本文へジャンプ

【106年前の小樽・皇太子「御旅館」建築】



先日ご紹介した「小樽市公会堂」の様子です。
こういった古建築は北海道では見学する機会があんまりないのですが、
さすがに開拓期には北海道経済の中心地であった小樽らしく、
このような古格な建築に出会うことができます。
〜明治44年8月の皇太子(後の大正天皇)の北海道行啓の宿泊のため、
当時海運業で財を成した籐山要吉の寄付によって建てられた「御旅館」という
伝統的な和風建築。その後は公会堂として利用され、昭和35年に
現在地に移築されました。この時、御殿と本館の配置が変わり、
地下部分が増設されています。木造平屋建て2棟で構成され、
手前の本館が謁見の間で、その背後に御殿があります。
設計は皇室関係の建築を多く手がけた木子幸三郎(きご こうさぶろう、1874-1941)。
代表作は天鏡閣(旧有栖川宮威仁親王別邸)、旧竹田宮邸 洋館
(現グランドプリンスホテル高輪貴賓館、旧十二銀行函館支店(旧函館信用金庫本店)、
富士屋ホテル食堂、三共品川工場本館、駐日ローマ法王庁(旧鈴木忠治邸)など。
●小樽市公会堂<旧小樽区公会堂>
1911(明治44)年建築 小樽市指定歴史的建造物
設計 : 木子幸三郎 施工 : 加藤忠五郎(大虎組)
木造平屋建て。小樽市花園5-2-1〜


〜施工を任されたのは加藤忠五郎で、彼は東京の宮内省(現宮内庁)まで出向き、
木子幸三郎に設計を相談しました。木子家は代々、宮中に仕えた建築技師。
壱の間座敷飾りの棚は葉山御用邸のものと似ていて、はるばる出向いた成果。〜
というような記述も、インターネットでは確認することができる。
総工費がどれくらいかかったのかは、確認できていませんが、
小樽市の海運業の一商家がその財を傾けて建築したとされている。
このことからは当時日銀の支店も置かれていた小樽での公共事業投資が
どのような実態であったのかも推測できるような気もします。
北海道開拓のための資材が活発に小樽の港に海運され、
ここから鉄道に乗せられて札幌本府建設のため、奥地開拓のため運ばれただろう
その膨大な物量がまざまざと想起させられる。
明治の日本国家にとっての北海道開拓は、最大の「公共投資」案件。
日露戦争後まだ5−6年の時期であり、樺太が領土に編入された時期でもある。
いったいどのような情勢の中でこのことがあったのか、興味深い。
開拓にともなう公的資材物資だけでも相当の規模になったに相違なく、
この「籐山要吉」氏は、そういった交易活動の枢要に位置していたのでしょう。
建築図面を見てみると、やたらと「天井仕上げ」についての指示が目立ちます。
建築の格式を表現する最大のものであった様子が偲ばれてきます。
こういう経緯を考えていくと、北海道ははるかな平城京や平安京建設に似た
歴史的国家プロジェクトが集中投下された地域である事実が明瞭に見えてくる。
建築と歴史の交差点が、小樽では確認できますね。

コメントを投稿

「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」

You must be logged in to post a comment.