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【北海道・東北・東京のエリア感覚】

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きのうから札幌から仙台に移動しております。
会社としては中小零細企業ながら2拠点での活動をしております。
わたし自身は札幌で高校まで育って、
その後大学生活は東京で過ごし、そのまま東京で広告業に就職。
都合、8年間くらいの東京暮らし経験があります。
その後、札幌に左遷含みの「転勤」チャンスを得た(笑)。
まぁ就職時点からこの転勤は計画が明かされていたので、
順調な仕事人生行路ということもできました。
でもまぁ、父親からの「遺言」もあって、数年後お世話になった会社を
退職させていただき、故郷札幌で独立した。
その後、縁あって東北にも拠点を開拓しました。
東北に出店するというのは、かなりの冒険とも言えたのですが、
いろいろな機縁があって、その流れに乗りだしたという感じでしょうか。
そこから十数年が経過してきております。
仙台に拠点を作った当時は、ほとんど仙台が中心的活動エリア。
なんだかんだ言っても結局は人間の顔を見て
気心を知り合って仕事というのは進んでいくモノ。
郷に入らば、郷に従えというようなコトバ通りなのだと思います。
最近は、大体現地にこういった「人間関係」は任せるようにしていますが、
やはり、ときどきはその地の空気感を感じておく必要がある。

そんなことから、わたし的には
札幌、仙台、東京という3箇所での「空気感」を感じている。
とくに住宅のことを仕事領域にしているので、
この3箇所での「住宅についての空気感」には、やはり違いがある。
本拠はやはりそこで育った空気感そのままの札幌で、
季節感とか、住宅についての「常識」もそこが発想起点になる。
で、一方で東京も、かなりの時間が経ったとはいえ、
8年間の「居住経験」があって、そういった空気の感受性もある。
なんていうのでしょうか、肌感覚での受け止め方みたいなもの。
あることがらについての「反応」常識の「地域性」がわかる部分。
いちばんわかりやすいのは寒さとか、雪についてのこととか、
夏の暑さの質感のようなものでしょうか。
東北仙台でもここの部分はかなり分かるのですが、
東北は南北に長く、ほとんど札幌感覚の北東北と、
ほとんど東京を向いている南東北では、大きな差異もある。
南東北で感受する雪というコトバの語感は、やはり東京と親しい。
こういう違いは、その土地に建てるという住宅での感受性では
きわめて大きな部分になると思います。
むしろこのエリア的違いが大きいというのが、東北の特色とも言える。
まぁ札幌と東京という両端の範囲内という意味では
ちょうどぴったり、ハマっているというようにも言えるかも知れません。
自分の感覚をアジャストさせながら、エリア感覚をより高めたいと思います。

【北海道断熱技術認証「BIS」 講習・試験、仙台開催へ】

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さて本日から10日間程度、東北各地に出張いたします。
写真は、縄文時代の北海道と東北の「国宝」であります。
北海道の「中空土偶」と、八戸・是川遺跡の「合掌土偶」です。
わたし的には、このふたつの土偶にはきわめて近似性を感じます。
ひょっとすると制作者は同一人物ではないのかとまで感じる。
その制作ポリシー、姿勢としての強い類縁性が伝わってきます。

北海道と東北の2つのエリアをまたいで仕事しているわけですが、
地政的に北海道はひとつの広域自治体なのに対して
東北は6つの県に分かれているという違いは、当たり前なんですが大きい。
住宅行政についての地域自治体の「施策」に関しても
歴史的に分権である東北では、6つの県でそれぞれ分離している。
北海道では日本の最寒冷地広域自治体として、
住宅政策を独自に持っていて、その部署組織もしっかり確立している。
場合によっては国交省や経産省といった国の行政組織以上の
経験知を持って行政に当たっていて、地域の工務店の
技術力とか実績の把握まで、現場的な現実認識を持っている。
本来は地域として官民が協同して研究し、解決しなければならない問題、
寒冷地としての断熱技術の「公的認証制度」などが、北海道では
「地域認証」として確固としてあるのに、東北地域では存在し得ていない。
行政的なバックアップが可能になっている北海道に対して
東北各県では、対応がそれぞれに分かれざるを得ないので
地場産業である住宅企業に対しての行政支援が決定的に不足する。
結果として、地域に不可欠な製造業・住宅技術の発展が伸び悩む。

両地域にまたがって活動していると基盤的なこうした問題に気付く。
具体的には北海道では、住宅の断熱施工について
「BIS」という技術資格を地域認証として制度化してきています。
北海道では1600〜1700人ほどがこの資格を得て現在活動していますが、
この資格は東北でも強いニーズがあり、これまで300人弱の資格取得者がいた。
ところが、この資格は数年ごとに断熱技術進化に合わせ、
「更新手続き」が義務づけられ、さらに講習受講だけではなく、
「試験」まで実施して、資格制度の実質レベルが保守担保されてきている。
初めは北海道の先進技術を学ぶという強い動機はあるのだけれど、
「更新」には、北海道にわざわざ行かなければ受講できないことから、
2/3以上の方たちが、せっかくの資格を「流して」しまっている。
北海道では行政的支援があっての人数であるのに対して
東北からの応募者はまったく自発的なのに北海道の1/5程度までいた。
今後、住宅性能の「義務化」を間近に控えて、
断熱技術のより広範な拡散、取得は大きな社会的命題でしょう。
またさまざまな国の住宅施策への対応としても、大いに活用可能な資格。
ということで、この資格についての「講習・試験」を
東北・仙台で開催できないか、北海道の関係各機関に働きかけたところ、
たいへん積極的な対応をとっていただくことになりました。
来年早々1月と2月に開催が可能ということでしたので、
多くの東北の住宅技術者のみなさんに、わたし自身やスタッフなどが
ボランティア活動で、ご案内勧誘していきたいと考えています。
ご興味のある方は、わたしまでメッセージをいただければ折り返し対応します。
ぜひ、最寒冷地北海道の住宅断熱技術認証資格BIS、ゲットしてください。

【鍛えられる与条件 北海道の住宅設計現場】

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しばらくは古民家特集を続けてきましたが、
温故知新、昔人が必死に生きた様子がしのばれる探訪が大好きです。
住宅取材という体験ベースを想像力のよすがにした時空を超える取材。
昔人が思っただろうことがまざまざと蘇える瞬間が無性にたのしい。

さて先日、札幌の会社の近くに当社スタッフが新築していたので、
みんなで住宅見学をさせてもらってきました。
設計は大杉 崇さん。<ATELIER O2/アトリエ オオツウ
http://www.geocities.jp/oosugi_02/>
若手として10年前くらいからちょくちょくと取材するようになり
そのたびに、いろいろに進化した住宅設計を見せてもらってきました。
今の若い人らしく、物腰が柔らかく柔軟な対応力を持っていて
そういったいい面が、住宅設計にどんどんと発揮されてきています。
デザインの面ではそういうスタイルですが、
一方で住宅性能面では最近は一貫して「パッシブ換気」を採用している。
建物の断熱性能はおおむねQ値(熱損失計数)で1.3程度が標準。
土間コンクリートをピットにして新鮮外気を導入し、熱源で加温させ
その暖気がゆっくりと室内をあたため、最上階の排気口から排出される。
いわば、室内気候をデザインしてコントロールする「暖房・換気ハイブリッド」。
設計者の経験が積層されればされるほど精度が高まるパッシブな手法。
家中、見える範囲から「暖房放熱器」の類がなくなるのに、同時に
家の中からは「暑い・寒い」という感覚が一掃される環境。
北海道の設計者でも先端的にこのパッシブ手法に取り組んでいる一人。
やはり気候条件の厳しい中での設計者として、
鍛えられる与条件と克服するレベルにおいて他地域とは大きな違いがある。
で、そのような室内気候のデザインといういごこちと、
同時にその手法が産み出す「自由な空間」デザインにも探求的。
一昨年建築した自邸は地域のいろいろな住宅賞も受賞されています。
久しぶりにいろいろな対話が出来て楽しい時間でした。

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まだ建築途中だったので、全体イメージが明瞭にはなっていませんが、
4世代という大家族同居で、合計7人が住まう楽しさが伝わってきた。
子どもさんはまだ小さいこともあって、内部リビング・ダイニングに隣接して
「そとの居間」的なスペースが意匠されていた。
外部の環境や周囲からの視線環境も熟慮されていて
完成後の楽しい家族の日常生活がくっきりと見えてきます。
中でも外でも、戸建ての愉しさを満喫できる仕掛けが感じられる。
手稲山の山裾に広がる住宅地の特性を活かした「視線の抜け」が
さまざまにデザインされていて、暮らしの楽しみが仕掛けられています。
玄関まわりは「見せ場」として面白くデザインされているので、
完成後の様子を見るのが大変楽しみです。
それにしても、一軒一軒の家族の暮らしに丹念に向き合って
暮らし方をデザインするという営為の無上の愉しさがつたわってきます。
日本の戦後社会が実現した、世界的にもきわめてユニークな
「注文戸建て」の家づくりシステムは、やがて大きな歴史的価値を持つ
壮大な「プロジェクトX」なのかも知れないと、そんな思いに駆られていました。
スタッフの家と言うことで、自分自身が25年前に体験した家づくりの愉しさを
再体験させられるようで、ほほえましく見学させてもらいました。
機会があれば、完成後の写真も紹介したいと思っています。

【ニッポンの「和風」建具文化】

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きのうまで4軒の古民家を特集してみました。
古民家というか、古代の「竪穴」から徐々に一般化されていった
「土壁」の家への変遷という流れを見てみた。
よく日本の木造建築について、やれ書院造りとか寝殿造りとかを
様式的変遷として「住宅の流れ」的に学ぶのだけれど、
ああいう立場は単に「上流文化」の流れをたどっているに過ぎないと思う、
それとはまったく別に、基層としての「民俗」的住環境は、
どんな古民家を訪ねても、きわめて土俗的だと感じていた。
日本列島での「住文化」としては、基本的に「竪穴から土壁へ」という
ものなのではないか、と感じているのです。
圧倒的多数人口はそちらの方の系譜にあって、
それに対して、いわば「差別化」の表象存在として、
寝殿造りだとか、書院造りというあったのだと思われる。
もちろん木造での公共的大空間として、
社寺仏閣や権力建築もあったけれど、民としてはこっちの流れだろうと。
このような「上流建築」は、確かにその時代の支配者の「空気感」は
大いに反映していただろうし、そこで生まれたライフスタイル・文化が
いわばこの列島社会での感受性の先端・フロントエンドではあった。
人々は限りなく社会的成功を求め続けるものであるから、
そういったいわば「憧れ」の存在として代表しているとの見方もあり得る。
が、少なくとも階級分化の表層表現であることは明示すべきなのでは。

写真はきのう紹介した、江戸期の「肝煎り」層の民家の内部建具。
肝煎りというのは、地域の経済や「自治」を仕切っていた
いわば地域自治体の庁舎も兼用していた建物の主の居宅内部。
公の機能としての大きな土間ももっているし、
またこのような文化の先端的建具芸術品なども収蔵していた。
いわば「地域首長の公邸」的な存在として尊崇は集めていたに違いない。
しかし一方で、その首長の民への姿勢がより権力的・搾取的になれば、
民の側から容赦なく「打ち壊し」の対象になった。
この古民家は立ち回りがうまかったか、
あるいは単に運が良かったことで生き残ったけれど、
江戸期を通して一揆は日常的なものとして存在してもいた。
こういった歴史の流れの上に、こういう「住文化」はあっただろう。

この建具には芸術としての「書」が表されている。
背景としての土壁建築に対してのコントラスト要素、
そういったことが意図されていただろうことは疑いがないと思われる。
ふと、この空間の中で静謐で美をたたえた様子を見ると
その調和力のすばらしさにうっとりとさせられる。
この光景の中で、ただただ芸術作品の方にだけ視線を向かわせるのは
やはり正鵠を穿っていると言えないのではないか。
あくまでも背景としての空間のありよう、その成り立ち、
その流れの変化の方に透徹した視線は向けられるべきだと感じた次第。
また、こういった背景成立の基盤が薄らいできて、
たとえば北海道では民家から和風建具仕事が消え去ろうとしている。
こういった建具文化自体、今後はどのようになっていくのかと危惧される。

【大空間土間の意味 江戸期「大胆煎」農家】

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ここのところ、古民家の年代素性の順番に記述しております。
こうやって年代的に古民家をあきらかにすると、
その時代背景、歴史事実とも照合ができて、社会のありように
ある直感力が働いてくる部分があると思います。
中央権力中心地では、宗教建築や国家施設が建築された時代、
建築の先端としては、巨大な木造デザイン建築が建てられ
宮廷や貴族の建築では「床の高い」寝殿造り木造が建てられていたけれど、
平安末期くらいまでは、一般の民は依然として竪穴に住んでいた。
身分社会を表す言葉として「地下人〜じげにん}というコトバがあるけれど、
まさにそのような表現に実質があったのでしょう。
こういった住居形式に一般人はほんの1,000年前くらいまでは住んでいた。
世代で言えば、高々50世代くらいということになる。
その段階からきのう見たような、竪穴と土壁の中間形を経て
近世・江戸期にはこの建物のような農家古民家とその社会が成立した。

以下、この農家古民家についてのWEBでの情報抜粋〜
岩手県内における建築年代の明らかな古民家の中では最も古い。
現在「みちのく民俗村」内に移築復元。旧菅野家住宅は、
伊達藩域内の典型的な豪農農家です。南部藩と境を接する
口内町長洞に建てられ村役人の大胆煎(おおきもいり)を努めた家。
桁行(けたゆき)10間、梁間(はりま)6間、平面積70坪余の寄棟造り直屋。
建物の半分近くが土間(どま)で占められています。国重要文化財。
建築の際の記録から、母屋(おもや)は1728(享保13)年建築。〜
歴史事実を参照すると
この時期は徳川吉宗の将軍就任・享保の改革時期であり、
全国的に租税強化に対しての「一揆」の発生がたいへんに多かった。
たとえばわが家系調査では、その当時、大庄屋を拝命していたが、
焼討ちに遭った事実もある。農村自治の首長は板挟みで薄氷を踏む日々・・・。
この古民家では室内の巨大な土間空間の柱・梁組みの偉容が目につく。
とくに柱は自然木そのままの曲がりぶりを見せていて、
よくぞ架構を持たせてきたと感動させられます。
1本1本の構造材の曲がり特性をきっちりと把握した木組みで
移築はあったとはいえ、創建から300年の時間を耐えてきた。
江戸期もこの時期になると、構造材として利用しやすい
木材資源が入手しづらくなったのか? 曲がり材を上手に組み合わせて
その柱間をうまく木小舞、竹小舞で下地処理して土壁で固めた、
本格的な土壁構造による木造が建てられるようになった。
いや逆に、この曲がり材は高い構造強度を期待していたのかも知れない。
岩手内陸部として気候的に積雪荷重への強度を考えた素材選択だったかも。
堅牢な土壁は竪穴などの前時代住宅と比べ「気密性」の高さが感じられる。
前日までの歴史的住宅群と比較して、住宅性能的技術進化が明瞭。

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薬医門(やくいもん)は1720(享保5)年の建築であることが判明。
この門は医者の門として使われたことから名がついている。
門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるように
と言われているけれど、実態としての機能性よりも江戸期の格付様式でしょう。
建築に対しても、たとえば間口の大きさで税金を定めたり、
江戸などの人口集中地域では耐火構造として瓦屋根が推奨されたり、
このような様式で身分制を表徴させたりと、
住宅建築に対して法的権力支配が、垣間見られてくる。
今日に繋がる、さまざまな制度規制が具現化していると言えるのかも。
ただ「いつでも誰でも入れる」という機能性表現としては、
「肝煎」という農村社会のセンター機能を果たしていたことと合わせ考えると
広大な土間空間は、地域の「自治的」な集会所でもあったのかも。
ここで重要なムラ社会の取り決めについて意志決定する
「ムラ全員集会」みたいなものも可能だと思われる。
ムラ経営上の重要事項、とくに年貢問題対応が「いつも」話し合われ、
場合によっては「一揆」の話し合いなどにも利用された可能性もある。
こういう空間にいったいどんな想像力を抱くか、まことに刺激的。
心を凝らせば、300年前江戸期の人々の息づかいも聞こえる気がします。
社会発展の結果、住宅の規模と機能も大きく変化発展したといえますね。

【室町期 竪穴から土壁への移行期の民家】

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さて本日も、古民家特集であります。
今回の特集では、時系列的に東北古民家の流れを跡づけてみています。
この建物は、北上市鬼柳町で発掘された約650年前の建物の復元。
今現在は、北上の「民俗村」に展示されている。
地面を掘りくぼませている点では竪穴住居の流れを汲むものですが、
いまのところ、住居かどうか確定的な判断はついていないとされる。
特徴は、風除室のような突き出し部分があること、
平面がそれまでの竪穴住居と比較して、長方形になっていること、
壁際に立ち並んでいる柱の数が多いことなどがあります。
この時期の東北ではこうしたタイプの建物がたくさん発見されている。
古代的な「竪穴住居」から、江戸時代の「農家民家」に移行する
住宅の歴史でも中間的な位置付けになる例として
きわめて珍しい復元事例だと言うことです。

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土台のような材が壁の最下端に置かれている。
壁には木か竹で下地が組み上げられて、そこに粗塗りで
土壁が施工されている。
木をたくさん使うということは、急激に資源の枯渇を招いたに違いなく、
それを避けるために、こうした壁造作が一般化した。
室町期といえば、やがて京都町衆たちが土壁と間伐材利用での
戦災復興からの「応急仮設住宅」としての土壁住宅を量産した。
土壁造作は、職人の手間はたくさんかかったに違いないけれど、
戦乱によって流民化した「労働力」は豊富にあったとされ、
工法の全国的流通は、戦国大名たちの地域生産力拡大努力と相まって
相当の速度で全国に波及していったに違いない。
鉄砲の伝来とそこからの全国波及のスピードの速さを思えば、
こうした想像の現実性は高いだろうと思われます。

ちょうどこの時期は、政治的には室町幕府の初期。
前時代の鎌倉幕府・北条執権家が東北では権力を握っていて
とくに北方交易利権については津軽・安東家支配を通して
強い基盤を持っていたと思われる。
混乱期に、公家の北畠家が東北の武装勢力を引き連れて
京都へも侵攻するなど、東北からすれば都文化との接触が
本格化した時代でもあったという側面はあったと思う。
そういった政治闘争の全国規模化が、あるいは住宅における「技術」も
伝播していくきっかけを提供したのではないか。
塗り壁下地のすだれ模様には、そんな想念が沸き上がっていました。
わたし自身も、過去に見たことのない独特な古民家でした。

【岩手県北上 平安中期・復元古民家】

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さて先日は青森県六戸の古民家を観ましたが、
きょうは、岩手県北上の遺跡からの復元古民家です。紹介文は以下。
〜平安時代の「竪穴住居」
地面を掘りくぼめて床を作り、柱を建て屋根を掛ける竪穴住居は、
東日本では平安時代終わり頃(1180年ころ)まで造られていた。
軒先が地面に着くものと、地面からやや離れ壁が立ち上がるものがあった。
いずれも壁際側に煮炊きするための「かまど」があり、
そこから穴を通して外に煙を排出する「煙道」があった。
この建物は平安中期(900年〜頃)の北上市相去遺跡群の
発掘例を復元したもの。正面に切り妻式。〜という事例です。
ちなみにこの900年代の歴史事実の主なものは以下のようになる。

・905年 北東北で環濠集落、防御性集落、高地性集落出現
  <前世紀での朝廷の北征とその頓挫を反映か?>
  蝦夷側・津軽五所川原にて須恵器生産。南部鉄器などに連なる製鉄も
  蝦夷側で行なわれていたと推定されている。
・おおむねこの時期、有史以来の災害・十和田湖火山の大噴火
・935年 平将門の乱。
・939年 秋田城で蝦夷側反乱。<交易利権争闘か?>
・947年 朝鮮・白頭山世界史上最大級の爆発的噴火
・999年 富士山噴火
というような状況であり、平安初期の桓武帝による蝦夷征伐、
境界地域での緊張政策が弛緩しつつあった時代。
しかしそれは800年代後期からの気候「寒冷化」と相次ぐ自然災害の
結果だったとも言えるのではないかと思われる。
この世紀からいわゆる「武士」が成立し始める。
徐々に権力の下降、在地暴力が力をつけた時代といえるのでしょう。

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壁の作り方は面白くて、屋根と同じ萱束で基本造作して、
その上で外壁側に土塗り壁を重ねていました。
断熱を強化する意味合いが強い。伝統的な遺跡住居などで、
屋根断熱で土壁を萱束でサンドイッチする工法もあるので、
そういった類推が働いてきます。本格的土壁への過渡的な工法なのか。
たぶん、土壁下地としては萱束は保持力でムリがあったかも知れません。
そのせいか萱と土のツートン外壁で、これはこれでいいデザイン。
住居設備として興味深いのは、囲炉裏がなくてかまどだけであること。
遺跡調査で、囲炉裏跡は燃焼痕跡が明瞭であることから
それが発見されていないと言うことは、
この煮炊きのためのかまどが暖房も兼用したものと考えられる。
復元図面を見ると、投入できるエネルギー(薪)量に応じてコンパクト。
しかし一方でこの「かまど」には、きちんと「煙道」が造られている。
室内側で薪をかまどに投入して燃焼させ、発生する煙を
煙道を通して外に排出する工夫を凝らしている。
この煙道についての説明は細かくはされていませんでしたが、
北海道釧路市郊外のほぼ同時代の遺跡住居では、
石と粘土によって加工造作されていた。
こうした技術は汎人類的な自然の知恵としてあったようなので、
ごく一般的に造られていたのでしょうね。
かまど自体も、丁寧に粘土で仕上げられて、薪の燃焼熱が
この粘土皮質にじんわりと「蓄熱」されて
室内に対して輻射的暖房としても機能したと思われる。

ただ、この建物は土器を生産していた遺跡中の建物なので、
囲炉裏がないのは、常時生活するための住宅としてではなく、
土器生産のための「工場」であった可能性もあります。
この時代のこの地方での生産土器は「須恵器」であり、
ヤマト社会の特徴的生産物で国家管理材でもあったが、それが
だんだんと在地で作られていくようになった時代でもあった。
前段で触れた社会背景、歴史事実を重ねると想像が膨らむ。
モノの証言と歴史事実がシンクロするダイナミズム・・・。
生活を表現する小建築からは、さまざまな情報が立ち上ってきますね。

<おまけ・きのう日ハム、無事優勝できました。
無関係かつ地域的話題にムリにお付き合いいただき、感謝します(笑)>

【早朝の父子キャッチボール】

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ことしの散歩シーズンが本格的に始まったのは3月からでした。
毎朝、北海道神宮に参拝して、その後、
神宮周辺の円山公園、周辺緑地、動物園周辺などを1周してくる
コースなのですが、途中のグランドで毎朝のように見掛ける父子2人。
最初のウチは、肩の使い方もよくわかっていなくて、
野球の球の投げ方とは相当違いが感じられた坊やの投球が、
段々とサマになってきて、タマに力強さが感じられるようになってきた。
お父さんが受け取るキャッチの音が、小気味よくなってきた。
こころなしか、坊やの投げ方は、大谷君を見習っているかのよう(笑)。
たぶん日ハムの試合を一生懸命応援していて、
知らず知らず、投げ方・取り方を視覚学習しているに違いない。
その「まっすぐさ」に、男の子らしさが香り立っている。
はじめのうちはよちよちとしたかわいらしさが全開だったけれど、
徐々に男子らしいたくましさが出てきたように感じられる。
他人事ですが、その様子を毎日のように見させていただいて、
楽しみにしています。

なぜか、日本の父子の対話で、男の子のケースでは
野球のキャッチボールは、ダントツの定番だろうと思います。
わたし自身の場合は、一番末っ子で兄が多かったので、
男として「壁」になってくれたのは兄たちでしたが、
わたしは、息子に対してその役割を果たすことができていた。
坊主の投げる投球に段々に力強さを感じるようになる歓びは
父子キャッチボールの最大の楽しみ。
ときに意外なほど、ズシッとくるミットの感触は、
受けてみなければわからない野性的な爽快感なんだろうと思います。
たぶん、人類の基本的な生存保証において、
ものを正確に「投擲」して、対象物にぶつけていく行為というのは、
やはり男子としては、ベーシックに存在する不可欠能力。
捕獲したい動物に石をぶつけて打撃を与えてその運動能力の減退を狙うのは、
狩猟採集時代からの人間の基本的能力だったのでしょう。
その「相伝」において、父子の対話的関係は基本的人類記憶。
きっとそういったバイタルな部分が男親としては
強い野生を呼び覚まされる行為なのでしょう。
わが家では、姉弟2人のこどもに恵まれましたが、
弟が父とキャッチボールを始める頃になって、
娘から「わたしも父さんとキャッチボールしたかったんだよ」と
はじけるような笑顔で言われて、何度かしたこともある(笑)。
父としては無性にうれしくて、「なんだそうか、キャッチしたかったんだ」と
ニコニコさせられた記憶もある。

そんな誰もが持っている記憶が
この父子の様子に思い出されて、いつも微笑ましく感じています。
がんばれ男の子! キミは未来の日ハム・エースだ(笑)。

【青森県六戸 寒冷地古民家・苫米地家住宅】

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古民家を見学するのは、その地域の暮らし方を知るチャンス。
先日も日本最古の古民家住居を見学しましたが、
温暖地域では古民家的な性能要件でもまだ「住む」ことは可能だと思われる。
冬をなんとか「耐えれば」暮らせるのかなぁと思えるけれど、
しかし寒冷地域の方では、さすがにそのままのかたちでは
継続して住み続けるというのはきびしいと思われ、
青森県では、江戸期の住宅というのはあんまり見学機会が少ない。
そういうなか、先日の青森県行脚時に六戸「道の駅」に建てられていたのが、
この「苫米地家住宅」であります。
WEBでの紹介には、以下のような記述。
〜六戸町において、奥入瀬川流域に現存する家屋のうちでは
最古と思われるのが、柳街の苫米地勲氏の住宅である。
苫米地家の由緒やこの家屋の建築年代を示す史料などは一切残されていないが、
上北地方の民家の建築手法の進展状況から比較してみると
おそらく江戸時代後半には建てられたものと推測される。(六戸町史より)
旧苫米地家住宅には、「しきだい(式台)」と呼ばれる施設が設けられており、
当時は武士階級の住宅に限られた出入口(建物正面左側)であったとされ、
身分や家の格式を表現する施設であったとみられる。 」とあります。
当初は六戸町大字柳町字柳町にありましたが平成4年に
六戸町指定有形文化財に指定され、平成17年に現在に移築保存されています。
〜という建物です。

六戸は次世代基準の地域区分で本州地域ながら北海道同等地域に近く、
積雪・寒冷とも列島内でも最高レベルの地域。
茅葺きの屋根の断熱は重厚ですが、外観形状はきわめてシンプルな寄棟。
まるで現代の造形感覚とも似通ったプロポーションでうっとりさせられる。
これは雪の屋根への堆積を考えたときに、もっとも合理的な力学で
受け止めるかたちであるように思われてきます。
また、屋根以外の外皮表面積がもっとも小さくなっているので、
エネルギーの貴重な時代には、もっとも「省エネ」志向の選択だと思える。
屋根が重厚な茅葺きになっているので、積雪で覆われたときに
外壁部分は屋根と外周の「堆積層」が繋がって一種の「かまくら」になる。
はるかな後世ですが、わが家が北海道に入植した当時、大正初年の
家では、かえって雪によって「保温」されていたと聞かされていますが、
どうしても「籠もって」しまう精神性への影響の方が、
積雪地では「寒さ」よりも危惧される「問題」であったのかも知れません。
そういう北国人の性向が、わたし自身の少年期にも、
躁鬱的心理として、自覚的なものがあります。
六戸も年間堆雪データを見ると、100cm程度の垂直積雪深なので、
そのような家と暮らしののありさまが想像されてきます。

そして、暖房と調理が一体化していて、
家庭内での火力の集中が図られていることが見て取れました。
これは他の地域の古民家ではあまりみられない特徴。
北国人にとって、エネルギー「爆炊き」への思いは
やむを得ず耐えなければならない冬の躁鬱的心情解脱への祈り要素もあると
雪に閉ざされた日々の暮らしの思い、様子がつたわってくる。
こうした内部空間を見ていて、呼び覚まされるものがあります。
想像力を刺激される、貴重な寒冷地古民家だと思いました。

【ホッキ・アサリ 彩りを楽しむラーメン】

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飛び石で休みが続いた先週でしたが、
今週からは落ち着いたカレンダーで、ことしも追い込み時期の開始ですね。
ということで、きょうは腹が減ってはとラーメンの話題であります(笑)。

身内のひとが炭水化物ダイエットにハマって、
なかなか外食に誘えない状況が続いている方は多いでしょうね。
わが家もカミさんがご多分に漏れずでして、
以前はたくさん楽しめた外食がすっかり機会が減っております。
そういう合間、ひさしぶりにカミさんがその気になってくれての
外食ラーメン紀行。
たまたま石狩方面へサケ祭りシーズンということで外出した道筋に、
そこそこの雰囲気のラーメン店があっての飛び込み。
もちろん、店のチョイスはカミさんの専権事項であります。
なぜか、彼女は「しょうゆ」が好みなんですが、
わたしが写真を見て直感的に選んだのは、この塩味海鮮風ラーメン。
石狩らしく、ホッキがまるごと入っていて、
あさりもむき身が入っての「貝づくし」という触れ込み。
まぁ、「づくし」なら、もう1種類くらいは欲しいところですが、
仕入の関係もあるのかもと大目に見ての注文。
名前もまったく知らずに入ったのですが、「音むら・石狩店」というお店。
POPで選んだので、コテコテと文字が入っていて実際のイメージは
つきづらかったのですが、海鮮、とくに貝は大好物なので・・・。
と思っていたら、カミさんもしょうゆラーメンからトラバーユしてきた(笑)。
で、出てきたのがこのラーメンであります。
そうです、やっぱりラーメンは「見た目」であります。
ホッキやあさりのほのかな彩り、それが引き立つようなトッピングと
背景色のスープの色合い、こういう雰囲気が最重要。
こういうのが整わないと、触発されませんね、やっぱり。

ということで、食味もまずは合格点。
ギットリ系全盛のさっぽろラーメンですが、やっぱり高齢者には
こういう塩味、あっさり魚醬系の風合いがお腹にも、彩りとしても
やさしくささやきかけてくれますね。
海鮮の分、庶民にはややお高く1,000円也の豪華ランチでありました。