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朝日新聞外部検証委に産経・阿比留記者を

1853

きのう昼間に政府から東電福島原発の吉田所長の調書が公開され
多くの人に、その内容が知られるところになったタイミングで
朝日新聞が、それまでの姿勢を180度転回して
社長の会見を開き、福島原発・吉田調書の誤報を認めた。
朝日の5月のスクープ記事以来、当初「フクシマ50」と世界から賞賛されていた
福島原発に残って過酷事故と闘ってきた所員たちの名誉は
世界中で貶められ、旅客を放り出して逃げ出した韓国の事件の船員たちと
同じようなものだという誤解の泥を塗りたくられてきていた。
その名誉の一部が回復されたとは言えるだろう。
しかし、この誤報は、いったいどのように償われなければならないか、
朝日は、その道の険しさをしっかりと噛みしめて、
どんなに苦しくても、国民に対して信頼の回復をやり遂げてもらいたいと思う。
もとよりわたしのような一般市民には、吉田調書の本文に接することなど出来ない。
なので、このことについては、予断は持たず、
これまでわたしはひと言も発言はしてきませんでした。
もちろんいまも、自分で政府発表の調書を読んではいませんが、
朝日自身が誤報を認め謝罪したということであれば、
間違いなく、他紙・産経や読売の報道通りということなのだろうと思います。
そしてもうひとつの慰安婦問題・「吉田証言」については、
相変わらず、なにを言っているのかわからない歯切れのない言葉をもてあそんでいる。
こちらの方は、前途の遠さ、まだ、はるかなものがあると思います。

きのうの会見でも、まだ、戦場における女性の人権一般というような
およそ、自ら報道したことによる影響の広がりに目を覆い、耳をふさいだ
そういった対応を見せている。
これについては、やはり朝日は国会でのきびしい喚問を甘んじて受けるべきだ。
国際的に問題になっているのは、まさに日本国家が「強制した」という
そうした疑いなのであって、自身の誤報がもたらした結果について
朝日は真摯に対応していかなければならない。
本来のジャーナリズムであれば、そのことのために会社が潰れても
真実に謙虚に向き合ってほしいと思う。
世界に向かって、わたしたちは誤報を犯しました、
真実はこうですと、正直に報道機関としての姿勢を貫いていくべきだ。
これから第3者による「検証」がはじめられるということだけれど、
それこそ、この問題で朝日を長く追い詰めてきた産経の阿比留記者に
この委員会に入ってもらうくらいの覚悟で、朝日は真実解明に立ち向かって欲しい。
きのうの会見でも、阿比留記者が質問したときには
朝日側の社長以下、まさに身構えるという言葉通りの反応を見せていた。
それくらいの「ジャーナリズム」の明解な表現を求めたいと思います。
そうであってこそ、朝日の信頼回復努力は本物と知れると思う。
日本のジャーナリズムの再生に、朝日は勇気を持って立ち向かって欲しい。

宮古島・迷い子のひな鳥

1844

お盆を過ぎてからの仕事のめまぐるしさはハンパないのですが、
これはやはり、宮古島のツアーの反動かも知れません(泣)。
ひとつひとつ丹念に糸をもみほぐして
整理整頓していかなければならない、と淡々と任務に向かっております。

なんですが、
沖縄のことにはその後も連続感を持っています。
面白い建築家も知り合えたし、交流は深まっている。
そのうち、仕事でも絡みが出てくるかも知れないなとなんとなく予感。
そんな日々を送っておりますが、
その宮古島でのパーティ、
「かたあきの里」というステキな琉球スタイルの施設で
わたしたちがオリオンビールで喉を潤している頃にひょんと現れたヒナ鳥。
かわいい声でピヨピヨとさえずってくれるのはいいのですが、
どう考えても迷い鳥。
わたしたちの宴が始まると同時に「助けて〜〜」と
必死によちよち歩きしてやってきた。
おいおいと、みんなで囲んで途方に暮れて
また琉球松の林に戻してやるのですが、母鳥はこのヒナを見失っているのか
母子は巡り会えないようで
宴が盛り上がってくる度に、わたしたちの嬌声に擦り寄ってくる。
かわいいけれど、どうしようもない。
やむなくこうやって手に載せたりして、みんなで考え込んでいたのですが、
やはり名案は浮かんでは来ない。
だいたい、こんなふうに鳥のヒナを恒温動物の掌に載せるのは
低温焼き鳥行為であるかも知れず、やばそう。
とっさのことだったので、iPhone写真で不鮮明ではありますが
わたしたち島人ではない人間にはこのヒナがどんな鳥かも推定が付かない。
でやむなく、ふたたび三度、林の暗がりに持って行ってやったりしておりました。
で、そうこうしてわたしは別の宿泊場所に移動したので
このヒナとは別れた次第ですが
残った人たちに聞いても、その後行方知れずだったということ。
でも翌日、別の場所を訪れても、ついこのヒナと似た鳥を探して
「きのうのヤツは、この種類じゃないだろうか」
などと、みんなで、かのヒナの行く末を案じておりました。

そんな思いがいまも、こころのどこかに仕舞い込まれております。

Appleの新製品発表

1852

仕事でDTP、要するに出版・印刷の仕事でMacを使っているので
Apple製品には、もう20年以上も付き合ってきている。
最初のウチは、Windowsの市場攻勢の中で、どんどん市場規模が縮小し
それへの反転の切り口をまったく持っていない経営が続いていた。
そういった状況のなかで、次世代OSの自社開発も出来なくなっていて
それを持っていたNEXT社を1996年に巨額で買収した。
同時にAppleに復帰したスティーブ・ジョブズは、前CEOでかれの復帰をもたらした
アメリオさんを経営から追い出して、自ら「iCEO」に就任した。
まぁ、「臨時の」みたいな肩書きで、どこまで本気なのかと思わせたけれど、
その後のApple再建のお手並みは見事だった。
最初に、というか決定的に重要だったのがMicrosoftとの和解だった。
Appleのプレゼンテーションにビルゲイツの巨大スクリーン画像を登場させて
競争相手であるMicrosoftから資金導入することに
Appleユーザーの理解を得た。
この決断は、かれ、スティーブ・ジョブズ以外の人間には出来なかっただろう。
かれは冷静なビジネスマンであり、
この時点でAppleがツブれたら一番困るのは、実はMicrosoftだと
正しく見切っていて、しかもそれを実現できるだけの人間関係を持っていた。
後年、ジョブズが死ぬときに、ビルゲイツと再会を果たしたとも聞いている。
恩讐を超えて、戦友としての思いを共有していたのだろうなと、側聞した記憶がある。
そこから破綻寸前だったMacOSをモダンOSに根底的に改造した。
しかしそれも、上手に時間を掛けて移行させることに十分に留意してくれたので
わたしたちMacユーザーはスムーズに安定的なOSに乗り換えられた。
たぶん、現在に繋がってくるApple躍進のベースはここなんだろうと思う。
OSが安定したことで、はじめてiMacなどの市場攻勢に打って出ることが可能になった。
そしてそのDNAが移植されたiOSが開発され、
パソコンメーカーである、印のコンピュータという名前が消えて
社名がAppleだけになった。

いま、メイン商品になったiPhoneのバージョンアップ告知イベントと
抱き合わせで、ふたたび新たなデバイスに航海をはじめた。
Appleウォッチという名前に落ち着いた腕時計型デバイス。
まぁここまでAppleに寄り添ってきたので
たぶん、死ぬまで使い続けるしかないのでしょうね。
さぁ、今回のAppleウォッチ、価格の約40,000円と販売先はどこなのか、
そして流通形態は?
など、いろいろ未確認ですが、
ある魅力は持っているでしょうね、むむむ。

観光北海道を次代につないでいくには

1850

先日ふらりと小樽に行ってきたけれど
運河沿いの地域には、中国語があふれかえっていました。
北海道にいる人間からすると
どうしてこんなにわざわざ中国から観光に来ていただけるのか、
よくわからない部分もあるのですが、
とにかくも、小樽は北海道観光の定番コースとして
中国、アジア圏のみなさんには親しまれている。
でも小樽って、
考えてみると、わたしたちの年代が若い頃には
運河を埋め立てようという流れがあって、
それを、いやむしろ保存しようという運動と拮抗していた時期があった。以下、
http://www.pn-planet.co.jp/topics/tanken/1otaru/otaru.htm
より引用です。

戦後の小樽市は、樺太や満州との航路の廃止、日本海海運から
主要港湾が苫小牧港に移転したこと、相次ぐ鰊の不漁等を要因として、
経済基盤は斜陽の一途をたどる。活況を呈していた倉庫は扉を閉ざし、
運河周辺はゴーストタウン化していたと言う。
 小樽港が衰退する一方で、苫小牧港の整備が急速に進む。
地理的にも不利な条件となった小樽市では、地域経済の復権をめざし
運河を埋め立てて道路整備を推進することとした。
昭和41(1966)年に北海道都市計画審議会で
都市計画決定された臨港幹線である。
この臨港幹線整備を巡って、「運河こそ地域のシンボル、運河を守ることは
地域を愛すればこその運動の活力源」との考えのもとに
『小樽運河を守る会』を発足、20年にもわたる地道な保存運動を通じて
市民にアピールしつづけたことをきっかけとして、
当初の計画が一部変更され、運河と臨港幹線とが共存、
現在の観光地・小樽の舞台を形づくることとなった。
 観光地となった小樽運河は、ひとつの小規模な市民団体の、
20年にわたる運河保存がそのスタートである。
先人の資産である運河こそが地域のシンボルである、との考えのもと、
活動の中心的組織体である「小樽運河を考える会」をまず発足する。
広報活動、陳情、署名運動、展覧会、そしてイベント開催、
いずれも一過性の運動とならないように、組織内の求心力を高めるとともに、
組織活力を維持するために注力しつづけている。
また、地域の内外からのアイデアや智恵を得て、より広く活動の趣旨、
求めるべき「夢」をアピールしつづけ、支持層の幅を広げることに努力している。
<引用ここまで>

1849

友人たちの中で、小樽の運河街の倉庫群を舞台にした
ミニ映画を撮るヤツもいたりしていたけれど、
そういったエキゾチシズムをコアにして、膨らませてきた運動だと思います。
そういう意味では、地域の生き残りのひとつの作戦だった。
それが今日まで生き延び、
年間観光客数が500万人を超えるという。
国際的なアクセスが千歳空港しかなく、しかもJRも在来線しかないなかで、
ここまでの数が押し寄せるのは
ものすごいことだと思う。
近接する大都市機能を持った札幌の年刊観光客数が1300万人あまりだから
観光的にはツインシティとして機能しているに違いない。
観光庁:宿泊旅行統計調査によると2012年10~12月期間で
海外からの観光宿泊客数は
東北 90,250
関東 2,868,510
北陸信越 173,280
中部 425,620
近畿 1,701,690
中国 136,790
四国 38,680
九州 552,900
沖縄 155,430
に対して
北海道 519,250というようなことだそうです。
経済を考えていくのに、やはり観光は大きな数字。
どのようにこれを維持発展させていくべきなのか
地域の人間として次世代へバトンを渡すのに、重要だなと思わされた次第です。

網野善彦:海と列島の中世を読みながら

1847

先日の沖縄行きではもうひとつ帰りの楽しみがありました。
いま、わたしは表題の歴史書をKindleで読み続けているのですが
そのなかで、ことし訪れた「鹿島神宮」周辺の
霞ヶ浦が主舞台の記述があり、ぜひこの目で見てみたいという欲求がありました。
成田空港経由便搭乗なので、天気が良ければ見られるのでは、と
願望が満たされる可能性があったのです。
で、離陸後、運良くごらんのようなスケール感を実感できた次第。
陸上で見続けていても、なかなか位置感覚は捕まえきれないし
地図では具体的な把握力に欠けるのですね。
昔、西武の堤義明さんは土地開発、大規模開発をするときには
その地域でヘリコプターをチャーターして
具体的な立地環境イメージを膨らませるのだという記事に接したことがあります。
そんな機会には滅多に恵まれることのない凡百としては
羨ましくも、そうあるべしとも思っていましたが、
やっぱり長生きはするもので、
そういった機会、念ずれば、というか、忘れないでいると
こんな風な機会で、実現することがあるものなのですね。

日本の歴史を考えるときに
いわゆる百姓という一般民衆の職業というか、生き様・生業を
ひたすら「イコール農民」と見る視点に立ちがちですが、
その実態はまったくそうではなく、むしろ
広く漢字世界でそうであるように、字句そのまま
百姓とはあらゆる生業に携わる民衆なのだ、という見方を網野さんは
繰り返し、語っているわけで、
そのなかで「海民」の生き様のことを深く探求されています。
その先には、百姓たちの活発な生業活動の発展それ自体が
歴史を根底的に動かしてきた実体に違いないという
唯物史観的な網野さんの立場があると思うのですが、
やはり歴史の見方では、まったくその通りだと思っている次第。
ただし網野さんは非常に柔軟で、ドグマチックな論ではありません。
むしろ「日本人というのは非常に保守的だ」というような言い方もされています。
そういう歴史発掘の中で、ちょうど本に克明に書かれていた
霞ヶ浦の重要性、そこでの「海民」の活動の活発さがあったのです。
歴史に対して、虫の目で見るばかりでなく、鳥の目もまた
不可欠なのだろうと思って、こういった機会を求めていた次第。
このようなスケール感で現実の風景を目の当たりにすると
霞ヶ浦という水郷が、関東の歴史の中でどのような存在であったか
ある明瞭なイメージとして浮かび上がってきます。
網野さんはもう亡くなられているのですが、
まことにわたしの歴史の先生として私淑させていただいて
深く書を読み続けさせていただいております。
知ると言うことは、本当に楽しいものだと思いますね。感謝。

こういう店、好きでしょ?

1848

さて本日は休日につき、軽い随想であります。
先日の沖縄旅行では、娘が沖縄そばのおいしい店を案内してくれた。
それも、父さんの好みを熟知しているからか、
写真のような古民家風たたずまいの店を選んでくれた。
味もおいしかったことは、以前に書きましたが、
やはり親子で「こんな店なら父さん、喜ぶかな」と思ってくれているのが
無上にうれしい親バカです(笑)。
ついつい、日用品の果ての果てまで、一気購入
買い物に付き合ってプレゼントしてあげてしまった(笑)。
まぁ、ちゃっかりしているから、目的はその辺で、
釣り針にお父さんとしては、みごとに釣り上げられてしまったわけですが
娘のそういう奸計には、つい欺されたくなる(笑)。
どうせこれから先、最後は「老いては子に従え」というように生きたいので、
そのためにも、子どもがワル知恵を働かせるのはむしろうれしい。
「おお、こういうところにも気が回るようになったか」とやや過剰に誤解してあげる次第。
そのようにわたしの「操縦法」を勉強してくれるのはありがたいワケ。

で、何枚もこの店の写真をiPhoneで撮影した次第。
こうやって、趣味生活も感化されていって、
わたし以上にわたしの趣向を知ってくれるというのも狙っている。
考えてみると、こういう部分こそ、
親子でなければ伝達しきれない部分だと思います。
もちろんその上に、彼女なりの判断基準が加わって、
わが家は「進化」していくのでしょうが、
そういったDNA的な「刷り込み」の日常的な積み重ねが大事。
自分の趣味生活の端々まで、娘が管理コントロールしてくれたら、
父親は、うれしくて安心なのだと思います。

奇観をさらす朝日新聞

1843

写真は札幌市中央区宮の森の大通りにある廃屋。
以前は事務所もしくは倉庫的な使われ方をしていただろうと思うのですが
いまは開口部にはベニヤが張られ、
次の立地活用が決まるまで「塩漬け」という雰囲気がぴったりな風情。
しかしそれも、わたしが気付きはじめてからでも10年は経っているので
かなりの長期間、このような光景が維持されている。
「どうにかすればいいのに」という心情を見ている人間に感じさせる。

前フリが結論的かなぁ。
で、朝日新聞であります。こちらは32年間ですね。
先日も書いたように、わたしは朝日新聞には
立ち直っていただきたいと思っているのですが、
どうもそのように問題解決されない状況が、継続しています。
各週刊誌、産経、読売、さらには毎日新聞も従軍慰安婦報道について
朝日の姿勢をきわめて批判的に伝えるようになっていますが、
当の朝日では、ジャーナリストの池上さんの批判的なコラムの
掲載拒否、また一転しての掲載と
内容には触れないかたちでの「お詫び」告知などの動きがあったきり。
いまや、天下の奇観と言ってもいいような「分からず屋」ぶりをさらす状況に、
朝日は追い込まれていると思います。
至極まっとうでごく普通の、自ら掲載した池上さんの意見に従うしかない。
報道機関なのだから、その原則に則って、
改めるべきは改めて、それによって生じた諸問題には
真摯に対応するしか、道はないことは明白です。
であるのに、漏れ伝わってくる情報では社内限定のブログで
いまの社長さんは、「反朝日の勢力とは断固戦う」というような
金切り声を発しているのだそうですね。
どうも真実を報道する機関としての冷静さを失っているとしか思えない。
よほど追い詰められていると強迫的に思っているようです。
まぁたしかに追い詰められてはいるでしょうが
だからといって、集団的自滅の道をまっしぐらに走る必要はない。
もうちょっと賢明な対応を期待したいです。

しかしこのままの状況が続くと
いわゆる「新聞」というアナログメディア全般の死期が来ないとも限らないと
そんなふうな危惧を現実的に感じるようになってきました。
これまで「信頼」というアナログメディアが培ってきた
存立の大きな基盤が音を立てて崩れていく可能性が高い。
一方で、先日も、Facebookを介してある方と面談したのですが、
その方に聞いたら、「友だち」の顔ぶれを見て
これは知り合っていた方が良い、と判断したというのです。
SNS的なメディアは、このような使われ方が現実的になってきて、
社会的信頼感というものが、ある意味、
インターネットでも確かなかたちで醸成できるようになって来た。
既存のメディアはこういう時代、より謙虚な姿勢を堅持しなければならない。
そのように考えてみて、
今回の朝日の件は、歴史的な転換点になったと言われかねません。
勇気を持って32年前の記事を訂正したのですから
さらにもう一歩の勇気を期待したいと思います。

とげぬき地蔵お経ロック

1842
https://www.youtube.com/edit?video_id=iH3M8HhRT1Q

さて、東京出張のわたしの楽しみは、
「東京のなかの地方探訪」であることは、読者のみなさんはご存知の通り。
で、今回は池袋で仕事もあるので、
近接した場所でとじゃらんネットで格安ホテルを検索したら
なんと巣鴨という、わたし東京に8年住んでいて一度も来たことのない街が。
ということで、ややぼけたような古いホテルに投宿。
朝は早いので、散歩に出て見て回った次第。
で、ここの名物というか、名所は「とげぬき地蔵」であります。
その「高岩寺」に至る商店アーケードは、「おばあちゃんの原宿」として有名になって来た。
原宿の方は、いま、周辺の代々木公園を訪れた人の間で発生した
例の「デング熱」への感染が広がっている問題で、東京都が3日、
公園内で採集した蚊を調べたところ、
複数の蚊からデング熱のウイルスが検出され、
都は公園を一部を除いて立ち入り禁止にしています。
そういうこともあって、安全も考えてこっちにした次第(笑)、、、違いますね。
単に「巣鴨」という、なんともローカルな地域名がわたしを吸引した(笑)。
なんといっても、「おばあちゃんの原宿」、すばらしい。

っていうくらいの予備知識がある程度で
あとはまったく情報はありません。
気ままに、あるがまま、空気感を味わってくる寄り道です。
まったく情報を持っていないので、商店街の始まる前にあるお寺さんに参詣。
ワケわからないまま、50円也の線香に火を点けてひとり読経したあと、ひとにきいたら、
「ここじゃないの、あっち(笑)」と教えていただけた、冷や汗。
で、おばあちゃんの原宿を散歩したら、すぐに高岩寺、
俗名「とげぬき地蔵」に到着であります。
案内書きによると
「とげぬき地蔵尊」の名で親しまれるこのお寺、
正式には曹洞宗萬頂山高岩寺といいます。慶長元年(1596年)に
江戸湯島に開かれ約60年後下谷屏風坂に移り巣鴨には明治24年(1891年)に
移転してきました。
ご本尊は「とげぬき地蔵」として霊験あらたかな延命地蔵菩薩です。
こちらの地蔵菩薩様は秘仏ですので残念ながら拝見させていただくことはできません。
とのことであります。

そうです、またまた、曹洞宗であります。
ことしは曹洞宗つながりがわたし的には異常な「当たり年」。
永平寺・総持寺能登と鶴見と、踏破してきている。
でまたもや、であります。
なんか、劇的(笑)。
曹洞宗と言えば、朝の勤行が拝観できるのでは、と期待していたら、
案の定やっておりました、大音量。
なにやらおばあちゃんたちが総立ちで聞き入っています。
カッコいい。
たぶん、mp4データを貼り付けたので、視聴できるのではと思いますが、
お経ロック、なかなかの快感を覚えます。
日本で庶民に仏教が受け入れられたのには、
このようなわかりやすいパフォーマンスが、こころを鷲づかみにしたのだと思う。

まことに清々しく元気をいただける。
地域の中心的なアジール空間、大好きであります。

なんちゃって有楽町エセ場末エスプリ

1841

こういう種類の趣味ってどういうことなのか?
場末感っていうカテゴリーに弱い。

きのうは青森から新幹線で東京に移動して2件ほどの用件。
で、ちょうど終わって疲労困憊感ハンパない気分でいたら
ケータイが鳴って、知人から情報交換のお誘い。
まぁタイミングが良かった(笑)。
で、品川から有楽町に移動して、「場末、場末」と移動(笑)。
東京でのサラリーマン生活時代、
いまから35年も前のころの刷り込まれた記憶がフラッシュバックするのですね。
人間って、すき間とか、暗がりとか
そういう環境に弱いということなのか、
それとも、昼間、手ざわり感のない大都会の無機質さに
やや神経が疲れて、赤提灯的なおぼろげさに
神経を浸らせたくなる、ということなのか、
とにかく心理的整理整頓には、写真のような空間がわたし的にはふさわしい。
なんですが、こういう店も最近は
「なんちゃってノスタルジー」みたいなのも多いようであります。
きのうは、「ふらり飛び込み」感性みがき挑戦篇。
有楽町サラリーマン歴数十年の知人の言では
この手の店で本当に古くからやっている店って、案外ないのだそうで、
きのう、ふらっと入った店も、
なにか、しっくりこない、若者がひとりで切り盛りしている店。
やや神経質そうな対応で、おいおいどうしようかなと考えたけど、いいかと。
まぁこっちも疲れているので、いちいちハラも立てないのですが、
どうも勘違いしているっぽい。
かれのなんちゃって「こだわり」最優先のような店で
客側にあれこれと口出ししてくる。
「なんちゃってノスタルジー」の押し売り感ハンパない。
どうも東京はこの手のニセモノに事欠かない。
しかしそういうのを楽しむというのもありなので、おとなしくしていた次第。
まぁこっちは疲労困憊ふらり飛び込み一見さん。二度はない一期一会。
あんまり批評的になるのも、めんどくさいので
かれの勝手にして貰っていたのですね。
だいたいこの手のエセ場末エスプリって、地酒を置いているけれど、
たまたま、沖縄の泡盛を置いてもあった。
ついこの間、宮古島でおいしくて臭み感のつよい
美味い泡盛を飲んできたわけですが
置いてあるのは「これでダメなら泡盛あきらめろ」みたいに書いてある
「飲みやすい」泡盛、っていう次第。
おい、そんなんだったら、エラそうな口上や口出しをするな、と言いたくなる。
っていっても、「内心で」であります(笑)。
あくまでも、「神経質そうな」方には、スルー気味に対応が肝要。
だいたい、一昨日もたっぷりの夕食で食べきれなかったくらいなので、
食べ物はほとんど箸が進まなかった。
まぁ、味も言うほどこだわっているとは思えないものでした。
したがって、本格的に情報交換最優先のいっときでした。

まぁそうは期待もしていなかったけれど、
突然飛び込み飲食店、大ハズレ。
◎◎さん、ゴメンね、フィーリング飛び込みに付き合わせてしまって(笑)。

札幌ー青森ー弘前ー東京都内JR移動

1840

さてきのうはふたたび青森県での仕事。
今回は弘前で講演を頼まれての出張ですが、
その後、本日明日は東京に移動して何件かの用件を片付けます。
ということで、最初と最後は決まっている。
JRで札幌から弘前まで行って、青森か新青森に引き返して
翌朝、新幹線で移動して、帰りは羽田から飛行機で札幌まで帰る。
これはなんにも問題はない。
ただ、青森もしくは新青森ー弘前の往復がなにやらわかりにくい。
乗車券チケットを見てみると、札幌ー東京都区内であれば
そのルートはどう通ってもいいとなっている。
考えられるルートとしては、新幹線が基本だけれど、
書かれているルートには「奥羽本線」も明記されている。
期間は7日間なので、「途中下車」も可能になっているのですね。
というような条件の中で、当然のようにコストパフォーマンス優先で
費用のムダを省くことを考える。
JR北海道では「北東北フリーキップ」というのがあって、よく利用します。
札幌から青森・岩手・秋田の北東北一円のフリー移動可能な切符。
なので、そういったチケットとの比較検討をするのですね。
で、そういう旨、より有利なチケット購入について、
よく相談購入させてもらう北海道内の最寄りのみどりの窓口に行ったら
先方からは、「よくわからない」というお答えでした。
特急料金は別にして、青森もしくは新青森ー弘前間の移動については
この「乗車券」のみでいいのかも、というあいまいな情報なのです。
わからないまま、「乗車してから車掌に聞いてください」というのが結論。
まぁ迷うところですが、しょがない。
で、きのう函館から新青森までの特急の車掌さんに聞いても、
結局わからなかった。
新青森というのは「奥羽本線」の途中駅なのですが
どうもそれすら知らない車掌さんで、
ひとつ手前駅の「青森」で特急を乗り換えろと言う。
言われるままに、青森で乗り換えたら、今度の奥羽本線の車掌さんは
「乗り換える必要ないっしょ(笑)」というあっけらかんとした答え。
でもまぁ、その車掌さんに事情を話してチケットを車内販売してもらいました。
結論としては、やはり東京移動が基本で経由するルートは新幹線ならば、
弘前まではまったく別途の「盲腸」的な往復という解釈に。
なにやら、コストパフォーマンスを考えるよりも
適法なのかどうかの方も怪しまれるような状況なのですね(笑)。
別にわたしが悪だくみをしているのではなく、
鉄道キップの整合性がどうもわかりにくくなっているのです。
まぁ混乱の元凶は、「新青森」と「青森」なのでしょう。
新幹線駅が新しく別駅になったことで、利便性と運賃設定において
運賃と特急料金体系がきわめてわかりにくくなっているように思います。

車掌さんから、新青森ー弘前間の「往復キップ」を購入し、
でも、弘前からの帰りは「青森」まで行くのですよ、と再確認したら、
「あ! そうだったね、う〜ん、そしたら往復割引は使えないのかなぁ??」
と、ゴニョゴニョ。
そこでこっちが最後の一発で
「あ、わかった、じゃ、乗り越し精算するわ」
という案を出したら、
「いいね、それ」
というなにやらFacebookのような答え(笑)。
ふたりして、親指を突き立てるポーズでシェア。
でも不安は残っていて、最後青森駅で夜10時ころに駅員さんに
乗り越し料金を申請して「90円払ってください」と
言われて払うまで、一抹の不安を持っていたわたしでした(笑)。

この地域の状況に精通していないみなさんには、
イマイチわかりにくいブログであることを、最後にお詫びします。