


8日に北海道中央部、上富良野開拓記念館を撮影見学してきました。
北海道の建築好事家Tさんからの情報。
タイトルのような「寒冷地住宅開口部」の歴史上、面白い位置にある建築。
なんですがまず、この建築に至る背景歴史のやや長めの「前振り」から。
この記念館は大正15年の建築で当時は上富良野は明治30年の
三重県伊勢地方からの集団移住全8戸の入植から、約30年ほどの経過時点。
当時は当地で産する豆類が東京大阪の「市場」で高値で取引されたとされ、
出荷産地である上富良野は、「豆景気」の好景気に沸いていたとされる。
〜大正3年にヨーロッパのバルカン半島から勃発した第一次世界大戦は、
一般には「豆景気」と呼ばれる好況を生じさせた。
3年8月の開戦当初はヨーロッパはもちろん東アジアの海上輸送も不安になり、
事態の進展にたいする見通しもたたなかったから、輸出は停滞し物価は低落し
一時は恐慌状態を呈したが、やがて戦局の推移が見通されるようになると、
4年から回復に転じ、5年にかけて好況が訪れた。
農産物を中心とする海外輸出は急激に増進し、生産物価格は高騰し、
3年以降農産物が豊作だったこともあって農村は異常な好景気につつまれた。
これは西欧諸国間の豆類の輸出入が中絶或いは激減したことが要因。
「連合国」側の一員であった日本からの輸出が激増したためである。
豆景気は上富良野の経済もうるおした。〜<上富良野百年史より要旨引用>
なにやら現代の「新型コロナ禍」の状況にも相通じるような世相。
たぶんこうした「世界規模の経済変動」は今次事態でも想定できるのでしょうし、
まったく違ったカタチで「現に」いま進行してもいるのでしょう。
で、そうした状況から地域の有力者であり三重県からの士族移住であった、
吉田氏の当主・貞次郎氏は上富良野村長でこの住宅を建築。
豆景気を受けて、予算を掛け当時の最先端の住宅を建てたものでしょう。
当時のひとびとの「建築技術の興味のありか」が偲ばれる。
わたしの最近の「住宅技術探索」で「出窓」が特徴的に寒冷地北海道で進化した
そういう痕跡に徐々に気づき始めております。
先述の好事家Tさんともこの想定の線で探索方向を共有している。
明治10年代建築の現存する「永山武四郎」邸ですでに「出窓」はあるのですが、
開拓から60年経過の、94年前の寒冷地木造住宅の先端的作りよう。
ここでは、基本は「和風」生活様式が継続しつつも、
洋室が玄関脇にしつらえられて「和洋折衷」が意図されている。

上の写真は3間続きの和室側から「開口部」を見た様子。
和風建築の基本の「縁側」に向かって障子で結界され「書院」も造作。
で、上の特徴的な外観写真と開口部仕様になっている。
外観写真では手前側南面に対して縁側的な大開口が確認できる。
左端には雨戸収納の「戸袋」がありますが、木製板戸ではなく
代わりに「ほぼガラス製」の引き戸が「縁側」全面4間半に配されている。
その右手端には洋室開口部として「出窓」が連続している。
ほぼ全部がガラスで覆われているような外見になっている。
上から2番目3番目写真が、出窓と縁側部の「2重ガラス」化状況。
和風建築in北海道の「進化」として、日本建築独特の「半外部・縁側」が
寒冷気候にはムリと悟られ、しかし「縁側造作技術」による現地対応を図った。
和室から縁側大開口を見渡す日本的生活様式を寒冷地で実現させるため
木製板戸に代わってガラス建具が導入され、さらに外部との間に
ガラス建具が内側にも造作され「2重ガラス」空間が実現している。
さらに建築技術的にはその延長線上で「出窓」も2重ガラス仕様の端緒として、
あるいは見方を変えれば「縁側」のミニチュア化として採用された。
すぐに気付くのが以下のポイント。
外部建具の「ガラス引き戸」は雨戸の代わりで「戸袋」も用意されているけれど、
積雪時期に果たして満足に機能したかどうか。
そして季節の良い時期にも、戸袋に「仕舞われる」ことはあったのかどうか?
戸袋内の確認は不可能でしたが、移動収納させる以上金属レールはないでしょう。
そして内側のガラス引き戸も全開放ということは出来なかったハズ。
そのように考えるとこの「開口部」は2重ガラスの「窓」だったと思える。
建築思想的にそれが純化しているのが隣の「出窓」、という解釈。
ガラス建具は北海道開拓期で苦闘する家屋でもいち早く導入されている。
木と紙と土の建築という日本建築古来の素材では寒冷地住宅の素材たり得ず
高価なガラスが、いわば先端的建材として北海道民に受容されたことを示している。
要するにガラス窓は「家をあたたかくする」ために、高価であっても
合理的選択として多くの北海道民に選別支持されたのだと言われる。
輸入最初期の当時のガラス建材最大出荷先が北海道だったことは事実。
北海道で住宅建築技術進化が開口部で急速に展開した、
そういう痕跡をこの建物は表現している。そう思われてならない。
みなさんのご意見をお聞かせ下さい。よろしくお願いします。
Posted on 8月 10th, 2020 by 三木 奎吾
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やられた(笑)。
注連縄というポイントに注目しての新型コロナ禍対応ブログ・過去取材探訪。
これまで気付いていなかった、ふとした発見が襲ってくる。
この写真の狛犬さんは、播州姫路市内の「英賀神社」境内写真で発見。
わたしの家系の所縁のある神社なのですが、
「え〜と、あそこの注連縄ってどうだったっけ・・・」と
写真を探していたら、狛犬らしく控えめに写真端に小さく納まっていた。
今回の「シリーズ」ではひたすら「注連縄」に注目して写真をチェックしていたので
たまたま本殿の注連縄の写っていた写真を引っ張り出したところ、
こっちの狛犬をつい発見してしまった次第(笑)。
なんとも愛らしい。この魅力にはまったく太刀打ちできない。
この狛犬さん、どっちかというと無愛想な表情をしているので、
「おい、少しは愛嬌でもふれや」という注連縄飾り担当からの強制圧力が働いた?
こういうレベルになると、これはもう圧倒的に「民のパワー」。
注連縄というのはだいたいが、その神社の「氏子」さんたちの奉仕活動だということが
段々に知れるようになって来た。
神社という地域伝統と在地性の高い民衆信仰は、民と神との対話の足跡ではないか。
「鎮守の森」は同時にムラ社会の「公共空間」であり、地域社会そのもの。
倫理観や法以前の社会道徳や慣習が表現されてきたもの。
政治変動とはまったくちがった日本的「民主主義」の揺りかごのように思える。
今日のメディア空間・WEB空間とも通ずるコミュニケーション空間。
そのような社会の持っているある側面が、たとえばこのような
狛犬の意匠に、断片的に表現されてしまうものではないだろうか。
こういった表現力を持つ「民の空間」には激しいシンパシーを感じる。
なにか、「きっと良い土地に違いないのではないか」と思わせられる。
関西漫才を支える部分とも通ずる社会的な「おおらかさ」「屈託の無さ」が伝わってくる。
結局は「民の暮らし方・文化」の力なのではないだろうか。
注連縄というツールは、案外日本人とその社会をわかりやすく解析する
そういった可能性を持っているように感じられてきた。
その作り手と媒体としての神社との関係性まで見つめ始めると、
これまでの数倍の「気付き」が得られていくように思えます。
Posted on 8月 9th, 2020 by 三木 奎吾
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最近ある仕事関係の方から、いただいたメロン。
スタッフでおいしく食べさせていただいておりました。
2個いただいたので、ちょうどテレワークでの出社組が入れ替わるのに合わせ
2日間でいただくつもりでした。で、わたしがメロンをきょうは何人に分けて切るかと
問い合わせたら、2日連続出社の「運の良い」あるスタッフから
「あの、わたしは除外してください」との申し出。
「え〜、こんなにおいしいのに、なんでさ?」
「あのう、実はアレルギーが発症しまして・・・」
おいおい、であります。
メロンにアレルギーってあるんですね。まったく知らなかった。
北海道は「夕張」にこの「富良野」とメロン王国化しているのに・・・。
喉の奥から違和感が湧いてきて、身体に異常反応が出たとのこと。
以下、検索したら花粉症との関連が言われているようです。
〜果物アレルギー・野菜アレルギー花粉症に合併する疾患としては
喘息、アトピー性皮膚炎などのアレルギー疾患が多いのですが、
近年、口腔アレルギー症候群(OAS:果実野菜過敏症)が注目されており、
食物アレルギーの特殊型に分類されています。
果物アレルギー・野菜アレルギーは果物、野菜などを摂取した時に生じる
口腔内に限局したかゆみや腫れを示す症候群であり、
花粉症のおよそ10%に合併します。今や国民病となった花粉症の患者増で、
果物アレルギーの患者さんも増えているといます。
特にシラカバ花粉症の多い北ヨーロッパで高い頻度を示します。
リンゴ、モモ、サクランボ、イチジク、キウイフルーツ、メロン、パイナップル
トマトなどが報告されています。<北海道ヤバいかも!>
果物アレルギー・野菜アレルギーの原因は花粉抗原と果実・野菜の
共通抗原性により生じています。果物や野菜を口にすると、かゆみなどの
違和感があるのですが、最初は何のアレルギーかわからない人がほとんどです。
<大阪・天神橋みやたけクリニックさんWEBページより要旨転載>
〜ということ。う〜む。
いやはやなんともかわいそうなのですが、
花粉症は増え続けているようなので、気をつけて行かなければなりませんね。
とくに多数に食事を提供する習慣「社長食堂」シェフとしては、要チェックポイント。
そうです、今度のメニューどうしようかなぁ〜。なんにしようかなぁ〜〜。
Posted on 8月 8th, 2020 by 三木 奎吾
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石見国一宮「物部神社」という案内表示を発見し驚愕して、すぐに参拝した。
島根県大田市で中国山地内陸部。島根県では出雲大社がすぐ思い浮かぶ。
事実わたしも、広島市から出雲に抜けていく道中をクルマで走っていて
ふと、交通案内標識で知ることになった次第です。即決で途中立ち寄り。
島根県というのは古代国制では出雲国と石見国の両方が東西合わさって
島根県を構成しているということだそうです。
北海道人にとってはまことに遠隔地で一般常識レベルでは土地勘はない。
出雲はなんとなくわかるけれど、西隣の石見は銀山くらいの認識。
で、それはいいとして、名前に「物部」と名前が付いていて胸騒ぎなのです。
いかにも古代史ロマンへ胸焦がせるキーワードとして心に響き渡る(笑)。
日本史の隠された秘密が一気に素性を明かすみたいなワクワク感。
出雲への道中で「物部」と名の付く古代由来の神社に出会うとはオドロキ。
一時期、中国地方の「神楽」ブームにはるかな羨望を持ちましたが、
まことに中国地方は、歴史のタイムカプセルだと思い知らされた。
物部氏というのは古代の有力勢力で、神武天皇以来の勢力一族。
この石見国一宮をみてから初めて知ったのですが、豪族・物部氏は
古代の製鉄・武器製造に深く関わった一族であり、そこからヤマト政権での
軍事部門の最大勢力となっていた。朝鮮半島との連携を模索した磐井の乱の
鎮圧でもその中心的な役割を果たしたとされるのですね。
地理的に九州侵攻の足場・本州最西端に位置するので対磐井の戦力主力。
この石見国は銀山で有名でその鉱工業技術からヤマトの軍事物資生産拠点で、
同時にヤマト政権以前の「出雲連合政権」の主勢力に対して
それを監視する役割も、物部氏は担っていたと想定されるようです。
荒神谷の大量の銅剣銅鐸など、金属機器生産で日本史のカギを握る地域。
また日本史のメイン交通路である瀬戸内海に出雲が出て行くとすれば、
この「物部神社」地域を制圧してからでないと出て行くことが出来ない。
中国山地一帯の最重要交通路を押さえる要衝の位置にある。
ヤマト政権の対出雲最前線防衛ラインとして機能してきたことが明らか。
社殿は寄棟の長辺側が左右に全開放されたヨコ巾の長いファサード。
注連縄も、広い開口上部に横長でうねうねと渡されている。
昨日紹介した厳島神社と同様の「ゴボウ」締め。右側がやや上がっている。
社殿正面全景では、奥の本殿が直角に配置されているので、
その屋根上端部の木組みが象徴的デザインとして表情を作っている。
全体として、拝殿・本殿の組み合わせは他ではあまりみないような外観。
その由来に思いをはせつつ、ユニークな建築デザインに感銘を受けていた。
物部氏は、蘇我氏との仏教導入を巡っての争闘で敗退し、
その後一族は全国に散らばっていった様子が歴史に伝わっている。
東北の蝦夷とヤマト政権の戦いでも、寡黙な有力一族としてその陰が常にちらつく。
古代史の大きなナゾがこんなわかりやすいカタチで現存する。
まことにワンダーランド感に打たれておりました。2013年夏の探訪記憶。
Posted on 8月 7th, 2020 by 三木 奎吾
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さて最近ハマっている「神社建築・注連縄」探究シリーズ。
って勝手に「シリーズ化」しております(笑)が、
自由に取材活動ができない状況の中では、やむを得ない「探究」篇です。
なんですが、これはこれでいろいろな「気付き」があって
過去の「取材データ」も、自分自身の建築行脚の「まとめ」素材集と気付く。
住宅建築についてはいまはほとんどスタッフが体験し続けているので
わたし自身は年間でもそう多くの取材体験はなくなってきている。
しかし膨大な過去記録からの整理整頓は、なかなか出来なかった。
で、特定テーマ、いまは「神社の注連縄」関係に取り組んでいる次第。
厳島神社も過去数回見学しているけれど、
そういえば注連縄どうなっていたっけなぁ、程度のあいまい記憶しかなかった。
で、写真を整理整頓して探訪してみたのが上の2枚の写真。
下の写真は、回廊形式の社殿建築入口にあったもの。
厳島神社の場合、本来の「結界入口」は海上に自立する鳥居なんでしょうが、
鳥居にはさすがに注連縄はありません。
海と注連縄ということではやはり伊勢の夫婦岩に尽きるということでしょうか。
で、社殿建築のなかで注連縄はここと、
2つの神さま本体の居場所「本社本殿」とこの写真の「客(まろうど)神社本殿」
を飾っている注連縄ということになるようです。
どちらも同様のデザイン構成だったので、きょうは客(まろうど)神社本殿を。
注連縄本体としてはごく一般的な形式のようだと思われます。
出雲のようにまで太くはないけれど、やや中太りで、
ねじれ具合もしっかりと施され、標準的な印象を持ちます。
端部では右側が太いままで左側が細くなっています。
大根締め、ゴボウ締め、輪飾りなどの違いでは大根締めは両端がつぼまり、
ゴボウ締めは片側のみが細いとされるのでこれはゴボウ締め。
しかし、厳島神社は全国でも最先端のファッション性。
1枚目の写真の客(まろうど)神社本殿では注連縄はシンプルな分、
ほかのデザイン構成要素の賑々しさには、目を奪われます。
ほかの神社社殿と比較して隔絶しているのではないか。
たぶんこうしたデザイン構成は起案者・平清盛の性格要因が強いのではと。
平氏というのは大陸との活発な交易権益独占によって
勢力を伸張させたことがあきらかであり、
また当時の都の建築洋式としての「寝殿造り」を神社建築に導入したともされる。
都ぶりの華やかさの権化のような輝かしさがある。平家の盛衰の
両方の要因を奇しくも体現しているような建築なのでしょうね。
伊勢のような簡素さが全国の神社建築の基本なのでしょうが、
この「絢爛豪華」さは、まことに驚かされる。
寝殿造建築洋式が今日まで現存しているのは、この厳島が代表とされる。
カラー構成の朱赤、緑、黒という美感と、基本は格子状の
カタチの重層感が合わさって、なんとも「地上の天上界」感がある。
注連縄はその建築意図のなかでひっそりとマーキング役に徹している。
格子状の建具を通して空間の明度は明確に区画されているので、
手前の「拝殿」的なダークな空間とのコントラストが非常に見事。
光と色彩の時々刻々とした「ゆらぎ」が、拝み見る者に変転万化の神姿を見せる。
よくぞこういう神々しさを造形したと感嘆させられます。
Posted on 8月 6th, 2020 by 三木 奎吾
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昨日は、表題のような北海道建設部・建築指導課の会議に出席。
わたしは、この諮問会議のメンバーを務めさせていただいていますが、
今回の新型コロナ禍で、ことしに入ってから開かれたのは、
書面会議形式での1回だけ。昨年中に「北方型住宅2020」の制度設計が固まり
さて本格的な推進という局面での新型コロナでの長いブランク期間。
昨日は、旧知のみなさんともたいへん久しぶりの顔合わせ。
ですが、これまでの会議室よりも大きな会議室で、
参加者間の間隔も、大きく開けてソーシャルディスタンスに配慮した仕様。
で、全員マスクを着用しての会議であります。
座長の鈴木大隆さんからの発言でも
こうした住宅施策についての諮問会議でリアルでの開催はまことに久しぶり。
リアルの会議のよいところは、議題以外の情報交換機会が取れること。
会議の開始を待つ間に、「いやどうも」と挨拶できて、個人間でやり取りができる。
ほかの参加メンバーには迷惑にならないように会話が可能なのですね。
そこで交わされるコトバがヒントになって、情報にふくらみも生まれてくる。
鈴木さんとも会議テーマ以外の「打合せ」ができて有意義。
また、そのような情報交換がたいへん貴重であることに、
このような状況になって初めて気付くことが多い。
もちろんZoom会議などでも有効に会議を行うことは出来るけれど、
やはり意思疎通という点では、雑談的な部分で重要な情報が交わされたりする。
単一テーマ的な求心性はZoom会議で可能だけれど、
多様な意見交換という意味で、やはりリアルな会議は充実感がある。
空気に緊張感があって、集中力も高く維持できるのだと思います。
ということで、北方型住宅2020の本格始動、
新型コロナ禍を乗り越えて、秋には全道的にさまざまに告知されて、
北海道の住宅シーンが再起動すると思われます。
やはり住宅の「進歩」というのは、多方面の参加者が情報を交換しながら、
いわばオール北海道的な「チーム構成」で質的な進化を計るべきもの。
全国の中でも特異な位置を占める地域公共団体・北海道の住宅施策、
ようやく新型コロナ禍と折り合いをつけながら、発進であります。
Posted on 8月 5th, 2020 by 三木 奎吾
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北海道神宮は明治2年末に開拓判官・島義勇が開拓三神を背中にくくりつけ
函館から陸路北上し、余市を抜けて小樽市銭函に至り、
そこで停留し、年の明ける頃にようやく「札幌本府」建設の槌音が響きはじめ、
翌年ようやく仮の開拓三神鎮座所が札幌市中央区北5条東1丁目に建てられた。
その後、札幌本府内の風水のよき土地を諸人が跋渉して
結果、現在地である円山の麓、札幌市中央区宮ヶ丘に本格的に社殿建設された。
社地選定に当たっては、開拓使が乗り込む前からこの地に住んでいた
福島県人の早山草太郎が好適と建言して採用とされている。
かれは開拓三神を公儀決定に先立ってこの地で祀り、奉仕していたとのこと。
周辺敷地は開拓当時の建設業者・中川源左衛門が所有していたという説もある。
写真は現在の神宮敷地の「北海道神社庁」周辺の様子。
1枚目には右手に杉林、2枚目右の鳥居から左側には杉林が展開している。
この一帯は、杉の北限自生地であり、たぶん神社と杉木立という「好適性」が
決定の大きなファクターだったのではないかと思われる。
広葉樹の森の中にすっくりと立つ杉林にはその土地の「意思」を見るのでしょうか。
なににしてもまだ明治の初年であり、対ロシアの国境交渉すら流動的な情勢の中、
対ロシアの脅威への備えとして、全国で唯一北面して建てられた社殿。
開拓しながら国防にあたるという北海道の原初の国家意識がみえる。
本格的な「航路」開拓前の段階なので、東京からの「建設現地視察調査」はムリ。
場所の決定については、開拓判官・島義勇が現地担当官として現地決済した。
ただし彼の建設計画は壮大すぎて当時の政府支出は追いつけなかった。
この写真の光景は、周辺が太古の自然のままに保全されていることから
社地選定時にも同様の森の樹相だったことが窺われます。
円山の麓の自然林の一部であり、札幌一帯を跋渉しても杉の自然林は
ほかでは見られなかったなかで、かなり密に杉林が自生しています。
この光景をはじめて発見した人たちはきっと興奮したのだろうと思います。
神社建築というのは、単純な公共事業というよりも、
もっと国家そのもののような事業だったことでしょうから、
この蝦夷地で、このような立派な杉林が、と感嘆したことでしょう。
日本人の神さまが、神宿るのにふさわしい「風水の地」。
いまは手前側が駐車場になっていて、この杉林はよりクローズアップされる。
2枚目の写真から鳥居をくぐって大きく左折したあたりに社殿は位置している。
ちょうど杉林が繁茂している中心の場所に立地する。
1枚目の写真は、その社殿の奥で小川が流れているやや低地の流域に杉林。
わたしの好きなオオウバユリの自生地も点在する。
住宅でも「敷地選定」ということが、かなり決定的要因ですが、
神社建築ではまさに枢要中の枢要のことがらなのだと思います。
この北海道神宮の遷座立地が確定したことで、
周辺敷地は「宮ヶ丘・宮の森・円山」という住宅地最好適地として人家が集積し、
いまでは北海道有数の「高級住宅街」を形成している。
日本人にとって中心的宗教施設と住宅立地は、近接応答する関係にあった。
ムラ社会の「鎮守の森」思想は、営々と民族DNAに受け継がれているのでしょう。
Posted on 8月 4th, 2020 by 三木 奎吾
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今週は広島・長崎と相次いだ日本への原爆投下の記憶継承週間が再来する。
「二度と間違いは冒しません」と戦後のニッポンはスタートした。
第2次世界大戦での戦争指導の「間違い」自体はまったくその通りであって、
それは「国のカタチ」も含めて国民の総意であったことは疑いがない。
しかし同時にそれは、核兵器を人類に対してはじめて使った戦勝国の罪、
あまりに非人道的で、結果それ以降一度も使うことができないほどの
惨禍を人類にもたらせた「人類的罪業」から目を逸らせる意味合いも強かった。
その罪から免罪するためには「戦前日本」を極悪非道とする必要があった。
朝日新聞をはじめ、戦前から継続してきたメディアの多数は、
GHQから呼び出されてその存続を許諾されるとき、
この「戦後体制」への翼賛を誓約し明治以来の日本の真実を封印して極悪化して、
「戦勝国」に対し二度と逆らわない国民意識コントロールを誓った。
GHQが示した「報道の自由」は蠱惑的「権力」として使いうると内心で考えもした。
象徴として、現実の国際政治とは甚だしく乖離する夢想的「憲法」が強制され、
その護持をメルクマールとして「進歩派」の衣装をメディアはまとい、
その実はGHQ戦後体制最大の「守旧派」として戦後日本をコントロールしてきた。
非道な民間人殺戮である「大空襲」や二度にわたった原爆投下という
人類史に深く刻印された「罪業」にいつか日本人が目覚めて
その正常な国際的審判を民族として要求しないように、
日本国内にその「不可逆性担保・社会装置」として構築されてきた側面があると思う。
朝日の戦前の論調は、背乗り的なアジア進出アジテーターだったとされるけれど、
戦後は過度な「憲法体制絶対翼賛」者であったと思う。
いま、そうした戦後世界体制が最終的に中国という簒奪者によって破壊されはじめ
剥き出しで具体的な侵略が尖閣に対して仕掛けられてきている。
中国、漁船群の尖閣領海侵入を予告 「日本に止める資格ない」<産経報道>
民主主義価値感は敗戦国の国際公約としても日本は順守すべきであるし、
それ以上に現実論として日米同盟が日本の基本国家戦略であるべきことは自明。
戦前の最終期、世界での海洋(貿易)国家連合ともいうべき米英と対立したけれど、
日本の地政学的な位置からして、本来、日米英(欧州)同盟志向が
明治開国以来の日本の基本戦略であるべきことは論を待たない。
いま、世界からあきらかに「孤立」し始めた中国は周辺国にケンカを売りまくっている。
ついには尖閣に大量の漁船群団を派遣し、軍・海警一体での侵略を公言した。
戦後ニッポン最高の緊張局面であることは間違いがない。
この局面で日本の報道メディアがどう反応するのか、注意深くウォッチしている。
朝日ははじめて、日本の安全保障、「国益」というものと直面させられる。
中国の戦狼外交戦略に対して、どういう風に論考評価するつもりなのか?
当面は「事実報道」に徹したとしてもやがて論考は避けられない。
あからさまに沖縄県尖閣に侵略を仕掛けられてきているなかで、
日本の報道メディアは「日本国内」でどのように意見発出するのか。
「戦後」守旧派という存在がどのようになっていくのか。
コロナ禍からの中国の戦狼外交が「尖閣簒奪」として激しさを増す中で、
日本の正念場が近づいてきているように思える。
Posted on 8月 3rd, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究, 状況・政治への発言 | No Comments »

きのうから8月に突入。
ちょっと早めのお盆のお勤めとして、お坊さんに来ていただきました。
で、その後これも早々とお墓参りをいたしました。
こんなに早く、お勤めするのはまったくはじめてでしたが、
それでも墓地では数軒、欠かさずに墓参しているのか、
いくつかのお墓でお花が確認されていましたし、また墓参の様子も
幾家族かで確認されていました。
お坊さんのお話では、新型コロナの影響でお葬式などでも
「密を避ける」ということで、規模が大幅に縮小されたり、
そもそも葬式をしないとか、年忌の法要なども家族だけで親族も呼ばない、
などなど、日本人のライフスタイルの根源部分でも
大きく様変わりが迫られているとのこと。
そういった会話も、お互いにマスク越しと、お位牌のあちら側の
親やご先祖様たちも、世相の混乱ぶりに驚いているかも知れません。
きのうの札幌は本格的な夏の暑さでしたが、そのなかで
クルマの中など4人程度でマスクしながら行動するのも熱中症っぽくもなる。
本当に厄介な人類の敵でありますが、コブシを振り上げても相手は見えない。
しかしお墓でわたしの母親が好きだったユリの切り花を水に生けたら、
お祈りを捧げた後に、さっそくに開花していたりして、
ちいさなホッコリ感も味わうことができました。
で、先週末にはコロナ禍で出勤してくれているスタッフに
久しぶりに「社長食堂」きままなゲリラ的出没(笑)。
木曜日にも、肉じゃがで6−7人程度の「出社」スタッフにふるまっていたのです。
で、金曜日にも予告付きで、カレーのふるまい。
わざわざ、テレワーク日程を縫って出社して食べてくれるスタッフもいました。
これには、新設の「IH調理器」の本格的使用実験的な要素も。
写真ではイマイチわかりにくいかもですが、大型の「寸堂鍋」で
このIHがどの程度の性能発揮してくれるか、という興味。
炒めから煮つめ、長時間加熱と調理器としてはフル稼働のカレー料理。
わたしの場合、いろいろな野菜系を実験して入れたくなるタイプで
今回はオレンジの皮を短冊状に切って煮込んでみたりしました。
十分に煮込んでいるのですが、それでもオレンジは口に入れると酸味が広がる。
まぁスパイス感を狙ってみた次第ですが、
食べてくれたスタッフは一様に「オレンジが」と言ってくれていた。
毎日食べるとなればどうか、ですが、たまに食べるカレーでは
それはそれなりの味覚効果が発揮されたようでした。
ホント厄介な新型コロナの蔓延ですが、
元気と笑顔を蓄えて、乗り越えていきたいものですね。
Posted on 8月 2nd, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: おとこの料理&食, 日本社会・文化研究 | No Comments »

仕事上での「コミュニケーション」が停滞状況から全国規模で再開するにつれ、
現状での住宅の「課題」などが浮き彫りにもなってきている。
コロナ以降のテーマへの気付きが手掘りされてくるという最近の実感です。
ここのところ、国交省の「世帯数と住宅政策」の公理的把握について
久しぶりに、いわば「呪文」的にそれを聞いて、受け止めている実感との乖離があり、
いろいろなポイントで再考し始めております。
一昨日WEBで聴講させていただいたリクルート社住宅誌・池本編集長の講演でも
「複数居住」について触れられた箇所があり、興味が深まりました。
その発表では、現状「2地点居住」実践者は1.4%で希望者で15%という数字。
ただ、コロナ禍関連のSUUMO-WEB検索状況分析がバックデータのようで、
いまわたしの考えていることとは少しニュアンスが異なっていると感じられた。
たぶん、国交省の公的な「住宅施策」では戦前期からの
「戸主」感覚が抜けがたく存在し、いわば家は世帯のイレモノ、という感覚かと。
そのように考えると、戸主がいま存在しない住宅は、
「空き家」という捉え方になるのではないか。
それはそれでひとつの捉え方ではあるけれど、
このあたり「居住概念」自体どのような公的定義なのか、不勉強で不明。
一方、世界の住文化でロシアのダーチャ、ドイツのクラインガルテンなどの
「住」形態は、日本の現状の住宅政策の中で位置付けがあるのか、ないのか?
どうも「別荘」という概念とはかなり落差があると思う。もっと庶民的存在。
現代的少子高齢化社会では違った意味で多地域居住形態があると思う。
そうですね、テレワーク・リモートワークの進展というファクター。
ダーチャは自給食糧確保が目的だけれど、仕事対応が目的の多地域居住。
こういう「生き方の変化」は既成の「住宅政策」視点ではスルーされる可能性。
さらに、わたしの年代(昭和中期出生)では、自分が建てた家と夫婦それぞれの
親の家2軒、合計3軒を「所有して管理している」という人も多い。
その上、かれらの子どもさんたちは東京などで賃貸で単身生活していて
そことの「往来」も活発にある、というケースがある。
こういうのも現代ニッポン的なダーチャ、クラインガルテンの一変種なのかも。
もちろん食料生産拠点ではないけれど、「居住」の拡大・複数化とは思える。
「世帯」という考え方と、「居住」という考え方の両方が「揺らいでいる」。
家族数の劇的な減少傾向は今後とも続いていく可能性が高いので
必然的にこのような傾向は高まっていくことが予測される。いわば2極分化の進展。
平均的4人核家族に1軒という「住宅政策」と現実は大きく乖離していく。
むしろ複数地点「居住」ということがもっと広範なテーマとして拡大すると思われ、
そういうデータは公的に収集把握されていないのではないか。
新たな「居住」のシアワセのありかがそこにあるようで興味深いのです。
基本的な世帯数と住居数とが正比例するという関係性の視点と、
同時にこうした「複数居住」という視点の両方で「住環境」を考えると、
まるで「人生二毛作」みたいな新発見があり得る。
生き方・暮らし方の豊かさを考えるとき、非常にオモシロい領域。
日本人の暮らし方に多様性が大きく広がっていくのではないでしょうか?
Posted on 8月 1st, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 日本社会・文化研究 | No Comments »