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【皇居という特異な日本の「文化資産」】

写真は大嘗祭の皇居・竹橋から見たお濠。
江戸という街は人工的に作られた都市。
マザーになった集落というのは、太田道灌という武家が
その前身を形作ったと言われているけれど、徳川家康が入地して
関東全域の支配を固めるために都市経営をはじめた。
小田原という関東でもいちばん東海地域に近い軍事上の要害地では
全関東の中心地としては西に偏りすぎているし、
その後の「経済発展」のためには水運の豊かさが必須だった。
といった秀吉政権からのアドバイスがあったとされる。
俗に言う、小田原戦陣での秀吉と家康の逸話が有名ですね。
こういった中核都市建設については最新の事例は札幌。
日本史は奈良の都市造りから京都や大阪、江戸を経て
はるかに新開地北海道・札幌の創造へと至っているのだと思います。
いちばん新しい大都市開発で札幌には情報痕跡が多い。
日本社会はどう都市建設するか、その証拠が札幌には身近に存在する。
またそういう大都市造営の直近の先例・首都東京にはヒントが山ほどある。
そのなかでもとくに皇居の占める文化的位置関係が特徴的。

江戸・東京の場合、中心施設が明瞭。
現在の皇居、最初は徳川将軍の本拠地がすべての起点になる。
最初は大土木工事が行われ、巨大なお濠を持つ巨大城郭が誕生した。
その巨大なイレモノにまるで真空のようにいま、自然が回帰する。
いったんの大土木工事を経て成立した大都市の街区のなかに、
広大な緑の領域が広がっている。
世界の宮殿建築空間の中で、面積的には最大に近いのではないか。
自然崇拝型の最古級古代権力として存続している
日本の皇室という存在は世界で稀有な「文化資産」だと再確認できる。
土木工事の末の「回帰する自然」を日本は「崇拝」しているともいえる。
憲法第1条には天皇の条項があるけれど、
「統合の象徴」ということの意味合いは深まっていると思う。
世界標準からすればきわめて異様な存在ではあるけれど、
現代世界では特徴的な文化資産という側面が非常に強まってきている。
とくに分裂と対立が強調されるようなIT文明下では、
こうした「国民統合」神話を意図的に継続する国家意志というのは
現代で陳腐化するよりもむしろ価値を高めているといえる。
敗戦期にこの資産を守り抜こうとした先人たちの思いが伝わってくる。
世界の中で、この真空な文化資産がどう推移していくのか、
非常にユニークな試みをニッポンは行っているのだと思う。

【「名所旧跡」に見る日本人的感受性】

写真は竹橋の東京国立近代美術館展示の「河瀬巴水・東海道風景集」から、
三保の松原と厳島神社の版画です。
どうもわたしは日本の近現代の美術には関心が薄い。
油絵やモダンアート然とした作品群にはどうも拒否反応する。
っていうことをきのうも書いたのですが、展示にはそういうのが多くて
やや困惑していたところに、この画集展示があった。
この作品群は「東海道53次」的な下敷きで昭和7年に出版された作品。
いったいなにが描かれているか、素人的にはすぐ了解しにくい
難解なモダンアート作品群のなかにわかりやすい構図・絵柄が展開。
受け止め側では非常にわかりやすく感情移入しやすかった。
・・・で、ふと日本人はなぜ「三保の松原とか厳島神社」に代表される
「名所」という感覚を共有し続けてきたのかに思いが至った。
いうまでもなくこれらは「観光地」となっていまも惹き付け続けている。
この河瀬巴水さんもモダニズムという洗礼を受けた日本人で
そのうえでこういう「キッチュな」名所を再検索している。
油絵とか写真、モダンアートとかの「表現」が選択可能であるなかで、
むしろ伝統的な版画表現を使ってなお、名所を美的に再探究している。
たぶん作家の内面での興味は「なぜ日本人はこういうのが数寄なのか」
だったのではないかと伝わってくる。
三保の松原というのはどう日本人の「デザインコード」を刺激するのか。
平清盛の時代、厳島を造形した日本人の美の感覚とは?
そういうニッポン的なDNA感覚を突き詰める意志を感じた。
どうも、難解なモダンアートの薄っぺらさに比べて
こっちの方がはるかに根底的な探究のように思えてならない・・・。

昨日は「高輪ゲートウェイ駅」工事にぶつかって
東京都内で山手線内に入るのに大汗を掻いておりました。
土曜日なのに久しぶりに「ギュー詰め」電車移動を再体験。
夕方、札幌帰還したらこっちは静かな雪。
「ことしも冬か・・・」であります。

【日本画・宮廻正明「水花火」】

東京に来ると時間を見て山種美術館は必ず鑑賞する。
今回展示は「東山魁夷の青・奥田元宋の赤ー色で読み解く日本画ー」
いつのころからか、西洋絵画よりも日本画に強く惹かれるようになって
日本画の最大コレクション、山種美術館に吸引されている。
どうもこういった「伝統系」の方にどんどん惹かれていくのか、
建築でも伝統工法の技術伝承などにも親近感を持つようになる。
結局、日本という国は島国であり、海洋国家なのでしょう。
大陸国家というのはとにかく原理性に帰依してそれに非妥協的に固執する。
海洋国家はそういったものを柔軟に受け止めるけれど、
やがては咀嚼して独特に「国風化」させてしまう。
近現代で言えば、明治維新以降旺盛に西洋文明を受容してきて
世界がひとつの価値感に統合されてきたことの
ひとつのきっかけも作ったのだと思われる。
最近の歴史家のみなさんの話題展開を聞いていると、
西洋文明が汎世界性を持ったのには、日本の選択が大きかったと。
東アジアは西洋世界とはまた違った価値観である統合を見せていたけれど、
その因習の限界を真っ先に打破して西洋を受容した。
その結果、漢字やことばまで大きく改変して同化を進めた。
そのことで中国や朝鮮が西洋の作った「汎世界」に参加できる
地ならしもしたのだと思う。
しかし、日本は伝統的に旺盛に文化・文明を受容するけれど、
やがて「国風化」も揺り戻しで必ず起こってきた。
そんななかで日本画に惹かれてきている。
一部の「印象派」をのぞいた西洋絵画は言うに及ばず、
一部を除いた現代芸術などにはほぼ興味を持ちにくい。
その上、表現の不自由だなどと言うに及んでは単なるプロパガンダ。
そういう騒々しさは見たくない、もう勘弁して欲しい。

おっと、まったく論旨が外れてきた(笑)。
きのう鑑賞していて、この作品に驚かされた。
美術館のTwitterでは以下のような紹介。
「宮廻正明《水花火(螺)》(山種美術館)。画家自身によれば、
水衣という能装束に使われた絹を張り込み、
その上から細かい網目を描いた作品。水の表現には、
白群青(顔料)と藍色(染料)を幾重にも点で塗り重ねたそうですよ。」
とのことですが、
このテーマモチーフの漁業の一瞬を切り取る感性に
まったく圧倒されてしまった。
作家は東京藝術大学 大学院美術研究科 文化財保存学専攻教授とのこと。
これは「水花火」というタイトルをみれば「自然」描写でしょう。
目に見える対象に対して、それをどう受け止めるかは
人間それぞれでまったく違うということに強く気付かされる。
この作者はこの一瞬の刹那を切り取って絹のキャンパスに叩き付けた。
その叩き付け方がいかにも丹念な「日本」スタイル。
あくまでも細部、ディテールにこだわって細密に仕上げていく。
そういう結果としての仕上がりでは、
まず、その構図の斬新さに驚かされる。
四角いキャンパスに丸がくっきりと叩き付けられている。
背景画として人物と船の造形が夢幻的に描かれている。
「白群青(顔料)と藍色(染料)を幾重にも点」で描くことで、
画面全体に透明感ももたらせてくれている。

ときどき、こういうハッとさせられる絵と向き合うことがある。
ものすごくうれしくなる。

【 伝統工法「込み栓・貫」と高断熱高気密】

写真は先日下取材してきた北海道足寄町の木組みの家。
木組みの家は先日の「エコハウスコンテスト」by建築知識ビルダーズさんで
「漢方の本陣」というユニークなネーミングの家がリフォーム部門で
「大賞」を受賞されていました。
設計者の松井郁夫さんや断熱の管理の夏見さんなどが活躍された。
北海道の高断熱高気密派はこういった伝統工法の「対極」というように
見られる方がいるようですが、
むしろ工業化住宅、画一化住宅との関係で対極という意味合いで
共通する部分の方が大きいと思っています。
また、どちらも細部での施工が命という部分があって
親和性がむしろあるのではとないだろうかと。
伝統工法は写真のような「貫」とか「込み栓」のようなディテールから
非常にきめ細かな手順と段取りが要求される。
高断熱高気密でも、気密層の連続や断熱部位の処理方法など、
こちらも「施工」のきめ細かさがポイントといえる。
写真で見る貫などは、構造の柱梁の主体部分と同時に一気に組み上げる
必要があるので、工程管理では段取りが非常に重要になる。
それに気密層の連続、断熱欠損への配慮が加わることになる。
その両方をやらなきゃならないのは大変だ、という考えもありますが、
作り手のメンタルとしては共通性はあるだろうと思います。
こちらの現場では基本の木組みでは、プレカット工場などに発注し、
手刻みのような複雑な工程のショートカットにも努力したとされていた。
込み栓などの「調整装置」は、それを建て主が見続け、
維持管理の重要性を気にかけ続ける、という効果もあるだろうと思います。
こんな風に見えていれば、ちょっとさわってもみたくなる(笑)。

どうもこれからの住宅って2極化するのではないかと思います。
ひとつは合理化が究極的に進んで施工手間簡略化の方向になるもの。
こちらが一般的な志向になることはわかりやすい。
しかしこの方向では中小零細企業である地域工務店は
その「独自性」を発揮できるのか、不明なところがある。
合理性の土俵ではたぶん大企業型工場生産型に有利。
一方で手作りのぬくもりのようなものを求めるユーザーも残るだろう。
手作り、一品生産型の職人仕事が地域で希少価値を持つ可能性がある。
ただしユーザーは前者と後者の違いがよく見えないだろう。
そういったときに、いかにも手作り感が「見える化」した
こういった伝統工法+高断熱高気密が力を持つ可能性があるだろうと。

さてきのうから東京に来ておりますが、
留守を狙ってか、北海道は本格的に雪模様の天気に変わったとか。
汗ばむほどの11月中旬の東京。半袖の人も多い・・・。

【気候変動本格化 省エネ基準 「地域区分」見直し】


きのうは北海道庁の「北方型住宅」検討会議に出席。
この「諮問会議」座長はいま道総研理事の鈴木大隆さん。
会議ではこれまでの論議に踏まえて北海道としての
地域ブランド住宅として「北方型住宅2020」の創設が決まりました。
これはこれまでの「北方型住宅」「北方型eco」「北海道R住宅」などの
制度設計の流れを引き継ぐもので、住宅政策で日本全国をリードしてきた
北海道地域として、官民挙げて新時代の住宅施策を示すもの。
このあと年度中に再度整理整頓の会議が開かれて、
新年度から施策実施されていくカタチになります。
このブログでは「北海道住宅始原期への旅」をテーマ展開していますが、
地域としての北海道が歴史的に150年間取り組んできた
「よき住宅」のあり方について未来に向かってその方向性を
ふたたび明確に指し示すものといえるでしょう。
先人たちの住への思いを受け継ぎ、しっかり未来世代に手渡したい。

さて、そういう会議の中で鈴木大隆さんから「参考資料」として
表題とイラスト図のような資料が提示されていました。
これまでの「地域区分」を見直して今月から公布・施行されます。
この見直しと連動の「外皮基準の見直し」は2020.4月施行とされていました。
説明文は以下のようになっていました。
「最新の外気温データ(現行1981年〜1995年を1981年〜2010年に見直し)を
各地域の標高の影響を加味して補正した値に基づき、
地域区分の見直しを行う。その際、旧市町村区域に対して設定している現行
地域区分について、市町村の意見を踏まえた上で、現状の
市町村区域単位で地域区分を設定する。」とのこと。
これまでの1981年からの15年間データから30年間データに改める。
その結果「暖房度日」〜基準温度14度以下の日数〜が
図、左側の表のように整理されて、右側の日本の各市町村ごとに
置き換えて表現すると色づけされた地図のようになる。
その変化・推移をたとえば下の図の北海道単体で見てみると、
旧来の1−3地域という区分自体は変わらないけれど、
これまで7割程度が1地域だったものが、3割程度に変わった。
気候変動による「温暖化」が浮かび上がってくる。
しかしそうであっても、多数派になった2地域でも暖房は年間で
116日から150日程度必要な厳しい寒冷地であることは間違いがない。
さらにこうした温暖化は、また別の気候変動危機をもたらせている。
直近のオリンピックマラソンの会場変更もあったように、
温暖地域の蒸暑が危険な領域まで進行してきたことや、
その上気候変動が大規模災害、台風の巨大化などを引き起こしてきている。
対抗するための最大要素技術が「断熱気密」であることはもちろんですが、
その効果を最大化させる努力は待った無しで求められています。
安全安心の家づくりの探究はまさに、正念場といえるでしょう。

【阿部比羅夫に援軍依頼の北海道側の動機】

本日から住宅ネタに復帰としましたが、
書き進めていて気付いていたことがあるので、書き留めておきたい。
というのは、昨日まで数回にわたって書いた「阿部比羅夫」の
北方遠征に関連してのことです。
この遠征ではヤマト王権側の狙いは安定的な北方交易の確保だっただろうと
思います。日本書紀にわざわざ「生きたクマ2匹と毛皮70枚」と
その「交易品」が記されているのは、
こうした交易品が王権社会で珍重され「威信材」として
各地のヤマト政権への服従を誓う豪族に対して「下賜」される
その対象だったのではないかと推測されるのです。
この時代以降、奈良期の黄金発掘などもあって北方への関心が
非常に強くなるのは、こうした交易の魅力が深く浸透した証しだと思える。

一方で、阿部比羅夫は北海道現地の2つの勢力のうち、
続縄文の社会側と同盟関係になったことが見て取れる。
戦争後、王権の地方統括システムとしての「郡領」を「任命」した
事実もあるし、1000人もの「軍勢」が奥尻島攻撃に対して
後方兵站を担ったとされたりもすることから自然な理解でしょう。
既存の石狩低地帯以西の続縄文社会は、北東アジアからオホーツク海岸に
勢力拡大してきた「粛慎」オホーツク文化社会の脅威にさらされていた。
その脅威表現で「北方から大船で押し寄せる」と日本書紀に記述。
ということは、社会として大型海生動物・鯨などのハンティングに
高い能力を持っていたとされるオホーツク文化の人々は、
そうした優越的軍事行動力として、生業との関連で
「大型舟運」に先進的能力を持っていたことが推定される。
石狩低地帯以西の続縄文社会が持つ伝統的な舟運手段は
丸木舟程度だったので、彼我の機動力に大きな格差があった。
この軍事力の格差について、阿部比羅夫の日本王権社会に助けを求めた、
という流れがいちばんスッキリと腑に落ちるのだと思う。
瀬川拓郎さんの著述での解析で奥尻島で戦闘が行われ、
島に立てこもったオホーツク文化の人々を攻撃し陥落させた主戦力は、
王権側の「水軍力」だったのだろうと思われるのです。
ただし、兵力自体は王権社会の構成員だけではなく、
東北北部の「蝦夷」の人たちが担っていたとされる記述も見られる。

写真は明治初期の石狩川周辺での舟運の様子です。
オホーツク文化と近縁と思われる北東アジアの民族「ニヴフ」社会の
当時としては大型機動力としての前述の「大船」イラストと酷似する。
どうもこれが660年頃の阿部比羅夫遠征のキーポイントと思われてなりません。

【北海道&朝鮮 660年前後阿倍比羅夫の出撃】

北海道住宅始原の旅シリーズですが、本日はややスピンアウト。
一昨日は北海道江別古墳群の造営者たちとヤマト朝廷側との対粛慎
(異文化性の強いオホーツク文化人)の同盟関係推定に触れました。
6000年前の「古石狩湾」地形から気候変動、大地変動を経て
安定的地盤地域「江別半島」にこの時期「続縄文」の社会が存在した。
高校後輩の考古の碩学・瀬川拓郎さんの「アイヌの世界」での
「阿倍比羅夫は誰と戦ったか」条を下敷きにしてみた次第。
かれは、石狩低地帯以西の続縄文社会とヤマト政権が
共通の敵対勢力として粛慎を特定し「戦った」事跡を掘り起こしている。
瀬川さんの記述では奥尻島で阿倍比羅夫は大いに粛慎を撃破した。
そして北海道・続縄文とヤマト政権との連携・同盟関係を作り
安定的な「交易」基盤を作るために軍事活動したのだろうと。

阿倍比羅夫はこの時期執政の天智天皇の政治外交的ブレーンであり、
軍事指導者だったことは、直後663年対朝鮮の白村江参陣でもあきらか。
天智の中央政権はこうした対外的進出作戦に積極的だった。
この北方での軍事作戦の「成功」があって、
それがまた白村江軍事進出の「自信根拠」になった可能性も高い。
朝鮮では百済が、北海道の続縄文勢力と同列視できたのだろうか。
天智にして見れば北伐を終え意気揚々帰還の凱旋将軍・阿倍比羅夫が
「この将軍なら朝鮮の戦線でも勝てる」とも思えたのかもしれない。
阿倍比羅夫がどの程度の軍勢規模での「出征」を行ったか?
日本書紀記述では1000人規模の北海道「続縄文」側の参陣記録が書かれ
200艘の軍船を仕立てた東北蝦夷との同盟軍勢に触れている。
この時期の北海道の人口規模を考えれば、地域を揺るがすほどの
大戦争だったことが十分にうかがえる。
このような歴史事実から、日本中央社会での北海道の存在とは
外的安全保障対象地域と認識されていたと思える。
明治開国時に北海道開拓が対ロシアの北方安保国家戦略であったことと、
この阿倍比羅夫の北征記録が重なり、既視感をもって見えてくる。
明治のときにも北海道でのこの国家・軍事戦略が成功し
同時並行で征韓論が盛り上がった事実とが非常に既視感たっぷり。
たしかに地形的に日本のカタチをみれば、北と西が
対外的な興味対象であることは自然でもあるのでしょうか。

ということで、まことに「スピンアウト」版でした(笑)。
明日以降、また住宅ネタに復帰しますのでよろしく。

<写真は韓国の「河回村〜ハフェマウル」遠景>

【最北の「木組みの家」見学往復500km】

北海道は広い・・・。
「ちょっと行ってみるか」の「ちょっと」がハンパない。
でもやはり士族の移住が多かったせいか、建築の世界でも、
ちょっとオモシロいことをやってみたい、という人が多いとも思う。
わたしなどよりもはるかに若い世代の方から
「こんなオモシロい家を建てました」みたいな案内が来ることがある。
木組みの家という住宅運動があって、伝統木造の家づくりを
全国で盛り上げようと頑張っている。
主導者の松井郁夫さんとはやや驚愕の初対面でのやり取りがあって
「伝統派の人って断熱も気密もなんもやらないんでしょ」
と挑発した(と受け取られた)。そこまで強い言い方ではなかったのですが、
いまでは、松井さんは「北海道の三木からこう言われた」と枕詞だそう(笑)。
わたしなんかのメディア人間ではなく実践者である松井さんは
しかし、そこから高断熱高気密に真剣に取り組んで
伝統工法の革新に意欲的に邁進してこられた。
まことに畏敬すべき運動だと思っています。
そういう運動の「敵役」にしていただけているのであればそれは光栄でもある。

そういう「木組みの家」の伝統工法を北海道でつくろうという
志向を持った若い世代の作り手が現れて来ている。
道東の足寄の工務店経営者、木村建設・木村祥吾さんであります。
前記のような「流れ」があるので、見学する「義務」はある(笑)。
ご丁寧な「案内」もいただき昨日、夫婦共運転で足寄往復。
朝7時前に出て、途中日帰り温泉も入っての道中でしたので、
まぁ休日の「句読点」的な楽しみ方とも言えます。
取材のための基本調査みたいなことなので、詳細は今後に譲りますが、
写真は床の間見立ての居間の「塗り壁」壁面の様子。
こういった作り手のネットワークではこだわりのある職人気質も呼び起こす。
「その地域にある素材」にこだわって土を探したけれど、
どうしてもこの地域ではいい土に巡り会えなかった。
しかし施主さん生業の農家の古い土壁の土を見て、それを再活用した。
築後数十年は経っているその土は土壁に適した材を
本州地区からかわざわざ持ってきた塗り壁に最適の土のようだったのですね。
それを「発見して」今回の新築の象徴的な部位に使った。
よく伝統工法の家では、古い家の土壁を大事に扱って次世代に受け継がせる
そういった工法伝承がありますが、現代の北海道足寄で、
そういう心意気で仕事する職人気質が存続していたワケです。
さらに設計者のHOUSE&HOUSEの須貝日出海さんによると、
この左官仕事では、画面左側に色違いの部分があるのですが、
この部分は意図的な「ひびわれ」が意匠されているという。
写真でその様子がハッキリ伝わるかどうかですが、オモシロい表情。
で、その意図は左にある木製窓の外に農地が広がっていて
その土が「ひび割れている」ので、それをデザインとして活かした、
という説明だったのです。しかもその発案はその職人さんからのものと。
「おお」であります。数寄のものづくりマインドが立ち上る。

ということで休日の老夫婦の交互運転ドライブ500km。
ちょっと遠かったけれど(笑)オモシロい家を見学できた次第です。

【658年阿倍比羅夫遠征で江別古墳勢力と接触?】


さて北海道住宅始原の旅シリーズ・古代史続篇です。
いろいろなみなさんから情報のご支援などもいただけますので、
やる気倍増で、たいへんウレシク思っております。

やはり北海道住宅は、明治の開拓初期開始された本格的な移住促進、
そのプロセスで建てられた住宅が中心軸になります。
そうなのですが、しかしそれ以前の「前史」もまた、
6000年前の古地形の時代まで含め、奥行きと深さがあると思います。
そして7−9世紀にかけて造営された現地民の痕跡が江別地域に遺っている。
「江別古墳群」であります。
この時代、日本書紀に「阿倍比羅夫の遠征記録」がある(658-660年)。
阿倍比羅夫はその2年後663年には国際戦争・白村江の戦いにも参陣する。
この当時のヤマト政権中枢の国家意志を体現した存在であることは間違いない。
660年の条では「比羅夫は大河(石狩川あるいは後志利別川と考えられる)
のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる」という記述。
一方でこの江別古墳群の創始は7世紀・600年代とされる。
当時の航海技術として難所である積丹半島を回り込めたかどうか微妙だけれど、
この記述の「大河」が石狩川だとすれば、この江別古墳の造営者たちと
阿倍比羅夫が接触し対粛慎(オホーツク文化人と目される)同盟を結んだと、
日本書紀の記録、この条を読むことができる。
古墳なので有力者の死後造営されると考えれば、年代的にも符合する。
この江別古墳群は古地形を踏まえれば「江別半島突端部」であって
石狩川・古豊平川の合流地点の高台に立地する。
古地形としての古石狩湾にも照応する立地と言うことがいえるでしょう。
現代でもこの水系との段丘状の高低差は目視で10m以上はある。
古代においての交通路である河川水運には最高適地で、石狩川の河口までは
指呼の間と言うことができる。
阿倍比羅夫はこの北海道での活動の前には秋田能代や津軽で蝦夷勢力と
平和的外交も行っている記述がある。
一方、この江別古墳群の造営者はその古墳スタイルが
青森県東部・八戸周辺地域の古墳と酷似しているとされている。
古代の勢力分布として考えれば、北東北-北海道一帯に同系統の
勢力が存在し、かれらが阿倍比羅夫・ヤマト政権と協和したとも思える。

どうもこのあたり、日本の中央政権と北海道地域との
歴史的な最初の接触だったという推測を強く持っています。
日本中央国家社会との「交易」の開始も、この接触時に
「生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上」との658年日本書紀記録。
その後、日本中央国家社会は北方交易に強い興味を持ち始める。
北方からもたらされる毛皮やタカの羽根といった「威信材」などに、
深く魅了されて、東北地域への権力拡大を強く志向するようになる。
一方、北方には日本社会から鉄器などが旺盛に交易移出されたと推測。
<しかし実は最重要なものは日本の酒だっただろうけれど。>
その後、こうした日本からの物資を基礎的に受容したアイヌ文化が成立する。
アイヌ文化の住居チセは、鉄鍋を自在鉤で囲炉裏に下げる食文化に変化する。
そしてその「台所革命」の結果、古来の竪穴から平地住居に変わっていく。
この北方の住居革命は、鉄鍋の日本からの移入受容がもたらしたものではないかと。
このような日本と北海道の異文化接触の最初の対象として
この「江別古墳群」という文化勢力に強く興味を惹かれております。

【出張時のFacebookトラブル遭遇】

今週は東北に出張してきておりました。
本日は故あって函館で1泊してクルマごと本日帰還予定。
「三木さん、若いですね(笑)」と冷やかされながらであります。
そういうときに限って、WEB環境でトラブルが発生する。
ということで「北海道住宅始原の旅」シリーズは明日以降に順延。

きのう朝いつものように年寄りの「日課」、
ブログを書き上げてアップさせた。
わたしはWordpressというブログを書くソフトで書いておりまして
それがfacebookに「連携」する設定にしてあるのです。
年寄りながら、情報関連でやってきたのでなんとか、
今の時代の環境にも対応したいと考えている次第です。
でもまぁそこは詳細な知識とか、スタッフに保守して支えてもらっている。
で、書き上げてアップしたけれど、Facebook上に反映されない。
もう一度試してもダメ。
・・・ということで思い出したのが以前もこういうことがあったこと。
だいたい年に1回くらい発生している。
それはWordpress側で「連携機能」が勝手に切断されていたのです。
頻繁にバージョンアップグレードのアナウンスがされて
そういうのには従順な方なのですぐにアップするのですが、
たまにそのなかに不適合なものがあるようで、症状が出る。
で、その場合には「いったん接続設定を解除して、再度接続させる」
というパソコンの「再起動」のような動作をさせると復活する。
それで、今回もそうやって試してみた。
無言絶句。・・・ダメでした。
これはもうわたしには知識がないし、それときのう朝から多数の訪問を
こなしす予定だったので時間がない。
スタッフに朝1番の依頼で申し訳なかったけれどヘルプを発信して出掛けた。
で、昼頃にいったん出先でWEB接続したけれど、復活していない。
スタッフと連絡して現状の症状を伝え再度チェックを頼む。
移動の時間もあるのでわたしはタッチできないのです。
というようなWEB環境の1日を過ごしておりました。
受けるだけでなく発信する側の環境というのはやはりなかなかメンドイ。
で、青森からフェリーに乗船してようやくスタッフと応答が出来た。
結局は、Facebookの「法人向けページ」でだけ発生の不具合だという
原因特定がようやくできた次第です。
その旨Facebookには連絡したけれど、さてどうなるかは不明。
夕方7時過ぎに、ちょっとした「ウラ技」でアップは出来たけれど、
しかしサムネ画像は張り付かない(泣)という状況。
GAFAとか言われるWEBの基盤事業者たちでありますが、
やはり政府組織並みに環境を維持していくというのはどうなのか。
こういう「不具合」によるトラブル・損失について政府組織のようには
担保保全の「義務」がないと思います。

さて本日、復旧するのかしないのか、と思案投げ首状況であります。
う〜〜〜む。
おお、復活しているみたいです、やった!よく頑張ったFacebook。
<画像は大津波で流される人々の図。>