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【織田と毛利、東西対決最前線「三木城」攻防戦】

 東播磨の要衝・三木城をめぐっての三木合戦は、天正6(1578年)5月5日から天正8(1580年)2月2日にかけて行われた。ここまでの播磨地域をめぐる政治軍事情勢では、畿内地域を押さえて安土城の築城にも手を付け始めた信長 […]

【2年間を掛けた三木城「干殺し」兵糧攻め】

 戦国時代ものが好きだというのは、いまや日本人に刷り込まれている歴史観だと思います。国民作家と言われた司馬遼太郎が、この時代を国盗り物語とか新史太閤記などで大衆的人気を絶対的なものとしたことが、たぶん大きかったのでしょう […]

【戦国末期、織田家・秀吉軍部隊と三木城】

Screenshot[/三木城跡]  さてアメリカ大統領選は時差の関係もあり、帰趨の情報はまだ発信されてこない。そういうことなので、ブログ記事としては代わりに、いまなにかと話題になっている「兵庫県」で縁の深い「三木城跡」 […]

【昭和天皇の神島上陸・戦艦長門でご進講 南方熊楠-7】

 さて南方熊楠の自邸を6回ほどのブログ記事で見て来たのですが、そういう南方が日本史のスポットライトを浴びたのは、生物学に造詣を深められていた昭和天皇が、南方熊楠の学問追求を知って、紀州を訪れてかれから直接「進講」を受けら […]

【瓦土塀と木壁のデザイン風合い 南方熊楠邸-6】

 本州地区の古建築、古民家などを見ているとときどきお目に掛かるのが、写真のような瓦入りの土塀。初めて見たのは熱田神宮に織田信長が桶狭間合戦の勝利祈願をして、それがみごとに成就したのでお礼として奉納したとされる「信長塀」。 […]

【アマテラス「自然崇拝」と南紀の風土 南方熊楠邸-5】

 写真は、南方熊楠邸のなかの「書斎」周辺の様子。わたしが南紀に強く惹かれるようになったのは、記紀伝承での神武東征譚にどのような空間的な「蓋然性根拠」があるのだろうか、という探究心からでした。そこから難波から迂回して神武帝 […]

【108年前、大正初期の南紀・田辺市の街区と現在】

 南方熊楠さんの自邸探訪その2であります。こちらの敷地はおおむね400坪ほどで、江戸期に紀州藩の「支藩」であった安藤氏の城下町というのが街区の由来。旧邸で質問にお答えしていただいた女性からの伝聞では、南方家というのは、こ […]

【1916(大正5)年頃の南方熊楠の家・台所空間】

 昨日は久しぶりのわが家帰還で、体力涵養を第一に過ごしておりましたが、都合5日間で札幌ー東京ー新幹線移動ー大阪ー南紀白浜ー奈良ー播州兵庫ー神戸ー大阪・堺ー関空から帰還、という長距離移動での疲労なので、すぐには全快はいたし […]

【司馬遼太郎さんとの「縁」 in 姫路英賀】

 きのうのブログテーマ「霊柩車遭遇」ですが、わたし自身は「いい方」解釈派だったのですが、昨夕関西から帰還したのですが、なぜか搭乗機が「機体トラブル」で後発便よりも新千歳空港到着が遅れて、約2時間の遅延の事態に。こういうト […]

【竪穴住居の木組みと外皮構造〜ところ遺跡-5】

 今回取り上げている北海道東北部オホーツク沿岸の北見市常呂町の遺跡群についての研究は「東京大学大学院人文社会系研究科附属 北海文化研究常呂実習施設」として現地で半世紀以上調査研究を継続し歴年の成果を上げてきている。北海道 […]