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【ケプロンも滞在?明治の端正デザイン「洋造弐邸」】


明治6年というのは開拓使の建築がもっとも活況を呈した1年とされる。
象徴的建築としての「開拓使本庁舎」の大工事が進捗し、
さらに「お雇い外国人」たちがどんどん入地してきて、
いかにも北米的な「洋造新都市」がその骨格を表してきた時期。
北海道開拓という大事業が小さな歯車の住宅建築とともに進展する。
そういった「遠い記憶」の実相を見続けることは、
いま令和というあらたな時代の開始にあたって明治からの遠雷。
150年のタイムスリップは、しかしまったく古さを感じない。
むしろ日本を進化させようとする明治の必死さに深く打たれる。

明治5年以降、洋造方針が確立して北海道の建築は
それまでの日本の伝統建築から大きく離脱を開始する。
そのときに「お雇い外国人」という存在は大きな役割を担った。
ケプロンさんは、アメリカの「農務省」の次官から極東の小島の
開拓方針の策定アドバイスを委託される立場になった。
「開拓の先人」であるアメリカと日本との長き関係において
北海道開拓は、象徴的なことがらだったのだと思う。
そうしたアメリカを中心とする外国人「教師」たちのための居館が
建設されることになる。写真の「洋造弐邸」はそのシンボル。
よくアメリカの建築のベース「パターンブック」というものが語られる。
開拓時代は建築の専門家集団に委ねることが不可能に近かった。
そこで建築のパーツを単純化し、自分でDIYでも建てられるように
工法も建材も「合理化」が社会全体で追究された。
そのなかで住宅デザインについても住宅図面集である
パターンブックが一般的に流通していた。これであなたも一流デザイナー。
それが太平洋を超えて日本の北海道に「洋造建築デザイン」として
蜃気楼のように「移植」された原動力であったと思える。
この「洋造弐邸」も、非常に均整の取れたプロポーションであり、
窓の規則性の美しさ、軒の出の「薄さ」全体としてのシャープさも
それまでの和風住宅との乖離を感じさせ、驚きであったに違いない。
お雇い外国人の中に「建築」の専門家はいなかったとされる。
かれら自身の住宅について希望条件などをおおまかにヒアリングしたか、
あるいは開拓使営繕課がはるかに「忖度」して企画住宅として提供したか、
たぶん後者。建築構法自体は日本木造様式だけれど、
ほぼパターンブック通りの端正な住宅建築に仕上げられている。
幕末から明治の開拓使営繕課や現場大工たちの技術の急速な取得ぶりに驚く。
これはたぶん鉄砲が種子島に伝来された途端に、あっという間に
堺を中心とした地域で産業が成立し世界有数の鉄砲生産国に変貌した
そういった日本社会の故事、技術素地を再見する思いがする。

ここでも2階から「煙突」状の突起物が外部にみえている。
当時、ストーブの工場生産化が創意されていたとされる。
日本で初めて制作されたストーブは、1856年の函館が始まりとされ、
イギリス船が北海道に入港する際、寒さを凌ぐために使用していた
ストーブを参考に制作されたと言われている。
当初は薪が主熱源だっただろうけれど、その後北海道で石炭が発見され、
地域には必須の暖房熱源として安価に提供された。
わが家伝承では産炭地から流れてくる河川の川原で「タダで拾ってきた」(笑)。
この「暖房革命」も北海道開拓と同時並行で日本社会に根付いていく。

【明治6年開拓使デザイン住宅「本庁分局」】

一見するとこれが明治の公共建築として建てられたことに驚かされる。
非常に装飾性が強い建築であり、開拓使の建築の中で異彩を放つ。
こうした建築はどのような色彩で彩られたのだろうか?
もしカラー写真で残っていれば、そのまま現代といわれても不思議はない。

この建物は建坪59坪・起工明治6年4月、竣工8月。総経費7,872円余。
開拓使本庁舎、洋造弐邸に次ぐ経費を要したとされる。
洋造弐邸についてはあす、触れてみたい。
この本庁分局は開拓使を訪れる「貴賓」のための宿館とされている。
開拓使が札幌で次々と建築を建てて、洋造新都市を建設していることが
多くの要人たちの注目を集めたものか。
北辺の開拓の実情、その進展具合に接したいという希望は強かっただろう。
この当時判官職にあった岩村通俊の方針に沿ったものか、
設計者として岩瀬隆弘がこうした「洋造デザイン」に関わったものか、
そういう消息を伝える情報は残されていないけれど、
このような建築写真を見れば、横浜や神戸の外人街同様の
「ハイカラな」街並みが日本人の手で造成されている状況が見て取れる。
平面図は残されていないけれど、正面立面図が残っていて
その「断面図」状の箇所には邦尺の記入があるので
洋造デザインの住宅建築を日本の職人たちが見事に実現している証しか。
窓には格子状の建具が明瞭でガラス窓が装着されている。
切り妻総2階建てのシンプルな構成に装飾的付加が施される。
まず大きなポイントは正面と建物左手から背面に装置されたベランダ。
「洋造縁側」とでも現場大工たちは呼んでいたかと想像される(笑)。
基礎を高くして玄関まで5段の階段を上がる。
日本の伝統的建築には存在しないこういう半外部空間に
どのような暮らし方・使い方イメージを持っていたか、
初源の「造作した気分」を取材したくなる。
あるいは、すでに居留地としての横浜などでこういう洋造空間を
作った大工たちが呼び集められていた可能性も高いと思う。
開拓使の営繕には岩瀬隆弘がすでに勤務しているので、
1,200人以上新規に東京から集められた職人たちの選抜要項に
こういった「洋造経験者」という項目もあっただろうと推定する。
小屋根や軒先などの端部には過剰なまでの洋風装飾性が加えられている。
注意すべきは屋根頂部に見えている「煙突」。
これは室内に暖炉か、ストーブなどの「暖房装置」が据えられたことを
明確に伝えてくれている。

こういう建築たちが目に見える「坂の上の雲」を札幌に現出させた。
開拓使事業報告では、こうした建築について
「皆洋式ニシテ防寒ヲ主トス」というように高らかに宣言している。
やはり明治初年のこのような建築群が、その後の独自な
北海道住宅の「進化」を決定づけたインパクトだったのだろうと思う。
この年ようやく戸数634軒を数えたけれど、
その住居はおおむね出身地の建築様式としていた札幌定住者たちは、
こういった開拓使の住宅建築への「意志」表明をどう感じていたか?
それはその後の北海道住宅がたどった道筋が証していると思う。

【乱世・影丸の絶句「遠くから来て遠くまで行くのだ」】

先日ブログを書いていて、
なにげにいただいたコメントで強く響いてきた言葉があった。
ここ3ヶ月以上明治初年の北海道住宅の始原期に取材した
「日本の住宅2.0」の原初を探る、みたいな「歴史の根掘り」作業に
集中してきている。住宅と自分との証しのようなことかもと。
それなのに時折「マグロ勝手丼」みたいなブログも書く。
そういう様子を「三木さんはどこに行こうとしているのか(笑)」
みたいなコメントをいただいてしまった。
これがひどく自分自身のなかで「不意を突かれた」部分があったのです。
そのコメントをいただいたのが、高校時代のわたしをよく知っている方。
一気に、自分の出発点のようなことにタイムスリップ。

で、この言葉「どこにいくのか」フレーズの原点マンガ読書体験。
自分にとってこれが決定的なフレーズだったことに気付いてしまった。
それが上のマンガシーンであります。
白土三平「忍者武芸帳・影丸伝」最終シーンに近い影丸の死直前の絶句。
影丸は、戦国時代の民衆蜂起、本願寺顕如などの政治勢力を存立せしめた
大きな民衆の時代への怒りのマグマを組織化して
マンガらしい超人的な働きで信長、絶対支配権力と正面から戦う
まさに1960年代の「ヒーロー」そのものを仮託したキャラ。
顕如の謀略でとらえられた影丸の処刑は信長の到着を待つことなく
影丸のさまざまな忍術の準備が整わないうちに、立会人・森蘭丸のもと
拘束即日に5頭の牛に鎖を繋いでの「五体の分解」という
残虐そのもののカタチで行われた。
その処刑直前、「無声伝心の法」で森蘭丸に伝えられたのが、
「われらは遠くから来た。そして遠くまで行くのだ」
という辞世絶句だったのです。
当時は69-70年安保闘争に向かって若者たちの心理が高揚していた。
左翼運動の主張が自分自身で本当に考えたものであるかどうかは
そう深くは考えることはなかったけれど、
しかし、生き方として「美的」であるかどうかから判断すれば
このような絶句を残して刑場の露と消えた生き様に、
マンガフィクションとはいえ、強いインパクトを受けていた。
たぶん「理よりも美」の日本人的「心性」に深く根ざしているのでしょう。
「遠くまで行くんだ」というフレーズは、当時を生きてきた人間には
臓腑のなかにしまいこまれたような感情を呼び覚ます。
この作品発表当時にはこの作品に対して「唯物史観がどうのこうの」という
作品評までが大真面目に語られていた(笑)。
その評自体は左翼的に利用する意図があきらかで嫌悪させられますが、
しかし作品へのリスペクトはいまも変わらない。

書棚の奥深くに眠っていたマンガ本から
そのシーンを50年以上経って再読したくなって引っ張り出した(笑)。

【開拓使「脇本陣」明治4年11月➡5年1月竣工】

引き続き「北海道住宅始原期への旅」。
きのうは江戸期からの貴賓用の宿泊施設「本陣」を見ましたが、
本日はより庶民向き旅館の「脇本陣」であります。
きのうの本陣建築は基本的には和風の伝統的建築で新築され
その後、お雇い外国人のための滞在用施設に転用することで
「洋造」的な改修を加えたとされています。
このあと、開拓使の記念碑的な洋造建築の代表作品になる
明治天皇を主賓として建設された日本最初の本格的洋風ホテル
「豊平館」が建設されるけれど、それに先行した
「旅店」建築の日本国家関与の最終形になるものと思われます。
和風宿館の江戸から明治への結節点ともいえるのでしょう。
明治4年段階の開拓使建築では仮本庁、本陣とも「石置き屋根」だったが、
こちらの脇本陣では柾葺き屋根が採用されている。
建築の目的について、開拓使営繕報告書では以下の記述。
「明治5年旅館ヲ新築シ、当時之レヲ脇本陣ト称ス。開拓ノ業漸ク緒ニ就キ
追々人民内地ヨリ跋渉スルモ未タ他ニ旅店ノ設カラサルヲ以テナリ」
建築スタイルは純和風建築で造作されている。
内部の状況を知り得る図面の類は発見されていない。
開拓使の「家屋表」では建坪229坪ほどで、総工費は8,991円余。
建設地は現在の札幌市中央区南1条西3丁目。
施工期間がおよそ3ヶ月と大型の割に短期間で出来たのは、たぶん
突貫工事で仕上げる必要が差し迫っていたと思える。
その理由が、上記の報告書記述からうかがえる。

この建物でも、本屋から風除室的な突出部分が接続されている。
その接続部には小屋根として軒が回されたりしている。
写真手前側には、下屋的な張り出し部分があって、
その下屋にも軒が差し出されていて、全体のプロポーションに
望楼とともにアクセントを加えている。
なんとなく親しみを感じる外観デザインで一度体感したかった(笑)。
このような「屋根の突出部」が開拓使の建築では多用されるのは、
やはり囲炉裏からの排煙機能を重視したものと思われる。
相当長期にわたって暖房用の囲炉裏火の大量燃焼期間が続く寒冷地、
室内空気環境の健康被害が憂慮された証であるように思われます。
まだストーブが本格的に導入される以前であり、
寒冷地適合の「建築的工夫」としてはこの対応程度しかなかった。
で、こちらの脇本陣もまた、幾度かの変遷をたどっている。
民間の「旅館」が整備されてきたことが背景でしょうが、
明治8年に「札幌女学校」に転用され内外部を改装し、
洋風の「教師館」、講堂を増築している。
さらに明治12年1月開拓使札幌本庁舎焼失後、仮庁舎として使用された。
寒冷地木造建築と暖房、火災事故の関係、まことに憂慮に耐えない。

【明治10年「教師館」前・クラーク博士送別儀礼】


北海道住宅始原への旅であります。札幌建設草創期の追体験「取材」。
この建物は明治5年の7月に完成した「本陣」建築。
本陣というのは、江戸期の「高級ホテル」というべきもの。
貴人(通常、身分制社会では大名などが相当する)のための宿泊施設。
江戸期にわたしの家系先祖は広島県福山市近郊の「今津」という宿場で
河本さんという古代の「国造」家以来の名家が経営する「今津本陣」から
備品資材など一切の納入先「阿賀屋」として用命いただいていた。
本陣は参勤交代などのときに、殿様クラスが利用する。
肥前平戸藩主・松浦静山が1800(寛政12)年10月29日に参勤交代途中で宿泊時、
その様子をかれの「甲子夜話」という記録文学の一節に書いている。
ホテル側としての応接の用を果たすために先祖一族が雑魚寝して立ち働く様を
「一族和合のきわみなり」と描写記録している。
西国の有力大名・薩摩藩なども定宿にしていたようで、
島津斉彬が泊まったともされ、多くの西国藩主が利用していた。
江戸期にはこの「参勤交代」というのが大きな「経済機会」であった。
格式を最重視する社会ではムダとわかっていても
ミエで大名たちは浪費せざるを得なかった。ビジネスとしてはいいチャンス。
政治的にはそのように藩に浪費させることで幕府の統制策にしていた。
先祖は大名用向きの品々を近隣の尾道の「株仲間」から仕入れ納入していた。
また「脇本陣」というのは殿様以外の家来たちなどが宿泊するもので、
今津宿では「蓮華寺」という寺がそれにあたっていたとされる。
織田信長の本能寺ではないけれど、
江戸期までの社会ではこういった「本陣・脇本陣」というものが、
参勤交代などで利用され身分制社会の経済活動、消費の大きな機会だった。
そういった建築名称が明治期に北海道でも使用されていたのですね。
同時に「脇本陣」建築も建設されている。
新規開発地である北海道札幌では既存の地場「有力者」などはいないので、
開拓使自身がこういった「公共財施設」を建設するしかなかった。
明治天皇も屯田兵制度が確立した明治14年に行幸されている。
その宿泊施設として「豊平館」を新築し最初の客として明治天皇が宿泊された。
日本最初の完全な「西洋式ホテル」であり開拓使は面目を大いにほどこした。
このような状況であり日本にとっての「新開地」北海道への関心は高く、
政府高官などの「出張機会」も多かっただろうことが想像される。
そういった「官官接待」みたいなことから
官製の遊郭・ススキノ建設の需要もあったものかもしれない。

そういった経緯で建てられた建築ですが、
明治4年段階ではそのような宿泊用途だったものが、明治8年には
「お雇い外国人」のための滞在者用施設に衣替えしている。
かれらの専門技術を摂取する意味で「教師館」という名称にして
なお滞在施設として「高級ホテル」を提供したということなのでしょう。
建築規模は245坪程度の面積で、総工費7,842円余とのこと。
規模金額とも、当時札幌最大クラスの建築だったようです。
そして「教師」のなかでもとくにリスペクトすべき高位人物・札幌農学校校長、
クラークさんが数ヶ月の在任期間を終えて明治10年に帰国するに際して
当時の「お雇い外国人」たちが馬に騎乗のうえで「見送り」した様子。
このような貴賓への送別儀礼習慣というものがあるようですね。
下の写真はリフォーム前の本陣の状況。
板塀で全容がわからないのですが、それでも塔屋の新設や玄関の増設など
リフォーム前後の様子が若干は偲ばれる。
玄関は昨日紹介の「邏卒屯所」と同様の和洋折衷的デザインともみえる。
<どちらでも手前側に「橋」。創成川に懸けられた橋のようですが、
方角的に見てどうも違う橋のようです。>

【明治5年9月札幌邏卒屯所(警察署)】

本日は「北海道住宅始原への旅」であります。
明治5年には実にさまざまな建築が建てられるラッシュの時期ですが、
建築労働者を中心に本州各地域からの「出稼ぎ」札チョン人口の拡大は
治安維持の重要性にもつながった。
そこで明治5年9月に最重要施設として「札幌邏卒屯所」建設。
写真は背景に藻岩山がこの角度で写っているので、北東の方角から
現在の北1条西5丁目を南西方向に見晴らしたようですね。
山が写っていると急に親近感が増してくる。一気にタイムトラベル(笑)。
邏卒という言い方は、どれくらいの時期までの名前であるのか、
非常に面白い言い方。さすがに「王政復古」の政権である
明治新政権らしい王朝的な言い方と感じられる。
「明治の頃、patrolに対する適切な日本語が存在せず、
<巡邏査察>(じゅんらささつ)を当て嵌めその省略形としたことが
呼称の起こり。欧米のポリスを模範に邏卒をおき取締組を編成,
国家組織として邏卒総長には川路利良が任じられた。
3分の2にあたる2000名が鹿児島県士族であること,
帯刀を禁じ3尺棒を持たせたのが特徴」というようになっている。
巡邏査察を行う「兵卒」ということから、略して「邏卒」。
一方で、「巡査」というコトバも派生してきたとされています。
これ自体も明治の「言語文化大革命」の一端ですね。
公的な呼称としてもその後は「巡査」に置き換わっていった。
それも明治の初年といわれているので、邏卒は一時期の呼称といえる。
どうして邏卒から巡査に置き換え表現したのか、理由はいまは不明ですが、
巡査の方が、活動内容的にはふさわしいとも言えるでしょうね。

建築としては「屯所」という表現ですね。物見櫓のような頂部が特徴。
兵士が詰めている所という意味で新撰組の遺構にもその名がついている。
窓は写真からは「ガラス窓」で上げ下げ窓のように見ることができる。
こうした建てられようは基本的に「洋造」志向といえるけれど、
ところが、玄関には起り破風の和風建築が接ぎ足しされている。
遠藤明久先生の記述によれば、こうした折衷形式は
明治6年以降とはスタイルを異にするとされています。
「帯刀を禁じ3尺棒を持たせた」とありますが、写真を子細に見ると、
和服と洋服の人物が写っているし、どうも和服の方では微妙。
邏卒という名前の「おどろおどろしさ」とはやや違う印象の
モダニズム建築であるように思えます。
開拓使という組織は薩摩藩閥が主流であったとされますが、
この札幌邏卒屯所、最初期の配置人員20人も薩摩藩出身者が
大部分を占めていたのでしょうか?
ちなみに、いまの「札幌中央警察署」建築はこちら。

このタイル貼りでやわらかい曲面を見せた外観が特徴。
奥に高層の現代ビルが建てられていますが、
表層部分には市民に親しまれていた外観が保存融合されています。
日本の警察という組織のある志向性の一面を見せているのかも知れません。
一応わたしは、免許の書き換えで一度訪問させていただいた程度で
過激派思想惑溺・かぶれの思春期・青年期にもその後にも、
こちらにご厄介になったことはまったくございません(キッパリ)。

【Google検索したら、自分の投稿が表示された(笑)】

先日の投稿で、「石置き屋根」のことにちょっと触れた。
で、なにげに確認したいとGoogleで検索した。
そうしたら、なにやら見覚えのある写真がトップに表示された。
「あれ、この画像、なんか見た覚えがあるような・・・」
と思って画面の下を見てみたら「コトバンク」の次に
これも聞き覚えのあるブログタイトル。
(!)であります。
わたしとしては、石置き屋根と瓦屋根の「進化プロセス」を知りたかったのですが
過去の自分の影を捕まえたというか、めぐり会ったというか(笑)。

こういった経験、ときどきあって、
自分でもなにやら気恥ずかしいような気分になります。
それとこういう記事の順番についての「アルゴリズム」はどうなっているのか、
Googleにしても相当に研究してWEBの世界の羅針盤機能を果たしているのだろうと
強く興味を持ってしまった。
長く書いてくるとこういうことがあり得るのだとも当然、気付いた。
というか、本というカタチばかりではなく、
こういったGoogle検索での「知の流通」形式があり得ることも。
わたしどもの「住宅雑誌Replan」でも紙と同時にWEBでの情報発信流通が
基本業務になってきて、確実に紙だけの情報拡散ではなくなってきている。
紙のメリットも十分にあり、またその価値観は高まっている部分がある。
しかし、いまやパソコンとスマホで「常時インターネット接続」した
情報人間にとって、そこでの情報インフラはきわめて重要になっている。
紙で受ける情報の質と、パソコンとスマホで受容する情報の質には違いがある。
むしろ広い情報インフラの中で、情報ステーション的な存在になることが
求められているのだと思われます。
それは単純にポータルサイトというような形式ではなく、
検索システムの中での「自然言語での確定領域」内で
どのような情報インフラを提供できるか、ということのように思われる。

ということで、ちょっと驚き、
そしていろいろな気付きがたくさんあって、オモシロい経験でした。

【本日「勝手のっけマグロ丼・定食」にて社長食堂】



<クリックでYouTube動画〜市場で仕入れ篇>

本日で12月も二ケタ目に突入。
あと残りも少なくなってきましたが、本日は元気注入「社長食堂」。
ごくごく庶民的・家庭的なメニューで展開してきましたが、
前回「けんちんうどん」開催時にリクエストを受けたら
出てきたのが「マグロ食いてえ!」のひとこと。
本州関西出身スタッフからは「寒ブリ!」の声もあったのですが、
わたしの行きつけの「札幌中央市場場外店」の魚屋さんで聞いたら
「寒ブリは、ちょっと時期が終わったかな・・・」という情報。
京都付近ではサケ以上に「ブリ」人気。なんですが、
最近はブリも北陸沿海というよりも北海道近海が主な漁場だそうです。
で、マグロ料理法について札幌市内の「マグロ専門」料理店に取材。
煮たり焼いたりというのはあくまで「変わりメニュー」扱いで、
基本的には「切り身・生食」が醍醐味、という教授。
豪快に「マグロ丼」というのが、楽しくていいっしょ、というアドバイス。
ということで、マグロに決定してその仕入に行ってきた。
参加スタッフは17人程度。
男女比はやや女性が多いけれど、ほぼ同数。
男性は20代の若い人も多い。
ということなので、ひとり100gというのが目安ですが、
一応、マグロは3kg購入してきました。

マグロさんの「ナカミ」はこんな感じだそうで、
仕入については、中骨と血合を除去して
赤身〜中トロ〜大トロ気味までを切り取ってもらった。
これをせっせと切り分けて刺身状にしますが、大皿に盛り付けて
勝手にごはんに乗っける、勝手丼風のマグロ丼作戦であります。
まぁ、1人あたり2人前までは仕入れていないけれど、
ほかにカミさん手作り「マリネ」とひじき主体の煮物サイドメニュー。
もちろんごはんも、酢飯とふつうご飯を用意するので、
まぁなんとか満腹以上は大丈夫だろうという算段。
バックアップ的に「タコ足」も切り分ける予定。
マグロ丼、一部にタコもあるでよ、丼であります(笑)。
薬味はわさびと、山わさびを用意する予定。
昼ご飯なので、ニンニクは避けることにしました。

本日はわたし14時からは別件で外出予定。
なので、やや早め11:30ころオープンの予定であります。
・・・きのうもセールスに来られた外部の方から
「ご飯を作ってくれる社長さんですよね(笑)」とごあいさつ。
勝手に面白がってくれるひともいるみたいです。
う〜む、一所懸命やらなくっちゃ。

【20世紀初頭まで利用の竪穴住居 in 樺太】

写真は金曜日開催の「古代集落遺跡」セミナーで配布されたパンフから。
この写真は第2次世界大戦直前の1937年に樺太で撮影されたもので、
「20世紀初頭まで使われていた」という「廃屋」の様子。
網走市の「道立北方民族博物館」に所蔵されている。
人物がふたり写っているけれど、この人たちが「住んでいた」のではない。
しかし、周辺の状況なども含めてリアリティに満ちていて驚かされる。
いま北海道住宅始原の旅をこのブログで書き続けているけれど、
北海道で「洋造」建築がさかんに建設された一方で樺太では
こういった住宅が現役で利用されていたということ。

竪穴住居というのは人類に普遍的な住居ですが、
さすがにそこに現実に住んでいる様子というのは見たことがない。
人体と住居が対照されると想像力が強く刺激される。
11世紀頃には北海道アイヌ住居は「チセ」と呼ばれる平地住居に移行していて
同系統とされる樺太アイヌも同様なはずなのだけれど、
なぜこのような竪穴が使われていたのか。
「方形で屋根は土で覆われ、東側(写真右手)に出入り口とかまどがあり、
南側(写真手前側)に窓が開けられている」という説明。
20世紀初頭まで使われていたので創建年代もその時期だろうから
出入り口や窓の「枠」には製材された木材が利用されているようです。
しかしそれにしても、窓が付けられているので、
雨水はどのように遮断していたのかと驚く。
屋根は土で葺かれているけれど、たとえば萱のような繊維質で
被覆して「板戸」を造作設置していたものだろうか。
その場合、防水水密をどのように確保させていたのか、疑問。
竪穴住居の最大の問題は、防水・湿気対策が破綻して、
地盤面が泥状になって居住に適さなくなる、というように言われる。
地中の安定した温度環境を利用することが竪穴の普遍的メリット。
半地下として掘り下げるので、その掘った土を周囲に盛り上げて
雨水などの流入を防ぐという基本構造だけれど、
しかし入口などの「開口部」からの浸入をどう遮断するか、
いろいろ工夫があったように思うのです。
オホーツク文化の場合には、入口が高くしつらえられていた。・・・
このように窓があれば、確かに囲炉裏からの排煙には便利ではある。
やや小型でもあり竪穴をそのように「進化」させたものかもしれない。

いつも竪穴を見ると、その土を掘る作業の労苦を思う。
竪穴と「土器」というのはワンセットではないかとも思う。
土地を選んで竪穴を造作するとき、粘土質の土壌を目利きして、
慎重に掘る場所を選択することが多かったのではないか。
スコップ状に木材を加工して穴を掘ったのだろうけれど、
男たちはその穴を掘った後、木材で柱を建て屋根を造作していった一方、
女たちは、その土をこねて土器を造形したという光景を想像する。
その作業それぞれで、自分自身の出自のアイデンティティが存在して
固有の「建て方」「土器の製造法」が伝承されていったのではないか。
さらに囲炉裏やかまどで使う「火」にはその人物の固有性が込められていて、
祖先や一族からの伝承性が文化としてあったとされる。
その文化性から家の主人が死ぬと家自体を放火焼却する例も知られている。
人間と住居というものの精神的不離一体感を強く感じさせられます。

【明治4年・札幌の建築業者自邸〜中川源左衛門邸】


本日はふたたび「北海道住宅始原の旅」です。
このブログで明治初年の開拓使の「建築工事」の受注業者として
「中川組」のことについて触れました。
この建設業者は江戸に本拠のあった建築業者で、江戸時代末期建設の
「函館奉行所」の受注業者であり、札幌での「新府建設」についても
積極的に関与し、はじめは現地発注側に建築専門家がいなかったことから
その設計などについてもあわせて受注していた、とされる。
「洋造」以前の日本在来の建築工法で対応していたと思われる。
この写真は、明治4年5月撮影のものということなので、
かれらが考える建築の基本形式が表現されているのでしょう。
ちなみに明治3年に2代目判官として札幌開発責任者になった岩村通俊は
それ以前開拓使本拠が置かれていた函館にいた。
この岩村と函館奉行所の元請け事業者で函館がほぼ本拠になっていた
中川組は縁が強まったのか、岩村の札幌移転後、開拓使の御用請負人になった。

基本的には和風そのものの建てられようです。
縁が大きく取られ陽だまりに家族が参集したポーズで写真に収まっている。
白黒写真なのでハッキリしないけれど、手前側には草地に
ところどころ雪とも思われる白い部分が見えているので、まだ早春なのか。
縁と室内との間には障子が造作されている。
外部には「戸袋」が見られるので、縁の外端部で板引き戸が使われたのでしょう。
左側にも窓があり、戸袋付きともみえる。
外壁は押し縁が施されているので塗り壁ではなく板張りを押さえている。
屋根は石置き屋根となっている。
石置き屋根は、日本海側気候地域で伝統的に用いられた「防風」屋根。
多雪寒冷という気候条件では「萱葺き」の方がまだしも合理的と思えるが、
あえて「防風」重視という考えにしたのか。
あるいは明治初年の開拓使の「家作」方針として屋根は柾葺きとする
そういう方針があったようにも思われます。
この明治3−4年段階の「官舎」建築では萱葺きは一切採用されない。
寒冷地住宅として直火を扱う囲炉裏暖房を考えれば、防火管理上、
燃え広がりやすい萱葺きでは不都合という考え方か。
そういえば江戸幕府は度重なる火災に対して江戸市中の屋根を
「瓦葺き」にせよ、という建築法令を出している。それからすると、
幕府を引き継いだ政権の「官営」工事の考えに、
絶対に防火最優先という考え方があったと思える。
しかしこの写真のような和風住宅の「畳敷き」では囲炉裏は設置できないから
ひたすら「火鉢」を抱きかかえていたのだろうと思われます。
移築されて明治初年の生活を再現した「屯田兵住宅」では大量の火鉢が
実際に家の中に置かれていました。
しかし炭は製造にも輸送にもものすごく手間が掛かり高価なハズ。・・・
防寒住宅にまだ手が付けられていなかった様子が明らかですね。

「洋造」という家作方針は、防寒住宅への官の側の号砲一発だったのでしょう。
この方針決定こそが「高断熱高気密」の最初の一歩だった。