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【開拓使「脇本陣」明治4年11月➡5年1月竣工】

引き続き「北海道住宅始原期への旅」。
きのうは江戸期からの貴賓用の宿泊施設「本陣」を見ましたが、
本日はより庶民向き旅館の「脇本陣」であります。
きのうの本陣建築は基本的には和風の伝統的建築で新築され
その後、お雇い外国人のための滞在用施設に転用することで
「洋造」的な改修を加えたとされています。
このあと、開拓使の記念碑的な洋造建築の代表作品になる
明治天皇を主賓として建設された日本最初の本格的洋風ホテル
「豊平館」が建設されるけれど、それに先行した
「旅店」建築の日本国家関与の最終形になるものと思われます。
和風宿館の江戸から明治への結節点ともいえるのでしょう。
明治4年段階の開拓使建築では仮本庁、本陣とも「石置き屋根」だったが、
こちらの脇本陣では柾葺き屋根が採用されている。
建築の目的について、開拓使営繕報告書では以下の記述。
「明治5年旅館ヲ新築シ、当時之レヲ脇本陣ト称ス。開拓ノ業漸ク緒ニ就キ
追々人民内地ヨリ跋渉スルモ未タ他ニ旅店ノ設カラサルヲ以テナリ」
建築スタイルは純和風建築で造作されている。
内部の状況を知り得る図面の類は発見されていない。
開拓使の「家屋表」では建坪229坪ほどで、総工費は8,991円余。
建設地は現在の札幌市中央区南1条西3丁目。
施工期間がおよそ3ヶ月と大型の割に短期間で出来たのは、たぶん
突貫工事で仕上げる必要が差し迫っていたと思える。
その理由が、上記の報告書記述からうかがえる。

この建物でも、本屋から風除室的な突出部分が接続されている。
その接続部には小屋根として軒が回されたりしている。
写真手前側には、下屋的な張り出し部分があって、
その下屋にも軒が差し出されていて、全体のプロポーションに
望楼とともにアクセントを加えている。
なんとなく親しみを感じる外観デザインで一度体感したかった(笑)。
このような「屋根の突出部」が開拓使の建築では多用されるのは、
やはり囲炉裏からの排煙機能を重視したものと思われる。
相当長期にわたって暖房用の囲炉裏火の大量燃焼期間が続く寒冷地、
室内空気環境の健康被害が憂慮された証であるように思われます。
まだストーブが本格的に導入される以前であり、
寒冷地適合の「建築的工夫」としてはこの対応程度しかなかった。
で、こちらの脇本陣もまた、幾度かの変遷をたどっている。
民間の「旅館」が整備されてきたことが背景でしょうが、
明治8年に「札幌女学校」に転用され内外部を改装し、
洋風の「教師館」、講堂を増築している。
さらに明治12年1月開拓使札幌本庁舎焼失後、仮庁舎として使用された。
寒冷地木造建築と暖房、火災事故の関係、まことに憂慮に耐えない。

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