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【温熱マンマシン環境を左右するリモコン表示】


さて札幌も一進一退の冬将軍。
今週からは雪が多くなってきそうな気配ですね。
しかし朝晩の冷え込みはそこそこ順調に冷えてきているので
暖房必須時期には突入してきた。
そういうなか、わたしは相変わらずあちこちと点々移動。
写真は本日宿泊の岩手県のオガールインであります。
先日ちょっと触れたら宿泊経験のある建築家の丸田絢子さんから
いろいろご指摘もいただきました。
設計者はみかんぐみの竹内昌義さんではなかったようです。
その弟子スジのらいおん建築事務所さんでした。
オガール全体については竹内さんが監修しているのでしょうか?
そのあたりはしっかりとは調べていません。

で、どうせ宿泊するならということでこちらに2度目の宿泊。
ビジネスホテルというのは、住宅的な人間居住環境を求められる
その最たるものである気がします。
利用者はそれこそ全国各地から全国各地に移動している人々。
なので、それぞれの日常的「環境意識」が評価として投影される。
温度環境の厳しい冬場や夏場などではやはり評価は出てくる。
この時期になると、北海道札幌とそれ以外の地域での
環境の違いについて敏感になってくることはやむを得ない。
こちらのホテルでは個室の天井高がちょっと高めになっている。
断熱仕様がどうであるかはわかりませんが、スペック的には
そこそこ考えられているように思われる。
ただ、暖房熱源がエアコンなので空間の気積は
温熱環境的に見れば大きい要素ではないかと思います。
就寝時にエアコン暖房はストップして寝たけれど、
夜間、やや寒さを感じてクシャミも出た。
本来ならば点け放しの方が良いでしょうが、どうも
リモコンの使い勝手が全然理解出来ないタイプで(笑)
どう「調節」したらいいのか、サッパリ理解出来なかったのでした。
で、そこから深夜間にも暖房運転を行っていました。
まぁ夜間の室温低下はそこそこ了解可能なレベルのように感じられた。
しかしこれからさらに外気温低下してどうか、ですね。

朝になってようやくこのリモコンをしげしげと見られた(笑)。
夜間には間接照明主体なので十分に判別認識ができなかったのです(泣)。
ところがやはり「調節」という項目の箇所の
操作画面上の操作方法特定がやはりわかりにくかった。
いきなり「体感」というのがあって、これの操作が
「入る・切る」と2つに別れているのですが、
これがなにをあらわしているのかが、いまになっても理解出来ない。
これでつまずいて「いいや、めんどう」となっていたのですね。
老眼の進行でただでさえ、視認行動が苦手にもなって来ている。
でも考えたら高齢化ニッポンではこれって重要な
「マンマシン」要素ではあるでしょうね。う〜む。

【神武が東征でなく西征・北征していたら・・・】

本日は歴史関係の書評がらみネタです、あしからず。
最近「日本国紀」という通史をやや右派系作家・百田尚樹さんが書いて
話題になっている。幻冬舎という商機に敏感な出版社ということで
どんなふうになるかと注目しています。
そこそこ売れているようで、仙台空港の書店員さんに聞いたら即座に
「ああ、けっこう売れていますよ」と話してくれて
書棚に案内してくれたら、なんと10冊くらいが平積みされていた。
30万部初版印刷というのはあながち誇張ではないかも知れない。
紙の単行本がこれくらいの規模で出版されるということは最近珍しい。
学問としての日本史は、文献史学偏重の悪影響で専門時代領域分化が極端。
いわゆる「通史」というような領域は軽視されてきている。
違う著者の「思想」を断片的につなぎ合わせる理解しか、
いまのニッポン人には情報が提供されていない現状がある。
もちろん特定の思想によってのみ歴史が理解されるべきではないのは自明。
多様な理解、人々の動きというモノを把握する必要がある。
現代社会が単一的な思想要因だけで成立しているわけではないように。
しかし、戦前と戦後では日本史理解に巨大な溝があるのも事実。
戦争の結果、それまでの知見とその領導した学者さんたちが一掃され、
どちらかといえばマルクス主義に基づいた歴史認識をもった人たちが
タナボタのように、また無批判的に主流の位置を占めたのも厳然たる事実。
それはそれでやはり極端に振れすぎているという反省が始まってきている。
この本に対してはさっそく「コピペだらけだ」「Wikipedia頼り」などの批判がある。
そういう批判は大いにあって良いけれど、一作家がこういう取り組みをしたという
そしてそれが一定の社会的評価を得ていることは認識する必要がある。
まぁまだ途中ではありますが、学問的と言うよりも
流れ作業的な部分も感じられて、通史モノ表現の難しさも垣間見えてはいる。
ただ、断片的に書かれている作者による「意見」の類は面白く読むことができる。

で、この本とは別に最近、読み続けているのが写真の1冊。
「日本」という国号が定まった時期以前の活発な列島ー朝鮮半島地域の
社会政治状況というのに、最近大きな関心が湧いてきて仕方ないのです。
朝鮮半島諸国での相克、権力争いのなかで「倭国」は重大な関心を持ち
積極的にその相克に関わっている。以前にも書いたとおり「鉄資源」の交易というのが
その大きな動機・要因であったことが推定されるのです。
それは農耕の必須道具にも関わり、同時に戦争の道具でもあるので、
容易に戦乱を呼ぶ契機になっていた様子がわかる。
それにしても朝鮮半島と列島西部地域というのは、どうも社会的一体性を感じる。
ヤマト朝廷は神武東征の故事に見られるように
九州を出自として畿内地域に権力を広げたというのが正史でしょうが、
もうひとつの選択肢として、海峡を越えて朝鮮半島にも覇を唱えるというのも
いわばごく自然な志向性としてあったことが推測できる。
きっとこの時代には半島と列島ではコトバもふつうに通じていたのではないか。
米作農耕はこの列島社会では最初から朝鮮半島からの「移住者」社会組織が
その基本単位であって、そのマザー社会へのこだわりが強かったと思われる。
もし神武が東征ではなく西征、もしくは北征を行ったら、というイフも想像できる。
そういう歴史事態があれば、半島と列島は一体の「クニ」になった可能性もある。
この時代の活発な「交流」には想像力が強く刺激されます。

【吉田五十八「猪俣邸」茶室の腰貼り宿曜暦】


茶室などの見学機会というのはそう多くはない。
北海道東北での新築住宅で、そういった室にこだわった家というのは
そう多くはないだろうし、通常目にすることは少なくなる。
一般的に取材住宅を選定するときにもそういった志向には向かわない。

ということで、東京世田谷の「猪俣邸」茶室であります。
この茶室、2度目の遭遇で一度は見ていたはずだし、写真も取っているのですが
もう一回見学したら、こちらの腰貼り和紙に目が行った。
よく見てみたら、なんと文字がたくさん書いてある(!)
この茶室は繊細なヨシとか竹などで作った骨組みがそのまま透けるようで、
その木組み格子越しに入り込んでくる外光が非常に印象的で
幻想的な空間演出になっていた記憶が鮮烈だったので、
この「和紙の腰貼り」まで注意力が行き渡っていなかった。
今回11月18日の再訪では、時間的に外光差し込み条件はなく、
その分、室内の造作に目が向いていたということでしょうか。
こういう腰貼りに使用済みの和紙を使うということ自体は
聞いたことがあったけれど、実物でこのように見ると
なんとも「数寄」の世界だとあらためて実感させられます。
押し寄せる老眼のため、細かい文字は読めなくて
写真に収めてからPhotoshopで写真詳細を検証すればいいやと思って
今回、下に画像処理させてみたデータを掲載しました。
どうも明瞭に読み取れる文字は、
「五月小建壬午角宿 室史よう」というように書かれている。
これって、どうやら宿曜暦、カレンダーのような印刷物と推定される。
Wikipediaでの記載は以下の通り。
「宿曜道(すくようどう)とは、平安時代、空海をはじめとする留学僧らにより、
密教の一分野として 日本へもたらされた占星術の一種。
密教占星術、宿曜占星術などともいう。
その内容は、インド占星術(ギリシャ由来の西洋占星術とインド古来の
月占星術が習合し独自に発展したもの)、道教由来の天体神信仰、
陰陽五行説等が習合した雑多なものである。基本的に北斗七星・九曜・十二宮
・二十七宿または二十八宿などの天体の動きや七曜の曜日の巡りによって
その直日を定め、それが凶であった場合は、その星の神々を
祀る事によって運勢を好転させようとする」というものだそうです。
現代北海道人はほとんど興味を喪失したようなものですが、
1967年(昭和42年)という創建当時にはまだこういったカレンダーが
一般的に普及していたということか、あるいは、
設計者吉田五十八さんにとって、一種のユーモアでもって茶室意匠として
採用したものか、おそらくはその両方だろうと思います。
茶室の来客はこの腰貼りを見て「おお」と会話のきっかけになった気もする(笑)。
はるかに時代を経て、そんな建築意図が伝わってきて心がなごむ。

【コケ・シダという建築外皮素材と北海道】


写真は鎌倉・円覚寺の各所で見られた外壁や石垣。
北海道は比較的に空気が乾燥気味で大陸的な気候だからか、
あんまりコケやシダ類での特徴的建築外皮はみられない傾向があるけれど、
本州地域を巡っていると、こういった植生を建築意匠に取り込んだ
そういう意図を持った空間が目に付くと思っています。
積雪という条件があるいはコケシダの類にはあまり適さないのでしょうか。

日本の神社仏閣建築で、このコケシダ類の被覆がないという光景は
どうも想像しにくい。それくらい、
日本の建築空間にはこれらによる外皮装飾が欠かせないものだと思います。
上の写真では、こういった苔むした石垣の上に
目に鮮やかなムラのない塗り壁が対置されていて
みごとなコントラストを垣間見せてくれていた。
この面としての対比をデザインに昇華させていることがあきらか。
そういえば国歌である君が代の一節にも、
「苔のむすまで」というコトバが自然に歌い込まれていたりする。
どうもコケというヤツ、日本人の精神性に深く「根付いて」いる。
世界の気候の中でも稀なほどに「蒸暑」の夏があって、
年間を通して安定的な降雨があるという気候条件が大きいのでしょうか。
最初に書いたように、しかし北海道はこういうコケ文化から
比較的に縁遠いというように思える。
気候条件的なことと、日本民族による定住歴史がまだ日が浅い、
という条件が大きいのかも知れないと思っています。
北海道での「コケ文化」としては建築的にはあまり想起しない。
まぁ自然の洞窟で「苔の洞門」という名所が思い浮かぶ程度。
しかしやはり日本人DNAなので、やがてこういう苔を活かした建築が
この北海道でも根付いていくのだろうか、と思ったりもする。
まだまだ北海道は本格的集住から高々150年程度なので、
こういった積層的な時間が作用する建築意匠にまでたどりついていないのかも。
しかし高断熱高気密住宅技術が確立していく過程で
「カビ・ダニ・結露」という微生物的な脅威にさらされた住宅史があるので、
心理的にはそういった拒否的連想が働くようにも思われる。

写真のような日本的マザーの光景を見て
これからの北海道人がどういった受容を行っていくのかと興味を持つ。

【北海道の名付け親・松浦武四郎という人物】

ことしは「北海道」命名150年の節目の年だそうです。
この命名は松浦武四郎が考案したとされています。
地名というのはあまりにも原初すぎて日常で深く考えることはない。
しかし北海道は日本史のなかでも特異な経緯をたどって
歴史的にはごく最近日本国に編入されたので、
こういった経緯を人間ドラマとしてもたどることができる。

先日、そんなことから東京世田谷の静嘉堂文庫美術館で開催中の
「松浦武四郎展」を見学して来た。
幕末から明治初年に掛けての時代に「探検家、浮世絵師、著述家、好古家」
として活躍した、というように書かれるけれど、
本職は何かといえば、よくわからない不明な生き方をした人物のようです。
雅号は「北海道人」ということで、わたしも一般名称としてよく使う。
Wikipediaの記述を見ると三重県の松阪市近郊で
幕末の社会で比較的に裕福な家庭(郷士とも庄屋ともいわれる)に生まれた。
どうも誕生日もわたしと1日違いです(笑)。
少年時から後の探検家として役に立つ文化的な素養を身に付けたとされる。
この時代、こういった階層出身者として伊能忠敬などが類推される。
16才で家を出て諸国を遊学し、その途次九州平戸で一時は出家したけれど、
26才の時に還俗し、同時に北海道探検に深く関わることになる。
この経緯には「故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり
天涯孤独になったのを契機に」と書かれているけれど、
裕福な生家の資産を相続したというような経緯が想像できる。
身分制固定化社会の中で「自由人」的な生き方ができる階層もあったのだと
こうしたいろいろな消息から知れる。
で、今回展示を見学していて一番ビックリしたのが、
生家の地理を考察しての説明書きでした。
写真撮影禁止と言うことだったので記憶ですが、
生家は伊勢参りの参道に面している建物だったそうで、
幕末の「伊勢参りブーム」の結果、年間数百万人(記憶では400万人)もの
大量の「旅行客」が家のまえの道を往来している様を見て育ったとのこと。
単純に言えば、1日10,000人以上が通っていた計算になる。
・・・最近の調査研究というのはすごいと実感する。
こういう「消息」までわかってくるものなのですね。
こういった「環境要因」が個人の生き方や思想に深く影響したと。
この時代にいったんは出家するような精神生活を持った人物で
比較的裕福な経済環境にあって、身分固定的な環境にあれば
とくに生きていくためというようなしがらみから自由に
職業を持たない個人的な興味からの人生選択が可能だったのでしょう。
そういう人物が折からのロシア南下侵略危機という国難状況を見て
北海道探検を志すに至ったということなのでしょうか。
歴史のはざまの中で、一時期は明治政府に出仕したりもしたし官位も得たけれど
早々にそういった堅苦しい立場は返上したとされる。
さらに個人的な考古趣味などに没頭していったということ。

「北海道」という地名にこうした個人の足跡が
いわばDNA的に影響を持ったのかどうか(笑)。面白さが募ってくる。

【暖冬一転、ツルツルソロソロ道路環境】

わたしの出張からの帰還を待ってくれていたように
札幌に冬の寒さ本格的到来のようです(笑)。
昨日はカミさんと2週間ぶりにお弁当を作って遠出しましたが、
最初はふつうのハイブリッドFF車で走り始めたけれど、
「おお、けっこう横滑りする」ということで家に引き返して
もう1台のガソリン車4WDに交換して出発しておりました。
「全然、走りが違うよね・・・」があらためての実感であります。
きのうは約200kmくらいの距離で往復していたのですが、
時々刻々と道路状況は変転万化していきます。
写真でごらんのようなツルツル路面はもう最悪で、
こういうときはあきらめてノロノロに徹するしかない。
こういった状況から、夏道と変わらないような環境まで
クルクルとその場所の風、日射条件などの条件変化にともなって、
路面はそれこそあらゆる表情で運転者に迫ってくる。
2次元画像のドライブシミュレーターの比ではない(笑)。
しかし自然の景色、風や日射という多彩な環境の中なので
五感が正常にはたらいて、北国人として生きるスイッチが入る。
走れるところは走り、慎重を期さねばならないところは慎重に。
北国の冬運転には適当なリズム感がある、疲れるけど(笑)。

シーズントップはどうしてもこの「スイッチ」の切り替えが
完全ではないので、どうしても危険姓は高くなる。
最近はこういう道路環境に、アジア圏からの旅行者のレンタカーも
混入してくるので、思わぬ運転者も見掛ける。
おいおい、というような場所で渋滞が発生していたりする。
北国の冬ではトンネルは数少ない安全路面なのですが、
そこで極端に速度ダウンする車両があったりする。
先般来、クルマで関東まで含めて走り続けていますが、
たとえば高速道路でも、道路管理者の目線に違いに気づきます。
関東の高速では多少の「上り坂」箇所では「低速に注意」という、
むしろ「もっとスピードを上げろ」という警告をしきりに見る。
場所によっては「渋滞」の方が緊急的対応の必要性が高いのでしょう。
自然と「流れに沿った運転」をしていると速度はかなり速くなる。
しかしそういうのに慣れていると東北道の北の方では
「どうしてそんなに速く走る」と取り締まってくる(泣)。

おっと、つい横道にそれていく(笑)。
クルマと道路の話なのでご容赦の程、よろしく。
冬道、走行には細心の安全注意が必要ですね、お互いに。

【敷設28年のロードヒーティング再稼働】

ことし会社事務所を、スペースが有効利用できていなかった
リプランハウスに移転させました。そのときに
自社駐車スペースがそれまでより狭くなったこともあり、
近隣に多くの駐車スペースを賃貸契約するとともに
このおおむねクルマ3台分のスペースについては冬期間は
ロードヒーティングを再稼働させる方針を固めておりました。
で、設備関係の更新やチェックの時に入念に点検して
テスト稼働もさせていましたが、
ここ数日、ようやく札幌では積雪を伴う降雪になったので、
昨日夜から深夜までの数時間、本格的に再稼働させてみました。

このロードヒーティングは新築時点からのもので、
もうすでに28年目ということになります。
省エネという観点からはどうかという判断もありますが、
雪かきという人的労働のやむなさ、事務所としての総合的利便性
といった理由から再導入した次第。
北海道札幌は年間積雪は6mを超える「豪雪地帯」であり、
その雪が人間活動に大いに支障を来すことは避けられません。
その時に最小限のロードヒーティング空間は、全体としての
除排雪のための拠点基地性が高く、また除雪効率を大いに高めてくれる。
隣接する「歩道」部分への敷設許可も札幌市からいただき、
全体として約17-8坪相当のスペースを融雪します。
ここを起点にして前面道路を除雪管理することで、
周辺の交通環境をもコントロール可能にできます。
確実に「積雪がない」空間を確保すると、
ほかの積雪箇所の除雪作業がたいへん楽に出来るようになるのですね。
経験知からこのように判断して再稼働させた次第です。
「雪かき」作業がなくなるわけではなく、
この融雪箇所を起点にして周辺道路を冬中、除排雪していくことになる。
年齢的にこういう融雪箇所があると、飛躍的に楽になる。

設備的には熱源としての石油ボイラーと不凍液循環させるパイピング。
それをわが家の場合には煉瓦床面下に配置して
蓄熱させて融雪させるという装置になります。
単純な装置なので経年劣化はそれほど考えられなかったのですが、
念のために不凍液は今回の3−4月の工事の際に入れ替えています。
建物1階に居住しているので、コントロールは
過不足なく効率に配慮しながら行えると考えています。
ここ20年ほどは自宅だけだったので人力で除雪していましたが、
やはり寄る年波からムリはそうできなくなってきている(笑)。
さて、この冬はどんなふうに雪と対話していくことになるのか、
自分自身も新鮮な気分で迎えられています。

【運転シミュレーターで悲しい車酔い体験(笑)】

みなさんは「運転シミュレーター」の使用体験はありますか?
恥ずかしながらついに体験であります(泣)。
わたし自身の個人情報に関わる、ということなのだそうで、
あんまり情報を詳細に記述することは避けたいのですが、
日頃のクルマ運転努力に対してのご褒美のように、
丸1日、再度の運転講習を受けさせていただいていたのです。
おかげで出張予定を丸1日早めさせられてもいました。
通知から約10日ほどでの有無を言わせぬ日程設定なので、
まことに権力そのものの対応ぶりであります。

で、無事に満了することが出来たのですが、
そのクライマックスのような授業がこの運転シミュレーター。
わたし年代なので、こういった仮想現実型ゲーム装置には
たしかにあんまり慣れもないのではありますが、
この嫌悪感には、どうも得体の知れないところを感じておりました。
約40分ほどのコースで、実際にアタッチするのは合計5回。
たぶん操作時間は延べでも10分程度でしょう。
ところが、実際のクルマ運転とはまったく似ても似つかない体験。
アニメーション画面を強制的に見させられて
遠近感もない平面的描画に対して「適当な距離感判断」を迫ってくる。
ブレーキ制動距離も勝手に装置側で決定していて
それに慣れる時間も取らずにいきなり操作させられる。
画面上にキケンと思われる画像が現れたら、わたしの場合、すぐに
ブレーキを踏みすぎてクルマを停止させてしまった(笑)。
さらにあきらかに緊急運転対応を迫ってくる予定なのに
「スピードを40kmまで上げてください」とか命令してくる。
その先で「どうして減速しなかったか」と言うに決まっているのに
まるで欺すかのように言ってくる嫌悪。
その上「路側に寄って停止してください」という命令も
アニメ画面だからのっぺりしていて距離感がまるでなくて
それなのに少し寄りすぎると「ガリガリ」という効果音だけはリアル。
こういうことを5回も繰り返されることに
わたしの繊細な神経は音を上げてしまったということですね(笑)。
大体、そのあと事故った映像を繰り返し見させられるのです。
アニメであっても、仮想現実画面にだんだん慣れるほどに
その体験嫌悪感はいや増してくる。
都合よく慣れろと命令して、一方でアニメだからいいでしょみたいな。

やや風邪っぽい体調もあったのか、
この運転シミュレーター操作後、しばらくの間は
ダメージがアタマに残って、頭痛やら腹痛やらに見舞われておりました。
まぁこういうのが目的の「ご褒美」としての拷問なのか、と。

【禅デザインに見るニッポン社会の文化受容力】


最近は「ニッポンブーム」ではないか、というくらいに
アジア諸国以外の欧米圏からの観光客が多いと感じられますね。
安倍政権による観光立国路線で飛躍的に増えてきている。
で、興味分野がいわゆるニッポン的なるものすべてに渡ってきている気がする。
ニッポンは成立の経緯からも「和」の国のようで、
過酷な破壊行為が歴史的にそれほど見られないことから、
古層のアジア圏文化がずっと生き残り続けているのでしょう。
それが生まれ出た国々ではいまはすっかり衰退してしまった文化も
ニッポンではしっかりとリスペクトされつつ続いてきている。
鎌倉期に中国から「輸入」された精神文化としての「禅」の世界感覚も
ニッポンではそのまま、かどうかは不明ながら
さまざまな方言化はされながらも、しかし本質は活かされ存続している。

久しぶりに鎌倉の円覚寺を参観してみて、
さまざまな建築群全体が、ある宗教的空間構成を志向している様を体感した。
木と石などで構成される建築群の随所で
切り取られるグリッド感覚があり、美観の発見があり続ける。
写真はある建築の「門」からその建物の玄関を望むシーン。
門って、いまの住宅建築ではほとんど省略されているけれど
こんなふうに写真で収めてみると、気付かされることが多い。
規格的な額縁として視覚を明瞭に区切って、
その先の建築要素をくっきりとシンボライズさせている。
そういった意図に対して玄関内部でも呼応した空間デザインが志向される。
玄関内部にはこれもきわめてニッポン的なライフデザイン小物である
扇子が意味ありげに配置され、その上部には円形のイレモノに
紅葉が盛り付けられて、対話するかのように対比配置されている。
こういった空間表現があちこちで、まるで「禅問答」のように展開している。
ニッポン人以外の人々も、こういう空間性に気付きはじめているのだろうか?
そういうことも興味深いと思われます。

さてきのうは建築知識ビルダーズさんの「エコハウス大賞」で
i+i 設計事務所・飯塚豊さんと新潟のオーガニックスタジオ・相模稔さんの
コラボ住宅がグランプリを受賞されたと言うこと。
ことしは多忙で参加できませんでしたが、
人柄で人気の相模さんの受賞で盛り上がっているようですね。
まことにおめでとうございます。
日本社会では北海道がスタートアップさせた「断熱気密」ですが、
いまは温暖地域での作り手のみなさんの意欲がすばらしく盛り上がってきている。
やっぱり「和の国」の文化風土、ニッポンの底力を感じています。

【鎌倉円覚寺山門の屋根隅角部のナゾ】


日曜日に見学していた円覚寺山門の屋根の隅角部軒先です。
黒っぽく変色しているので、画像処理を加えて見ました。
下の写真にあるように屋根は2重になっていますが、
この隅角部の構造の作り方は上下で違った。
上の写真の左側が上で、右が下でした。
上の方が垂木が放射状に配置されているのに対して
下の方は、垂木が隅角部の構造材に対して直角に組み上げられている。
このお寺さんは鎌倉時代1282年の創建ですが、
永禄六年 (1563) には円覚寺が全焼した記録があるようです。
その後、衰微していたところを江戸期末期、
天明5年(1785年)大用国師誠拙周樗が再建した、とされています。

わたしは、社寺建築の中でのこのような隅角部の作り方に
いつも興味を持って見学することが多いのですが、
今回ははじめて2重の屋根の上下で作り方が違うというのに出会った次第。
建築的事実というのはそれだけなのですが、
そこではてと思ったのが、なぜこういうふうに違うのかという
素朴な疑問であります。
「円覚興聖禅寺」の額字は伏見上皇の勅筆とされる、ということなので、
この再見時にはそれなりの格式と伝統を尊重した作り方を考慮したに違いない。
このように仕上げたについては理由があったと思われる。
ふつうに考えれば上下とも同じように作った方が合理的と思われる。
たぶん放射状の作り方の方がより古来の作りようで
より仏教的に「位階の高い」上の方の作り方を上位として
下の方はより「簡易」な作り方として造作したのかも知れない。
あるいは、上のような作り方の部分が辛うじて全焼を免れて存続していて
それをありがたがってそのまま使い、下の方だけ新築したモノか。
さらにこうした構造の作り方の違いをはるかに後世に至るまで
明示的に存続させることの意味合いはどんなことだったのだろう、とか、
いろいろな想念が沸き起こってきております(笑)。
まぁ物好きな疑問ではあるのですが、
どうにも腑に落ちる理由には到底至らないような気がします。
この違いについて、ご意見をいただける事を期待して
謎は謎のママ、掲載したいと思います。乞うご教授。