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【宮大工伝統手彫り工芸、わが家のインテリアに】


3連休でありますが、感染拡大もあり自宅でのんびり。
兼用事務所なのでまぁふだんと変わらずの日常であります。
で、そういうことなのできのうご紹介した富山県宮大工の手になる浄土真宗寺院の
火災厄除け・木彫装飾の設置場所を検討して
玄関エリアの「DIYコート掛け」の上部が棟木のように見立てられる横架材なので、
その頂部であれば納まりがいいかもと考えました。
玄関であり、来客なども見ていただけるのでちょうど好都合。
多くのみなさんに、この富山県由来の木彫装飾を鑑賞いただける。
永い時間を「防火厄除け」の使命に捧げてきてくれたこの作品に
第2の役割を果たしてもらうに、いい箇所かもと考えた次第。

この手づくりDIYコート掛けはスタッフたちが手掛けたもの。
設計から施工まで「ああしよう、こうしよう」と工夫してくれた。
そういう労苦の作品に、富山の宮大工仕事の作品が「花をそえる」のではと。
まぁ大先生の見本作品が、ものづくりの心を教えてくれる(笑)。
わたしどもの事務所兼用建物はコンクリートブロック+混構造なので、
いわゆる木造的な構造部分は少なく、そのなかで
木造のこころが伝わってくるような場所、仕掛けとして考えてみた。
で、このコート掛けの「棟木」はツーバイ材で細い面が上を向いている。
そこにこれも幅約6cmほどの作品を「立てる」。
ということで、接着材は極力少量にしたい、また釘で繋げるのも
工芸作品に対して畏れ多いような気もしてくる。大工さんに申し訳ない。
しばし作戦を考えて、木ダボによる連結を思いついた。
緊結させる両方の接合部分断面にダボ穴を開けて、
そこにダボを埋め込んで上から押し込めば安定するのではという考え。

よく家具の接合では使われる手段だそうですが、わたしDIYでは初めての取り組み。
当面、設置場所への多くのみなさんからの「意見」も聞いていきたいので
ダボ緊結であれば、万が一、別の場所に移転させるにも好都合。
ということからまだ接着材は使わずにダボだけで保持させてみたい。

で、DIYショップであれこれと段取り購入。
目を皿のようにして「木ダボ」10個入りを発見。たしか100円くらい。
その寸法が太さ8mm、長さが30mmということでした。
それにあわせて電動回転工具の刃先のドリル金物を探した。
メガネをしてこなかったので、細かい商品説明書きが読み込めず、
親切なDIYショップ店員さんのお世話になって、たしか6−700円ほどの
ものを購入してきました。刃先の取り付けは各工具で違いがあるようですが、
その「締め込み」方法の違いで2種類あるということを初めて知った。
で、木彫装飾を採寸して、合計3箇所のダボ穴箇所を選定。
そこにマーキングして、ドリルで穴開け。あっという間に終了。
さすが電動工具であります、高齢者DIYの頼れる味方。
相方のコート掛け棟木にも同じ寸法位置にマーキング、穴開け。
多少木くずが発生しますが、たかが3箇所なので目立つほどではない。
で、棟木側にダボを装着。事前採寸通りピッタリと緊結された。
・・・本当は8mmといっても微妙に違いが、と不安だったが、さすが木工なので、
細部では木同士で円満に納まってくれるように思います。
最後に木彫装飾を上から落とし込み、嵌め込んだ。
これも、木同士の相性がバツグンだったのか、実に具合良く納まった。
すこし窮屈そうな手応えがあったあと、手での加圧によってピッタリ感が出た。
納まった後、手で確かめてみたがシロウト仕事にしては見事な緊結感。
この様子では、このまま位置が決定されても接着材までは不用かも知れない。

ということでしたが、どうもこの木彫装飾職人さんの導きだったかも(笑)。
シロウトDIYでダボを直感するなど、自分で信じられない。
天上から木彫装飾職人さんが自作品の行く末を案じて
わたしにスーパー超伝導で教えてくれたように思います(笑)。ありがたや。

【富山由縁の寺院火災厄除け・木彫装飾、わが家に】


北海道で古建築探究といえば三笠・岩見沢が拠点の武部建設さん。
民家関係の全国組織での活動も目覚ましく、実際の古民家再生などの実績も豊富。
そういうことで道内各所からの「引き合い」も多いのだと言うこと。

昨日事務所に帰ってきたスタッフから
「武部さんの社長から、これあげると預かってきました」と
差し出されたのがこの写真の木彫装飾。
武部社長が懇意の寺院の建て替えのときに、忙しくて受注できなかったけれど
「もし入り用なら、いまある建物の一部など、持って行って・・・」と
こころよくプレゼントされたのだと言うこと。
で、軒上に飾られていたこれをノコギリでカットして持ち帰り
それを「三木さんなら、喜んでくれるのではないか」と託してくれた。
さっそく武部社長にお礼の電話連絡すると
「これは浄土真宗の寺院で、富山県地方から来た宮大工の手のもの」
というような来歴をお聞かせいただいた。
北海道は日本海交易、北前船交易が歴史的にながく根付いている。
富山地方は戦国期以来、門徒(浄土真宗)の盛んな地域。
そこから北海道に渡ってくる人々が多かったので、必然的に
そういった宗派寺院も建てられるようになったとされるのですね。
札幌と室蘭を結ぶ「本願寺道路建設」という故実もある。
で、宮大工さんの手仕事としてこのような工芸的木彫装飾が作られた。
材質はタモだそうで、見た限り「一木」からの木彫品。
デザインは右側に滝と落ちる「波濤」が描かれ、そこを起点に川の流れ。
波頭がギザギザ表現もされそこに水鳥と思われる2羽が浮き彫りされている。
「寺だから火災をいちばん怖れていて、その魔除けで水がデザインされた」
という武部社長の建築的推定でしたが、作法として間違いないでしょう。
それにしてもいかにも丹精の籠もった一木彫り。
永くこの寺院を火災から守り通してきた一種のプライドも匂い立つ。
きっと大工職人の「心意気」みたいなものが籠もっているのでしょうか。
こういった木彫装飾は一軒の寺院に相当数作られたことでしょうが、
富山県から北海道に出張して来ていた間に造作したのか、
あるいは富山の「本社」の土場でたくさんの大工職人さんたちが
寸法規格を統一させて分業制作していたものか、
その制作工程にもいろいろな想像力が働いてくる。すばらしい。
絵図からこういった立体を紡ぎ出していく「手業」は、時代を超えて迫ってくる。

たまたま、最近ブログでは富山の豪農住宅も記事化した。
モノにはある種の「因縁」というものがあると思う。
いただいたこの木彫装飾、どこかに端座させたいと思案しております。

【上り坂・くだり坂、そして「まさか」】


人生を表現してか、あるいは企業経営を指してか、
よく言われるコトバ。まことに昨今は深く噛みしめさせられる。
戦前期を生きた人びとにとって、戦争・敗戦は「まさか」だったのだろうか。
国際紛争、戦争も含め個人の人生に「他動的な力」は不可抗。
考えてみれば戦争という民にとっての不可抗力は、日本史でも
江戸以前までは日常的だったことでしょうね。江戸期が奇跡だった。
わたしのように昭和中期に生まれてから今日まで生きてきて、
ありがたくもほぼ一貫して平穏な時代を生きてきたけれど、
核兵器という「抑止力」が働いて、核保有国同士の破滅的戦争は
可能性が非常に低くなって推移してきたその結果だけなのでしょう。
たまたま日本はアメリカとの間で同盟関係が続いて
強い抑止力として機能したのでその選択はおおむね良かったのでしょう。
しかし人類が全死する手段・兵器を持ってしまった以上、平和は均衡としての
それにしか過ぎず、理想論幻想は民の平和リテラシーを迷妄させる。
そうした均衡バランスは確保されていたけれど、しかしオイルショックもあり
その直後に就職して社会人になってからも、バブルの崩壊があり
リーマンショック、IT化の急進展がありと「他動的」要因はあり続けた。
そして「まさか」の東日本大震災が勃発した。
わたし人生的にはこの東日本大震災が最大のターニングポイントだった。

「あ、揺れている」と遠雷のような地揺れに身を委ねていた。
事務所の自分のデスクに座りながら、それ以上の行動を取れることなく
やがて揺れが収まって、情報を集め始めたら、
東北の状況が徐々に把握できるようになっていた。
ちょうど東北からの団体のお客様も数日前に接遇したところであり
わたし自身も、2日後に仙台に出張フライトを予定していた。
2日後、岩手県で仕事の予定があったのだ。それに合わせて
いろいろな企業先にアポも入れていた。
やがてテレビで仙台空港への津波の様子が映し出されるようになった。
2日違っていれば、あそこに自分がいたのかもとは、そのとき実感しなかった。
むしろ2日後までには水も引いているかなぁ、くらいに考えていた。
・・・そこから、「まさか」というコトバに実感が伴っていった。
その後、復興支援活動など無我夢中で東北に関わっていったけれど、
やがて落ち着きを取り戻すようになって、人生にはどうしようもない
他動的不可抗力というものがあると、深く胸に沈殿していく思いがあった。
これでこういう体験は終わりだとも思った。

しかしことしの、一向に沈静化の兆しの見えない状況も再びの「まさか」。
東日本大震災からの動きも時間経過とともに日常化して
それもまた与条件と客観化できるようになっていったけれど、
またふたたび、日常性を大きく毀損させる事態が、収束しない。
移動の自由が大きく毀損してそこからのビジネスの突破口は不可欠。
昨日もあるWEBセミナー、というか結局は売り込みセミナーを聞いたけれど、
手法として手詰まり感は否めなかった。確かにWEB利用プレゼンだが
自社だけにメリットがある内容を押しつけられるのは、受け手としてはツライ。
コミュニケーションの基本として、win-winの関係構築が
こういったWEB利用では非常に難しいのではないかと思われる。
対面でのコミュニケーションであれば、情報交換が相互的でwin-winで
進行させられる部分が強く、その上で「信頼」を得ることも可能。
WEBコミュニケーションは貴重だけれど、人間同士の信頼関係構築では
非常に難しいと思わざるを得ない。
・・・不可抗な他動的「非常」体験が、こういった部分でまで発生するとは
本当に「まさか」という思いが強くなってくる。ある意味核に匹敵の威力・・・。
しかも新型コロナ禍、ここに来て一段と猛威をふるってきている。
なんとか沈静化をと、祈る思いが募っています。

【身に付ける「屋根」 日本の雨具・蓑と笠】

雨って、地球創世以来の太古から天から降ってきた。
人間が出現する以前から、生命はそれとどう対応するか、
それこそDNAレベルで「考えて」きた痕跡がわれわれの血肉に格納されている。
どう対応しようかと考えるのは、人類みな普遍の工夫。
人類進化が分化してそれぞれ民族で違いも生まれたのでしょう。
そのなかで日本列島という自然条件で暮らしてきて、
ヒマラヤ出発の偏西風と日本海の水蒸気がこの列島に多雨をもたらす。
結果としてこの地に存在する素材を活用して、雨対策の知恵が蓄積される。
石器時代の雨対策は、たぶん森林や洞穴に逃れることだったと思うけれど、
長い採集生活は、自然界への注意深い探査で素材の特性も見極めていたでしょう。
そういった探究心、工夫の結果、民族的な雨対応文化が生まれてくる。
定住は縄文の世から始まったけれど、漁撈と薪の周辺バイオマス採集に
最適な場所を選定して、生活拠点として家を建てたときその屋根材として
周辺に豊富な「茅場」を確保もしていたと想像できる。
定住革命と同時に「萱」などの繊維利用が開始されたのだろう。
アイヌ集落などでは、集落共同の茅場は屋根材資源確保で必須条件。
まずは家の雨対応策、その確保実現があってそこからさらに雨具が考案された。

日本では雨具は、ながく「蓑・笠」が一般的だったと言われます。
童謡で案山子を揶揄するのに
「天気も良いのに蓑笠つけて・・・」と歌われるほどに日本人の暮らしに根がらみ。
傘も古くから存在していたとされるけれど、なんといっても高価だった。
比較物価的考証では、江戸時代中期頃で1本2万円程度から
安価なものでも5-6000円程度はしたとされています。
それに傘は、手が1本それに取られるので「ながら」労働には適さない。
適度の体動の自由さと、雨水防御を両立させた「笠」はオモシロい。
そしてカラダ全体を覆って動ける「蓑」は、
その素材が藁などの繊維素材でまるで屋根素材そのものであり、
屋根をまとって動き回るというイメージが強かったのではと想像する。
日本列島は先述のように多雨が特徴的な文化圏だと思います。
そしてその気候風土に根ざして萱などのストロー繊維質が自生し、
それを束ねることで防寒性や防雨性を見出して利用し始めた。
そういった無数の先人の知恵にうたれる。
萱などの内部空洞繊維質素材は「防雨」性能の理由が以下のように言われる。
1)茅が厚く葺かれているので、下まで浸み込むのに時間がかかるから。
2)雨で濡れた茅が膨張して隙間を塞ぐから。
3)中のいろりの煙で茅に付いたススが雨をはじくから。
4)棒状の材料を束にしたものによる導水効果で表層だけ水が流れる。
5)ガラス管束を少しずつ隙間を空けた実験で雨漏り防止効果が実証。
・・・というような科学的な解明が進んできていて、深く納得させられる。
日本列島で人々が定住をはじめた縄文の世から
屋根と言えば萱葺きを最上と考える知恵があり続けたのでしょう。
蓑は、それとほぼ同様の発祥であっただろうと推定できます。
雨が非常に多い地域なので雨だから休み、というわけにはいかない。
早くから「水田」耕作を続けてきたので、雨中の労働機会が多かったのかも。
労働を確保するためには、アタマに対して「屋根」をかけて防御して
しかも両手を自由に動作させられる蓑は、革命的だったのではないか。

当たり前ですが、人類の知恵というのは急に進展するのではなく
先祖から連綿と工夫してきている様子がいかにも興味深いなぁと思います。

【いい家とはなにか?/1758年から8代の新潟豪農】



一昨日のブログでムラ共同体での家と戦後ニュータウンでの家の相違、
あきらかに次元を異にする日本の「家」概念にポイントを絞ってみた。
戦後社会が、集団就業の大資本勤労者・農家の次男三男層向けに
「都会でなら誰でも家を持てる」と日本人に普遍的な心理的ロマンを提供し、
都心から遠距離だけれどニュータウンに大量に持ち家を実現させた。
勤労者に約束した「持ち家」は確実に実現したのだ。
しかし、ではそれが「永続する家」であるかどうかは未知の領域だった。
ニュータウンにある家は「末代まで続く家」かどうか、いやむしろ、
多摩ニュータウンが象徴するように戦後社会の幻視になりそうなのだ。

しかし一方で、ムラ共同体の「家」意識の方は健在かというとそうではなく、
その価値感もまた、大暴風とともに消え入りつつあると思う。
写真はそのものズバリの命名ですが新潟の「豪農の館」。
この家はまさに江戸期からのムラ社会での最大の「成功者」痕跡なのだ。
というか、こちらの家は江戸期にさかんに「干拓」を行って、
沼沢地を農地に改良してその所有する土地を広げていった。
やがて結果として小作たちの集住するムラができていった。
なので、一種の農地開発デベロッパーと言えなくもない。
当然開拓した広大な土地はこの家が所有し、小作・農奴が使役された。
そして幕末明治の「階級変動」で全国的に「大地主」層が勃興する中で
最盛期を迎えていった。先に見た「富山の豪農」とまったく瓜二つ。
日本の資本主義が武士の解体と同時進行して「土地が担保価値」という
金融資本主導型の発展に向かった結果、これら大成功者が生まれた。
発足間もない銀行は、まずなによりも「担保」を求め、
江戸期までに土地持ちになっていた階層に対しあらゆる「資本」を提供し
殖産興業に当たらせ、明治新政府側もそういう身分上昇した階層を
あるいは政治家として、資本家として取り込んで日本資本主義を成立させた。
富山の豪農もほぼ同様な経緯で地域の「有力者」になって国会議員にもなる。
明治維新から戦争までの社会は基本的にそのようにして骨格ができた。
それが第2次世界大戦敗戦の結果、農地が開放され「民主化」された。
しかし現代に至るも、基本的には土地こそが基本担保になるというのは
わかりやすい社会経済構造原理だといえるでしょう。


・・・いまこの家は大空間座敷の庭の眺望が話題の「テーマパーク」と化している。
江戸期までの大名家かと見まごうばかりの「系図」がこれみよがしに
展示されているけれど、「偉人」とはどうも素直に受け入れられない。
またこれはムラ共同体社会の成功者典型とは言えない。
住居痕跡としてはむしろ、明治の急激な資本主義勃興期の富の集中痕跡。
ムラ共同体に対しては新興の富豪権力者という存在であり、
その財力に拝跪させられる対象ではあっても、尊崇すべき対象とは思えない。
歴史の中で一瞬光芒を放った階層だが日本的メンタルからは距離がある。

住宅の豪華さのなかに空虚感が漂っている、
こうした「成功者」たちの罪業感が有島武郎のような飛躍行動を生んだ。
太宰治の小説世界的な心象のうつろさを感じるのは、わたしだけだろうか?

【管理が困難な「Apple ID」問題 う〜む】


全国の、いや全世界のMacユーザーのみなさん、お元気ですか?
あ、Win使いのみなさんも(笑)。
わたしが長年、困っていたことがありまして、日曜日に家にい続けたので、
ようやくAppleの相談電話窓口に問い合わせをすることができました。
普段は、「ありゃりゃ」とは思っても、問題を回避し先送りしていたのです。
問題点とは「Apple ID」についてであります。
Macユーザーのみなさんにはお馴染みのAppleのユーザー管理システム。
Winに似たようなものはあるのかどうか、不勉強で知らない。
Macパソコンを新規導入すると、あるいは初期化してOSインストールすると、
必ずシステムの方から問いかけてくるのがこれ。
「Apple IDを入力してください、お持ちでない場合は新規登録してください」
白状するとわたし自身もApple IDは4-5個持っている(泣)、もういらない・・。
登録内容の記憶がメンドイのでつい新しく作ってしまったりしていたのです。

パソコンという性質上、個人ユーザーを想定して
その「管理」をメーカー側として確保するための手段、ルートとして運営されている。
ただOS自体のインストールとか、更新についてはこのApple IDは紐付いていない。
なので、根底的な問題を惹起したりすることはない。
また、多くのソフトウエアは各メーカーごとに管理されているので
Apple IDとはまったく無関係。なので業務上は大きな問題は出ない。
しかし、Macオリジナルのソフトウエア、Pagesなどについては
これが紐付けられているので、それらを使うと頻繁に「最新版にアップデート」という
「親切な案内」が繰り返し発信されてくる。
ここでうっかりアップデートと答えると、Apple ID地獄(笑)が始まる。
・・・詳細はアタマがこんがらかってくるので割愛(笑)。

「こういう問題の回避方法を教えて欲しい」というのがAppleへの問い合わせ。
結果を先に言えば「その通りですね。う〜む」という答え(泣)。
Apple IDはApple社内的にも十分に対応策が練られているとは言い切れない。
古くからのMacユーザーとしてはこの手のクラウドビジネスでは
Apple社は決して褒められた対応はできていなかったと思わされます。
「ひとつの回避方法としてはソフトをいったん消去して、再度インストールされれば」
という提案がありましたが、そのソフトの「環境設定事項」まで削除するのは、
UNIXベースでありいかにもメンドイ作業で、トラブルも惹起しそうなことは確実。
ただ、こういった問題についてAppleでも認識してくれたというのがせめてもの救い。
Macは使いやすくて最近はシステムも非常に安定しているし、
このことで即どうこうもあり得ないので、メーカーさんの対応を待ちたい。
最後は「よろしくお願いします」とお願いした次第。
Apple IDという名詞、これでもかと多発してしまった、申し訳ありません(笑)。
アメリカ資本主義、信頼して忍耐するしかない・・・。

【家は末代か一代か? 持続可能な「住宅地」とは】

住宅雑誌+WEBを、主に注文住宅ユーザー向けに発信しています。
そういう情報メディアなので「どう建てるか」という探究がメインになる。一方の
「どこに建て、住むか?」という必須興味分野については前提条件ということで
あまり深く考え込むことは少ない。
気候風土条件としての必須な性能要件もまた普遍的条件の一端。
土地選択はあくまで建て主さんの生き方選択要件であり、
それについては受動的に「受け止める」ということになる。

しかし、自分自身の家づくり・環境選択ではこの
「どこに建て、住むか?」というポイントはきわめて大きかった。
「将来、この地域がどうなっていくか?」というポイントは人生の長期戦略選択。
当たり前だけれど、将来的な「不動産価値」としてきわめて重要。
また多くの住宅取得者にとって「先祖代々」とか地縁血縁条件は希薄になり
住む土地自体、いわゆる無名性の強い「郊外大規模開発住宅地」選択も多い。
そういった無名性条件の拡大が大手デベロッパーやハウスメーカーという
「量の市場条件」に最適化された事業者が業界主流を形成する要因になる。
大量生産・大量消費の資本主義的システムに順応するということになる。
しかし今日、その社会システム自体も「老朽化」してきている。
東京などでもいっときの「ニュータウン」が一斉に高齢化して
やがて地域の流動性発展性が毀損し停滞していくことが問題化している。
多摩地区などが象徴的ですが、それ以外の地域でも
ただただ現在の土地価格条件だけで住宅地の遠距離化が進んでいる。
都心の勤務先への「大量輸送」を前提としてほぼ同一年代のユーザーばかりが
その地域に集住し、その年齢構成のままに地域が衰退するという問題。
メディアとして「注文住宅での好適な環境作り」という視点だけでは
解決しにくい「住宅問題」が浮上してきていると思うのです。

この問題は日本人の伝統的住宅価値感、家の存続というテーマとも関わる。
資本主義的な社会システムとして地方から都市圏に人口移動させ
かれらを労働力として集約することで日本は社会発展してきたけれど、
それ以前の社会システムは、地域共同体「ムラ」社会型であって
地縁血縁が優先されたシステムだった。そこでは家とは永続するものであり、
家系の発展を建築形式で表現したものというのが普遍理解だった。
そういう社会で土地取得が難しい農家の次男3男層が都会に出ていく。
江戸期を通じてそのように社会が機能し江戸は人口調整機能を果たしていた。
ムラ社会では人口が増え続けたが、江戸で独立して伝承可能な
家系を新たに開くというのは、非常な狭き門であり、
そもそも極端に男性が多いいびつな人口構成で、そういう流入人口が
「所帯を持つ」ことは、事実上、非常に難しかった。
江戸期を通じて、そのような人口抑制機能を大都市は果たしてきたといえる。
それが機能した証拠に元禄頃到達の3,000万人口が幕末まで固定された。
明治、また戦後以降、資本主義的発展が進行して、
都市労働力層がふるさとを離れニュータウンに現実に家を持てるようになった。
このこと自体は江戸期からの大きな社会問題の解決ではあったけれど、
しかし田舎のように生産手段・田畑と近接した住宅ではなく、
ただただ、人が住むという機能にだけ特化した住宅であるに過ぎない。
言ってみれば「どう生きるか?」の機能がない住宅なのだ。
働く場所は満員電車で数十キロ先にあってその間を往復する人間環境。
生産手段と切り離されたそういう「集住環境」が永続的かどうかは
まだ、社会的に解明されてはいないというのがいまの現実だと思う。
こういう住宅を子どもたちはふるさとと認識し、永続を願うかどうか?

この問題、社会システムとしてまだ誰も「解」を持っていないのではないか。
そういう不安を感じているのはわたしだけでしょうか?

【明治資本主義の受益層・大地主の茶道趣味】



さて江戸期を通じた富山の豪農・内山家の時間超越取材シリーズ。
あんまりお金持ちの家には感情移入しにくい部分があり(笑)
それほどツッコミすることはないのですが、
長く続く家系記録も参照できたので人間ドラマも見えてくるオモシロさがある。
きのうは1700年代を生きた当代の「旅行趣味」にスポットを当てた。
本日はいまに残っている豪農住宅の建築年代、1868年という幕末明治。
きのう見た1700年代では一時1000石⇒300石まで衰微したものを
600石まで盛り返し、還暦後さかんに旅行を楽しんでいた様子を記載。
で、幕末明治にいたって、この当時は1000石に版図が復元している。
明治期は大地主層が隆盛を極めた時期と言われる。
地方地主層が財力で新興階級としてのし上がっていった。
太宰治など文化芸術分野でも、社会の最有力層として足跡を残し始める。
たぶん太宰の根底にある「不安感」は、急上昇階層の心象特徴なのかも。
たしかにこの階層がどういう「努力」をしたのか定かではない・・・。
個人としての努力をはるかに超えて社会の趨勢があった。
日本は資本主義が勃興するとき、その「担保価値」として土地が最上として
それを根拠とした進歩発展があった。必然的に土地持ちに権益が集中した。
金融資本自体勃興期であり、カネを貸す担保は土地がわかりやすかった。
結局、人の世というのはその時々で支配層は「循環」するのだと思う。
まぁ現代で言えば、さしずめマスメディアなどは
社会的地位としての既得権受益層というように言えるかも。
戦後体制構築の占領時、米民主党左派がメディアに第4権力構造を与えた。
・・・おっと、横道。で、この内山家も、家運の最盛期を迎えたようなのです。
この松世さんはその家の財力で資本家として活動を活発化させ、
政治家としても国会議員にまでなっている。地方有力者という存在ですね。

いまに残るこの豪農邸宅で特徴的なのが写真のような茶道趣味。
いかにもワビサビを感じさせる石材選びと、その構成ぶりに
「数寄」こころを強く感じさせられます。
1868年にこの住宅を新築したのは、第11代当主の年彦さんなのですが、
その養子・12代の松世さんは京都に遊学して茶道の師匠についている。
藪内さんという「宗匠」という。Wikipediaで調べてみると以下のよう。
〜藪内流(やぶのうちりゅう)は茶道流派の一つ。
古儀茶道藪内流とも。浮薄を戒め利休時代の茶風を留めているとされるが、
これは紹鴎・利休の侘び茶に織部の武家茶の影響をいれたものである。
庵号は燕庵といい、織部の考案による相伴席付三畳台目の茶室を指す。〜
松世さんは男子の継嗣がなかった先代・年彦の弟の子・甥にあたり、
年彦の娘さんと結婚して家を継いでいる。
父親は内山家から出て別姓を名乗っていて、こういう経緯で本家に迎えられた。
本家の財力が大きく縁者もまた京都遊学の機会を得るほどであったのでしょう。
遊学先は内山家は京都が出自という縁もあったのではと推測できる。
こういった石材へのこだわり、という文化は知ることが少なかったので、
「へえ〜〜」と、オモシロい世界を知った気分であります。
この写真の石材の選別配置・結構についても藪内宗家を招いて吟味させている。
また、藪内家出入りの大工棟梁たちがこの建築を手掛けたとの記録。
北陸富山の「地域性・気候風土」への対応という環境性よりも
京都風の文化権威拝跪型の志向がきわめて強い住環境、住文化。
石材の説明などは写真をじっくりご覧ください。ふ〜む、であります。
人間の最後の興味分野は石だと、昔に聞いていたような気がする。
しかしまだまだ修行が足りず、そういう境地にはほど遠いわたしであります。
あ、石器時代にはたいへん興味が強くなってきている。ひょっとして・・・。

【江戸1700年代のGoTo旅・富山豪農の人生】



江戸時代というのは、けっこうな「旅行ブーム」の時代。
庶民の物見遊山の旅行というのは、届け出段階で禁制されていたけれど、
それが神社仏閣詣でなどの宗教がらみになれば緩やかに許可されていた。
「旅行用心集」というようなベストセラー「旅行ガイド」も江戸版元から出版され、
「お陰詣り」に庶民は繰りだしていたとされる。
現代にいたる神社仏閣への参詣心というのは、こうした旅行実利と一体となって
日本人の生活習慣、心理に深く浸透していったものと思えます。
本音とタテマエという2重基準の使い分け要領が良かったと思える(笑)。
で、きのう触れた「富山の千石地主」内山家の1701年から1780年を生きた当主、
逸峰さんの旅行記録があった。その様子に注目し暮らしと趣味生活の取材です。

この人の生きた当時の内山家の経済状況はけっこうな浮沈ぶり。
家の基本版図「1000石」の収入があったところ、おじいさんの代に
近隣の河川氾濫があって新田開発の必要が生じ、積極的に経営拡大し、
一時期1700石まで版図を広げていたとされる。多少のムリもあっただろう。
そしてそのおかげでか、藩主はこの内山家に頻繁に出入りして、ついには
父親の代に藩から金づる利用されたのか、資金的に借金が嵩んだようで
1729年頃には一転して300石程度まで版図が縮小する。
借金返済苦境のために農地を切り売りしていったのだ。
そのような家の経済状況の中、36才のときに逸峰さんは当主を世襲した。
そこから地道な復興努力を傾け1745年・43才当時に600石まで回復させた。
ちなみに1石というのは人1人の1年間食べるお米の量に相当する価値。
全国の石高は幕末で3000万石と言われ事実人口も3000万人だった。
当時の内山家の奉公人は44人で馬を15頭飼育していたとのこと。
このころの家屋敷の面積状況が書き付けられている。
●母屋 3.5間×9間=31.5坪●作事場 5間×15間=75坪●馬屋 4間×6間=24坪。
●中屋 2.5間×9間=22.5坪●物置勝手  3.5間×9間=31.5坪。
工場一体型家屋と考えると、総面積184.5坪建築物の所有「企業」。
現代の日本人の1人あたりGDPはざっくり500万円とされるので、
44人雇用+扶養家族もカウントすれば、およそ100人分のGDP相当と推計。
そうすると5億円程度の「総GDP」規模の企業ということになる。
製造業平均で仕入費用が50%と勘定すると、総売上10億円企業程度かなぁ。
<GDPは付加価値の総量なので、仕入を除外した金額と考える。>
っていうことは売上げ5億くらいまで落ちていた業績を倍増させたのと同義か。
ちょっと荒唐無稽かも知れない積算ですが、大ぐくりの把握数字として。

で、本題のかれの人生の「旅行遍歴」であります。
●若い20才で「伊勢参り」に行っている。若いボンボン「旅をさせろ」か。
それから家業に精励して家勢を衰退期から倍増と復元させたところで
還暦になってから余生と考えたか、頻繁に旅行に出かけ始める。
●60才 京都 ●63才 京都・大阪・明石・伊勢
●同年 弥彦・新発田・米沢・山寺・松島・鹿島(神宮)・日光・江戸・善光寺
〜〜●74才 大津
と、写真2枚目詳細のようにほぼ毎年10回の旅行に出掛けているのです。
家系伝承では京都の出自とされているので、まずは遍歴はそこから開始したか。
当時の旅行はひたすら徒歩旅行でしょうから、なかなかの健康ぶりであり、
また、その費用負担も可能なほどの財政状況だったようですね(笑)。

ちょっと懐勘定も交えた歴史的推理での「取材」ですが、
この人の人生の状況が総合的に垣間見えて、人間的親近感を抱きます。
江戸期がずいぶんと身近に感じられてオモシロい。

【江戸時代富山のトランプ邸?/日本人のいい家⑨】




タイトルが刺激的かなぁ(笑)。ひょっとするとFacebookからBANされる?
わたしは特段トランプさんに好悪の感情は持っていませんが、
アメリカメディアのやや冷静さを失ったようなトランプ叩きには
他国の冷静な一国民としてちょっと疑問を感じております。
冷静な現状としては、まだ選挙結果は「確定」していない。
これは以前のゴアとブッシュの選挙でも同様にもめていたのと
そう大差のないゴタゴタが続いているのだと思います。待つしかない。
日本にとって最優先にすべき唯一の同盟国であるので、
大いに関心は持たざるをえないけれど、冷静な判断がしかるべきだと考えます。
ただ、外交は待ったなしでいろいろな動きをしなければならない。
現状で「優勢」とされる候補側と連絡を取るのは必要でもあると思います。
本来であれば静観もあり得たけれど、EUが動くというタイミングで
バイデンさん側と話し合って「尖閣防衛義務」言質を取れたことは大きい。
いま日本ができるのは、現状維持なのだと思うのです。
中国側から「激しい反発」というのは、かなり効果的というサイン。
自由世界側の台湾防衛と一体と見なせる尖閣の防衛は明確な発信。
中国は台湾と尖閣を一体と見なして対外攻勢を行ってきている。
日本の国益としても世界の平和を守る意味でも、尖閣の現状維持は
非常に重要なポイントになって来ている。この世界情勢感覚は不可欠。
・・・話を戻すと、アメリカメディアのトランプ叩きはやや度が過ぎる。
アメリカ人ではないので、肌感覚はわからないけれど、
どうもいわゆる「不動産屋のオヤジ」的レッテル貼り、人格ヘイト攻撃が
目に余る。仮にも7,000万人以上のアメリカ人が信頼して投票した人物。
日本メディアがその尻馬にただただ乗っているのは見苦しく嘆かわしい。

おっと、タイトル付けから横道に逸れまくり(笑)。
富山の「豪農館」という住宅建築であります。
内山家というお宅ですが、明治になって家系は東京に移転されて
この建物は富山県に寄贈されて、その後一般公開されるようになっている。
WEBページの概要を見ると要旨は以下のようです。
〜富山県民会館分館内山邸は、越中の豪農・内山家の邸宅・庭園等を、
昭和52年8月13代当主内山季友氏から富山県へ譲渡されたもの。
内山家は1521〜1531年頃、富山市内地域で新田開発してから
450年続いた家柄で、資料で確認できる累代では季友氏が13代目。
歴代当主は富山市内神通川の氾濫原野の開発新田に基礎をおく自営大百姓。
富山藩時代には十村(とむら)役として地域の勧農・治水にあたり、
たびたび富山藩主の来訪も受けた。明治以降地主制度のもとで最大繁栄期。
この建物の大部分は11代内山年彦によって幕末1868年に建てられたもので、
江戸時代の典型的豪農屋敷の構えと生活様式をとどめている。築150年。
座敷、広間等の構成は伝統を受け継ぎ、いろり部屋、にわ(作業小屋)等は、
農家としての特色を残す。また明治期12代内山外川氏によって改装された
表座敷や書院の一郭は選びぬかれた材料でつくられ当時の「千石地主」の
繁栄ぶりが偲ばれ広大な庭園とともに深遠な趣きをただよわせる。〜


・・・という邸宅。「日本人のいい家」という範疇として考えたとき、
庶民性からはかけ離れているかなぁと思いましたが、「千石地主」という
不動産王の「御殿趣味」、住宅へのこだわりのありかを探ってみた。
広大な家屋敷で江戸期までの日本人成功者の心情があらわれている。
「結構」な空間として特徴的な庭の景観を楽しむ「月見台」。
そして茶を愉しむ空間では、独特の窓造作などが見られた。
こういった趣味傾向にお金をかけるというのが江戸期までの金持ち心理。
カネで成功した人間として、自分は文化人としても優れているのだと
そのような自己顕示メンタルの方向に向いて行くのかと推察されました。
文化的な中央権威への無条件の翼賛が感じられ、
生業感、生きる必死さのような部分ではややうつろを思わせられる・・・。
結局自分は住宅を通して住む人の個性・生き方を知りたいのだと気付く。