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【明治開拓使時代の「窓回り」ディテール】


明治初年札幌の永山武四郎邸シリーズ第3弾であります。
明治10年代の初めという時代の建築で、住宅以外にも北海道庁本庁舎とか、
豊平館、清華亭、時計台など「洋造」建築が実験場のように多数作られた。
和風住宅と「洋造」住宅の決定的な違いはやはり「窓」。
ガラス自体は江戸期にも日本で製造されていたそうですが、
欧米のように住宅建材として使うという考えは全くなかったようで、
ギヤマン細工で繊細な工芸品としてしか考えられていなかった。
住宅建材としてのガラスは欧米人が日本に住むようになって、
かれらの住宅で、透明な建材として「舶来趣味」的に受容されていった。
明治初年段階では、本州地域では居留外国人住宅以外ではそれほど普及しなかった。
しかし、先日も触れたように「気密性」を空間に確保するという
きわめて寒冷地らしい合理主義が北海道移民たちの間でブーム化した。
いや、気密であることで室内の暖房効率が高まるという
きわめて即物的な、いわば背に腹は代えられないみたいな需要で
高価な輸入健在のガラスが、生活の見通しすら不明な北海道でもてはやされた。
ガラスは半紙大の大きさの規格寸法で流通して、
写真のように桟木で嵌め込まれてガラス建具・窓として作られていった。
この住宅はいわば「高級住宅」であり、窓回りの「モールディング」の重厚さには
いかにも「見よう見まね」にまっすぐな日本人的職人気質を感じる。
ディテールを研究し咀嚼する職人的倫理観、それを生む社会倫理が存在した。
それまでの日本住宅建築では木製建具+桟木など+紙障子で
窓が組成されていたが、このような本格的なガラス窓が北海道標準になった。
今日でも北海道は「高断熱高気密」という性能面での先進性が大きいけれど、
そういった素地、事始めは明治開拓期から一貫していたといえる。

引き違いに比べて外部からの操作性、防犯性が高いことが理由なのかどうか、
欧米には「引き違い」という窓の開閉形式は少ないようで、
まだ「見よう見まね」の住宅「洋造」段階だったことから、
この明治初年段階では、写真のような「上げ下げ窓」形式が採用された。
一方で、和洋混淆の和室側では下の写真のような開口部。
きのうも触れたように、縁側外周が2重のガラス建具で覆われている。
このスタイルがどこまで「一般化」していたかどうかはよくわからない。
ただ、清華亭でも縁側外周はガラス建具仕様になっているし、
先般ご紹介した大正末年の上富良野でも同様の仕様になっていた。
このシリーズを読んだ読者のAさんから、現代の高野山の「宿坊」でも
同様にガラス建具で縁側が仕切られていたと言う情報。
まぁ高野山も近畿圏とは言っても高地なので、北海道と同様の気象条件か。
この写真の「雨戸」的なガラス建具はみんな「突き付け」仕様のようで
雨戸として戸袋に収納されることのみで「開閉」される仕様。
だけれど右側の薄い「戸袋」では1−2枚しか収納不可能だと思います。
1−2枚だけ戸袋に収納した後、残ったガラス建具は外側から外したのではないか。
ただきのうも書いたように、やがてこの「常設」状態で固定され、
ほとんどガラス建具を取り外すことはなくなったのだと推測。
だいたい、スムーズに取り外し作業が可能なのは、北海道では
6−9月くらいが限度で、それ以外の時期にはそもそもガラス建具を
「動かす」こと自体、けっこうな重労働であったに違いない。
冬期には当然積雪し、結氷凍結が避けられなかったことは自明。
春秋もその危険性がつねに迫っていて、いわば季節の「模様替え」習慣には
とても至らなかったのだろうと思われます。

見かけとしては、ガラスの寸法に合わせた規格的な木枠構成。
これはこれで非常に正直な姿を見せていてデザインに好感を持ちますね。

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