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【築245年米蔵・福島「十間蔵」/日本人のいい家⑫-1】



過去探訪の「日本人のいい家」シリーズ。本日は福島市の堀切家住宅。
このシリーズを続けていると、いまに残っている重厚な古民家建築の家系には
ある共通項的な「経緯」があると思います。
北海道にいると気付きにくいけれど、日本の現在に連なっている「有力家」って
江戸期に淵源を持つ大規模土地所有者であるということ。
それが明治初年の「日本資本主義」勃興期において、それまで幕藩体制下では
国持「大名」たちの専制支配で、大規模な土地所有が難しかったものが、
明治維新の結果、かれらを中心に大規模土地所有層が全国で出現した。
江戸期にも大庄屋などの経済主体は確かにいたけれど、
支配層の武家の都合で自由な経済活動はできにくかった。
そういった権力制約が維新で解放され、土地所有の自由が拡大した。
そして「担保価値」のある土地所有者が日本資本主義の基礎になった
あらゆる「殖産興業」の主体資本家として登場した。先見の明があったというよりも
経済勃興の自然な推移として特権的階級が形成されたという事情。
こうした社会階層の大変化が起こったことが見て取れる。
その体制が基本的には第2次世界大戦まで続くことになる。
現代で各地域に残る「立派な家」には、おおむねそのような歴史経緯が見て取れる。

住宅は、兵庫県の箱木千年家のように実際に1,000年続く家もあるけれど、
おおむね2-300年程度が建築と社会支配層の「耐久性限界」のように思う。
日本は比較的に社会階層の流動性、循環性は高い社会だと思います。
「おごる平家は久しからず」「家は三代」という格言はそういう民族性をあらわしている。
あ、除く北海道でありますが(笑)・・・。

この福島市の「堀切家」という存在は、今から440年ほど前、1578年に
梅山太郎左衛門菅原治善が若狭国(現在の福井県)から当時の上飯坂村に移住し、
名を「若狭」と改め、「川跡田畑4町歩(約39,700平方メートル)あまりを開作」し、
農業・養蚕に力を入れていきました。〜という戦国期由来の家系起源。
若狭という先進地帯から福島に来て、「川跡」という河川管理の困難な未開削地を
豊かな田園に変えて行ったのではないか。
江戸期には在地の「大庄屋」として年貢の納税主体を務めてきた。
そういった階層にとっての最重要建築が「米蔵」だったのでしょう。
これは1775年に建立された蔵で、桁行が10間(約18メートル)梁間3.5間。
構造材は野太く、200年を超える歳月、コメを守り続けてきた建築。独特の風格。
1部2階があるけれど、平屋35坪の大型倉庫建築。おもに米蔵として使われた。
建立年代が判明するものとして、福島県内最大最古の土蔵であり、
平成19年に福島市の有形文化財に指定されています。
明治期になって、この家系からは有力政治家が多数輩出する。
東京市長なども出ている。推測だけれど、福島県は本来会津が中心だが、
幕末明治の政治情勢のなかで会津は冷遇されて他地域、中通り地域が優遇された。
そういう薩長閥の思惑が感じられる気がする。
明治政権としては相対的に会津を下げ、福島を上げる意図があったのでは。
会津攻城戦では、官軍の本営は福島に置かれたという故実もある。
あるいは明治初年の政戦両面で、この堀切家は重用されたのかも知れない。

家の盛衰には、こういった生々しい部分もきっとあったに違いない。
ただ単に住宅としての「耐久性」を越えた要因も複雑にからむ。
「いい家」というフレーズには、どうも人文的な側面も見いだせますね。

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