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家の快適から「街での癒やし」へ

1914

青森の街をいろいろに「ロケハン」してきた。
ある要件があって、その「取材活動」なんですが、
どうも無意識のうちに、「街の癒やし」を探そうとする自分がいる。
日本全国どこでも同じような店舗群が、それこそ資本主義の鉄則に沿って
コンビニであるとか、チェーン店舗であるとか
「共通であることの安心感」の提供装置群で、いまの日本社会は構成されている。
それもそれで、いわゆる地方生活者にとっては
ある種の「文化的共通性」の担保として、好意的に受け取られる。
「スタバのない県」というような自虐を生み出すほどに
こういった共通性は根強くありつづけている。
わたしの推測では、奈良の都以来、こういった「文化の同一性」を
日本社会は広く受け入れ続けてきたのだろうと思う次第です。
しかし、そういう種類の安心感って、
それが全部になってしまうことには釈然としない。
そこには地方が都に「ついていく」という迎合感が強くあるのではないだろうか。
そうした安心感と、「街の癒やし・うるおい」は少し違うのではないか。

たぶん、そんな考え方が想定しているのは、
フーテンの寅さんがふっと現れてくるような、
あるいはマンガの「滝田ゆう」作品のような、
まるでそういった劇的空間の舞台背景になるような街のイメージ。
もういまではなかなか見つからない
庶民のための日常感が匂い立ってくるようなたたずまい。
街の魅力、というのは本来そういった部分ではないのか。
各自の住む家がどんなに立派になっても
それだけでは人間生活に情緒的な部分の充足感が不足する。
街の装置としての店舗や食事の場所が、独自性をもった「癒やし」を
提供しなければ、街の魅力は成り立たないのではないか。
どうもそんな思いが強くなってきている。
そんな思いを持ち続けながら、
ふとクルマで走り始めた街路に、突然インスピレーションを感じ始めた。
そう、なにか、昭和の時代感がふんだんに醸し出されているような
あまりにも馴染んだ空気、癒される信号がこころに届いてくる。
そんな空気感のありかを、「どこなんだろうか」と戻ってみて探索したら、
写真のような風情の庶民的な食事店に目線が向かった。
失礼ながら、とくに特徴的とも思えない。
けれど、なにか、正直さを感じる。
そして年月の経過が伝わってくる。
それは、この変哲のない店舗外観でありながら、人々の支持を
長い時間にわたって得てきたということを証している気がするのです。
「きっと、そういう味がするのではないか」
という推測をこちら側にさせる、雰囲気的な力を持っている。

相棒とふたり、食べてみた。
ごくふつうの定食の心遣い、ふつうのしょうゆラーメンの正直さ、
どちらも、癒されるだけのものを持っていた。
古びているけれど、正直に生きている。
そういったたたずまい、味わいに、「癒される」実質を見た気がしました。
まぁたぶん、旅人としての思い込みではあるでしょうが(笑)。

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