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【「死ぬまで好きなこと続ける」人生価値感】

現代世界では人間はふつう、企業人として生きている。
資本主義という人類的な叡智が結集した社会であり、
民主主義という基本的な価値感で運営統御されている。
そのことは、人類生存のための自然な社会進化の結果だと思います。
人間が生きていくためには経済活動は欠かせない。
食べていかなければ生きていけない。
その基本を構成しているのが、資本主義であり、経済活動。
多くの人が人生の大部分で経済活動は「企業」を基盤にして生きていく。

しかし、人生というのは1回きりしか許されていない。
であれば、人間は本来いろいろな「生き方選択」があってもいい。
現代人は就職という段階で、学歴とか技能・希望その他の条件で
いわばお仕着せのようなカタチで職業も選択することが優勢。
しかし自分が本来なにをしたいのか、やがて時間とともに見出すことが多い。
そういう「ずっとこのことを続けていきたい」と思えることがらは大切。
そういう風に見出したことは、たぶん淡々と続けられるものでしょう。
日本は世界でも未曾有の「高齢化社会」が実現している。
いわば「セカンドライフ」が、現実になってきてもいると思う。
わたしの場合、きのうのブログでも書いたが歴史とか民俗とかの探究が
どんなことよりも楽しいと思える。いつも新鮮な発見感を得られる。
歴史・民俗探究は別に専門的学究にしか本質を見出せないものではない。
たとえば現代という時代を今われわれは生きているけれど、
この時代の受け止め方には、それこそ人の数だけの理解があり得る。
過去においても、間違いなくそうであった。
だから歴史探究とは多様な生きざま、価値感を「掘り起こす」ことだと思う。

たまたま住宅という領域で生きてきたことで、
歴史を見る視点にも、住宅というモノサシで見ることが近しい。
そういうモノサシはたぶん人それぞれで違いがあると思う。
こういうフィールドで、過去の人々とも「対話」を仕掛け、
確からしいなにごとかを確認できたときは、やはり非常にうれしい。
住関連空間探訪から先人の生きざまが「伝わってくる」瞬間がある。
習い性となったのかどうか、今となってはよくわからないけれど、
探究する心はずっと長く持ち続け、きっと死ぬまで続けられると思っている。
高齢化社会の実現は、人生の価値感も多様化させていると思う。

【柳田國男・司馬遼太郎さんとのはるかな所縁】


写真上は兵庫県姫路市英賀にある英賀神社境内の司馬遼太郎文学碑。
「播磨灘物語」題字とサイン、どちらも自筆と思われる石碑。
一方、下の写真は日本民俗学の祖といわれる柳田國男さんの「生家」。
こちらは兵庫県福崎町に遺されていて、お隣には「記念館」も建っている。
どちらの場所にも、わたしの家系の痕跡が残されている。
なにか遠い所縁をいつも感じ続けています。

柳田國男さんは日本民俗学という独自の領域を掘り起こされた学究ですが、
その若いときの読書生活は、近隣であった「三木家住宅」の蔵書を
耽読していたことが「揺りかご」のようだったと記述されている。
こちらの三木家は歴代当主が大阪に遊学して多くの蔵書を持っていたそうで、
その「読書傾向」が柳田さんに原風景としての素養を提供した。
こういうことを知ったのは、15年前くらいのことでした。
一方で、司馬遼太郎さんは、秀吉に滅ぼされた播州・英賀城で
先祖がご縁があったとされ、氏の「播磨灘物語」はその経緯がモチーフを
形成していると「あとがき」に書かれている。
しかし、あまりにも落城経緯は生々しくその攻防戦の記述は書かれていない。
たぶん400年以上経っても人間関係的にまだ冷却期間が足りないのか、
と想像できる記述が垣間見られたりもしている。
そういう悩ましい経緯のようだけれど、ゆかりのある「英賀神社」境内に
この写真の「文学碑」はさりげなく端座している。
もうすでに鬼籍に入られたので、確認の術は閉ざされているのですが、
司馬さんの文章は大学生の頃からずっと読み続けているので
後になって知ったこの「つながり」には、まことに驚かされています。
この繋がりを知ったのは「播磨灘物語」あとがきでであり、
またわが家の家系が英賀に縁があると知ったのは、さらに時間が経ってから。
家系に縁があることを知ってから、播磨灘物語あとがきを再度読んだ次第。
時間にして、たぶん30年くらいのタイムラグがある。不思議な縁。

で、なんとなくこのふたりの先人に共通する空気が伝わってくる。
歴史、人間、いわば「日本人的」なるもののような
そういった空気感・強いマユのようなものに包まれていると感じる。
わたしが惹かれるのには、どうも由縁があるように思えるのです。
はるかな巨人の先人ですが、その導きに手を引かれ
自分自身の興味分野もすこしづつ楽しみながら掘り起こしていきたい。
そういうことに日々目覚めさせてもらえることに深く感謝しております。

【2重ガラスで閉じた縁側⇒「室内大空間」志向へ】


写真は大正15年建築の北海道上富良野に遺る「高級住宅」の縁と座敷。
日本住宅では室内の座敷に「格差」が存在し、そのもっとも「いい部屋」には
床の間や、書院などが備えられていた。
そこから庭を望み風雅を愛でるのが高級「住文化」の基本価値感。
床柱にはなになにを使ったというのが家自慢という格式文化。
北海道開拓初期には大自然の肥沃な土壌から物成りがよく、
農家では農業収入がかなり大きく周辺の天然木をふんだんに利用した
「豪農型」の住宅も比較的多かったと道央三笠が根拠地の武部建設さん談。
しかしこの上富良野の「吉田邸」は出自が武家ということなので、
広大な土間が特徴的な豪農型ではなく、いわゆる日本的な空間美が志向された。

先日から複数回、この家をブログで取り上げていますが、
やはり焦点はこの写真の「開放せず閉じられた縁側空間」であります。
伝統を踏まえた日本建築として4間を越える長大な縁側が庭に面して
ウチと外のあいまいな「中間領域」が住宅美の典型を見せる狙い。
ところが北海道・富良野盆地の冬期は日本住文化の想像を超える寒冷。
日本人として、その「成功者」として贅を尽くした「いい家」を建てたい。
しかし、冬に寒いのは生活の場として許容できない、ムリ。
ということから「開放的」な外部との関係は「眺望」以外は諦めて、
当時の先端的建材・ガラス引き戸を内側と雨戸代わりの引き戸・外側と
2重にガラスで建具造作し「視界は外部を取り込むけれど防寒的」という
そういう「室内的縁側空間」を新規な挑戦的空間として造作した。
この空間は、このように「読み解く」ことが自然でしょう。
しかし悲しいかな、このような外部との開放を伴わない空間は
本来「縁側」と呼称するにはやはり似つかわしくはない。
ガラス製建具は基本防寒用途であり、
開放的に「自然と親しむ」環境装置としては機能しにくかったでしょう。
そもそもガラス建具の雨戸は仕舞い込む「戸袋」はあるけれど、
軽快に出し入れ出来たかどうかは、その重量もあって疑問が残るし、
そもそも半年以上は事実上出し入れは機能しなかったでしょう。
積雪凍結環境条件下で建具の円滑な出し入れは相当の困難。
・・・そのように考えてくると、この室内縁側はどのような機能空間だったか?
ハタと、考え込んでしまう次第であります。

数少ない北海道での「成功者」が自身の成功を建築として
遺したいと考えたとき、結果、新たな「建築文化」発見創造も必要だった。
2重ガラスで閉じられた縁側という自己矛盾的な空間に、
どのような意味を見出すべきなのか、深く悩ましかったのではないか。
重厚なガラスでの遮蔽で外部と気候区別する空間は出来たが、
本来の日本的な半戸外的・住文化生活様式は満足できない。
結局は「明るい室内大空間」がそこに残ったということかと。
伝統は機能せず、革新的なあらたな住価値創造の方向しかなかったのだと。
目指した空間を気候条件と相談しながら作ったら質的な変化もした。
そう考えると、伝統的日本住宅ではそのような大空間は未開拓領域。
「これって、俺ららしい住文化じゃないか・・・」
北海道で日本人は、閉じられた大空間にそういった意味合いを見出した、
この写真の空間からはそうした空間志向の「萌芽」が想起される。
そこから室内の温度環境も高度化した大空間志向が強まった。
そのように思われるのですが、みなさんこの推論はいかがでしょうか?

【2020夏・コロナ禍での息苦しい人間関係】

お盆休暇もきょうまで。みなさんいかがお過ごしでしょうか?
写真は先日報道された、東京から「帰省」者に対する青森市内の
近隣住民からと思われる「投げ込み」の殴り書きメッセージ。
2020年夏の息苦しさを端的に表すものとして、こころに焼き付いた。
このような心ないコトバを投げつけられたことに深く同情すると同時に
しかしこういうことに配慮もせねばならない息苦しい現実も感じる。
逆に匿名とは言えここまで他人に、その心理を想像せずに投げることにも驚く。
いまわたしたちすべては、こういう心理環境に「追い詰められている」。
この両方の気分が重なって、気分が重く沈殿してしまう。

昨日もある温泉施設で入浴中、浴槽のなかでわたしを挟んだおふたりが
わたしの方向に向かって大声で喚き合うように話し込まれていた。
ツバキが飛んでくるような笑い声を交わし合って、間のわたしはいごこちが悪い。
その位置にはわたしが先にいて、おふたりは後で位置を占められた。
その後で、お互いに顔見知りと気付いての話し込み。
普段であれば気さくな会話として、他者であるわたしは聞き流しているシーン。
しかしやはり、3密というコロナ対策マナーからは困った事態。
やむなくこちら側で、場所を移動せざるを得なかった。
ただ、まるで非難と受け取られないよう「さりげなさ」も装うように気も遣う。
なんとも言えない、誰も悪くないこういう気まずさが本当にイヤだ。
お互い他者に無用の迷惑を掛けないよう、いまは気をつけるべきではある。
しかし一方こうした普通のコミュニケーションが失われることにも残念感は募る。
ごく普通の自然な人間会話に罪などあろうハズがない。

こういった「関係性」が永続する可能性もありえる。・・・
というような絶望感もだんだん現実的になって来たと言えるのだろうか?
しかしいま毎日のように「感染者数」が発表されている割には
「重症患者数」は伸びていないともされている。
公知にもとづいた「常識」的行為規範がまだ形成されていない段階では
まるでオオカミ少年のように不安だけを社会にまき散らすことを
だれにも制止させることはできない。
写真の他者への非難のコトバの書き手も、こういった感情にかられての行為でしょう。
心配なのは、こういう行為が常態化すること。
このような人間不信連鎖からは、社会に悪影響が出るのではないか。
2020年夏の息苦しさを忘れられるときが来ることを強く祈念したい。

【中共党海軍連携の民兵「漁船団」尖閣へ?】

イラストは古日本列島居住の化石人骨から推定される「生態」。
生業としての潜水漁法の結果、耳骨が発達して環境適合していたという。
本日はトピずれですが終戦記念日関連の時事テーマです、あしからず。

日本はお盆最中ですが、日本の南西端・尖閣では緊張が高まっている。
中国が勝手に決めている「禁漁期間」が16日に開けるということで、
漁船団が大挙して尖閣海域に「入漁」してくるのではと危惧されている。
その漁船団とは、事実上「民兵組織」であり、
それを「保護」する名目で「海警」船団も尖閣海域に入域する可能性が高い。
さらには、中国共産党の私兵・中国海軍艇も遠巻きに進出してくる可能性。
そもそも海警も中国共産党海軍の指揮下の組織なのだという。

中国軍とは天安門で自国民を戦車でひき殺した中国共産党私兵軍が本質。
露骨な「侵略」行為を世界の耳目が集中する中で強行する可能性がある。
昔人は環境適合の結果での耳骨発達だったけれど、現代の中共は
世界にまったく「耳を貸さず」侵略・現状変更に邁進してきている。

このあからさまな蛮行に対して、日米共同対応の可能性も報道されている。
結果として新型コロナウィルスを世界に広め、その混乱を利用しての傍若無人。
一方で、ミサイル防衛についての発表での河野防衛相へのマスコミの質問。
「周辺国・中韓の理解が得られていない」発言。東京新聞記者だという。
それへ防衛相「(対日ミサイル増強の国に)なぜ理解を得る必要があるのか」発言。
日本の防衛に対してこれら日本メディアは端的に阻害になっているのではないか?
世界できわめて特異な「自虐憲法」を金科玉条として、その無防備ぶりを
礼賛している。危機はむしろそれを好き放題に利用する「周辺諸国」の動き。
絶対に攻撃されない「憲法」保証に基づいて無謀のふるまいを続ける中国などに
「理解を求める」姿勢をこれらメディアは自国政府に高声で強要している。
すでに沖縄県の漁船に対して執拗な攻撃的追尾を繰り返され
危険にさらされる現実が進行しているのに。「進歩派」という自己陶酔の病。
そうした現状体制の根拠である「敗戦」から75年目の記念日。

自衛隊の「防衛」出動は現状では難しい中で、
むしろ米国側から「共同作戦」的な提案がなされていると聞く。
そのこと自体が「抑止力」として働いて、中国の無軌道な行動が抑制されることを
期待したいけれど、予断は決して許されない。
16日を翌日に控え、水面下で熾烈な情報戦が行われていることは間違いない。
日本の平和状況に、底流で危機が迫っているのではないか。

【稲荷社「連続鳥居」 ジャパンカラー・デザイン感覚】


写真は昨日記載の「中富良野神社」境内に併存している「稲荷社」の様子。

神社とは、日本固有の宗教である神道の信仰に基づく祭祀施設。
その性格は産土神、天神地祇、皇室や氏族の祖神、偉人や義士などの霊などが
神として祀られる。 文部科学省の資料では日本全国に約8万5千の神社がある。
そのうち、稲荷社の本宮とされる伏見稲荷大社のHPでは全国に約3万社の
「稲荷社」があるとされています。
ただし、一般的には神さまはひとつの神社に複数が併存しているのが実態。
なので、主祭神神社で稲荷神社は2970社で、
32000社が境内社・合祀など全ての分祀社とされます。
いかにも「八百万の神々」への分け隔てのない精神性は日本人的。
わたしがごく身近に接している神社、播州英賀神社、相模原鹿島神社でも
本来の産土神、鹿島さんと併存して稲荷社があります。
そのそれぞれの神さまの得意分野を「勧請」するのが地域信仰のありよう。
五穀豊穣・商売繁盛というのが稲荷社の本旨で御利益期待ということでしょう。
そういう意味では境内社として勧請されているのが32,000社という数は
稲荷社の人気の高さを表している。4割近くに勧請されている計算になる。

さらに伏見稲荷大社のHPには
「なぜ「お稲荷さん」には鳥居がいっぱいあるの?」
という素朴な疑問に対してQ&Aで以下のような答えの記載。
A:願い事が「通る」或いは「通った」御礼の意味から、鳥居を感謝のしるしとして
奉納することが江戸時代以降に広がった結果です。現在は約1万基の鳥居が
(伏見稲荷大社の)お山の参道全体に並んで立っています。〜ということ。
現世利益の結果として、どんどんと「増えていった」ということなのでしょう。
まことに「欲望自然主義」を感じさせてくれる(笑)。
しかし建築デザインとしてこの丹塗りの鳥居の連続感は特徴的。
水銀である丹は木材の防腐剤としてジャパンカラーの中核を形成してきた。
そういえば日の丸も、この丹色が真ん中に鎮座している。
同様の利用途が出自とされる北欧スウェーデンの住宅外壁塗料の色合いとは、
その明度において、あきらかに日本の丹色の方が鮮やか。
なので住宅にはそう使われず、宗教的建築に限定利用されてきたのでしょう。
江戸期自然発生ということなので、日本人の心性を深く捉えている証明。
先日「厳島」の丹の基調色が特徴的な社殿写真を掲載しましたが、かなり好評。
こういうカラフルさに日本人は深く癒されるのか、興奮するのか、
とにかく、大好きであるから長く続いてきているのでしょう。
そのカラーが鳥居という形態で屹立し、それがハーモニーとして連続する。
こういった風景が日本の四季感覚に深く融合していっているのでしょうね。

【北海道神宮奉納フラヌイ注連縄:中富良野取材】



開拓初期には北海道では米作は不可能と思われていた。・・・
注連縄という宗教文化には、その素材として稲ワラが不可欠なので、
開拓三神を祀った北海道神宮では最初、この注連縄はどうしていたか?
もちろん伊勢神宮など注連縄のない神社もあるけれど・・・。
麻縄という選択肢もあるけれど、やはり米作と日本社会は底深く根がらみ。
残念ながら、最初期の様子を伝える鳥居や社殿の写真でも
注連縄の様子をうかがえる写真は見当たらない。
それどころか開拓初期には北海道では「縄」が主要な販売品とされていた。
本州以南社会では、縄というのは水田耕作の必然で発生するありふれたもの。
昔のテレビ番組などでよく見かける米作農家「夜なべ仕事」現金収入の定番。
北海道ではそれを高価な輸送費をかけてわざわざ本州から移入していた。
そういう北海道で開拓三神は首を長くして、注連縄を待っていたかも知れない。
北海道の神社建築と注連縄歴史についての研究はあまり聞かないので、
当面は想像を巡らすしかないでしょうね。

で、北海道神宮にフラヌイ注連縄を奉納している地元の中富良野神社に取材。
情報をいただいた好事家のTさんは「氏子でもないので・・・」と内気に
神社の神主さんにこの注連縄について尋ねられなかったそうですが、
わたしは、年来の「神札収集」趣味を活かして1,000円なりを出資するカタチで
お礼もお支払いし、根掘り葉掘り質問攻めにしておりました。
最初は境内周辺で子犬を散歩に連れていた女性に問いかけたのですが、
どうも話が通じやすく弾んでいたら、社務所に案内された。
どうやら、神主さんご一家の方だったようで、神主さんに質問バトンタッチ。
「あの、失礼ですが鳥居には注連縄ないですね」
「そうなんです、あれは野外に掛けるので1年持たず、降ろすんです。
ことしは、9月4日に注連縄が新規に奉納される予定」ということ。
氏子の「俵御輿同志会」が毎年制作して、奉納されるのだそうです。
北海道神宮への奉納の契機は、昭和28年7月に旭川の「上川神社」に奉納し、
昭和34年北海道神宮の前身、札幌神社に同じデザインの注連縄が奉納された。
この奉納がテレビなどで放映されることで話題が集中したとされます。
「で、この注連縄デザインは岩木山神社と瓜二つなんですが?・・・」
「それは、この中富良野には津軽からの農民集団移住があって・・・」
という想像通りの由縁だそうであります。
津軽農民としてやはり米作への思いが強く、入植以来コメ生産に勤しんできた。
「注連縄400kgの材料の稲ワラはその倍くらい必要なんですね。
コメは品種改良が進んでイマドキは背丈が短くなっている。材料確保がたいへん」
というような制作状況のようですし、さらに俵御輿同志会の高齢化も進んでいる。
中富良野神社では第1鳥居にフラヌイ注連縄が据えられる。
北海道神宮は本殿前の屋根付き「神門」に備えられているので持ちがいいようです。
4年に一度の北海道神宮注連縄交換はつい昨年できたそうですが、
今後の「文化継承」には、やはり危機感があるようです。

ちなみにこちらの本殿は鉄筋コンクリート製で、社殿には注連縄はない。
敷地内に勧請されている稲荷社は一般的な「中太り」の注連縄でした。
津軽と北海道、氏子たちの崇神の思いが海を越えた岩木山to北海道。
稲作と注連縄in北海道。日本人の精神性の中核・民俗性も確認できた次第。

【大正末北海道住宅・洋室の「白樺格子」天井】


現代住宅ではほとんどデザイン的にはワンパターン化している天井。
「高級住宅・個性化住宅」ではごくわずかにデザイン挑戦がある、
というのがいまの状況ではないかと思います。
8日取材の「上富良野町開拓記念館」(旧吉田邸復元)では、
玄関横の「応接間」とおぼしき部屋が「洋室」になっておりました。
当時は上富良野町長だったので、来客も多かったと推測できます。
で、こちらの天井仕上げを見て、白樺の自然木が格子組みされてデザインされ、
その格子の間には、面材として木目の残る板材が使われておりました。

こういったデザイン仕上げというのは、わたしははじめて遭遇した。
大正期、いまから96年前の住宅建築ですが、
非常に革新的なこころみが、出窓や2重ガラスの開口部、
さらにガラス戸での「雨戸」造作などで行われている。
いったいどんな作り手が? という疑問に応えてくれるのが「棟札」。
<これは建築好事家・Tさん撮影の写真(幅広加工)>

大工棟梁として「高原権平」と読み下しうる名前が確認できる。
大正14年8月25日に起工して、9月18日に「建前」
しかし「竣工」年月日の記載がない。
噴火泥流は大正15年5月なので、それまでには出来上がっていたハズだけれど、
その前、2月くらいから噴火の前兆は気象庁の記録にあるので、
十勝岳噴火の影響で工事自体も「竣工」に至らなかった可能性がある。
この時代の建築確認などがどのようであったか、調べていないけれど、
棟札を遺す気風の大工棟梁にしてきちんと記載しなかったのには
なにか、理由があるように思われる。ましてや「村長邸」でもある。
しかしいま、WEBで検索してもこの名前では他の記録に尋ね当たらない。
まぁ大工という職業の社会的地位はこの時代、必ずしも高いとは言えない。
職業としてはあまり人気はなかったのだと言われる。
しかし、棟梁としては遺っていく建築として気合いは入っていたと推測できる。
そういう気合いと、この建物での「革新的こころみ」にはある符号を感じる。
木の素材として白樺は、どういう樹種ランク位置にあるかは知らないけれど
それを製材せずに自然木として使って、その曲がり具合に合わせて
板材を仕上げていったに相違なく、手業は十分に丹精されていると思う。
たぶん板材は1枚1枚微妙に寸法が違っているかも知れない。
こういう仕上げについて、棟梁の技量発揮の檜舞台と考えて作ったのか、
あるいは、施主・吉田氏の強い思い入れや希望があったのか。
いわゆる伝統的な和の大工技量で白樺自然木を使う流儀はあまり見ない。
和洋混淆の住宅の「洋間」の内部仕上げで「いっちょ、やってみるか」と
実験的に採用してみたのだろうか。
天井を見上げつつ、さまざまな想像力が膨らんで止まなかった。

【大正15年十勝岳噴火泥流災害を生き延びた家】




さて昨日ご紹介した現在の「上富良野開拓記念館」=吉田貞次郎邸は、
その完成後に大正15年の十勝岳大噴火・泥流被害に遭遇した。
その被害から地域が立ち上がって地域が復興し、災害に生き残った
象徴的な住宅建築としてひとびとの記憶に残ってきた建物だという。
昨日書いたように、世界的な豆需要の高まりで空前の好況を経験したけれど、
その最盛期にこの自然災害に見舞われたのです。
以下、気象庁HP 十勝岳 有史以降の火山活動より要旨抜粋
〜1926(大正15)年の記録より抜粋。
<水蒸気噴火(泥流発生)→(山体崩壊・泥流発生)→マグマ噴火、水蒸気噴火>
中央火口丘から噴火。火砕物降下・泥流→岩屑なだれ・泥流→降下火砕物。
●5月24日噴火:12:11噴火、小規模な泥流発生。14:00小規模な鳴動と噴火。
16:18噴火、中央火口丘の北西部破壊され熱い岩屑なだれが積雪を溶かし
大規模な泥流発生(平均速度約60km) 2カ村(上富良野・美瑛)埋没。
死者行方不明144名、負傷者200名。建物372棟家畜68頭山林耕地被害。
北西U字型火口形成。噴出物量1.3×104m3崩壊物量2~4×106m3。
マグマ噴出量は1×103DREm3。(VEI1)
●9月8日噴火:16:33噴煙高度4600m、行方不明2名。9日小噴火:15:40。
10日小噴火:9:37頃、15:48頃、18:50頃。〜

まことに凄まじい噴火記録に目を覆いたくなる。・・・
十勝岳は地域が開拓以降も数多くの噴火を記録している道内有数の「活火山」。
地域の東側に位置して、その裾野の広大な地域が上富良野にあたる。
噴火の時期によって被害の状況に違いがある。
この大正15年の噴火では、雪融け時期にあたっていて、
その融雪水が泥流となって地域を襲ったのですね。
自ら開拓者の息子であり、自作農であった当時の町長・吉田貞次郎は
村を放棄するか、再開拓するかの岐路に立たされたとき、
復興に向かって村をまとめ上げていったということ。
幸いにして地力は奇跡的な回復を見せてくれて、旺盛な需要にも支えられ、
ほどなく「地域再生」が計られていった。
そういった経緯が多くのひとびとの共感を呼んで、その後かれは
衆議院議員にも北海道から選出されていった。まことに有為転変そのもの。

現在わたしたちが見学できるこの建物は、
そういった地域の大変動を生き延びてきた歴史の証人でもある。
<記録写真と現在写真の相違は展示室増築による>

【縁側➡出窓・ペアガラス 大正15年北海道住宅進化】



8日に北海道中央部、上富良野開拓記念館を撮影見学してきました。
北海道の建築好事家Tさんからの情報。
タイトルのような「寒冷地住宅開口部」の歴史上、面白い位置にある建築。
なんですがまず、この建築に至る背景歴史のやや長めの「前振り」から。

この記念館は大正15年の建築で当時は上富良野は明治30年の
三重県伊勢地方からの集団移住全8戸の入植から、約30年ほどの経過時点。
当時は当地で産する豆類が東京大阪の「市場」で高値で取引されたとされ、
出荷産地である上富良野は、「豆景気」の好景気に沸いていたとされる。
〜大正3年にヨーロッパのバルカン半島から勃発した第一次世界大戦は、
一般には「豆景気」と呼ばれる好況を生じさせた。
3年8月の開戦当初はヨーロッパはもちろん東アジアの海上輸送も不安になり、
事態の進展にたいする見通しもたたなかったから、輸出は停滞し物価は低落し
一時は恐慌状態を呈したが、やがて戦局の推移が見通されるようになると、
4年から回復に転じ、5年にかけて好況が訪れた。
農産物を中心とする海外輸出は急激に増進し、生産物価格は高騰し、
3年以降農産物が豊作だったこともあって農村は異常な好景気につつまれた。
これは西欧諸国間の豆類の輸出入が中絶或いは激減したことが要因。
「連合国」側の一員であった日本からの輸出が激増したためである。
豆景気は上富良野の経済もうるおした。〜<上富良野百年史より要旨引用>
なにやら現代の「新型コロナ禍」の状況にも相通じるような世相。
たぶんこうした「世界規模の経済変動」は今次事態でも想定できるのでしょうし、
まったく違ったカタチで「現に」いま進行してもいるのでしょう。

で、そうした状況から地域の有力者であり三重県からの士族移住であった、
吉田氏の当主・貞次郎氏は上富良野村長でこの住宅を建築。
豆景気を受けて、予算を掛け当時の最先端の住宅を建てたものでしょう。
当時のひとびとの「建築技術の興味のありか」が偲ばれる。
わたしの最近の「住宅技術探索」で「出窓」が特徴的に寒冷地北海道で進化した
そういう痕跡に徐々に気づき始めております。
先述の好事家Tさんともこの想定の線で探索方向を共有している。
明治10年代建築の現存する「永山武四郎」邸ですでに「出窓」はあるのですが、
開拓から60年経過の、94年前の寒冷地木造住宅の先端的作りよう。
ここでは、基本は「和風」生活様式が継続しつつも、
洋室が玄関脇にしつらえられて「和洋折衷」が意図されている。

上の写真は3間続きの和室側から「開口部」を見た様子。
和風建築の基本の「縁側」に向かって障子で結界され「書院」も造作。
で、上の特徴的な外観写真と開口部仕様になっている。
外観写真では手前側南面に対して縁側的な大開口が確認できる。
左端には雨戸収納の「戸袋」がありますが、木製板戸ではなく
代わりに「ほぼガラス製」の引き戸が「縁側」全面4間半に配されている。
その右手端には洋室開口部として「出窓」が連続している。
ほぼ全部がガラスで覆われているような外見になっている。
上から2番目3番目写真が、出窓と縁側部の「2重ガラス」化状況。
和風建築in北海道の「進化」として、日本建築独特の「半外部・縁側」が
寒冷気候にはムリと悟られ、しかし「縁側造作技術」による現地対応を図った。
和室から縁側大開口を見渡す日本的生活様式を寒冷地で実現させるため
木製板戸に代わってガラス建具が導入され、さらに外部との間に
ガラス建具が内側にも造作され「2重ガラス」空間が実現している。
さらに建築技術的にはその延長線上で「出窓」も2重ガラス仕様の端緒として、
あるいは見方を変えれば「縁側」のミニチュア化として採用された。

すぐに気付くのが以下のポイント。
外部建具の「ガラス引き戸」は雨戸の代わりで「戸袋」も用意されているけれど、
積雪時期に果たして満足に機能したかどうか。
そして季節の良い時期にも、戸袋に「仕舞われる」ことはあったのかどうか?
戸袋内の確認は不可能でしたが、移動収納させる以上金属レールはないでしょう。
そして内側のガラス引き戸も全開放ということは出来なかったハズ。
そのように考えるとこの「開口部」は2重ガラスの「窓」だったと思える。
建築思想的にそれが純化しているのが隣の「出窓」、という解釈。
ガラス建具は北海道開拓期で苦闘する家屋でもいち早く導入されている。
木と紙と土の建築という日本建築古来の素材では寒冷地住宅の素材たり得ず
高価なガラスが、いわば先端的建材として北海道民に受容されたことを示している。
要するにガラス窓は「家をあたたかくする」ために、高価であっても
合理的選択として多くの北海道民に選別支持されたのだと言われる。
輸入最初期の当時のガラス建材最大出荷先が北海道だったことは事実。
北海道で住宅建築技術進化が開口部で急速に展開した、
そういう痕跡をこの建物は表現している。そう思われてならない。
みなさんのご意見をお聞かせ下さい。よろしくお願いします。