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奥州市水沢・黒石寺

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きのうは水沢で講演会でした。
水沢は、統合で「奥州市」になったわけですが、
どうもなかなか慣れませんね。
平成の大合併というのは、結局根付くのでしょうか。
講演会には、北海道岩見沢から武部建設専務さんも来ていただいて
わたしのほうは前座で、北海道R住宅のお話しを中心にいたしました。
会場は大変立派な会場で、びっくり。
お話しをするこちらの方が、やや気後れするような立派さ。
なんですが、飛行機に乗って新幹線に乗り継いで来る武部さんが
心配したとおり、仙台空港からのアクセス電車に一本乗り遅れ。
まぁ、それでも
間に合うような日程にしていたので、まぁ、心配はなかったのですが
ちょっとした時間が急遽発生。
そこにおあつらえ向きに、「正法寺・黒石寺」の看板案内。
前は一度、正法寺の方、見学したので
黒石寺のほうに見に行ってきました。
この寺の由緒は・・・、
聖武天皇天平元年(729)、奈良法相宗(ほっそうしゅう)薬師寺五代行基和尚が東奥に行化(ぎょうげ)し、この地に至り渓山の幽秀を喜び、一堂宇を造り、薬師如来像を一刀三礼のもとに手刻安置し、次年に寺を建立し、東光山薬師寺と号して開山した。
延暦21年(802)、征夷大将軍坂上田村麻呂は、鎮守府胆沢城を築き、城内に鎮守府八幡宮神社、城輪(きのわ)に石手堰(いわでい)神社を官寺として建立、当山薬師寺はその神宮寺的な存在となった。 
 しかしこの胆沢の地は北上川の扇状地の肥沃な地で、阿弖流為(あてるい)や母礼(もれ)を族長とする集落でもあった。田村麻呂朝廷軍は数次に亘り、数万の兵をもってこれを従え城を築いたのであったがしばしば蝦夷(えみし)による反抗には悩まされ続けた。胆沢城は多賀城に次ぐ国府であり、奥州支配の最北端であった。4000人の移住民の中には、軍監、医師、弩師(ゆみし)、楽師、陰陽師、兵士、柵戸が居たことであろう。
っていうように記載されております。
まぁ、要するに桓武帝の膨張政策の結果、攻め滅ぼされた
蝦夷の族長勢力の根拠地に平安をもたらすために建てたのでしょうね。
この時代の宗教は国家鎮護の象徴だったでしょうから、
凄惨な戦争と表裏一体の関係にあったといえますね。
遺されている建築は、
四隅がきれいに木材が切り並べられて構成されており、
相当に手の込んだ公共事業であった様子が偲ばれました。
さて本日は環境省エコハウス事業の福島県飯館村に見学に行って参ります。
その後、ようやくいったん札幌に帰還できます。
やれやれ、っていうところであります。
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