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沖縄のモダンデザイン住宅

1836

きのうは那覇市周辺の住宅を何軒か、見学しました。
こちらの家は、1軒目に見た住宅。
有限会社門・金城優さんの設計作品です。
建築は独学で学ばれたそうで、就職先として沖縄で設計事務所に入り
その後、イタリアに修行に行って
帰って来てから独立されたという方です。

沖縄の住宅建築の歴史は第2次世界大戦後、
戦争の惨禍からのスタートで、
占領軍であるアメリカ軍の住宅施設建設から始まったそうです。
そこでは米軍のカリフォルニアにおける建築仕様規定が適用されたそうです。
こうした規定はハワイにもあるそうなのですが、
なぜか、カリフォルニアの規定が採用されたと言うこと。
推定ですが、米軍なりに気候風土・材料調達条件などを研究して
より合理性が高いと判断して採用したのだろうと思います。
たぶん、建築材料として木材の入手が難しいと判断し
台風被害への対策が優先されて、
コンクリート住宅が採用されたものと思います。
こうした建築仕様での最初の建築需要を、復興経済として
沖縄の建築業界は生きていくために受注していった。
こうした経緯はある合理性を持っていたようで、今日に至るまで、
9割の住宅がコンクリートで建てられている起因条件になった。
しかも台風への対応が、先験的な与条件なので
その後の住宅「性能」要件においても、ユーザーへのアピールとしても
「より頑丈」という競争が促進された。
その結果、より分厚い、野太い力感優先のデザインが
多くの住宅で採用されていた。

そういうなかで、
基本構造はRCながら、屋根は軽く木造で架ける混構造を採用し
イタリアンデザインらしい、より繊細なコンクリートのディテールを
金城さんは追求されているようです。
写真はリビングへの日射を遮っている長大な庇ですが
これもコンクリートで作っている。
先端部分は、厚みを徐々に低減させていっている。
端部の厚みは25mmということで、
ギリギリの細さで、繊細なデザインを実現させている。
ほかの沖縄のコンクリート住宅が、やや鈍重な印象を与えるのとは対照的。
また、屋根も構造梁端部を鋭角にカットしていて、
どちらもシャープな形態でモダニズムを表現している。
一方で、与条件としての台風対策も
ディテールでさまざまに対応している。

やっぱり、実際に建てられている住宅からは
人間たちの与条件との格闘の軌跡が伝わってきて
まことに面白い。
住宅になぜ、わたしが惹かれているか、
もう一度、再発見もさせられる思いでありました。
で、沖縄の家は、平屋が多い・・・。
いろいろ面白く見学させていただきました。

宮古島から那覇へ

1835

きのうは宮古島での市街地型エコハウス宿泊体験を経て
集合住宅などの事例を見学。
主に公営住宅を見学しましたが、たいへん面白く見学。
なんですが、最近、出張時おなかの調子がよくなくなる。
どうも食べる内容に問題がありそうなのですが、
きのうも見学時、かなりきびしい状況に。
やむなく一行から離脱して、現地の案内者の方に聞いて
周辺の海水浴場のトイレに向かいました。
しかしながら、welcome標識と思いきや、
ご覧のような案内看板。
さすがのわたしもクマとサメはだめであります(笑)。
すごい。
沖縄の子どもたち、泳げない子も多いのは、
海が決して安全とは言い切れないからなのだそうです。

見学終了後、美しいリゾート施設で昼食時、
たいへんきれいな青空の景色を見て、トムヤムクンを食べていたら
「那覇への飛行機欠航」の情報がもたらされました。
まさに「青天のへきれき」。
情報によると、なんでも航空会社SKYMARKの使用機材が故障発生ということ。
で、予定していた13:00ころの時間の機材が宮古島に来なくなって
必然的に出発便もキャンセルになった・・・。
振り替えの時間は、そのあとの17:30だという。
おいおいおい、であります。
そのあとの旅程はきっちり予定されているのでしわ寄せはハンパない。
那覇での建築関係者との会合は17:00スタート予定。
どうやっても間に合うわけがない。
本当に、人生はなにがあるかわからない(笑)。
しかし、幸いにして、午後の予定はおおむね移動だったので、
こういう状況にも、甘んじて受け入れようという余裕がある。
というか、どうしようもないものはどうしようもない。
しかし、そこは団体行動の良さで、
幹事進行役の方が八方努力して
別の航空会社の「キャンセル待ち」に申込みをしてくれました。
会長の吉野先生、発言役の2名と徐々に
別航空会社の便で五月雨式に那覇へ移動しました。
残されたわたしたちは、
空いた時間を同行メンバーのみなさんとの情報交換に利用。
まぁこれはこれで大変有意義でしたが、
16:45のJALでわたしともうひとりもようやくギリギリ搭乗。
別便の航空券は割高になるのですが、
SKYMARKとの「差額」は、SKYMARKが負担してくれるのだそうです。
でも、搭乗時間ギリギリだったので、
まだ残っている団体メンバーの方が払い戻しもやってくれた。
たいへんありがたい。

っていうようなトラブルも発生しましたが、
那覇での建築関係のみなさんとの情報交換会は
まことに活発で真摯な内容でした。
北と南で分かれていて、抱える問題は大きく隔たっていますが
しかし本質的にはどちらもひとの暮らしに寄り添う仕事。
その大きな共通認識が徐々に距離を狭めてくれて
ホンネの話が2次会まで延々と活況を呈しておりました。
人生、いろんな面白さがあるものですね(笑)。

蒸暑8月宮古島市街で無冷房の一夜

1834

さて、きのうから吉野博日本建築学会会長と同行取材の開始。
蒸暑8月の南西諸島・宮古島の「エコハウス」視察です。
詳しくはまた、稿を改めますが、
きのうは、表題のような体験をさせていただきました。
実験住宅であって、宿泊体験も出来るので、
わたしを含めて4人が「市街地型」エコハウスに宿泊した次第。

環境省の「エコハウス」事業では
全国で20箇所でのモデル住宅が建設されました。
そのなかで宮古島市では、「郊外型」と「市街地型」のふたつの
モデルハウスが建てられています。
はじめに郊外型を見学後、市街地型を見学。
郊外型では、周辺にも緑地・サトウキビ畑も多く
緑の総量も多いので、無冷房環境でもいけそうな印象を持ちます。
さらに夕食会場になった「かたあきの里」は、
すばらしい緑地環境の中、降るような星空が感動的に迎えてくれました。
まことに感無量であります。
なんですが、その後の「市街地型」での宿泊への
一抹、どころではない不安感が、酔いを常に醒めさせてくれる(笑)。
日中気温は間違いなく32度を超えていて
そのうえ、湿度をたっぷりと含んだ重たい暑気が不安をいや増す。
無冷房ということで、
基本の涼房は通風によって獲得されます。
台風を考えたRC造に内部は木が貼り込まれたインテリア空間。
夜、宿泊に帰ったエコハウスは、重たい空気感に満たされている。
そのうえ、歓楽街の真ん中に建てられた立地環境からは
外部を通行する人々の視線や歓声などがかまびすしい。
なんですが、こうなれば徹底的にモルモット化しようと
決意して、お風呂に入る。
さすが蒸暑の日中の汗はハンパなく、
ひと目は気にもしている余裕もなく、シャワーが肌に心地よい。
で、歓談後、就寝であります。
しばらく、周辺環境からの騒音が寝付かせてくれないけれど
わたしは鈍感な方なので、眠りに落ちる。
しかし、外部騒音・若者たちの大騒ぎは、増幅されて
「通風」のために全開された窓から室内に響き渡ってくる。
ということで、眠りが浅めのように思います。
というか、気になってなかなか熟睡は出来てはいないようです。
外部の若者騒音は、断続的に朝方3時頃まで続きました。
(ようです・・・よく確認できなかった)
なんですが、4時過ぎ頃からはそれも収まり、
徐々に「通風」も軽く体感できるようになる。
気象台発表も確認していないのですが、
さすがに「市街地型」とはいっても、宮古島市では
朝方は気温が、体感的には5度以上、下がって来ているように感じます。
その「涼気」が肌にまことに心地よく感じられます。
なにやら、「心頭を滅却すれば・・・」の修行のようですが、
それなりに人間感覚はこの無冷房状況に対応を見せるもののようです。

ということですが、
やはり社会的環境、騒音やプライバシー確保の面では
いささか問題でしょうね。
しかし、たいへん貴重な体験をさせていただきました。

伝統的「豪邸」の価値観

1832

さて、本日から沖縄・宮古島へと取材研修出張であります。
現・日本建築学会会長の東北大学・吉野博先生一行での研修視察。
高断熱高気密の家づくりを本願とする寒冷地、北海道東北地域ですが
もう一方の、蒸暑地域でのエコロジカルな住宅探求の実際に触れて
「よき住宅」ということを
もっと広い視野で捉えてみようという取り組みであります。
なんですが、わたしは結構、沖縄に縁があって、
なんども来ていることは、このブログの読者のみなさんはご存知ですね。
ということで、本日からは研修であります。
ただ、団体行動なので、ブログを書けるかどうか不明のため
ブログの「おせち料理」を作っておいて、時間予約でアップするかも知れません。
その節はご容赦ください(笑)。

で、本日が、表題のテーマであります。
写真は、以前に行った北陸地方の「豪邸住宅」です。
北前船交易、あるいはそれ以前からの環日本海交易での繁栄、
または、農業生産力の飛躍的向上による大地主層の形成など、
この地域は、江戸期を通してこういった建築が数多く建築されてきている。
経済的にゆとりを持っていたごく一部の層が存在した。
見学したある豪農住宅では、
一軒の農家で千石のコメ生産を誇っていたのだそうです。
1万石で「大名」だった時代に、そんな繁栄者が存在していた。
こうした経済的成功者は、その時代の文化の粋を集めるのが好き。
なので、この時代のひとびとの心理の中の
「わかりやすい豪華さ」が伝わってくる。
写真は玄関から入ってすぐの土間に繋がる空間。
この家の豪壮ぶりは、高い吹き抜けと、そこに組み上げられた
太い横架材がたくさん貯えられている様子。
江戸の大火が繰り返されることで
常に木材というのは、基本財産であり続けたことは明白。
よくこういった様子に空間的デザイン性を強調する見方がありますが
やはりわかりやすい富の強調だったのだろうと思います。
すべて人力で太い構造材を山から切り出して現地で組み上げるというのは
富裕のわかりやすい表現だったに違いない。

なんですが、
それ以外の、いわば文化的な部分で見ると
茶などの精神性を強調した文化装置が最上位に位置づけられて
その建築的な表現があるほかは、
書院などの様式的な美感の追求や、
ふすま絵とか、屏風絵などのコレクション的趣味生活などに集約される。
たぶん、文化というものも支配の道具として
権力側が管理して存在していた、というように見える。
富の誇示において、個性があまりみられないと思うのです。
まぁそれが、時代というものだったのでしょうね。
逆にひるがえって考えると、
現代住宅は、「こんなふうに暮らしたい」という個性表現が明確、
という「時代精神」をわかりやすく表現している。
そう考えると、住宅デザインの方向性は、
個性表現の方向に向かうであろうことは、確からしく思われます。

還暦過ぎ・疲労軽減の働き方は?

1826

きのうはお盆休暇明けの月曜日。
わたしは前日ややお疲れモードで9時には就寝していたので
午前4時過ぎに起床しました。
まぁ、メチャ早いのは自覚していますが、カラダは軽くなるので
早寝早起きで、別に負担がかかっているわけではない。
で、きのうは朝1番から深夜中に送られてきた重要な文書をチェック。
これは時間がかかるので、内容だけ確認してあとの時間で処理。
それからブログを1時間ほどで書き上げて
早朝散歩に5時半前に出発して6時15分くらいに帰還。
そこから朝の食事の支度。
終わってからシャワーに入って、「花子とアン」を見て
8時半には会社に出社。
連休明けの諸連絡事項をチェックして作業分担仕分け。
終了後、朝会。その後、支店メンバーその他との
テレビ会議を約1時間ほど。
11時には銀行に要件片付けのために訪問。終了は昼。
メシを食べて、小休憩を自宅にて取る。
午後1時には、メールその他での連絡業務、
わたしが分担している編集作業仕掛かり。
で、大体4時半くらいに軽く疲れが沸いてくる。
それをなんとか紛らせて、午後6時から
ある団体の雑誌編集企画会議に参加。
大体2時間ほどで、午後8時過ぎにようやく終了。
ということで、疲労困憊して食事を口に「流し込んで」(笑)
10時前には就寝しました。
まぁ途中、食事などの休憩をおおむね4時間くらいは取っていますが、
午前4時から午後8時半くらいまで、12〜13時間くらいの働き方。
だいたいはデスクワークなのですが、
やはり連休明けだったので、ちょっと多めかも知れません。
最後の会議がなければ、普段は10時間くらいの実働でしょうね。

で、やはり最近、
働き方を工夫しなければならないなぁと思っています。
元気で働けることはありがたいことなので、
長く働けるためにも、
カラダを疲れさせないように、注意しながら働かなければならない。
わたしの場合は、事務所と自宅とどっちでも仕事しているのですが
なるべく自宅で出来る仕事はのんびりリラックスしながら
片付けるように心がけています。
まぁそういう自由業的な部分もある仕事だから可能なことなのですが
自分なりに、考えていかなければと思っている次第。
みなさん、といっても高齢者、還暦過ぎの方ですが、
どんな工夫をされているのでしょうか?
他の人の働き方、知りたいなぁと思っている昨今です。

北海道は野菜が美味い

1821

子どもも大きくなって家を離れたりしてくると
家族単位で行楽に行くというような機会がなくなってくる。
という当たり前のことに、ようやく気付いてくるようになる。
そうすると、夫婦単位や個人として、
ゆったりとした時間を楽しむようになっていく。
そんな楽しみ方に徐々に慣れていく必要があるのだなと思っています。
お盆休暇は、ことしはカレンダーの並びの関係で
けっこうな長さの休暇になりましたね。
みなさんどんな休暇を過ごされたでしょうか?

わが家では、カミさんが日頃の疲れが出て
あんまり出かけられなかったのですが、
でも1日だけは遠出してきました。
で、札幌のガラスのピラミッドにあるフランス料理の店の姉妹店
美瑛の街のお店に行って楽しんできました。
カミさんは炭水化物や砂糖類を摂取しないダイエットを3カ月くらい
やっているので、なかなか外食できなかったのですが、
まぁそのご褒美のように、1日フランス料理ランチに舌鼓を。
レストラン・アスペルジュ/Restaurant ASPERGEであります。
このレストラン姉妹店群では、北海道の野菜をおいしく食べられる。
北海道でなにがおいしいと言って、
野菜くらいおいしいものはない、というように言われていますが、
それを本当に実感できるレストランですね。
上の写真は、「前菜」の料理ですが、なんと20種類の北海道野菜を
それぞれ違った味付けで、でもシンプルに味わわせる1品。
おもしろい香味野菜が引き立て役になって
日頃食べている北海道の野菜が、堂々と主役になっています。

1822

で、メーンディッシュはこちら。
豚肉のハムに半球のタマネギのコンソメ煮が添えられていて
まさに北海道野菜の旨みが迫ってきました。
わたしたちは、いちばん廉価な2600円コースのランチでしたが
野菜のおいしさを引き立てるという嗜好なので
これでも十分すぎるほどの満足感が得られました。
しかし、ダイエット中のカミさんですが
これの付け合わせのパンもまた格別のおいしさで
幸せそうな表情で、楚々としておかわりしておりました(笑)。
よくがんばっているね、というご褒美。
ひさしぶりに楽しく会食できたお店でした。

Facebookがわからない

1814

友人たちとのグループの管理者になってFacebook利用しています。
なんですが、あんまり深くは考えないでやっていまして、
まぁなんとかできるだろう、というノリでした。
実際、普通にはまったく問題はなかったのですが、
先日、ゴルフの会があって、そのメンバーたちのスウィング動画をアップした。
で、自分でもよく憶えていないけれど、
2回ほど「投稿」というか、「送信」というか、
ボタンを押した記憶がある。
それほど問題があるとも思わなかったので、そのままにしていた。
というか、動画を14本も一度にアップした経験はなかったので、
「こんなアラートも出るのかなぁ」くらいにしか感じていなかった。
で、結果としてはグループのみなさんに個性あふれる(?)
各人のスウィングを楽しんでもらったと思っていた。
そうしたところ、あにはからんや、
あるメンバーから、「メールに動画が14本も配信されてきた」という苦情。
その方はゴルフをしないので、迷惑そのものだという意見。
まったくその通りだと思って謝罪した。
・・・まではいいのですが、
今後の対策として、そうならないにはどうしたらいいか、がわからないのです。
「わたしFacebookやってます」という人はいるけれど、
そういったみんな、そんなに面倒なことはやっていなくて、
聞いても、的を得た意見にはたどりつかない。
Facebookにメールを送っても個別の質問には答えられないというメッセージ。
「facebook 動画がメールに配信される」と検索に入力しても
それらしいアンサーにはなかなか巡り会えない。
っていうような状況に陥っております。

たぶん、わたしの「メール設定」によるのでしょうが、
そのあたりを探ってみても、わからない。
また、ある推定に至っても、それを確認するにはもう一度再現させる危険性を
承知の上でやらなければならない。
どうも、Facebookは機能がてんこ盛りのようになっていて、
ふつうのテキストエディターレベルではなく、
Word並みの多機能化に至っていて、
機能が多くなりすぎているのではないかと思っています。
LINEまで単純化は難しいでしょうが、
もうちょっとユーザーがわかりやすいように導く必要があるのではないでしょうか?
さてさて、どうするかなぁ・・・、困ったなぁ。

名家の光芒

1820

ことし訪れた住宅の中でもとくに印象深かったのが、能登の時国家。
家系伝承として、平清盛の弟で、大納言に叙任された
平時忠に出自をさかのぼることが出来るこの家は
確実に千年近く続いてきた名家ということができる。
わたしは住宅のことを仕事にしてきたけれど、
そういう物理的な「家」とは別に、日本人に根付いてきた「家」意識で考えれば、
この「千年続いた家」というのは、格別といえる存在でしょう。
現存する住宅自体は、江戸期の中期以降に建築され、
何回か、手を加えられてきた建物のようですが、
家系としての平家が、今日まで継続してきたのには
その時代にフィットするように、したたかに戦略的に生き延びてきたであろう
そのような気概を感じさせてくれました。
わたしの歴史の先生、故・網野善彦さんの著作を読んでいると
繰り返し、この「時国家」のことが書かれ続けていて、
この家のことが、まるでタイムカプセルのように記憶保存されていく。
前にも書きましたが、平家の伝承を持つ名家として
田中角栄に有罪判決を出した裁判官をこの家は輩出した。
なんども、日本の歴史に名前を登場させている。
たいへん上下対流の激しい日本の社会において、
このように永続しているということに驚き、感動しました。

わたしの仕事としては、「いい家、長持ちする家」みたいなことを
いわば、ものの側面から考えるという作業をしているのですが、
それに対して、この家では、
建築本体もなんども建て替えられてきているようなのです。
記録によると江戸中期以前には、もっと港に面した場所に、
もっと巨大な建物が建てられていたのだそうです。
そういった建築としてではなく、家として存続するには
平家であることを誇りとしながらも、ある時期にはそのことを秘したり、
時代時代の政治の変転の中でも、用心深く対処したりしてきています。
いま、時国家は上下ふたつの「家」になっていますが、
それは、江戸幕府体制の中で、領主である前田家と徳川幕府譜代との
微妙な政治情勢を察知して、保険を掛けるような意味から
当主が長男の息子に家長を譲って、自らは次男の家に移って
家を分割して、どっちの政治権力になっても生き残れるように画策した
そうした痕跡がしるされているようなのです。
そしてあくまでも交易で栄えた平家らしく、日本海交易を経済基盤として
日本の歴史の荒波を生き抜いてきた。
どんな時代になっても、生き抜いていくという経済的なたくましさ。
そういった魂魄のようなものが伝わってくる。
たぶん、3代は続かないような「家訓」とはまったく違う処世訓を
こうした「家」は保持し続けてきたに違いありません。

こういった具体的な家の永続性ということ、
とくに北海道にいると、ほとんど信じられない世界です。
一個の個人としての営為を超えて生き延びる意志のようなもの、
そういう部分を少しでも学びたいと思う次第です。

日本人による刺身食文化

1818

歴史をいろいろ興味を持って学んでいくウチに
だんだんとイメージがシンプル化してきています。
というのは、現生人類がこの地球上に繁茂してきた流れというように
理解を単純化させると、見えやすくなってくるのです。
現生人類がアフリカを出てから、約5万年。
で、さまざまな食べ物をあさって生き抜いてきた。
そのなかでアジアに向かった一団のなかから
やがて弧状列島に住み着いた人々がいて、
約12000年前くらいから、縄文という土器を作って
森からの採集と、海からの海生動物の捕獲を旨として暮らし始めた。
その食文化は魚類を食べることを基本にしていた。
わたしたちの今日の刺身や鍋料理って
こういった歴史性を単純にわかりやすく伝えているのではないか。

1819

でも、そういうなかでもわからないのが
「しょうゆ」の来歴であります。
Wikkipediaでは、

日本における最古の歴史は弥生時代とされている。
肉醤、魚醤、草醤であり、中国から伝わったものは唐醤と呼んだ。
文献上で日本の「醤」の歴史をたどると、
701年(大宝元年)の『大宝律令』には、
醤を扱う「主醤」という官職名が見える。
また923年(延長元年)公布の『延喜式』には
大豆3石から醤1石5斗が得られることが記されており、
この時代、京都には醤を製造・販売する者がいたことが分かっている。

というような記述が見られる。
刺身という食習慣も、同じくWikkipediaによれば

新鮮な獣や鳥の肉・魚肉を切り取って生のまま食べることは
人類の歴史とともに始まったと言ってよいが、
人類の住むそれぞれの環境に応じて、生食の習慣は或いは残り、
或いは廃れていった。日本は四方を海に囲まれ、
新鮮な魚介類をいつでも手に入れられるという恵まれた環境にあったため、
魚介類を生食する習慣が残った。
「なます」は新鮮な魚肉や獣肉を細切りにして調味料を合わせた料理で、
「なます」の語源は不明であるが、「なましし(生肉)」「なますき(生切)」が
転じたという説がある。一般には「生酢」と解されているが、
それは調味料としてもっぱら酢を使用するようになったことによる
付会の説であり、古くは調味料は必ずしも酢とは限らなかった。
この伝統的な「なます」が発展したものが刺身である。

というのが通説のようです。
それにしても、ナマの魚介としょうゆという単純な食文化、
たぶん、縄文にルーツを持つに違いない文化は
日本人は長く保持し続けるに違いない。
・・・こんな興味を書きしるしていたら、
無性に寿司を食べたくなってきた(笑)。
本日の昼か、夜、回転寿司に直行しそうであります・・・。

盆踊り・仮設やぐら建築

1816

いつも早朝散歩の起点になる北海道神宮駐車場。
全面アスファルト舗装のこの駐車場真ん中に
この季節らしく、盆踊りの仮設やぐらが設置されています。
仮設とはいえ、けっこうな人数がそこに上がったりする建築でもあるので
まさかアスファルトに穴を開けて基礎を作っているわけでもないだろうし、
こういう場合、どうやって足許を固めて行くのか、
つい興味を持ってみてしまう。

1817

やはり案の定、足許は田型のような枠が据えられて
それに対して4本の柱や、筋交いなどが接合されていました。
仮設建築の範囲内では、余り過度ではない荷重であれば、
この程度で必要十分なんでしょうね。
櫓、やぐらというのは、
建築の基本構造でもある。
十年前くらいに、信州松本城を見学したけれど
あれはやぐら構造建築なんだそうです。
そういえば、この仮設櫓のように
頂部に向かってややほっそりと立ち上がっていく感じがある。
そういえば、日本海側から中部山岳地帯には、
三内丸山的な縄文的建築の伝統が感じられます。
そういった流れが松本城なんかでも垣間見えた。

Wikkipediaを見ると
櫓(やぐら)とは日本の古代よりの構造物・建造物、または構造などの呼称。
矢倉、矢蔵、兵庫などの字も当てられる。
木材などを高く積み上げた仮設や常設の建築物や構造物。
(見世物小屋や相撲、祭りの太鼓櫓・火の見櫓などの物見櫓等)
古代からある城等に建てられた矢を納めた倉庫兼発射台、
防衛用の仮設の掘立建物。(物見櫓(井楼)など)
近世の城郭に建てられた矢や鉄砲を発射するための
重層または単層の建造物。
構造部位の名称(船櫓・炬燵櫓など)・技の名称(相撲の技・将棋の陣たて)

建築構造で見ればこういった理解になるけれど
一方で、このやぐらの右側には
この盆踊りに協賛している企業の広告が掲示されている。
建築にはお金がかかり、その費用を集めてくるのも
もっとも重要な「構造」ともいえます。
足許と横と、両方を見て建築を通しての
社会観察、理解をこどもたちに教え諭す機会でもありそうです。
というのはあまりにも俗物的で、
こどもの夢を破壊する考えかも知れませんね(笑)。