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古い木造の「場の力」

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美唄の小学校の廃校施設を再利用した建物。
先日来、何回か掲載していますが、
写真はそのなかの広めの部屋に彫刻が展示されている様子。
彫刻が素晴らしいのは、まったくその通りなのですが、
それ以上に、感銘を覚えるのが古い木造校舎の魅力。
大体が、どんな地域に行っても、
古い木造の大型建築、学校に行くと、こころがやすらぐ感覚を覚える。
まぁ、ほとんどのひとが感じるのは事実のようなので、
そろそろ、こういうものの復権を真剣に論議すべきなのではないかと
思われてなりません。
近代合理主義丸出しの威圧的なコンクリートと、
無節操なガラスの透明感に頼り切った空間構成はどうもいやらしい。
確かにそういう材料での空間構成を否定はしないけれど、
それはむしろ控えめに、
木質の豊かな情緒性を補強する存在であるべきではないのでしょうか?
建築って、ひとびとの暮らしを豊かにすることをめざしているもの。
その意味で、古い木造建築が持っている
「癒しの力」のようなものを早急に科学的に解明すべきではないのでしょうか。
だれが訪れても、必ず楽しくなれる空間の「力」ってすごいと思う。
鉄筋コンクリートは強い耐久性は持っているけれど、
言ってみれば「愛着の耐久性能」という部分では、
大型木造の持っているスーパーパワーにはまったく太刀打ちできない。
写真のような場では、
やはり素材に刻印される時間の経過というものが
訪れるものに、視覚や空気の臭いのようなものが一気に包んでくるのでしょう。
そういうことがらを受容するときに、
わたしたちの心が、それを圧倒的に心地よいと感じるのだと思う。
DNA的な、木という生きている素材が、
同じ生き物としての部分で、深い感受性を刺激するのだと考えられる。
木は語りはしないけれど、
多くのことを人間に訴求してくる「力」を持っているのではないか。
こういう空間にいると、
窓の外の自然の移ろいが同質性を持って感じることが出来る。
自分自身もそういう大きなものの中のひとつであるという自己認識を持てる。
きっと、こういう空間はそうした「回復力」に優れているのではないか。
こういう建物から感じるのは、そんなことのような気がします。
母方の伯父が、
函館に住んでいたのですが、「古い家がいい」と言って、
木質素地外壁の古家に住んでいたことを思い出します。
だんだんと、そういう心理になってくる年齢なのかも知れませんね(笑)。
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