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【素人歴史研究の味方、レファレンスサービス】

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みなさん、「レファレンスサービス」って知っていますか?
公共の図書館などで、一般向けに行っている情報検索サービス。
レファレンスサービス(reference service)とは、図書館利用者が
学習・研究・調査を目的として必要な情報・資料などを求めた際に、
図書館員が情報そのものあるいはそのために必要とされる資料を
検索・提供・回答することによってこれを助ける業務である。
また、需要の多い質問に対して予め、書誌・索引などの必要な資料を
準備・作成する作業も付随した作業であると言える、という内容サービス。

わたしの今回の「紀州・関西の旅」は、わが家の先祖が遺した書き付け、
「往昔、紀州にて仕官たるところ、慶長年中、故ありて浪人となる」という
書き出しの文書を手掛かりに、まずは追跡のために土地勘を養うのが主目的。
大阪や京都、神戸といったメインストリートはなんども来ているけれど、
京畿地域のなかでぽっかりと空白のような紀州、
現在の和歌山県についてはまったく基礎知識も不足していた。
しかし4日間の滞在中にいろいろと調査してみての感覚で
徐々に推定の幅が狭まってきた。
慶長年中という時系列の特定で、推測としては豊臣秀長の城代であった
桑山重晴が慶長年中に紀州の代官として支配していたのが
もっとも確率の高い「仕官」先ではないかと思えるようになって来た。
桑山家は徳川ー豊臣の両端に侍していた経緯があり、この時期、
どっちが勝ち残ってもいいように家中勢力が二分されていたようなのです。
わが家はその後、西軍首魁の毛利家・安芸に退隠したことをみると、
西軍方として活動した身としてなにかと好都合であるに違いなかったと推定。
その推定を元に、インターネットで考えられる資料文書として
あるデータ資料に到達して、その文書保管先である大阪府立図書館に
問い合わせたところ、調査目的などを記載すれば、
インターネットを介して、こうしたレファレンスサービスが可能である旨、
お知らせいただいたのであります。
なんともありがたいサービスが世の中にはあったものと感謝。
さっそく担当の部署に申し込んだところ、返信が送られてきて
調査の手掛かりが得られたという次第であります。

どんな資料の情報があるか、ないか、
ご先祖様が遺していただいた文書から、わが家の歴史の断片が
導いてくれるように明らかになるか、固唾をのんで首を長くして待っています。
<写真は、紀州・根来寺多宝大塔〜国宝>

【ニッポンのいちばん古い家・箱木千年家(4)〜変遷】

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一軒の住宅でこんなにこだわって、4回も書き続けたことはないのですが、
しかしまだまだ「見どころ」はあって、興味は尽きません。
日本人が体験してきた「住む」ことの営為が、建築ディテールの各所から
物言わぬ声になってこだましてくるような、そんな気がしています。
また機会を見つけて、ぜひ体感を重ねていきたいとも思っています。

この家を見ていて気付いたのは、
やはり千年を超えると言われる歳月が感じられたこと。
入り口はまるで竪穴住居のような真っ暗な空間に導いてくれる。
土壁が重厚な土間床の空間です。
そこに祈るような造形の屋根が茅葺きで掛けられている。
この列島にひとびとが住み着くようになって1万年以上。
新石器時代が終わって、この列島の場合には狩猟から海産物採取の生活が
基本的なライフスタイルになったに違いない。
住居は最初は海浜の岩倉のような空間が考えられます。
そういう住居痕跡は北海道の余市海岸フゴッペ洞窟などで見られます。
それから、竪穴住居が営まれるようになったのでしょう。
寒冷地域ではより深く掘り込んで、冬の寒さに対して
常時いろりの火を絶やすことなく炊いて土壌蓄熱し、適合居住環境を実現した。
そうした列島古層の基本ライフスタイルに対して、
弥生的米作をもたらせたアジアからのフロンティアが移住してきて
高床式の建築を持ち込んできた。主に南方的生活様式。
社会での上層を形成したひとびとから「床の上」で起居する生活が始められた。
最初は「掘っ立て」として土中に柱を埋め込む方式だったけれど、
徐々に「石場立て」に変わっていって「通風」重視の夏型住居が
「よき住まい」という概念になっていった。
雨の多い気候風土に対応して軒の長い屋根が好まれ、
夏の蒸暑への対策もあって、厚い茅葺きの断熱屋根が普遍化した。
そうすると、その軒先にウチとも外ともいえない曖昧で自由な空間を生んだ。
冬の寒冷への対応は建具の文化で紙の建具から板張りの建具などで対応した。
しかしその住居文化では北海道島の気候風土には対応不能で
ながく日本文化はこの地を疎外して成立させてきた。
そんな日本家屋の「変遷」をこの家では体感することができる。

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はるかな時間を経て、北海道の住宅を見続けてきた人間として
この建物を体感できたことがうれしい。
結局自分自身としては、こういう方がDNA的には似つかわしく感じられる。
いまは北方日本人だけれど、
基層では西国的日本人の感受性を色濃く持っているのではないか、
自分自身はどうもそのような本然を持っていると思える次第です。
こういった気候風土でのいごこち感受性を
北方日本で居住環境性としてどうやって実現していくのか、
そんな思いをもった体験取材でした。

【ニッポンのいちばん古い家、箱木千年家(3)離れ】

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さてニッポンのいちばん古い家、神戸市近郊の箱木家住宅3回目です。
写真は「離れ」で江戸時代中期、いまから300年くらい前の建築。
われわれから見ればこちらも十分に「古民家」ですが、
母屋の1000年以上から見れば、こちらは「新しい家」でしょう。
たいへん開口部が多い造作で、
屋根だけは重厚な茅葺きで断熱されているけれど、
あとは「通風」重視の住宅になっているといえますね。
そういえば、母屋もまるで竪穴を思わせる巨大な屋根と土間から
一部が大きく開口され、南面に開放されている。
そこに大きな「縁側空間」が造作されて、そこから離れに向かって
縁を通って新造の空間に至るように構成されています。
まるで古代から、近代に向かっての住宅の歩みを見せているかのよう。

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ちょうど、すぐ上の写真で見えるように、
土間から縁側の高さレベルに移行した様子が明瞭。
この縁側は同時に土間から母屋の主室の床の高さとも一致する。
そこから離れの縁側まで、茅葺きの屋根で覆われた
中間的領域がここちよく連続している。
たぶん、現日本人にいたる日本人的感受性を
こうした縁側空間こそがいちばん育んだに違いない空間だと思う。
そして、離れの内部にいたって、障子建具が主役になる空間が現出する。
通風重視の開放空間とは、同時に格子状のデザインを
日本人の心象風景にかなり決定的な空間認識としてもたらした。
まさに千年家、いろいろな日本人の情感を思い知らせてくれる。
こういう豊かな情念的空間に比較して現代のわれわれの空間のありようは、
さて、大きく「進化」していると言えるのだろうか?

【新住協総会 in 札幌2016】

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さてきのうは、新木造住宅技術研究協議会、略称「新住協」の
年に1度の総会でありました。
総会は全国から300名近い参加者を集めて
ことしは、発祥の地・北海道札幌での開催。
いつもは1参加者として鎌田紀彦先生の基調講演を
聞いていれば良かったのですが、
札幌での開催と言うことで、ホスト役としての仕事があって
講演聴講だけに集中するわけにも行かない総会でありました。
鎌田先生の講演では、いくつかのテーマに沿ってのお話し。まずは、
●ZEHへの対応を巡っての「憂鬱さ」というテーマであります。
これまでわたしのこのブログなどでの全国のみなさんとの対話が
いろいろに継続してきているのですが、
WEBでの1次エネルギー計算プログラムの問題点の指摘。
暖房方式として部分間歇暖房を選択した方が、はるかに有利になる点。
「ゼロエネルギー」という名前と実際の乖離の問題など、
ポイントの指摘が相次いでいました。
まことに鎌田先生の指摘されるとおりなのですが、
先生から、そうした点を踏まえながらも工務店の生き残り作戦として
「どのように対応するか」という基本スタンスが示されていました。
続いては、本来の木造構法の研究の最新知見の発表。
●住宅でのエネルギー消費実態調査についての最新手法の案内と
新住協Q1.0住宅調査の意義と協力要請
●外壁210mm断熱工法・施工の合理化とコストダウン
●基礎工法についての研究。とくに床断熱への着目について
●開口部と熱交換換気についての最新知見情報
などの研究成果が発表されていました。
さらに、わたしどもReplan誌で連載をお願いしている
●「Q1.0住宅デザイン論」に触れられながら、高断熱高気密住宅での
「プロトタイプデザイン」への取り組みが提起されていました。
このテーマについては、本日の研究発表でも取り上げられ、
また、7日には鎌田先生と東大・前先生が東京での実践について
現場公開される住宅をいっしょにチェックされると情報も入手しました。
情報に引き続き留意していきたいと考えております。

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なんですが、開催地メンバーとしては
全国から来られたみなさんのためのホストとしての仕事もある(笑)。
わたしにも「2次会」の人数集め、その集金作業などの役が振られていました。
これがなかなかのめんどい大役(笑)。
お酒を飲みながら談笑しながら、総数60人から会計するというのは
これが想像以上の大変さでありました。
そのうえ、3,000円会費に対して、おつりの用意がまったくされていない。
で、おつりが不足する場合、10,000円を出してくれた方をパスしながら、
おつりがたまった段階で適時、行きつ戻りつしなければならない。
お酒が入った中でそれも情報交換しながら、この作業というのは
記憶の絶対容量を超える瞬間の連続(笑)。
「えっと、あなたからはいただきましたっけ?」という、わたしは誰状態。
自分は飲んだか飲んでいないか、ほとんど不明になる混沌。
おかげで3次会になってようやく少し飲んでいる気分に。
・・・当然のように、午前様のお帰り。
なのに、さて本日も研究会は続くのであります、ふ〜〜頑張るぞと。

【ニッポンのいちばん古い家、箱木千年家(2)母屋】

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さて、ニッポンのいちばん古い家、箱木千年家の写真紹介です。
わたしの興味のままに100枚くらいの写真を撮ってきたので、
とても紹介はしきれません。ほんのごく一部の写真です。
まずは、概要をwikipediaなどWEBからの要旨抜粋で。
箱木家住宅は、兵庫県神戸市北区山田町衝原にある歴史的建造物。
国の重要文化財(1967年6月15日指定)。「箱木千年家」の通称で
広く知られる日本最古と推定される民家の一つである。
室町時代建立の主屋(「おもや」)、江戸時代建立の「離れ」(「はなれ」)の
2棟が重要文化財に指定され、他に築山、中庭、納屋、土蔵等が遺存する。
『摂津名所図会』などの近世の記録によれば、
806年に建てられたとされ、近世初期から「千年家」と呼ばれていた。
806年という年代を信じれば、創建から1,200年を生き続けた、
文字通りの千年家。2005年に当初材の松の柱6本の
放射性炭素年代測定を行った結果、年輪の最も外側の炭素濃度から、
1283-1307年(鎌倉時代後期)に伐採された木が使われていることが
わかったとされている。そうだとしても700-800年の古民家。
たぶん、創建は1,200年前後で何度か建て替えを繰り返したに違いない。
人間と住宅の長き営みに思いを致さざるを得ない。
住宅に関わって生きてきた人間として、ひたすらリスペクトを感じる。
間取り図は以下の通り。

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向かって右側が母屋で、左側に「離れ」が別棟で建っている。
いろりのある母屋の縁側を持つ「おもて」が、主室だとわかりますが、
1番上の写真には、使い込まれて人肌からの油分が
床板に積層して、まるで飴色のような光沢を見せている。
その端正で重厚な「装飾要素」に、無上の黄金感が漂ってきます。
時間を経てきた建材の醸し出す独特の「いごこち」が
満腔をしずかに満たしていく。

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主室は床が張られていて、1段あがった空間ですが、
母屋の面積の半分程度は土間空間で、一部は「厩」になっている。
台所など、生活上の機能的要素で構成されている。
当然ながら小屋組がそのまま表された平屋。
こうした時代にあって使われた構造材や「板」などの高価さを思うと、
地域の地侍であったこの家の家格を感じます。
ただただ、正直でまっとうな建材がこの家を支え続けてきた
その長き時間が醸し出す空間美に圧倒される次第であります。

【ニッポンのいちばん古い家、箱木千年家(1)】

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住宅の雑誌の仕事をしてきて、
だんだんと住宅への興味が深まっていくほどに、
いったい人間にとって住宅とはどういう意味があるのだろうかと
より本質的な部分に、思いが至る。
住宅を考えるということは、人間の本然を考える部分が大きいのだと
そんなふうに考えるようになってきます。
そうすると、歴史的な住居について自ずと本質的に知りたくなる。
ちょうど先日書いた、歴史作家の司馬遼太郎さんが、
「歴史とはなんでしょうか?」と問われたときに、
「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という
人生がそこにつめこまれている世界なのです」
というように答えることにしている、とその著作、
「二十一世紀に生きる君たちへ」の中で書いていますが、
そういったひとつながりが、わたしの場合には住宅、古民家において色濃く
人間やくらしをはるかに感受する機会として求めているように思います。

日本人は歴史的に5億人程度がこの列島に
1万年以上にわたって生き続けてきたとされている。
歴史人口学的なことです。
現在そのなかの1億3千万ほどが、現代を生きている。
そのおよそ3倍程度のひとびとが、歴史的にどう生きてきたのか、
古民家には、その機縁を感じられる空気感が遺されている。
さらにさかのぼれば、遺跡に残る復元された遺構にも
その残滓をたぐるよすがはあると思っています。
結局、人間の痕跡を見ることでなにごとかの対話を求めている。
もちろん、対象は無言ではあるけれど、
人間としての同じ感受力を働かせていけば、なにかのコトバが成立する。
そんな思いで、住宅というものと向き合っている次第。
現代の住宅を取材するように、こういう古民家を取材している。
「どう暮らしていたのですか?」
「こんな楽しみを感受していたのですね」
そんな質問に、ときに古民家は答えてくれるときがある。
こころの襟を正しながら、やわらかく声に耳を傾ける、傾聴する。

この神戸郊外にある箱木千年家には、2度ほどフラれてきた(笑)。
年末年始の休暇を利用して、はるばる北海道から訪ねたけれど、
はじめは年始休暇にあたっていて、たしか6日から公開と書かれていて、
その日に訪ねたら、「臨時休み」という無情のお知らせ。
やむなく飛行機で帰った記憶があります。
今回「3度目の正直」で、ご尊顔を拝し奉ることができました(笑)。
朝1番に入って約1時間半ほど、来客もほかにはなく、
ほぼ独占取材(笑)することができました。
そんな経緯もあったので、この家の方でもたっぷりと
時間をいただけたのではと、その因果応報を感じておりました。
おっと、肝心の住宅のお話しにたどりつかない(笑)。
あした、きちんと書きたいと思います、失礼しました。

【木造技術と「文明」参加 古代ニッポン・法隆寺】

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法隆寺というとあまりにも定番すぎるけれど、
最近は「法隆寺」という高速ICまでできているので、
他の目的地の途中で、ついこの名前を見てしまったのです(笑)。
当然高校の修学旅行などで、見ているようにも思うけれど、
それがどんなものであったか、いまは記憶も定かではない。
そう気付いてしまえば、結局住宅や木造建築のことが
人生の大きな領域になってしまった経緯が、高校時代の自分からみて、
なんとも数奇なようでもあり、また自然なようでもある。
また、仏教建築自体は繰り返し各地で見続けてきていて
そういった既視体験も踏まえて、違うように見えてくる部分もある。
今回見ていて、やはり木造の技術について
いろいろなポイントがあるのだなと魅入られておりました。

ヒノキを使って、大量のエンタシス造形や建具などに仕上げる技術と
その他、社会的工程管理などの部分に深く想像力を刺激された次第。
裳階(もこし)と呼ばれる「下屋」部分を見上げると白く彩色されている。
寺の方に聞いてみたら、白土に膠のような展着材を加えて
作られた塗料ではないかと推測されているとのこと。
この白い彩色は、いったいどんな効果を狙ったものなのか。
五重塔や金堂の最下端に加えられたことから考えれば、
白く敷き詰められた玉砂利面からの反射光を跳ね返している。
結果として、五重塔や金堂建築本体の視覚的コントラストを
より一層際だたせるような意匠装置として機能している。
しかし、基本的な機能要素は、建築本体への構造補強と
風雨による劣化対策でもあったこともあきらか。
そういった「用」としての機能性を果たさせながら、
なお、デザインとしても見事なバランス感覚を見せ、
五重塔が、実は六重に見えるまでに美の要素になりおおせている。
そして本来の五重塔のその最下部に付け足されたものなのに
配置感覚には、驚くほどの精妙さを感じる。
さらに開口部の建具(写真撮影不可)は、大木をタテにスライスした
1枚の大きな用材から彫刻されて造形されたものだそう。
法隆寺の造形の一つのパターンを構成しているタテ「垂木」が嵌められた
建具に開けられた連子窓も、
そのように彫刻技術的に造形されたものになっている。
垂木が建具本体の用材から切り込みされたものであることも
さわって確認することができました。
径の巨大な柱やこうした建具用材に掛けられた人知や営為を想起すると、
この「斑鳩」の地は、大和川の河川交通の要衝とされていることと
合わせて考えてみて、古代社会が可能にした
「公共的」建築システムの巨大さに圧倒される。
しかし発願としては聖徳太子の「私寺」としてスタートした
この民族的建築事業への傾斜のすさまじさがはるかに迫ってくる。
かの時代での技術とデザインの建築の才が総動員されたことが明瞭。
東アジア世界を覆っていた律令という国家生成システム、
それを裏付けていた世界宗教としての仏教への導入の国家意志。
そういったいわば「文明への参加」へのこの国の人々の
意志力の大きさもまた、深く迫ってくるものを感じました。

【司馬遼太郎さん家で「対話」を楽しむ】

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紀州を探訪する旅でありますが、
関西は奈良とか京都以外はこれまで通り過ぎるだけだったので、
夜、ホテルで翌日の旅程を考えていると
「おお、ここも、あそこも」と旅想が沸き立って仕方が無くなります。
やはりご先祖様の「痕跡さがし」は、手掛かりが見えない。
まずは「紀州」という土地の大枠を感受すること。
それから、徐々に手掛かりを丹念に「手掘り」することとした。
で、昨日はあちこちと関西圏を走って知見を重ねていました。

そんななか、どうしても足が向かったのが、
司馬遼太郎記念館であります。
わたしのこのブログを読んでいただいているみなさんには
わたしが司馬遼太郎さんの大ファンであることはご存知でしょう。
かれの全作品を読んでいるというわけでは無いけれど、
おおむね半分くらいを読み、しかし、それを繰り返し繰り返し、
もう何十回と読み続けてきている。
はじめて読んだのが、国盗り物語であったか、
関ヶ原であったか、それ以外であったか、もう忘れたのだけれど、
十代の末ころにはじめて読み始めてから、45-46年以上、
ほぼ毎日に近い感じで司馬遼太郎さんの文章と対話し続けている。
もともと新聞記者出身の司馬さん、本名・福田さんは、
著作に当たって丹念に「取材」されている様子が、文章から伝わってくる。
歴史研究者では無いけれどその調査の奥行きの深さ・広さは、
そもそも人間への興味が基本的な起動力なだけに、
歴史時間への肉薄力を感じさせられ続けてきた。
文章に接するうちに、息づかいまで身近に感覚してきたように思います。
そんな親しい存在の司馬さんの「記念館」、大阪の自宅跡ということもあり、
まさに司馬さん・福田さんの自宅を訪問する感覚。
きっとそういった感覚を共有されるボランティアとおぼしきみなさん。
ちょっとした会話もまた、司馬さんワールドです(笑)。

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建築は、安藤忠雄さんの設計。
もちろん、そういう興味ももって拝見してきたのですが、
いっとき、司馬遼太郎さんとの「対話」にこころを遊ばせておりました。・
いい休日を過ごせたと感謝しております。

【往昔紀州にて仕官たる〜高野山逍遙】

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週末を利用して、わたしはいま紀州を巡っております。
わが家のご先祖様、いまから250年前くらいを生きられた
「寛蔵」さんと言う名前の方が遺された手記がありまして、
その手記のタイトルに「原氏由来の事」と記されているものがある。
「往昔紀州にて仕官たるところ、慶長年中、故ありて浪人と相成る」
と書き記されている。無論わたしの名字は三木なのですが、
この家には夫婦ごと「養子」として、「入家」したとされている。
江戸期のことなので、家というものはなかば法人格であり、
必ずしも血縁関係だけを重視していない時代として、あり得る事態。
まぁたぶん現代の企業取引、M&Aに近いようなことと理解される。
いまから270〜280年前頃のことのようなのです。
で血縁としての家の本来の名字は「原」であると、由来を書いている次第。
そのM&A取引の余韻さめやらぬ時代を生きていた寛蔵さんとしては
それ以前のことについて調べ、書き付けを起こして遺したと。
その「原家」の故地をも探訪された様子も手記に遺している。
「え、わたしは本当は原さんなのでしょうか?」と言うナゾの書き付け。
このあたりは、現代との家意識の違いでもあるのでしょうが、
遺されている末裔たるわたしとしては気になって仕方が無い。
家の存続という意味合いとしては、三木家のことは江戸期以前も
それなりにあきらかにできるスジがあって、そっちはまぁいいのですが、
このご先祖様の書き付け以外にはまったく手掛かりがなく、
さっぱり痕跡の残っていない「原氏」の方は重い宿題として残っている。
まるで「ミッシングリンク」であります(笑)。
ただ、推測していくとすると、いくつかの痕跡はある。
わが家・三木家は法人の方の宗旨としては真宗、門徒スジなのに、
この寛蔵さんのころに真言宗に改宗している。
同時期と目される頃に、家紋も「折敷三の字」から「二つ巴」に変わっている。
というような事実と、「紀州」という記載。
そこでそのか細い手掛かりをもとに、空気感を感じることを目的に
いま、和歌山県を訪ね歩いているという次第なのです。
で、やはり真言宗開祖の空海さんの開いた空中宗教都市・高野山に敬意を。
はじめて訪れてみて、まさに圧倒されました。

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敬愛する司馬遼太郎さんの文学碑のようなものが
空海さんが入定されているとされる「奥の院」までの路のはじめにある。
そこからはまるで日本史そのものの有名人の墓名が連続する。
ついには豊臣秀吉や織田信長さんの名前まで出てくる。
わが家のようなか細い記憶痕跡だけしかない庶民とは
まったく別種の「日本の名家・名族」が積層する世界の存在を
まことにこれでもかと知らせていただけます(笑)。
北海道にいると、こういう連綿とした日本史の連続性を意識することは
ほとんど現実性がありませんが、
その時間の積層感にただただ驚くばかりであります。う〜〜む。

【経済縮小期 勝ち組には「市場」は拡大する】

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きのうは宮城県白石市で住宅工務店向けセミナーの講演。
おおまかに、住宅建設業の置かれている状況把握と、
そのなかでどのような経営戦略、生き残り生存戦略が求められるのか、
というようなテーマでお話しいたしました。
大体この手の講演会は夕方もしくは午後イチくらいのスタートと
相場が決まっているのですが、なんときのうは朝イチスタート。
9時半に始まって、昼食で締めるという時間配分でした。
なので、講演者としては朝9時前には会場に入って
パソコンとプロジェクターの相性をチェックし、
動画再生の音量の確認などの準備作業と、
朝一番から気の抜けないスケジュールであります。
そのうえ、前日から打合せ的に主催の東北電力さんと会食。
普段からあんまりお酒は飲まない方ですが、
そのスケジュールもこなしての丸2日間缶詰め状況でありました。

いろいろなお話しをするのですが、
タイトルのような中心テーマでは、図のようなデータをお見せします。
これは北海道内での住宅建設の「担い手」の状況。
2006年から2015年までの「注文戸建て」の状況を示したもの。
ある業界新聞社の調査であるこのデータによると、
この10年間で建築確認戸数は13,272戸から
10,669戸と、約20%マーケットは縮小している。
一方、その戸建て住宅市場で競争している施工者数は、
2,410事業者から、約35%減少して、1,572事業者になっている。
市場は2割減少し、競争者は35%少なくなっている。
結果として、1社あたりの「戸数」は5.5戸から6.8戸に
事業規模が拡大してきている。
そういうように巨視的な事業環境は推移している。
いわば「右肩下がり」という日本の経営環境を仔細に見れば、
多くの業界でこういった事態が進行しているのだと思われます。
人口減少ということは、このような「競争環境」を産み出す。
未来に向かって、前向きに事業に取り組んでいく
そういったいわば、「勝ち組」企業にとって、
事業環境は必ずしも、縮小するばかりではないのだと。
そんなお話しをいたしました。
早朝からの講演を聞かされているみなさんの目がぐっと冴える瞬間(笑)。
別にマジックや詭弁を弄しているのではなく、
冷静に見たデータからの素直な巨視的解析だと思います。
そういう環境の中で、どう方向性を見定めていくのか。
ポイントは環境に立ち向かう主体性の問題ですね。