた。
どうもダメなようですので、交換するほかはなさそう。
また同日に、自室の蛍光灯照明から異音発生。
照明屋さんに来てもらったら、これは「蛍光灯安定器」の老朽化が原因。
対処法としては、そもそもそういう「安定器」が不用なLED照明に交換に。
来週初めに工事に来てくれることになっています。
さらにきのうは新築当初からやや挙動が怪しかった3階の一部の木製サッシに
不具合発生。外部の水切りが脱落してしまった。
当初から防水性能的に問題があり、
それがサッシ下部の木材部に水が回って腐食しているようです。
これは、やむを得ないので交換を依頼。
同型のほか2枚も怪しいので、同時に交換修理したいと思っています。
そんなこんなの事態に見舞われて、やや消耗していたら、
けさ、自室のブラインドも、どうやら巻き上げの紐が切れていて
巻き上げ下ろしで左右不同になっている。
こういう固定金物って、わたしはまず弱いんですが、なんとかインターネットで
外し方を調べて、無事外すことができました。
これもメンテナンスしてもらうことに・・・。
家というのは、どうしてもメンテナンスが必要なもの。
そうは思っていますが、こう行列、団体で問題が出てくると疲れる。
そのたびにあれこれ相談に乗ってくれる工務店さんは
たいへんありがたい存在です。
ずっと付き合っていけるようなそういった存在は不可欠だと思います。
とくに現代の住宅は、水回りをはじめ、設備機器の数が格段に多い。
そういう意味で場合によっては往診も出来る「家医者」のような存在が必要。
しかし、最近はこういう関係が消滅している場合も多い。
家づくりにコストパフォーマンスばかり追求すると
案外こういったメンテナンスが消え失せてしまいがち。
家を保守管理していくためには、事業者さんとの関係維持って大切です。
Posted on 8月 3rd, 2014 by 三木 奎吾
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写真は北海道神宮入り口の七夕飾り。
日本の七夕は7月だけれど、北海道ではひと月遅れ8月になる。
でも、この風習はひとり北海道だけではなく、
東北も8月になっている。
仙台の七夕は、同じように8月7日。
こういう「ぼっち」的な扱いに、仲間がいてくれる喜びは案外大きい(笑)。
こういう扱いをしてくれるのだから、
ゴールデンウィークも1カ月ずらしてくれないだろうかというのは
北海道民の切なる願いなのだけれど、
これは叶わないことになっている。
七夕というのは、別に単なる風習だから、休日などを伴わないけれど
ゴールデンウィークは休日法が絡むから
ことは容易ではない。
北海道札幌での七夕なんですが、
これがみごとになんの感慨もないことになっています。
少年期には、それでもまだ、そういった季節行事の残滓が
生活文化の中にあったような気がする。
わたしの家は札幌市中央区北3条西11丁目という場所にあって、
家の前には「石山通」という、開拓当時建材として活用した
「札幌軟石」という石を切り出して運んだといわれる幹線道路があり、
その並木としてヤナギが植えられていたのを憶えている。
そのヤナギの枝を切って、
七夕の飾り付けをした記憶がかすかに残っている。
わたしたち年代では、こういう日本生活文化を維持している部分があったけれど、
自分が子育てしてみると、そういった部分はまったく消えてしまっている。
はるかな後年になって来て、
仙台の七夕の豪華絢爛ぶりを垣間見ていると
七夕という文化の地域偏差の大きさを実感させられますね。
さて、その仙台、東北ですが、
夏祭りの真っ盛りシーズンになって来て
出張のホテルがまったく取れなくなってきている。
なんですが、お盆前に片付けなければならない案件も多く、
さてさて、どうしたものかと思案させられています。
まぁ、賑わうことはご同慶の至りなのですが、さてどうするかなぁ・・・。
Posted on 8月 2nd, 2014 by 三木 奎吾
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写真は、このブログとは無関係です(笑)。
そうなら、最初っから写真を別のにすれば良いのですが、
すいません許してください。
きのうもちょっと書いたのですが、
呉善花さんという、韓国済州島出身で日本国籍を取得された方の
「なぜ反日韓国に未来はないのか」という電子本を読んだ次第です。
わたしは大多数の日本人と同様に
数年前まではまったく隣国韓国について、大きな関心は持っていなかった。
日本人にとって世界とは基本は欧米との関係であって
東アジア世界というのは、地政学的には近隣ではあっても
圧倒的に対米関係が巨大で、国の根幹に関わるのはそっちだった。
それが、中韓両国の経済規模の拡大があって
ようやく日本人の意識が向くようになって来た、というのが
正直なところなのだろうと思います。
日本人としては、この方の書かれていることは普通のことだと思うのですが
韓国国内的にはいまや危険思想として
母親の葬儀に置いてすら入国拒否されるほどになっているそうです。
国是としての反日というおそろしい事態になっているようで
まことにどうしようもないやっかいなことになっているのですが
そのあたりは、本をお読みください。
なんですが、その社会的原因分析の根幹のところで
やはり思った通り、中韓は「儒教」社会であり、日本は多価値観社会である
というくだりがありました。
さらに日本の社会構成単位には非血縁的な風通しの良さがある
一方、中韓の社会は基本的に血縁社会であって
そこに目上に対する服従とか、女性の地位の低さ、
さらに賄賂を当然とするような、儒教的社会感覚がある、
というように記述されていました。
日本が本当にそうであるかどうかは、必ずしも不明だとは思うのですが
しかし中韓の考え方の本質は、たしかにここなのでしょう。
この辺は、わたしもずっと感じ続けてきた部分なので、
韓国で生を受けた方がそのように書かれるのを読んで
同感する部分でした。
本来は近代国家は、そうした儒教的・束縛的な価値観からは
社会の基本規範は自由であるべきだけれども、そうではないのですね。
なぜ健全な「封建社会」が中韓の社会に根付かなかったのか、
ヨーロッパでも、王から独立した地方分権というか封建主義が息づき
それと王権との微妙なずれが、いわば「相対的に判断する」
という民主的価値観を醸成してきたのだと思います。
日本でも鎌倉以来、地域権力と伝統的王権、武力中央権力など
多様な権力が存在する中で、民衆の価値観は多様化し、
「常識」が豊かに育った部分があるのだと思います。
こういった理解が得られたのが、この本の最大のポイントだと思います。
中国の権力闘争での周永康・前共産党政治局常務委員の
一族眷属の巨大蓄財額や、その一網打尽ぶりを見せつけられると、
儒教社会の伝統の根強さに、まさにへきえきとさせられます。
やはり日本は、民主的価値観をこそ
対中韓への国家戦略として、冷静に地道に訴えていくしかないでしょうね。
Posted on 8月 1st, 2014 by 三木 奎吾
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再三お伝えしているように、
先日Kindleを購入して、はじめて電子本を購入して
ようやく1冊の本を読み終えました。
いま、話題の「呉善花」さんの韓国論の本でした。
まぁその内容については、またの機会とするとして
電子書籍端末での読書感について使ってから感じたことを書いてみます。
Kindleがわが家にやってきて半月。
数冊の電子本を購入したのが、1週間ほど前。
で、そのなかの1冊を今回、読み終えられた次第であります。
最初は、どう利用するべきか
よくわからなかったので、既存の手持ちの本をスキャンして
PDFとしてKindleで読もうかと考えました。
スキャナーとして優秀な機器があるので、試した次第。
やはり形のある本を裁断してスキャンすると言うことは
抵抗感があってできない。
したがって、厚みのある本ではどうしてもきれいにスキャンできず、
そのデータをKindleに持ってきても
読むという行為に没頭できるような状況にはならない。
とにかく文字を目で追うのに精一杯で
文章を読みながら、いろいろ思考を整理し、書き手と対話しながら
いわば、「考えながら読む」という心理状況に至らない。
案外、読書というのは物理的・人間工学的にもよく考えられた
システムと人間営為なのだと再確認出来た次第。
スキャンには限界があるとすると、
最初から電子本に最適化された情報をゲットするしかない。
ということで、Amazonには、無料で読める電子本がある。
とりあえず、電子本読書になれる意味では悪くない。
ただし、当然のように著作権の切れた古典なので
それなりの楽しみはあるけれど、やはり知的欲求からは物足りない。
そういうことが体験できて、ようやく電子本を購入してみました。
このあたり、人が本を求める心理を追体験するようで勉強にもなる。
つぎに問題になるのが、
興味を持っている分野の本で電子本でも提供されているものが少ないこと。
いまどきは、ほとんど両方が準備されているかと思ったのですが、
それはむしろ少数派。
ある程度、確実に売れるラインが読める本しか電子化されていない。
ここで、知的欲求にそっての読書という基本が叶えられなくなっている。
いま、わたしはこのような現実にいるわけですが、
さらにいえば、大量に保有している本棚との関係性が消える不安。
これが本当はいちばん大きい電子本促進の阻害要因でしょう。
やはり本があるという視覚的安心感は捨てがたい。
「積ん読」という言葉がありますが、あれもある意味では
ユーザーにとっては、大切な知的所有感の発露なのかも。
しかし、読書では電子本はやはりラクだ、というメリットは高い。
こんな現状を前に進めるアイデアを、いま時代は求めているのかも知れません。
<写真は無関係>
Posted on 7月 31st, 2014 by 三木 奎吾
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先日取材した「蓄熱シンポジウム」での発表で特徴的だった
「断熱・日射制御・蓄熱・通風」という4要素への
住宅性能、外皮性能のまとめが気になってきています。
北海道では、住宅性能の4要素としては
「断熱・気密・暖房・換気」が挙げられるのですが、
気候風土条件を踏まえると、こういった整理整頓がスッキリしている。
写真は、軒の出が確保された日本的な住宅建築での
開口部、というよりも柱間の様子ですが、
障子という紙と、自然素材の葦簀が
「日射制御と通風」に効果的な働きをしている様子が明瞭。
で、北海道の人間の立場からすると
このような住宅建築要素でのデザインが、
「日本的」と言われる生活文化に重要な役割を果たしていたことに
大いにセンシティブにならざるを得ない。
確かにこのような空間性は、
日本各地からの移住者によって構成された北海道開拓初期に
北海道内でも散見されていたけれど、
やがて、こういう住宅デザインは夏場のほんの1〜2週間
忽然と出現する季節感に対応しているだけで、
それ以外の時期には、素寒貧住宅の象徴のようだったのです。
それでも、こういった生活文化性には抜けがたいDNA的憧憬があり、
こういった住宅装置がそれとして機能する気候風土での暮らし、
感受性に、強いコンプレックスは持たざるを得なかった。
しかし、北海道はあるときから、こうしたコンプレックス自体
放棄することにしたものかも知れない。
東北の状況は、こういう部分で、捨て切れなさを抱いている。
関東以南ですら、捨てたいと思っている人も増えているかも知れないという、
いまがあるのかも知れません。
しかし、こういった風情が、
気候風土的な室内気候快適化装置でもあると
いわば科学的に見えてくるに及んで、
もう一歩、違う次元的な認識変化が起こってくるようにも思われます。
こういったインテリア空間にさらに科学的な取り組みを加えて
「断熱・蓄熱」という要素技術を加えていく方向もあれば、
「断熱・気密」化された空間に、こういったデザインを導入する方向もある。
たぶん、列島社会の中で、北と南から、
せめぎ合っていくような住宅技術の進化が止揚されていくのかも・・・
そんな妄想が沸き起こってきている次第です。
いいですよね、こんな空間性、大好きです。
Posted on 7月 30th, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅性能・設備 | No Comments »