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B級グルメ 中華丼+あんかけ焼きそば

きのうは終日社内での会議でして、その資料作成とかに
1日追われておりました。
正月明けてから、一気に作業が押し寄せてきていたので
なかなか会議が出来なかったんですね。
で、来週は火曜日・函館、水曜日・札幌で会合、木曜日釧路と
あちこち飛び回ることになっております。
その木曜日の釧路では講演が予定されていまして、
企画は立てているのですが、
パワーポイントデータ作成になかなか着手できない。
ようやく時間が出来そうなのが、3連休という次第です。
今回のテーマはまたこれまでとはちょっと違う路線を考えているので
まったくの新規作成でと考えております。
そうすると缶詰めになってやるほうが効率がいい。
さてどうなるかなぁ、というところであります。

なんですが、本日は閑話休題。
人間食べなければ生きていけない。
だからといって食べ過ぎると太る。
でも、やっぱり誘惑に勝てない、っていうケースもある。
先日、とある食べ物屋さんに入って、メニューを差し出されて
発作的に、注文してしまったのがこれです。
あまりのコンセプトに、つい箸を付けてしまってから、
「あ、そうだ、ブログで・・・」と
不埒なことに考えが及ぶのは、ブログの悪い方の効果ですね(笑)。
しかし、このメニューには、ちょっと不意を突かれた次第。
わたし、中華系のあんかけ料理には目がない方です。
個人的にこういう好みの人間は、おおむね小太り、もしくはそれ以上になる、
っていうふうに思いこんでおりますが、まぁ大好きです。
こういう料理で、麺にすれば、「あんかけ焼きそば」
ご飯で食べれば「中華丼」っていうところ。
で、このメニューは両方一緒に食べたら、どうよ、
っていうコンセプト提案なんですね。
「いいじゃんそれ、アタリ」であります。

つい頼んでしまった。
値段は確か、900円くらい。
お昼の値段としてはやや、高いけれど、
まぁいっか、であります。
わたしは、こういうあんかけ系にはどばどばと酢をかけるのが好み。
こってりとした「あん」の罪滅ぼしに酢、という感覚なんですけど、
果たして意味はあるのかどうか。
食感は、まぁまぁっていうところでした。
というより、やはり量はたっぷり感に満ちている(笑)。
こころもち、腹をさすらざるを得ませんでしたね。

室蘭工業大学へ

きのうは往復4時間、打合せ2時間超、ということで
室蘭へ行って参りました。
わたし自身ははじめて伺った次第です。
ご存知の鎌田紀彦教授と、ことしの案件打合せであります。

段々とこういう学問の現場との関係が深まって参ります。
自分自身は、文系の大学出身なので
一度卒業してしまえば、大学ってまったく関係のない世界なのですが、
建築とか工学などでは
常に最新の研究状況とか、知見が現場で必要とされるのでしょうね。
わたし自身は、社会に出てから選び取った領域から
住宅系の知識を知る必要性が出てくる。
そういう意味では、自分自身の知らない世界が
こんなにも広い世界があるのだなぁと思い知らされます。
まぁ、仕事に関連することばかりでなく、趣味世界でも
「研究者」というひとたちの文章を読む機会がすごく増えてきた。
歴史研究者とか考古学の世界のみなさん。
で、そうすると「学問的態度」とでも言える部分に感動するモノですね。
丹念に問題に向き合い、それを解決しようとする姿勢のようなもの。
足下を固めながら、新たな問題領域に踏み込んでいって
未踏の地をめざすような、そういった雰囲気を肌で感じる。
大学では、そこに現代風の若者たちが、たっぷりの若さを無邪気に見せてくれる。
ほほえましい人間模様もあって、渾然一体で大学という雰囲気を構成している。

大学に行っていた、とはいっても
ほとんど教授の顔も知らず、ゼミも参加せず、
まっすぐ趣味系クラブの部室に直行していたような
軟派な学生生活だった自分が、
この歳になって、いまさらながら、いろいろな大学に顔を出して
日本を代表するような達識のみなさんにお話を伺うと言うことも
考えてみるとずいぶん、不思議な話だなぁと
内心、おかしさも覚えながらあちこち顔を出しております。
やっぱり勉強はすごいなぁ、と目を見張る思い。
でも、やっぱり、サインコサインって、
いまだにそれを使って考えたことには巡り会えない(笑)。
む、待てよ、こういう工学部の先生なんかは、
きっとそういう高等数学の概念を使って考えたりしているのでしょうね。
う〜〜〜む、すごそう。

政策論議をどう起こすか

きのう書いたことにコメントをいただいた。
で、そのコメント要旨は、現状の国会の様子を揶揄するものでした。
わたしとしては、システム的な問題ではないかと思っていて
そのように書いたつもりだったのですが、
どうもそうは受け取られなかったようです。
なので、ちょっとその辺をもう少し書いてみようかと。

現状の国会の問題と受け取られましたが、
それは本意ではありません。現に優秀な議員さんたちは多いと思うのです。
現状の国会では予算委員会というのが最重要となっているけれど、
それよりも「国家戦略委員会」みたいなモノを作って
予算はそこでの論議に従属する、というような議会の仕組みにすべきだ。
まずなにを「政治的に行うべきか」をしっかり論議してこそ
予算配分と言うことを、はじめて判断できるのではないか。
現状では、すべての省庁のシステマチックな「要求」があって
総花的にまとめられた「予算案」を論議することになっている。
そうではなく、なにが現状のなかで核心的に重要なことなのか、
そういうことを国権の最高機関として「判断基準」を論議すべきではないのか?
この国をどういう方向に持っていくのか、という論議を国民にわかりやすいように見せる、理解できるように国会を改革すべきだ。

次いで、スキャンダルについては論議を禁止したほうがいいと思う。
そういうのは、司法にゆだねられたら、あとは司法にまかせるということでいい。
まぁ、その司法制度自体おかしいと思うけれど・・・。
クリントンがスキャンダルにまみれたけれど、
別に国政にはなんの問題もないと、職を続けることには民意が支持していた。
小沢一郎の問題にしても、あんなことはどうでもいいと思う。
それよりも力のある政治を求めるべきなのだ。
役に立たない清廉潔白なだけ、など、あんまり意味はない。
わたしたちは政治的な力量をこそ政治家に望んでいるのであって、
お金に綺麗だなどということはどうでもいい。
要は未来に対する先見力と、それを実現するパワーこそが政治の要諦だと思うのです。
あまりにも政治陰謀の道具としてスキャンダル合戦が多すぎて、
本来の政治の機能が果たせていないと思う。
貴重な国費をかけて論議するような事柄ではないと思う。

また3番目、今日の世界では経済運営が重要なのだから、
どのようにすれば経済運営がうまくいくか、
識者を国会に招致して、大いに議員が活発に質問し、
それをもとに国家経済運営を考えていくべきなのだ。
こういう論議には党議拘束などはずして、自由に論議しあえる論争の場にすべきだ。
たとえ、結論を得なくとも、そのように中身のある論戦があれば、
国民世論は常識に沿ってくるものと思う。
省CO2論議や、その方法論などは、
まさにこうした議論にピッタリだと思うのです。
世界の流れを見たら、ヨーロッパは建築駆体についての基準を強化する方向であり、
そのために、開口部の仕様などをきわめて高度に設定する方向。
それに対して日本は、論議を経ることなく、
官学共同体が、ヒートポンプや太陽光など、
一部部材の性能向上に力点を置くようになってきている。
こうした動きについて、国会がきちんと論議して欲しいのです。
マスコミも、こういう本格的な、産業構造も国民生活も深く関わる問題に
もっとコミットして欲しい。

っていうような意見を持っております。

日本の住宅政策の没論議

写真は、先日の南雄三さんの講演から
「日本の都道府県別冬期室内気温」データ。
南雄三さんは、今回聞いたら、お父さんが大手の建材メーカーをやっていた
ということだそうで、
そういったことから多くの人脈を持って活動しているのだそうです。
国の住宅政策をずっとウォッチしていて、
そういった情報源としては、幅広い視点を持っています。
お話ししていて、国の、というか、
中央省庁の官僚の世界の動向という部分で
大変わかりやすく情報を聞くことが出来る。
住宅の性能向上について、これまでは、
北海道という日本で一番気候条件の厳しい地域での問題であり、
それが他地域で受け入れられていくのに、
さまざまな試行錯誤を重ねてきた現実についても
たいへん学ぶことが多い。
そういうなかで現在は、省エネとか、省CO2について、
国の機関が、大きな流れを引っ張っていっていると感じているのです。
長期優良住宅という政策があり、
それについて、民間から多くの提案を募っていたけれど、
審査過程には、国の考えているある方向性があって、
その方向性に沿った提案が採択されている現実がある。
で、日本はこの省エネとか、省CO2について
大きくは、産業育成の方向で企画していて
太陽光発電とか、ヒートポンプ技術とかの推進を大きな目的にしている。
あと一方では、国産木材の活用という方向性があるけれど。

その方向性は、
大きくは世界の「蒸暑気候地域」に向けて
日本の輸出技術産業分野として、先進性を高めようという
そういったことを「国策」にしている、ということなのですね。
このこと自体は、ありうべきことだと思うのですが、
こういうことは、誰が企画し、推進しているのかが
公明正大になっていない。
いわんや、国会で論議されたと言うことを聞いたことがない。
しかし国の方針としては、間違いなくそうなっている。
これは政治が弱体化していて、イニシアティブを持てない現実を表しているのだろうか。
それとも、もともと日本の国策というのは
このように、サイレントに実行されていたモノなのか。
やはり、いびつなのではないかと思わざるを得ない。
現代の国家で一番大切なことは、経済の運営方針の決定ではないかと思うのです。
省エネとか、省CO2についてという
きわめて国家戦略にとって枢要な事項について
政治が十分に関与しているとは言えない。
ということは、「民意」が結集されているとはいえないのではないか。
国会と言うところは、こういう事を論議する機能を持っていないのか。
であれば、国会の機能をもっと改革すべきなのではないか。
これだけ、景気対策とか、大いに叩かれ、中国のような独裁国家とも
「競争的」な関係を強いられているのに、
国の最高機関に、そういう論議をきっちりやる機能がない、
というのは、きわめて異常な事態だと思う。
それと、わたしたちが選挙で選べるのは政治家しかいないのだ。
その政治にイニシアティブがない、希薄だ、というのでは
「経済的民主主義」自体、育っていかないのではないか。
どうもそんな思いが強く起きてきています。

個人住宅と国策推進

きのう、省CO2の国策での推進と言うことを書いたのですが、
わたし自身は、疑問を抱いている方です。
ドイツで、どうして民間運動であった「パッシブハウス」に対して
政府がそれを顕彰し、盛り上げる方向に行ったのか
その動機・推移はわかりませんが、
でも、政府側としては民間の住宅に対して政策誘導していくときに
自分自身が先頭に立って、旗を振っていくということに
ナチス全体主義的ではないかというな自制心が
そこで働いたのではないかと、推測する次第です。
民主主義が確立された国で
ある一定の方向性に世論を持っていきたいと考え、
政治の側はどのようにふるまうべきかと、考えたとき
こういうことへの配慮は欠かせないだろうと思うのです。
政府(側)が自分自身で、本来、個人資産である住宅に政策関与するというわけですから
こういった感覚は不可欠なのではないかと思うのです。
直接政府が関与する場合、
第1に想起される事態は、腐敗です。
ごく一部の決定の結果、その透明性の担保が見えない。
特に日本の場合、政治の指導性が明確ではなく、
簡単にスキャンダルで、有力政治家を葬り去る土壌がある。
そうすると、実質的な支配構造・官学共同体が独走してしまう可能性が高い。
昔から銭形平次、検察特捜部とか、官僚機構への正義委任構造がある日本では
そうなってしまうのですね。

まぁしかし、そんなことを言っても
日本的現実は、大波のようにその方向に行ってしまうのかも知れません。
ただ、そのときに、
実際的に建築会社が、施主に対して
国策に沿った説得をさせられると言うことになる。
このことは、施主と建築者との信頼性をゆがめる危険性があるのではないか。
「国策で省CO2を引っ張っていく」
ということのなかに、こういう問題性があるのではないかと
どうも思えてきてしまう。
体制翼賛会的ではないのかと、ふと感じてしまうのです。
「幸せになる」ために投資することである、住宅建築の本質にとって、
どういう意味合いになっていくのか。どうも見えません。
<写真は沖縄那覇の住宅風景>

国策での省CO2

今週は住宅関係の企画催事が続きました。
きのうは、道産木振興の目的でのセミナーに参加。
最初の発言者として東京大学の坂本雄三さんが講演されました。
先生はさまざまな国の審議会の座長を務められて
いわば、国策としての住宅政策の中心にいる方。
日本の現状がよくわかりますね。

ヨーロッパは、北欧が長く住宅の高断熱高気密化をリードする存在だったのですが
環境問題が、「黒い森」の酸性雨問題や、チェルノブイリ原発事故
などの身近な問題がスタートラインになって盛り上がり、
「緑の党」などという環境問題政党が出現するまでになって、
ドイツが、環境問題の主要テーマとして
住宅にフォーカスしてやってきた歴史がある。
しかし、その過程で現在は、パッシブハウス運動という民間機関が定めた基準を
国家が採用して、さらにそれをEU基準にしていこうという
そういった流れになっている。
国家が、民間の活力を生かして行く方向で施策を進めている。

やはり、運動の動機に於ける
彼我の違いが鮮明になってきていると言うべきなのか。
日本でも環境問題への動機がけっして弱いとは言えないけれど、
やはり骨身の問題としての認識は少ない。
そうすると、国家が、そしてその中核としての
官僚と、その母体としての「官学共同体」が主導権を持って
「引っ張っていく」という形式になっていく。
で、この構図は、明治以来の国家体制の根本であり、
そういった意味では、民主党政権はあえなく、この体制の前に
潰え去ってしまったと言ってもいいのかも知れない。
資本主義が中国やインド、ブラジルといった新興国に広くビッグバンして
市場経済が一気に広がり、そのなかで、
「国家」というものの意味合いがずいぶん変化してきている。
中国は、日本の明治以来の近代化を格好の教科書にしながら、
「優秀な」共産党官僚テクノラートによる「独裁」という
たいへん、「国を引っ張っていく」のには適した政治体制を武器に
この現代で急激な成長を遂げてきている。
経済と国内世論のコントロールというのが
現代の国家の最要諦というようになってきているけれど、
そういった意味では、もう一度、日本もそのような体制が
「筋肉質の意志決定プロセス」である、と
認識され、取られていく可能性が高まっている。
政治の意志決定力を削いでいこうとするスキャンダル報道賛美は
どうも、このような背景を持っているのではないかと、
そんな思いをしていた次第です。
いずれにせよ、住宅という領域で変化が現れてきていると実感します。

「住むこと」のコンシェルジュ

きのうは、藤女子大学の大垣直明先生の講演を聴きました。
北海道内の工務店の経営的研鑽ネットワークでの講演です。
地域工務店と、今後の経営のあり方を論ずる中で、
住宅建築の担い手の歴史的変遷に触れられ、
高度成長以前の住宅生産システムを担っていた「地域工務店」組織の実態把握と、
その後の、高度成長期の住宅づくりの主要プレーヤー組織であった
「ハウスメーカー」組織の対比を浮き立たせながら、
今後の人口減少社会での住宅生産の主要な担い手が「新・地域工務店」と想定され、
そうなる必然的背景とその役割について、語られていました。

なつかしい弁証法の図面がでてきて
わかりやすかった。
で、いくつかの「必然性」の概説があったのだけれど、
イマイチ、腑に落ちなかったのが、
今後の社会についての住宅建築の需要発生メカニズム。
個別分散的に発生すると想定されていたのですが、
その根拠はどうなのかなぁという疑問が1点。
次いで、「地縁的コミュニティの再生」が語られていたけれど、
はたしてそうなるのか、という疑問が2点目。
そして最大の疑問が、
これから求められる「新・地域工務店」の要件として
その地域での生活慣習や、気候風土への理解に裏打ちされた
生活コンサルタント的な機能が求められ、期待が高まるというくだり。
大変わかりやすいのだけれど、
はたしてそうなるとして、
具体的にはどのような形が考えられるのか、
っていうような思いを抱いた次第です。
で、表題のようなテーマが浮かんできたのですね。

この部分では、これからの日本人への豊かな「想像力」が試される。
生きる、とか、暮らす、ということへの
透徹した見方が必要な資質と言うことになっていく。
ある特定の個人、家族に対して
その生活の仕方についての「設計処方箋」を書いていくことになるワケですね。
暮らし方ソフトウェアというのはそういうことになる。
「新・地域工務店」にとっては、それが建築と重なる部分ということなのだけれど、
さて、ユーザーから信頼される、そういう資質を獲得するためには
何が必要か、ということになると、
まだ、未開拓の領域がそこに横たわっていると思う。

大垣先生の提起は、大変大きな示唆に富んでいて、
そこへの挑戦こそが大きな可能性に満ちていると感じるけれど、
具体的な解決の方向性は、まったく別のアプローチなのかも知れない。
そんな思いを強くした次第です。

健康診断

きのうは、ことしちょっと遅れた「健康診断」。
札幌では、健康診断の場所が変更になりました。
以前は北1条西3丁目という中心部で、しかも駐車場も契約で確保していて
たいへん便利が良かったのですが、
考えてみればこれらの経費も国民負担だったわけで、
ことしからは、よりリーズナブルと思われる北2条西1丁目に移転し、
駐車場の大盤振る舞いも行われておりませんでした。
しかしそれでも、入っているビルはシティホテルも一緒に入っている
瀟洒なもので、かなり豪華なモノです。
このあたり、現在の民主党政権の中途半端さがなにやら象徴的に現れているようです。

おっと、そういうのはきょうのテーマではない。
健康診断であります。
通常の健康診断メニューの他にオプションとして
いくつかの診断もお願いしておりました。
次々といろいろな検査が流れ作業のように行われて参ります。
やはり一番クライマックスはバリウム検査。
何回やっても、これはいやですね。
腹部を膨張させる薬を飲まされて
それでゲップを我慢してください、っていうアンビバレンツが辛い。
そのうえ、あっちを向け、こっちを向け、
グルグル回れ、カラダが右に左に回転させられる。
そのうえ、「ちょっと足りないので、もうすこし膨張剤を飲んでください」
と、にこやかに言われて飲まされる。
「いえ、けっこうです」
と言いたくなるのをこらえて、飲み込む。
またゲップを催してくるけれど、
「あともうすこしですからね」と、合いの手の声が入って再び我慢。
そうかと思ったら、今度は肩のあたりに脱落防止装置を付けられて
台が、大きく上下逆さまになっていく。
いやはや、どうも苦手であります。
まぁ、年に一度、苦行をしているようなものですね。

で、検査が終わって、
午後一番に、検査結果の告知であります。
「再検査の必要はありません」
という開口一番のお話し。
いいですねぇ、こういう具合におおむねの診断結果をはじめに言ってくれるのは。
っていうか、お医者さんも結果が良かったから言いやすいのでしょうね。
で、それから注意点・問題点を教えてくれる。
予想通り、というか当たり前ですが、
「軽度の肥満ですね」
「中性脂肪が健康値に対してわずかですが、上の数値」
「肝臓にも・・・・」
あれこれ、あれこれ、言われました。
まぁ、本人としては「健康値」からちょっと上っていうのは
あんまり危機感を持ってはいません。
運動不足気味であるのは明白なので、
仕事上のストレスを少しでも和らげるように一生懸命に効率よく仕事して
心の平安を一生懸命に作りだして、
早朝散歩が復活できるようにしたいなぁと考えております。
「あと、ほんの少し」の健康診断結果に対しては
こういう処方箋でのぞんでいきたいと考えております。

この写真、健康診断テーマにはどうなんだろうかなぁ(笑)。

木製窓の表情

さてきのうは、年末からの案件、
ようやくひと山越えて、下版ができました。
そして次の案件の段取り仕事にも着手できた、というところ。
そういうなか、スタッフのパソコンが1台、おシャカに。
突然、HDがあちらに旅立たれた。
なんですが、首尾良くデータレスキューソフトを使って
データは全部バックアップできたので、外付けHDにそのデータを入れて
緊急用のMacから読み込んで無事、作業継続できました。
HDというのは本当に簡単におシャカりますね。
まったく信用できないモノだと思います。
で、Appleでは最近、回転しない長持ちタイプのディスクを採用しはじめていますね。
いまのところは、価格が高いけれど、
いずれはそういうディスクに移行していくことになるのでしょうか?
こういうあたりの先見性はやはりAppleはすごいなと思います。
で、おシャカった機械もHDだけ取り替えて再生利用に挑戦中。

さて、おとといからきのうも札幌地方はけっこうな積雪でありました。
延々と雪かきをやり続けていた気がします。
どうも気が遠くなってきて、どこをどうやったか、
一夜経ってみたら、まったく思い出せない。
まぁいろいろどっさり、頑張っておりまして、カラダがあちこち痛い。
写真は、そんないつかに撮影したもの。
わが家の木製窓ですが、2階の窓です。
下部を「換気用」にして開閉させるタイプ、上部はフィックスです。
雪が降り積もってくると、凸部分がこのようにくっきりと色気が出る。
冬に表情の出る外観って、こういう事だと思うのです。
自然の表情の変化を映し出して
それを美しく演出する。
そういった機能性が木製窓にはあると思います。
外壁と窓、素材感と質感に違いを感じさせながら、
色合いも計算して、こういった表情を楽しませてくれる。
住宅は、そこを通りすがって見る人々にとっては、
四季折々、表情に変化があったほうが、印象が深くなっていく。
「街並み」ということは、そういうことの積み重ねのように思います。
こういう美しさと、堅牢な機能性、
住宅が、人間の暮らす場所というメッセージを送るのには、
木製窓って、まことにふさわしいのではないかと、いつも思っています。

先祖観のない「長期優良住宅」

人の生き死には、人間にとっての一番の関心事であるはずだけれど
日本の明治以来の基本政策である
「富国強兵」「経済大国」という路線では
日本の伝統的な人口政策を見直し
農家の次男三男層を、「都市の労働者」に変えて
大量の「会社員」を生産することに目標を定めてきていた。
それが、日本の発展の道筋であると固く信じてきた。
住宅政策も、必然的に「核家族化」が推進され、
なによりも家の存続を優先させる伝統的「家意識」に替わって
個人主義が推奨され(たかどうかは別にしても)、大いに普及させられた。

こうした現代日本の行ってきた基本政策によって、
実は、死者との「つながり」とか、先祖観が大きく変容してしまった。
もともと、都市労働者としての階層が
農家の次男三男を基軸に据えていたからか、
「仏壇」を背負って移転する、というような「家の重さ」が希薄だった。
それよりも、単位面積的な合理主義と
欧米的生活スタイルへの憧憬の刺激が優先された。
公団住宅的な、何LDKという間取り区分け思想が主な住宅概念として
喧伝され続けてきた。
そこには、いわば「2間続きの和室」にたたずむ仏壇や神棚、
っていうような長期にわたって日本人のDNAに刷り込まれてきた
「家」の存続性の核心的部分が欠落し続けた。
そういう意味では、自己批判的ではあるが、北海道の伝統のなさが
もっとも先んじてきた部分であるかも知れない。
それがインターナショナルな部分にも連なっていく部分であるかも知れないが
しかし、さてどうなのか、
現代の死のかたちの異形性をみるとき、日本人の心の部分は、
大丈夫、持ちこたえられるのだろうか?
っていうような局面に、いま、立ち至っているのではないか。
国交省の「長期優良住宅」の審議委員には
こうした日本人の永く培ってきた家の精神性についての意見を具申する
そういう立場の人間は存在していない。
省庁の中心であり、同時に審議委員の中心となる、
「東大工学部」自体にそういう専門性がないといえる。
むしろ、「長期優良住宅」を考えるのであれば、
「日本人にとって家とは何か」
という論点から論じなければ、そもそも論議の視点が大きく狂う。
むしろ、住宅問題についての「人間」視点の立場こそが決定的に必要だ。
家は人間が主役の、生きる場所であり、そこで死ぬ場所なのだ。
それなしで、いわば「モノ」や「経済的観点」からのみ
こういう問題を論議するのは明らかにおかしい。
たとえていえば、どういう住宅を作るのかを
人間としての施主をほっぽり出して、
建てる職人や、図面師たちだけで枝葉の論議にはまりこんでいる。
ドイツや、ヨーロッパの住宅論議が、黒い森問題やチェルノブイリを
論点のスタートとしてきた、と言われるのに対して
どうもいまの日本の住宅の論点のレベルの低さに、思いを致さざるを得ない。

きのう書いたブログに、
ある方からの意見をいただき、そこから抱いていた思いに気付いた次第です。
写真は、昨日と同じ、五百羅漢。