

「甲子園球場って大阪だもね?地元高が優勝だと甲子園球場の盛り上がりも
すごそうやな~~~😊😊😊」
「ところがどっこい甲子園では大阪桐蔭完全アウェーだった」
ニッポン人なら夏の最後を告げてくれる
甲子園大会のことが気に掛かりますよね。
息子の帰省中はいっしょに良く観戦していました。
息子は大学の友人たちと、甲子園大会の決勝戦をナマ観戦したいと
今週日曜日には札幌を離れて関西へ行った。
で、決勝戦前日から甲子園球場に寝袋持参でか、チケット購入に並んでいた。
若者らしい夏休み、まことにうらやましいけれど、そういうのが特権ですね。
若い人たちはやはり現場でものを体験することが必要でしょう。
先日までは北海道をキャンプで歩きまわって、朝晩の寒さを体験したし、
なんと、シカと遭遇してクルマと接触したりもしたそうです(!)。
そんな仲間たちと、甲子園決勝を観戦したいというのは、
すばらしいことだと思います。
でも、イマドキは、こういう現場での感激が、
ツイッターなどで共有することが出来る。
息子は日ハム観戦経験が豊富なので、野球知識蓄積は持っている。
今大会を見ながら、「やっぱ、大阪桐蔭はひとつ抜けている」と
通ぶった解説をしてくれていた。
父はそういう解説を「そうだろうなぁ」と相づち打ちながら、
しかし、その戦いぶりに激しく共感を覚えた金足農高に
どんどんとシンパシーが深まっていった。
準々決勝第4試合で最終回9回裏、満塁からのツーランスクイズには
「おお、これこそ高校野球らしい戦いだ!」と感激が突き抜けてしまった。
公立高校で決勝戦当日は2学期開始にもあたるけど、
まさかの出場で全校たいへんな盛り上がりで授業を繰り下げたとか、
応援団を含めた滞在費が底をついて、OBたちがカンパを呼びかけたとか、
それに全国から支援が殺到しているとか、
わたしが感じていた共感力にしびれた人の輪が広がった。
高校野球が持っているこういったグランド外での「熱さ」に
現実の試合がからみあって、現場での空気が想像できるように感じていた。
金足農高の球児のみなさん、
あなたたちの戦いは素晴らしかったと思います。
もちろん勝った大阪桐蔭の実力はまことに素晴らしかった。
しかし、今大会の主役はまちがいなく金足農高の戦い方だったと思う。
甲子園には戦い終わって虹が架かっていたという。
「虹、ええなぁ・・・」
現場でこんな空気を吸えた息子たちを、祝福してやりたい。
Posted on 8月 22nd, 2018 by 三木 奎吾
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人口減少問題を考えていて、
どう考えても移民政策は不可避だと思っていましたが、これまでは
表向き、日本は移民政策は採らない、というアナウンスがあったので、
それほどの疑いもなく、それを信じていましたが、実質的にどうなのか、
海外から来ている人がコンビニなどで働いているのを見るに付け、思っていた。
・・・案の上ですね。
まぁ、公式的発表をそのまま字句通り受け取っていたこちらがアホだった。
上の図はOECDが定めている基準に則してカウントした「移民」の国際比較。
すでに2015年段階で、世界第4位に躍り出ている。
当局の「言い訳」は聞こえてきません。たぶん「労働者と移民は概念が違う」というように
コトバの言い換えに終始させるのでしょう。さすがの現実主義、ニッポン的国際化。
あるいは単一民族志向が強い島国国家としては、なし崩しというのが
いちばんスムーズな移民受け入れと判断したということかも知れません。
やはり実感は正しかったわけで、経済的に活発な「市場」を維持発展させていくのは
きわめて当たり前の、経済市場としての自己防衛本能的なことだと思います。
こういった問題でも、実質とタテマエ、2重基準で対応するというのは、
まことにニッポン的というようにも思えます。
いろいろな考え方はあるでしょうが、わたしとしてはこのことは受け入れて
こういう現実的解決法を日本社会は行ったというように考えたい。
逆にニッポン人だけでの閉じられた社会市場の中だけで企業経営を考えていくよりも
中小企業であっても、否応なく「国際化」が進展して身近になっていると
そのようにチャンスと考えたいと思います。
このことは、市場サイズが大きく拡大したというようにとらえることができる。
活発な国際経済交流が、このような人の交流をきっかけにしてはじまり、
やがて市場同士の融合、交流に繋がっていく可能性が出てくる。
そういったことで、従来のドメスティック企業にもチャンスの切り口が開かれた。
もちろん政策の進展がどうなっていくかによって市場の大きさは変位する。
しかし近未来、たとえば北海道での日本人人口は十数年後400万人を割るとされ、
その縮小市場をベースにビジネスを考えなければならなかったものが、
年間の乗降客数が羽田の3割以上になり、今後とも格段の伸びが期待されている
北海道・千歳空港への飛行機利用での大量の流入増加など、
一時的滞在での旅行客も含めて、日本最高レベルの
「多民族化した市場」という概念での活動を見据えていくことができる。
550万人口がただ400万になるのであれば、縮小均衡しか生き方はないけれど、
そのような拡大可能性のある市場であれば、手を打つ選択肢が大きく広がる。
考えてみると古代の飛鳥から奈良にかけての時代は
活発な半島・大陸からの移民がこの社会に大量に流入して、
経済が大きく活性化したというように考えられてきている。
そのことが、東アジア世界のなかでのニューフロンティア、発展する地域に
ニッポンがなっていったことに繋がっているとされているようなのです。
いまいる人間たちが、どうこの市場拡大への想像力を持てるか、住分野でも
今後、試されていくでしょう。ちょっと前向きな気付きを持てた情報でした。
Posted on 8月 21st, 2018 by 三木 奎吾
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人口減少社会というテーマは、いまの日本の最大のテーマ。
というか、いまの世界情勢の基底でもこのテーマが大きい。
資本主義的発展においては、人口増こそが「市場」概念そのもので、
いわゆる「右肩上がり」というグラフや、「坂の上の雲」という概念にも似て、
明るい未来感そのものを表現していた。
世界の中でもヨーロッパや極東アジアでは少子化が進み、
アメリカでも欧米系人口は減少傾向にあるとされる。
欧米系ではなくヒスパニック系が増加し、そういう人口構成比率の変化が
コアなアメリカという保守概念を刺激してトランプ政権という選択がされた。
反グローバルなアメリカファーストとして結果してきたように思われます。
ヨーロッパは労働市場の開放による恩恵をもっとも受けるドイツ主導で
移民の受け入れを進めたけれど、その社会的な痛みに
耐えきれない各民族の中間層、下層が折からのテロへの忌避・恐怖もあって
「極右化」と錯覚される反乱を起こすようになってきた。
イギリスのEU離脱、各国での自国第一主義勢力の台頭は、
いずれにせよ、こうした資本主義の危機感がその根底にあると思える。
少子高齢化は、日本でもっとも先端的に進展してきている。
他の先進国は移民政策について、ある程度の免疫を持っているのに対して
明治維新で歴史の中で最後に「国民国家」資本主義体制を革命選択し、
さらに、その資本主義市場争奪戦争に敗北して人口をもっとも毀損した国として
「戦後」という人口急増という局面を経て、今度は一気に急減期を迎える。
世界を覆った国民国家思想の最後の参加者で最優等生でもあり、
なお島国でもあるので、単一民族志向がいちばん強いのが日本。
そうすると容易には移民の受け入れには抵抗感が強く、なかなか進まない。
世界最高の健康保険制度のおかげで高齢化は爆発的に進展した。
一方で少子化は、資本主義の進展と同時進行した「個人主義」によって
それまでの地縁血縁社会から、無縁社会化することで加速された。
政治的に、地縁血縁社会的統合にマッチしていた旧自民党支配から
経済成長政策を持たず財務省の増税路線を官僚の言うままに実行しただけで
日本経済にマイナスの影響だけをもたらし
混乱に終わってしまった民主党政権を経て、無縁社会的個人主義を受け入れ
なお、経済成長を追求しようと考える第2次安倍政権の強さは、
若い世代にその支持基盤を持っているとされる。
いまの安倍政権の強さは、日本民族が選択している少子高齢化対応に思える。
いまの野党はこのことにもっとも気付くべきだと思う。
しかし、戦後的価値感で拡散しきった地域資産は無情な現実にさらされている。
建築は、戦後的拡大局面で大量生産として大きな役割を果たしたけれど、
人口縮減期には、そう大きな需要を見込むことはできない。
そういうなかで日本人による地域の集中と選択は容赦なく地方を直撃している。
写真は先日行ってきた北海道愛別町の地域遺産的建築再生事例。
こういった地域が生き延びて行くには、集中と選択そのまま、
「なにを残し、なにを廃棄していくか」が大きなテーマにならざるを得ない。
そのとき非定住だけれどその地域にひとを集める的な、地域が生き残るための
「関係人口」のよすがのような建築の役割は大きくなると推定できる。
そのときの要素条件は、新奇性ではなくノスタルジックな情緒性であることも
ある程度、常識化してきているように思う。
人口減少が生み出す変化に対応していく、地域の中での建築への
そういった要素での気付きが求められてきていると感じています。
Posted on 8月 20th, 2018 by 三木 奎吾
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北海道の現代住宅でほとんど見られなくなったものに床の間がある。
第2次大戦後、庶民の住宅では省略される室内装置の典型とされたように思う。
Wikipediaを見ると以下のような「用途」記述がある。
〜絵画や観賞用の置物などを展示する空間である。
近世には、有力者の館や城の広間、有力者の家臣が、仕える主人を
迎え入れるため邸宅の客間に座敷飾りが造られ、その一部として採用された。
主人のいる上段に装飾を施した床の間などの座敷飾りを造り、
主人の権威を演出した。江戸時代には、庄屋などの一部の庶民の住宅において
領主や代官など家主よりも身分の高い客を迎え入れるために
床の間などの座敷飾りが造られ、明治時代以降になると、都市部の庶民の客間にも
床の間が一般化するようになった。現在では掛け軸をかける習慣が衰え、
畳の部屋でも床の間を省略することも多い。〜
こういう「見せる」空間装置をどのように活かして使うか?
一般住宅でも、住まい手の「暮らしデザイン力」が毎日のように試される空間。
そうすると、こうした空間は「来客」などの「他者の目線」を前提とするのでしょう。
そういった「接遇応接」というような機能は、非日常的なものであり、
そもそもひとの交遊の仕方自体が、大きく変化した現代では
住宅建築の機能からそぎ落とされていったのも、ごく自然な流れ。
ニッポン人は「やせ我慢」のようにこうした接遇文化に立ち向かっていたのでしょう。
わたしが育った親の家でも、昭和40年代くらいにはこうした機能は失われていた。
そういう文化転換の端境期、わが家の「客」であった母の弟・伯父などは
たまに出張のついでで札幌のわが家に来ることがあっても
「堅苦しくなる親戚の家で泊まるより、ホテルの方が気楽でいい」
と正直に言えるようになっていたことが思い起こされる。
こういった日本人の住宅文化の転換期だったのではないかと思う。
そういった転換以降、他者の家に泊まるというのは、友人関係における
果てしない「宴会の末」のこととして、ほぼ雑魚寝感覚の事態に変わった。
年に数回もあるかないかの時のために
そのときにさらにその家の「格式」表現を目的とする装置は維持困難になった。
一方写真は先日訪問した愛別の古民家改装店舗の座敷空間。
店舗というような空間演出に於いては、
こういった「舞台装置」にはデザイン的な意図などが表現しやすい。
ある非日常的なるものをそこで演出することが可能になるので
店舗デザインにとっては、格好の演出装置に転用しうるのでしょうね。
そういう考え方からすれば、広く(床の間という)空間認識が共有されてなおかつ、
現代の一般住宅からは消え去ったモノって、劇的演出装置として効能が高い。
こちらの床の間では、背景色にかなりキッチュな赤が配色されて
さらにLEDによる間接照明も配されているので、
置かれる静物への展示効果はかなり高められている。
こういう空間での応接接遇、いわばやせ我慢の民族的な美のようなモノ、
そういうものが、非日常でハレっぽい価値感演出にもなっていくのでしょうね。
まことにため息の出るような生け花に魅了されていました。
Posted on 8月 19th, 2018 by 三木 奎吾
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一昨日から、表題のような作業を行っていました。
当社ではDTPがMacベースなので、基本的にほぼ全員がMac利用。
Windows使いやスマホ主利用のみなさんは、Macのことはご存じないと思いますが、
このAppleというメーカーは、ユーザーの自由を制限するのが好きなメーカー。
一般的にはHD、いまはSSDが主流でしょうが、
こういった「記憶媒体」については、パソコン創成期から一貫して
容量の大型化が進行してきたのが一般的。
ソフトの側でも、大容量化を前提にデータの大型化が図られてきた。
わたしたちの出版関係で言えば、写真データの大型化は品質向上もあって、
逐次進行してきたと言えるのです。
ところが、Appleはとにかく他と差別化というか、パソコンの使用感向上に
精力を傾けるような企業姿勢でやってきた。
とくに独自のOSの使用感で標準とは違うユーザー体験を提供してきた。
で、記憶媒体としてはとくにノートPCではHDからSSDにシフトチェンジしてきた。
このことは納得も出来る動きだと思っていたのです。
一般的にこういう記憶メディアの容量進化は加速度がつくものと言われたし、
数年もしたら、HDを上回る大容量が実現すると思っていたけれど、
これが案に相違して、なかなか進んでいかない。
で、AppleはノートのMacについてユーザーが内部アクセスできないように
順次手を加えていって、いま最新機種では
購入時点で高額な大容量SSDタイプを購入するしかなくなっている。
いま通常のMacbookPro13で、1TBのストレージを選ぶと230,000円超になる。
割安なMacbookAirでも、512GBストレージで138,800円。
台数が多いので、やはりコストは極力抑えたい・・・。
というような状況なので、
これまではSSDの大容量化を期待して、2012年段階の
内部アクセス可能な機種に留めておいて、
それで内部のストレージだけを大容量化させる外科手術を繰り返してきた。
Appleでもそのあたりは承知のようで、
2012年製造タイプは、数年間Appleからも購入できるようになっていた。
ところがSSDの大容量化はさっぱり進展せずじまい。
で、こちらのほうの機械の更新は待ったなしになって来た。
まだいまのところは、写真のようにスタッフの更新用に2−3台、
2012年段階のMacbookPro13を用意してあるのですが、
今回はついに256GBタイプのMacBookAirを購入して
実験的に更新させることにした。
まぁこれまでも、数台はMacBookAirを導入しているけれど、
本格的な機種更新としては、はじめて取り組んでみた次第。
512GBのHDタイプから、256GBSSDストレージの機種への移行更新。
すでに350GB程度のデータ量になっているので、
大きい家から小さい家への引っ越し作業ということになります。
現状は、Appleの電話サポートを三回受けながら
移行作業を行っていますが、困難はさまざまに出来してきます(泣)。
結論から言うと、やはり一貫してデータは大きくなっているのに、
小さな容量に収めるという作業は、なかなかに困難が伴うということ。
クラウドにデータを持って行くというのはセキュリティも含めて難しいし、
外付けストレージを常時接続させるような環境が現実的選択になる。
それとOSや環境構成のデータ類の「取捨選択」をしなければなりませんが、
これは一般ユーザーには難しすぎる。
現に当社ではこの1台のMacのために3回Appleのサポートを受けて
なおそれでも不完全な状態になっている。
・・・Windowsに移行しようか、とマジで検討しております。
Posted on 8月 18th, 2018 by 三木 奎吾
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わたしが生きてきたこの60数年でも、食卓文化は大きく変わった。
わたしが少年期を過ごした住宅では、この写真のような
「ちゃぶ台」が食卓であり、家族がこの丸いテーブルを畳敷きの居間に
その時間になると脚を立てて広げていた。
普段は部屋の隅などに立てて仕舞い込まれていた。
わが家は父母子ども8人家族だったので、めったに全員いっしょという食事はなく、
たいていは数人で食べていたように記憶している。
食器も各人ごとのメシ茶碗、汁椀、おかず皿のほかに、供用の大皿に
たとえば漬け物などが盛られていた。
自分の食事が終わったら、おおむねそれらの食器を台所の洗い場に持参した。
食事後もその居間にいて、他の家族と一緒に団欒の時間を過ごしていた。
ちゃぶ台は記憶だけれど、たぶん1.2m直径くらいのもの。
4−5人くらいは座れる程度の大きさで、8人家族では2−3交代で
毎食事を食べていた。
ちゃぶ台、という食卓文化から、やがて常時据え付けの
ダイニングテーブルというスタイルに変わったのは、いつころなのか、
わが家の場合には、わたしが高校生になったころに札幌市内中心部から
約3kmほど離れた札幌中央市場近くに移転したけれど、
その新築の住宅で、専用の「食堂」室が造作され、
長方形型のテーブルに変わった。
常時設置されていたので、テーブルにはビニール製のクロスを掛けた。
このダイニングはキッチンと同室で、母親が背中を向けながら
こどもと会話しながら食事を作って配膳してくれた。
食事メニュー構成、食べ方などは従前を踏襲していた。
こういった変遷はしかし、まことに時代的だったのだとやがて知るようになった。
食卓の変遷は時代をそのまま表していた。畳の床で比較的大家族、
そういう環境での融通無碍な食卓空間装置。
ちゃぶ台という食卓文化は、明治末から昭和後半くらいまでの
ごく一時期、日本人がひろく馴染んだ形式だったそうです。
食事を畳の床に座って食べる時代の最後期に、このちゃぶ台があり、
その後は床がフローリング張りの木の床になって、常置型のダイニングテーブルに
その座を譲ったということ。
また、明治末以前までは、各個人ごとに膳に食器・食事を盛って
畳の上に座って、家の人間ごとに座る場所が決まった位置で食事するのが
一般的な形式だったようです。
家父長制的な家庭秩序優先の食事風景だった。
広島県福山市近郊から明治末に移住してきた家だったので、わが家には、
この「据え膳」セットが多数あったことを記憶している。
先日の愛別の古民家改装店舗・粋人館で、
2階座敷にこのちゃぶ台が置かれてあった。
やはりちゃぶ台にはなんともいえない空気感があって、タイムスリップする。
このちゃぶ台はケヤキ製で、かなり高級そう。
とはいえ、サイズは直径80cmくらいの感じで、少人数の家族、
3枚目の写真の昭和中期の原節子さん主演の映画にも出てくるような使われ方。
この時代の都市での新婚夫婦のくらしが垣間見える。
このケヤキのちゃぶ台、木目がなんとも魅惑的で
収集したオーナーさんの説明では、ケヤキの根の部分をタテに切っている、
というようだという。
ニッポン人の住環境意識の基底でこういう体験記憶は強いだろうと思います。
Posted on 8月 17th, 2018 by 三木 奎吾
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きのうの産経新聞WEBを見ていて興味を惹かれた記事。
【正論・戦後73年に思う】と題されたコラムで、作家の堺屋太一氏が寄稿。
氏は、日本の小説家・作家、評論家、元通産官僚、経済企画庁長官、元内閣特別顧問。
内閣官房参与。様々な博覧会のプロデューサーとしても活動している。
「団塊の世代」というネーミングや、大阪万博のプロデュースなどで知られる。
民間から経済企画庁長官に就任されたとき、平成12年6月には氏の本名、
池口小太郎名で、NPO住宅110番という法人の設立認可をわたしは受けた経緯がある。
氏の著作はいろいろ読んできて、その独特の社会透視的な慧眼に膝を打たされてきた。
相当の高齢(現在83才)ということで、もう引退されたと思っていたら、
久しぶりに発言されたということで、熟読させていただいた。
そういう日本社会への予言者的スタンスから出てきたフレーズが「低欲社会化」。
う〜むと、ふたたび三度、膝を大きく打たされた次第。以下要旨引用。
〜低金利の金あまり社会を提示しても、消費に動く人も少ないし、起業に走る者も少ない。
この国の人々の願いは、大企業の正社員になって安定した収入を定年まで得るか、
せいぜい息子に医師免許を取らせて勤務医として働き続けるようにするかが希望だ。
事業を起こして財を成し、他人を使う身になろうと希望する者はごく少ない。
それは恐らく、この国では起業者や多額納税者に対する尊敬が、
きわめて限られているためでもあろう。
資本主義の社会では、業を興して財を成した人々を尊敬もし、崇拝もする。
だからこそ、あえて困難と危険を冒しても起業する者が出る。
そして、そんな起業家のおかげで世の中が進歩し、豊かになる。
ところが現在の日本では、起業成功者を尊敬しないし、優遇もしない。
これでは危険を冒して起業に走る者が少なくなるのも当然だ。〜
・・・そういうことか、と強く腑に落ちるくだり。
若い世代のひとたちと接すると、こういったメンタリティが強く垣間見える。
〜要するにこの国は、奇妙な人間関係の谷間で、資本主義体制になり切れなかったようだ。
それがこの国の短期志向となり、官僚主導を産んだ。
「社会の重し」ともいうべき「代々の有産階級」を欠く日本の構造的な失敗である。〜
財閥解体というGHQの施政残滓はいまもこの国を強く規定して、
世界に稀有な高相続税社会を作り出して、長期の視野と思考を持って
日本民族社会全体をじっくりと考える有産有識の士が生まれてこなかったとされる。
〜かつてイギリスの首相を長期間務めたマーガレット・サッチャー氏はいった。
「金持ちを貧乏にしても、貧乏な人が豊かになるわけではありません。それにもかかわらず
金持ちを貧乏にしたがる人がいるのは嫉妬です。嫉妬は人類最大の劣情です。
劣情に基づく政治は悪い政治です。私たちは嫉妬の政治から逃れねばなりません」〜
まさにいま、既成の新聞メディアやテレビなどが狂奔しているのはこの言葉通りだと思う。
それにしても「低欲社会化」とは、よくぞ言い得ていると思わされる。
さてこの社会の中で、どのように「よりよい」ものを生み出していくか、
大きなテーマを突きつけられたような気がしています。
いつまで掲載されているかはわかりませんが、産経WEBでの記事はこちら。
Posted on 8月 16th, 2018 by 三木 奎吾
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きのうからの続きです。
茶室や日本庭園という文化は、資産を蓄えた人々には
その富を飾るものとして、アクセサリー的に欲しがるものだろうと思います。
北海道で開発型の成功を収めた人々にとって、
その成功は、こうした文化を深く極めた自分であるから可能だった、
というように見られたいと思うのはごくわかりやすい心理だと思います。
歴史はいつも、権力を握ったものが「なぜ自分に権力があるか」について
多くの人間に納得させることを希求するようになるとされる。
建築文化というのは、たぶんそういった欲求が根本のところにあると思わざるを得ない。
多くの人が物理的に見える建築がそういう目的に利用されたのでしょう。
折からの米騒動などの社会的混乱期、新開地である北海道上川盆地は
「上川百万石」ともてはやされるような状況だった。
資本主義発展期の日本では、肉体労働のエネルギー源としてコメの需要が高まり
この地域でのコメ集散機能を果たしていた、いまの農協のような独占事業が
個人事業であった時代、その富の集積はハンパなかっただろう。
しかし、世界に冠たる「相続税大国」ニッポンでは、
そういう富の集積は開発独裁型で発達してきた国家官僚機構から
容赦なく収奪されて行かざるを得なかった。
この旧上西家、現粋人館茶室は、なんとか所有を長らえてきて今日に至った。
その茶室文化痕跡であります。
この粋人館では、新築した蕎麦割烹の新館、邸宅をリノベした本館までは
すばらしく再建築された。また日本庭園の方はていねいに保存されてきた。
しかし、想像ですが再建築の設計を依頼された方も、この茶室について、
どうすべきか、むずかしい判断だったのではないかと思います。
茶室文化は温暖気候の本州蒸暑地域で発生した文化現象。
簡素という日本文化精神をそのまま建築表現する。
「正直でおごらぬさまをわびという」ことなので、建築としても
きわめて簡素で素材そのままであることが、真髄というような精神性を持っている。
そのような作りようの茶室が、そのまま冬期−30°夏期+30°という
さらに積雪数メートルという外気候条件のなかでどうなるかは、
推して知るべしだと思います。
夏期のごく一時期だけ、束の間の「日本情緒」として風雅を楽しむしか
存在としてはありえなかった。それでも素材の風化・劣化は避けられない。
この日本庭園に向かって大きく開口させた茶室は、
本格的日本建築文化を移植した京都の大工たちによって建築された。
しかし、各部で構造材の劣化は目にも明らかになっている。
そのままの「わびさび」としてカタチを残すべきなのか、
あらたに高断熱高気密仕様で新設すべきなのか、
作り手のみなさんは、大いに悩まれただろうと推測します。
利休さんの時代精神を教えていただいた安藤邦廣先生の茶室眼からすれば、
高断熱高気密での茶室文化というのもアリだろうと思われるのですが、
そういった挑戦は、本流茶室文化からは大きく離脱することにはなる。
たとえば断熱材素地あらわしの壁とか、通気層をどうデザイン表現するかなど、
「簡素」と「高断熱高気密」とは、オモシロいマッチングを生み出す可能性がある。
わたしなど、北のブリザード吹きすさぶなかで、茶道文化がどう発展すべきか、
花鳥風月マインドの北方圏的ビッグバン、折り込む四季変化の拡大と、
その気候条件をも大きく包み込むような文化発展を期待しているのですが、
このポイントでは、残念ながら大きな革新は聞くことがありません。
Posted on 8月 15th, 2018 by 三木 奎吾
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きのうからの続きです。
茶室や日本庭園という文化は、資産を蓄えた人々には
その富を飾るものとして、アクセサリー的に欲しがるものだろうと思います。
北海道で開発型の成功を収めた人々にとって、
その成功は「こうした高級文化を深く極めた自分であるから」可能だった、
というように見られたいと思うのは、ごく自然だろうと思います。
歴史はいつも、権力を握ったものが「なぜ自分に権力があるか」について
多くの人間に納得させることを希求するようになるとされる。
建築文化というのは、たぶんそういった欲求が根本のところにあると思わざるを得ない。
多くの人に物理的に見える建築がそういう目的に利用されたのでしょう。
折からの米騒動などの社会的混乱期、新開地である北海道上川盆地は
「上川百万石」ともてはやされるような状況だった。
資本主義発展期の日本では、肉体労働のエネルギー源としてコメの需要が高まり
この地域でのコメ集散機能を果たしていた、いまの農協のような独占事業が
個人事業であった時代、その富の集積はハンパなかっただろう。
しかし、世界に冠たる「相続税大国」ニッポンでは、
そういう富の集積は開発独裁型で発達してきた国家官僚機構から
容赦なく収奪されて行かざるを得なかった。
この旧上西家は、それでもなんとか所有を長らえてきて今日に至った。
その茶室文化痕跡であります。
この粋人館では、新築した蕎麦割烹の新館、邸宅をリノベした本館までは
すばらしく再建築された。また日本庭園の方はていねいに保存されてきた。
しかし、想像ですが再建築の設計を依頼された方も、この茶室について、
どうすべきか、むずかしい判断だったのではないかと思います。
茶室文化は温暖気候の本州蒸暑地域で発生した文化現象。
簡素という日本文化精神をそのまま建築表現する。
「正直でおごらぬさまをわびという」ことなので、建築としても
きわめて簡素で素材そのままであることが真髄という精神性を持っている。
そのような作りようの茶室が、そのまま冬期−30°夏期+30°という
さらに積雪数メートルという北海道上川の外気候条件のなかでどうなるかは、
推して知るべしだと思います。
夏期のごく一時期だけ、束の間の「日本情緒」として風雅を楽しむしか
存在としてはありえなかった。それでも素材の風化・劣化は避けられない。
この日本庭園に向かって大きく開口させた茶室は、
本格的日本建築文化を移植した京都の大工たちによって建築された。
しかし、各部で構造材の劣化は目にも明らかになっている。
そのままの朽ちゆく「わびさび」としてカタチだけ残すのか、
あらたに高断熱高気密仕様でリノベすべきなのか、
作り手のみなさんは、大いに悩まれただろうと推測します。
利休さんの時代精神を教えていただいた安藤邦廣先生の茶室眼からすれば、
高断熱高気密での茶室文化というのもアリだろうと思われるのですが、
そういった挑戦は、本流茶室文化からは大きく離脱することになる。
たとえば断熱材素地あらわしの真壁、通気層剥き出しの外皮などと、
いわゆる「伝統・様式化」からははるかに外道になる。
わたしなど、北のブリザード吹きすさぶ様すらも楽しむ日本茶道文化、
その気候条件をも大きく包み込むような文化発展を期待しているのですが、
このポイントでは、残念ですが大きな革新は聞くことがありません。
Posted on 8月 15th, 2018 by 三木 奎吾
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北海道では開拓がある程度進んだ時期、各地で経済的に成功した
人士たちによって、豪邸が営まれたようです。
この愛別でも、米穀雑貨、味噌麹製造業で財を成した「上西」さんが、
現在「粋人館」として生まれ変わったお屋敷を大正11年・1922年に建てた。
ちなみに愛別町の人口は当時がおおむね6,000人で現在は3,000人弱。
北海道全域では人口250万前後から現在は550万前後。
右肩上がりに人口が増えていく時代で、札幌集中のような傾向はなく、
いわば拡散的に日本の総人口も右肩上がりだと思われていた時代。
生めや増やせや、というような「国民国家」成長の時代だったのでしょう。
上川百万石というような言葉が人口に膾炙された。
折から1918年には「米騒動」という全国的な騒擾が歴史的に確認できる。
〜肉や魚などの摂取が少なかった当時、
日本人の食生活は穀物類が主体だった。特に肉体労働者は
激務のため1日に1升(1.8リットル)もの米を消費したといい、
米価の高騰は家計を圧迫し人々の生活を困窮させていた。 〜
というような記述がWikipediaに確認できる。
北海道はとくに開拓の余地がまだまだあり、基本食料としてのコメを
主要扱い商品とした上西さんは、現代の農協のような役割を果たしながら、
経済的富を集中的に実現しただろうことが容易に推測されます。
北海道に残る「古民家」では、こういった成功者の住宅事例が多い。
北海道西海岸や函館地方では、漁業による収奪型経済成功者が
たくさんの「豪邸」を建てている事実がある。
内陸、上川盆地の愛別では、こういった成功の形があったのでしょうね。
今回のこの建築再生事例については、
まだきちんと「取材」出来ているわけではありませんが、非常に興味深く、
写真撮影などの基礎的な記録はいくつか収めてきた。
断片的な口述情報をふまえて気付いたことを何回か書き残したい。
写真は、この上西邸の旧宅部分の様子です。
玄関はやや角度が振られて造作されていた。
この「間取り」が原設計通りであるかどうかは未確認です。
今回のリノベ工事では、未確認ですが店舗の方は永田正彦さんという
京都の設計者が関わっているようにパンフに表記されています。
写真左手には木骨レンガ造とおぼしき「蔵」があって、どうも構造としては
やや分離的な建て方をしているようです。
2枚目の写真はその蔵の内部の様子。白くペイントされて
展示室的な使用を考慮した空間に仕上げられています。
きのうご紹介した2階の座敷2室を持つ開放的な和風建築空間と
階段を挟んで、この煉瓦蔵が混構造のように連結されています。
この煉瓦蔵と玄関ホール・廊下を介して対面側には
洋間がしつらえられている。出窓風の造作原型から想像してみると、
廊下を挟んだ反対側の和風建築とは対照的な洋風の意図がうかがえる。
開口部に対して壁の面積が大きく、大壁デザインが意識されている。
一方の和風空間の方は、丹精された庭に対して縁側を介して開放的。
ひとつの建築の中でこの両方のデザインを両立させている。
この時代の旧家で特徴的な和洋折衷的内装デザインだと思います。
多くの庶民が田舎では茅葺き、都市では木造賃貸の長屋住まいであった時代、
「見たこともない豪邸」として、わかりやすい「成功者の邸宅」だったのでしょう。
こうした建築が街の駅前に存在し、富でもって睥睨するかのようだった。
建築が権力とか経済とかと短距離的に結びついて存在していたことが知れる。
そうした残照がはるかに香り立つかのようで、興味を強く掻き立てられます。
〜この項、明日以降にも続きます。
Posted on 8月 14th, 2018 by 三木 奎吾
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