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【テレビメディアとの関係・自分史】

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きのうは自分史にスポットを当てる地元ローカルテレビ番組の放送。
自分のことを聞かれるという経験は初めてだったのですが、
番組パーソナリティを兼務する福津京子さんのリードに乗せられて、
楽しそうにしゃべくっている自分がテレビの中にいました(笑)。

みなさんはテレビに出た経験はありますか?
日本人とテレビって、戦後の力道山プロレスの時代から
いわば「大衆社会化状況」の象徴的なものとしてあったと思います。
日本でのテレビ放送は、1951年GHQの要請により電波監理委員会メンバーが
視察のため渡米。アメリカから3人のコンサルタントが来日。
軍事戦略のひとつとして占領国でのテレビ放送利用を
重要視していたアメリカの圧力によりスタートを切ったとされる。
で、1953年からNHKから放送が開始された。
ということなので、63年という時間が経っている。
わたしの年齢はほぼそういった時間と重なっている。
当初はもちろん、街頭テレビとして力道山のプロレスがブームを牽引した。
そういう創成期にはもっぱら受け止めるメディアだったけれど、
放送内容が多様化するにしたがって、「テレビに出る」ということも
どんどんと大衆化していったと思います。
わたし自身のことで言うと、小学校5年、10歳くらいの時、
ですから1962年当時に、札幌の街中の小学校だったこともあり、
NHKローカルで、子どもたち出演の討論番組のようなものに出たのが嚆矢。
たぶんNHK札幌に比較的近いということで小学校に協力要請があって
それに応えて出演したのだろうと思います。
高校3年17歳の時には、学生運動をやっていてアジ演説していたけれど、
その様子を映画研究会の友人が番組に編集してNHKに売り込んだらしく、
なんの事前予告もなく、その様子が「高校生の政治運動活発化」というようにして
NHK朝のニュースワイドみたいな番組で流されてしまった。
それまで親には「どうも学生運動しているみたいだ」と疑われていたのが、
どうにも動かぬ証拠映像として、食事しながらいっしょに見るという
なんとも居場所のない状態になった記憶がある(笑)。
逃げ出すように学校に出掛けていった。
で、星霜を経て、住宅雑誌リプラン創刊当時・28年前1988年には、
雑誌の宣伝のために「TVリプラン」というオリジナル番組を制作運営していた。
そちらの方で主に宣伝をやっていたけれど、
結局、住宅番組と言うことで番組内容まで全部引き受けざるを得なくなって、
その番組継続は制作企画進行が物理的にムリになってしまった。
その後、地元TBS系列HBCの昼ワイドショーで、住宅情報コーナー番組として
そのコメンテーター、番組企画運営などをさせてもらった。
ほぼ月一回程度の頻度で、実例住宅映像とわたしのコメント解説という
そういった番組を都合3年くらい継続していた。
テレビは即応性が要求される世界なので、コメンテーターには自在性が不可欠。
いい経験をさせてもらったと思っています。
どうしてもやや、テンションを上げ気味に対応する必要がありますね(笑)。
ということで、自分とテレビ54年の付き合いだなぁと少し感慨に浸っていました。

【本日(より)J-com札幌でわたし出演番組放送】

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さて、既報の通りJ-com札幌「札幌人図鑑」という超地元メディアにて
わたし個人へのインタビュー企画が放送されます(笑)。
たぶんだれも見るひとがいない時間、午前10:30から
J-com札幌で契約をしている方は無料放送チャンネルにて受信出来ます。
ということで、放送まではまだ2時間ほどの時点でブログを書いています。
もう胸が張り裂けそうであります(ウソ)。
でもせっかく出演しているので、なんとか視聴率を上げたい。
放送予定は写真にもありますが、
11月23日 午前10:30〜
11月23日 午後18:30〜
11月24日 午前 7:30〜
11月25日 午後18:30〜
11月26,27日 午前11:40〜
となっております。
また、インターネットでは  札幌人図鑑WEB
11月30日から無料で動画配信されることになっています。
このブログ読者のみなさんは、ほぼ7割方は本州地域の方なので
そちらの方でご覧いただきたいと思います。

この番組ではさすがのインタビュアー・福津さんの口車(笑)に乗せられ
あれこれと、人生でも一度も話したことがないようなこと、
っていうのは大袈裟ですが、でもまぁ本人も忘れていたような
幼少年期のこととか、いろいろお話ししてしまっていたのであります。
ここで話したことがきっかけで、長年ノドにつかえていたことを
もう一回思い出してしまって、さっそく行動に移してもいる。
そういう意味でまことにこのインタビューには感謝しているのです。
メディアの意味っていろいろあると思いますが、
自分自身のことがこのように取り上げられると、その効用にふと気付く。
いま、一昨日のブログ投稿に関して、活発なやりとりがあります。
そのなかで、建築家の西方里見さんから
「話題提供、度度有難うございます。自分がモヤモヤしている箇所が
整理でき方向が見えてきます」というコメント。
まったくその通りに自分自身も感じさせられる次第。
なお、このやり取りに関連して北総研の鈴木大隆さんからも
メールをいただきまして、関連情報知見も提供いただきました。
こちらのテーマも、じっくりと深耕させていきたいと思っています。
やはりメディアの仕事というのは、多くのひとの関心を呼び覚まして、
論議を起こしていくことが大きな役割のように思います。

ということで番組のご案内でした。
さてさて、あと2時間であります。ソワソワ。

【札幌の11月前半104年ぶりの寒さ】

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どうも札幌、最近寒いなぁと思っていたら、
表題のようなデータが発表されました。
11月の初めには、本州出張から飛行機で千歳に還って来て
大雪が降り始めていて、高速道路が冬タイヤ装着以外走行禁止で、
夏タイヤだったのでやむなく札幌までの帰路、ノロノロと
帰ってきたことがありましたが、
その後も厳しい寒さがうち続き、ほとんど紅葉を楽しむ期間がないまま、
真冬に突入したかのようだったのです。
なんでも、特に11月に入ってから北海道で極めて気温の低い状態で、
気象庁から発表された11月上旬の平均気温をみると、全国的に低温の中、
北海道では全地点で平年より3度以上低くとなっているそうです。
とくに札幌は2.1度で平年より5.4度も低く、1912年の2.0度以来、
なんと104年ぶりの寒さとなったのをはじめ、旭川は-0.4度で
平年より5.0度低く、110年ぶりの寒さとなったのだそうです。

折から北総研の鈴木大隆所長の講演を聞いていたら、
氏が学生の頃に住宅の「気密測定」を行っていた当時、いまから30年も前、
そのころには室内にC02を充満させて、それが単位時間経過後、
外気のC02濃度と比較しての減少を計測するという手法をとっていたそうで、
その当時の外気CO2濃度と比較しても、現在はそれが140%超以上にまで
地球環境の外気C02濃度は上がっているとのこと。
<2枚目の図は講演中に示された地球緯度別のCO2濃度の経年変化>
時間経過とともに加速度的に進行しているCO2の増大が、
気象に対して、暑さも寒さも「極端化」の進行として表れてきているとされた。
地球環境全体の中で、CO2を海洋が吸収してきたものが
飽和状態に到達して、本格的に大気環境に作用し始めたといえるのでしょうか。

最近、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」を読み続けています。
(とにかく大長編、全8巻のうちようやく第7巻に到達)小説というか
日露戦争叙事詩とでも言った方がいい叙述から考えることが多い。
世界全体の帝国主義の時代に、そのなかで遅れて近代国家になった
有色人種国家・日本が自衛的にそれを転換させていった歴史局面をみると、
人類社会はあの時代、客観化してみると帝国主義という妖怪と戦っていたと思う。
その類推から、今の時代はエネルギーの乱獲・消費という大問題と
対峙しなければならない局面なのだというように見通せてくる。
巨視的には、そう捉えて間違いはなさそうだと思うのですが、
それでは突破する方向性は、どういうものが考えられるのか、
なかなかクリアには見通しが見えてきていないと思っています。
しかし、そうであっても、地球環境からは待ったなしの警告が
このような異常な気候変動としてわれわれに迫ってきているのは間違いがない。

【マンガ的に「カワイイ」縄文土偶メディア】

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世界史のなかでも特殊な段階が日本の縄文時代。
およそ13,000年前から始まって約10,000年続いていたとされる。
文字という人類におおむね広く普及した「伝達手段」は、
「農耕」社会の成立をもって必要性が生まれたとされるので、
この縄文の世が文字を持たなかったことは、
逆に農耕が主流ではなかったことを明示してくれている。
アフリカから世界に進出した現生人類が日本列島を通ったこの時期に、
そのまま居着いたひとびとが、豊かな海生動物と木の実の採取で
生きていけると直感して定住した縄文時代。
世界史の主流としては、農耕と定住が同一起源とみなされるのに、
日本列島社会、縄文では、定住と農耕が一致しない。
しかし農耕がなかったからといって、食用植物の栽培がなかったわけではない。
たとえば三内丸山では、クリの栽培が行われていたとされている。
また、三内丸山のように集住生活、「都市」と呼んで過言ではない
そういった大きな集落も営まれていた。
文字記録を持たなかった縄文の遺跡からは
写真のような「土偶」が出土され、その「精神性」が
はるかなよすがとして、現代にメッセージとして送られてきている。
狩猟採集が基本である社会では、人間それ自体が最大の「生産手段」なので、
その誕生と死に対して、過剰すぎる祭祀性が集中されて、
このような多様な土偶を生んだことは、確からしく思われます。
土偶は縄文の世を伝えるメディアなんだろうと思える次第。
世界でも日本の土偶が「THE POWER OF DOGU」としてイギリス・大英博物館で、
2009年9月10日(木)~11月22日(日)の間、展示され話題になった。

まぁ、土偶の時代にはある程度、自由な解釈が可能でしょうが、
いろいろな土偶に接してきて、その精神性は伝わってくるものがある。
この写真の土偶は 埼玉県さいたま市岩槻区真福寺貝塚出土(東京国立博物館)。
人体をきちんとデッサンしているとは思えないデフォルメぶりが、
その後の日本マンガに繋がってくるような表現を感じさせる。
そうなんですね、マンガの原型を土偶に見る思いがしてならない。
ある表現目的にかられて造形をしていくときに、
ふと人間感受性の共通項のようなものがあって、その部分で
その感受性において、土偶とマンガが連なっていることを感じる。
どうも現代のマンガ表現ときわめて近接している。
おおむね人間のカラダをデフォルメ表現したには違いないと伝わるけれど、
その表現ぶりが、実に個性的だと思います。
このまんま現代マンガに登場させたら、人気を博すのではないか(笑)。
ヘアスタイルのユニークさは、現代人も及ばない発想力。
胴体部と脚部の幾何学形態ぶりもたいへんモダンを感じる。
現代マンガの「カワイイ」という感受性とも通底する部分を感じてなりません。

【土壁と高断熱、壁構造からみえてくるもの】

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日本の木造技術の歴史に対して大きなリスペクトを持っています。
古民家や古建築を見るときには、やや背筋が伸びる思い。
わたしたちの先人が苦闘してきたその叡智が、
こういった土壁の構造には凝縮されているのだと思っています。
ひるがえって、現代の北海道が発祥になって生み出されてきた
高断熱高気密技術の合目的性もまた、
柱と梁で建築を構成するというトラディショナルな工法のままに
現代世界最前線の建築工法として生き延びさせてきたものとして
きわめて誇らしいと考えています。

筑波大学名誉教授の安藤邦廣先生から、
竹小舞+土塗り壁という壁の工法は、応仁の乱をはじめとする
戦乱の状況、絶え間ない破壊と焼失という木材資源の乱獲状況のなかで、
「手間はかかるが、より省資源の工法として」生み出されたと教えられました。
それまでの板倉のような工法では壁に大量の木材が入れ込まれたが、
それに対して土壁では、東アジア米作地域には
ほぼ無尽蔵に自然繁茂している竹と、植物繊維で下地を作って
これもまったく無尽蔵である土を塗り固める工法が採用された。
これで壁造作の資源量が大幅に削減されたとされていました。
ただ、その分だけ壁造作には人手がかかったけれど、
それは戦乱の結果、流動化が促進された労働力があったとのこと。
この壁造作は素人でも可能な技術だったので一気に普及したのでしょう。
それまでの竪穴に比べれば、はるかに「文化的」な住宅が土壁住宅だった。
やはり木材資源の乱伐が極限まで至っていたとも言われます。
今、日本の山・森林資源はそれほど利用されず豊かな緑をみせているけれど、
歴史的には日本の山々は、むしろ禿げ山っぽい風景を見せていた。
応仁以来戦乱によって木材需要が盛り上がった京都北山には
30年で成木になる杉がさかんに植林され「北山杉」になった。
土壁の一変種と言える数寄屋、その極例ともいえる茶室建築では
山に植林する際に発生する間引き材、ごくほっそりとしたそれを
これ見よがしに構造材として利用して、簡素の美、文化にまで昇華させた。
土壁工法には、そういった民族歴史的経緯があるという。
結局は日本人の「省資源」の知恵が生み出した工法。

一方で現代のわれわれが生み出してきた「高断熱高気密工法」。
こちらは、暮らしようの大変化のなかで家の中で消費せざるを得ない
「エネルギー」を抑え込む基本要素技術として大発展した。
応仁の乱の頃には、資源が枯渇する一方、地方の農業生産・開発が進み、
人口もそれにつれて伸張期にあたっていたから、
多手間型の住宅生産システム技術が発展したけれど、
わたしたちの時代ではやはり条件が違うのだと思う。
国土の森林はたしかに未利用で放置されているけれど、
他の産業生産力が飛躍的に発展増大し、人手不足が大きな問題になっている。
そしてCO2の地球的極限状況が迫ってきているなかで、
エネルギーの極小化が、最重要発展要請として時代が希求している。
手間をも省力化させた「省エネ」な工法へと変化してきている。
明治の時代には弱肉強食の帝国主義争闘の世界の中で
生き延びていく方向として、富国強兵があったけれど、
今の時代はたぶん、この省エネ・省CO2が人類緊喫の課題だろうと思う。
ただ、このテーマには明瞭な生き方・目標が見えて来づらい。
どうもそんな気分の中にいまあるように思われます。
手業の感じられる土壁に比較すると、ややのっぺりとした印象の
現代住宅の壁構造に、そんな思いを感じております。

【エネルギー・人口減少とひとの未来生存戦略】

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さて北海道の地域戦略研究機構である道総研の
建築研究本部というのが、北総研の本来的な位置付けです。
写真の鈴木大隆氏は、住宅の省エネがその専門と見られていますが、
氏にお話を伺うと、その本来の任務としての
北海道の「地域未来戦略」の研究者としての側面が、もうひとつ
大きな研究テーマであることも理解出来るようになってくる。
当誌の連載エッセイの〆切のこともあって(笑)、ここ2日ほど、
仙台・札幌と氏の講演に平行して取材しておりましたが、
とくに昨日の北海道大学での講演では、その側面が明確に見えていました。
もっとも、氏の恩師である鎌田紀彦先生からは、
「役人になってきたなぁ」というような印象を言われるとのこと。
なんですが出版人として、住む人・一般庶民の立場で見ていると、
むしろ地域の中でそこに暮らす人のエネルギー問題、人口減少社会問題、
そういうなかで地域と人々はどう生き延びていくべきか、ということは、
まことに根源的なテーマで面白く刺激的だと思います。

写真上は、北海道全域の「土地利用」のマクロ的把握。
どういった未来研究にあたっても、現状がどうであるかの把握は大前提。
わたしどものような門外漢には、こういうマクロ認識からして面白い。
こういう土地利用の現実があって、それぞれについて、
今後のエネルギー縮減型の社会構造を描いていくときに、
どうすればコンパクトでサスティナブルな社会を創造できていくか、
そういう切り口になっていくものと思われます。
きのうのフォーラムは、基本的には工学部・建築のなかでの
「都市計画」的な領域のみなさんが参集されていて、
やや一般人の「生活感」というよりは、社会的なニーズにどう対応するか、
というスタンスでの論議が展開されていました。
当面する世界の最大の問題としてのCO2増加というきびしい現実があり、
それをいかにコントロールし、人口減少がもたらす社会変化のなかでも
この地に暮らすひとびとがどうやったらシアワセに生きていけるか、
そういう方向性を探っていくということであります。
したがって、こういう土地利用状況と、今後予測できる人口減少のなかで、
「地域」としての集合と拡散をさまざまに考えていくという方向性になる。
聞きながら、そもそも「都市計画」と一般人の暮らしの感覚とは、
ある懸隔があるものだと感じ続けておりました。
こうした方がエネルギー的には合目的的であるとか、
CO2削減の観点からは、こうすることがマストというような論議なんですが、
それは大いに共感できるとして、そのような方向性に向けるには
現状の人間社会は、どういう経済的生存を計画していったらいいのか、
そういった内面からの問いがずっと沸き上がってきておりました。
省エネとか、省CO2は大いに共感するとして、
そのような未来社会は、そこでどのように人間が生きていくか、
そのときの仕事、生き方はどういう姿になっていくのか、
環境要因から必然化する省エネ省CO2的な社会構造の中で
普通の人々が、ごく普通に生きていくための生存戦略の視覚が
なかなか難しいと素朴に考え続けていました。
まだ生煮えの感想ですが、このテーマ、掘り下げたいとも思った次第です。

【花鳥風月もだしがたし秋爛漫】

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さて3日間にわたったいわき・仙台への出張を終えて
きのう深夜に札幌に帰還いたしました。
とくにきのうは、興味深いセミナーが東北電力さんの主催で開かれ、
北総研の鈴木大隆さんと函館の渋谷建設・渋谷さんの講演は
どちらもたいへん面白いテーマ構成でしたので、
追って、内容をご報告させていただきます。

ということで、慌ただしい日程を過ごしていたわけですが、
季節はまことに極彩色のきわみのような美を見せてくれております。
ふとした瞬間にも、四季変化の美が襲ってくる(笑)。
時間に追われながらもそういう景観が足を止めさせ、魅入っていかざるをえない。
でも時間がないので、束の間、写真を取るくらいしか出来ない。
きのう朝、仙台駅近く中心街のホテルから、わが社事務所への通り道、
仙台市若林区の「新寺小路緑道」を歩いておりました。
この道は、仙台での通り道では時間がない中では
たいへん有意義に四季変化を感受させてくれる散策路。
おりから乱舞する落葉が風に吹かれてザワザワとした踏み音を返してくれる。
さらにモミジの見事な紅葉が、お寺の庭につい引き込み誘ってくる(笑)。
目の前で、緑道から見事なモミジの中に引き込まれていくひとを見て
なんとも、ため息の出るような思いをさせられました(笑)。

日本という国土は、世界の中でも山の多い火山列島地形、
そしてアジアモンスーンのヒマラヤからの偏西風が通り抜けていって
ある高緯度という条件から、明瞭くっきりとした四季変化を持つ。
縄文の、あるいはそれ以前の石器時代からの定住によって、
この四季の輪廻が、この地に生きる人びとの心象風景に大きく関わった。
まわりを海に囲まれ、その上多雨な気候から、
「水に流す」という不思議な寛容性を育んだように思うし、
多様に移り変わっていく四季は、花鳥風月という心象の基本を作ったように思う。
そのなかでも、北海道という国土を得たことは、
その花鳥風月のスパンを大きく拡大させてもきたのだろう。
南北東西に長い国土の中で、多様な四季変化が同時進行し、
それがひとつの共通意識文化圏を構成していることから、
生々流転、輪廻転生といった感受性を育んできたに違いないと思っている。
時折、足を止めてじっくりと風土の呼吸感に身を委ねていたいと
そんな「もだしがたい」気分に襲われますね。
本日はちょっとテーマひと休みでした、明日からは住宅ネタ、閑話休題(笑)。

【数寄屋と高断熱高気密、木造技術の交点】

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写真は青森市の工務店・林工務店さんの現場でのもの。
北海道と青森は隣県だけれど、
その仕事ぶりの大きな違いに気付かされた。
というのは、北海道の住宅を取材しているときには
まずこういった「手仕事」ぶりに出会うことは少ないからです。
1枚目の写真はこれはてっきり
手の込んだ建具屋さんの仕事だと思って見ていました。
繊細な木組み格子をもった和室の引き戸なのですが、
その上、夏の涼やかな風通しのために、
葦を編んだすだれのような造作が全面に施されている。
こういった夏の暮らしへの繊細な配慮に満ちた建具文化自体、
北海道の現代住宅ではほとんど見られなくなっている。
そもそも「建具屋さん」という職種自体も既製品に置き換わっている。
そういった手仕事を見る機会も少なくなっている。
という感覚を持ったので、優秀な建具屋さんですね、と
印象をお話ししたら、いや、これは造作大工の仕事ですと言われた。
2枚目の写真の手の込んだ階段手すりも示されて、
こういった手仕事の専門職大工さんを自社スタッフで持っているという。
北海道の工務店との彼我の距離感にあらためて気付かされた次第。

こういった木造住宅のディテールでの技術力が
工務店の大きなベンチマークであるという感覚の世界。
さすがに和の伝統継承の職人集団としての工務店とは、
こうしたディテールの仕事をさりげなくこなしきる技術力が
大きな「差別化」に繋がってくるという木造文化が感じられた。
そこには、木を造作する技術という部分での誇らしい文化性がある。
そのことは大いに気付きになったのですが、
現代の生活文化の中で、こうした技術はストレートに
いまのユーザーに訴求するのだろうかという感覚に襲われた。
こうした技術力は、繊細な「数寄屋建築」的な世界では
大いに競争力を持った技術には違いがないけれど、
より切実な木造技術と言える「高断熱化」という部分とは志向性が違う。
ただ、林工務店さんは高断熱高気密技術では最先端の工務店。
その木造技術の異なる志向性のなかで努力されているのだと
改めて気付かされたと言うことなのです。
たぶん、1枚目の建具仕事などは、当然のように夏冬で
建具のしつらいを入れ替える生活文化がその基底にあるのだと思います。
わたしの子どもの頃、もう50〜60年前のことですが、北海道でも
たとえば「畳の表替え」ということが、行われてもいた、
そういったきわめて「日本在来」的な生活文化を追想させられました。
言ってみれば、数寄屋と高断熱高気密という異なる技術評価軸。
本州以南の工務店さん、作り手のみなさんには
こういった技術伝承的な部分が随伴していることに静かな驚きと、
やや距離感はありながらも、リスペクトも感じた次第です。

【震災時、木造仮設大量実現の福島住宅行政】

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きのうは日本でも唯一の、なかばオフィシャルな工務店企業の全国組織、
JBNの全国大会が、福島県いわき市で開催されました。
ことしで9回目の大会で、わたし自身は数回参加していますが、
東北での開催、日頃からお世話になっているエコビレッジ・和田社長が
全国大会のホスト役ということで、取材を兼ねての参加であります。
JBNは、国交省などの国の行政機関とのパイプ役として
工務店企業が意見具申するとき大きなパワーを持っています。
はじめての東北地区での開催に当たって、東日本大震災、
それももっとも厳しい原子力災害に見舞われた福島県の
対策の最前線とも言えるいわき市で開催されたのです。
こういった全国組織大会では、交通の利便性がより優先されるのですが、
今回に限っては、このような象徴性が優先されたと言うことで、
総会の中では何度も「交通の不便な」という枕詞が交わされていました。

っていうような次第でしたが、
きのうの講演では、もと福島県の住宅行政の中核であった
佐々木孝男さんの講演を聞くことが出来ました。
氏は現在は福島県を退職され、「ふくしま建設住宅センター」の
理事長を勤められています。
氏は、震災直後の時期にわたしどもが発行した
東日本震災からの住宅復興ボランティア情報誌で、
福島県の木造仮設住宅の実現経緯についてインタビューさせていただいた。
これまでも震災毎に、なぜか地域工務店は災害仮設住宅建設から
オミットされて、プレハブ協会のみが受注主体になって来ていた。
その不合理な状況に大きな風穴を開けて、
福島県では木造の仮設住宅を大量に実現させたのです。
インタビューでは、地域工務店との協同による地域起こし的な
住宅施策に福島県は大きくカジを切ってきていた経緯が示され、
その大枠の推進構造を活かして踏み切ってきた状況がうかがえました。
あの時期の生々しい状況が再度思い起こされた次第です。
わたし自身、ああいった状況の現場にいたことがまざまざと思い起こされた。
福島県の沿岸地域を取材や訪問していて、
その現場感覚をもう一度、呼び覚まされたような気が致しました。
その後も福島県住宅行政としては進化を続けられていて、
2枚目の写真のように災害公営住宅建設応募について地域工務店に対し、
その「提案内容」について受注した事業者と各社の「獲得点数」を
前者についてはHPで、後者についても各社宛に明示し続けているとのこと。
その「選択基準」も明示しているとのことで、
公明性の確保と、地域工務店の自律的技術向上支援を両立させている。
全国の地方公共団体の中で、北海道を別にすれば、
たいへん目的的な地域工務店支援活動を行っていると思いました。
講演後、佐々木氏と懐かしくお話しさせていただきましたが、
北海道からの工務店グループからも共感が広がっていました。
たいへん有意義なお話しを聞くことが出来ました。
今後にぜひ活かしていきたい地方公共団体の動きだと思います。
住宅をよくするには、建て主利用者と、作り手だけではなく、
行政担当者サイドの意識変化も不可欠なのだと思われます。

【幕末明治の日本人社会群像】

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きのうにひきつづき、「坂の上の雲」読中(?)感想です。
士農工商体制に基づく徳川幕府体制を倒したエネルギー主体は
結局、各藩の士族階級が主体だったことで、
作られた明治国家は、その層が主導した「上からの社会改造」政権だった。
「世に出た」人物の成り上がり過程もそれが基礎になっている。
その構成実体、人物像を作者・司馬遼太郎さんは、丹念に描くけれど、
その描写の断片断片に、驚く瞬間がある、その2つについて。
ひとつは、明治初年当時、いわゆる明治の元勲とか政府要人などの
「著名人」人物の写真が今日の芸能人並の「ブロマイド」ネタであったという。
わたしも古建築などを探訪するときに床の間に飾られた書が、
明治の元勲が書いたものだ、みたいなのに出会うことがある。
今日の政治家を基準に考える思考と、この時代の隔絶感を抱かされる。
そしてもうひとつ、明治国家の予算で軍事支出が5割を超えることも
常態的であったという事実。
これは不勉強で、司馬さんの指摘に不意を突かれ呆然とさせられた。
こういったふたつの事実を重ね合わせてこの時代を見る必要があるのだと。

明治になって、荒れ狂っていた帝国主義の国際社会に
ようやく漕ぎ出し始めたとき、少年国家・日本の社会のありようが、
まざまざと見えてくるように思われた。
前半に主に出てくる俳句の革新者・正岡子規という文学者も、
旧藩の武士階級から出て、その社会体制の大きな庇護の中から
はじめは「末は博士か、大臣か」という目的テーマのハッキリした
非常に強い「上昇志向」、なんとか欧米という坂の上の雲に向かってという
目標意識が無条件に設定された中で、そこから文化という
脇道にスライドしていくけれど、後の日露海戦での
連合艦隊の作戦参謀を務めた秋山真之との交友など、
〜羸弱(るいじゃく)な基盤しか持たない近代国家としての日本を支えるために、
青年たちが自己と国家を同一視し、自ら国家の一分野を担う気概を持って
各々の学問や専門的事象に取り組む明治期特有の人間像<Wikipedia>〜
として描かれている。
今日の社会とはまったくちがう、主には他変的要素、
帝国主義各国による中国への露骨な利権獲得競争という
東アジアを席巻した状況の進展のなかにこうした人物群像の生き方もある。
やはり幕末から明治とは、ロシアとの基本的な対峙関係を抜きにしては
この時代は考えようがないことが深く実感される。
この時代の予算はほとんどが海軍建設に使われ、
それも対ロシア海軍を仮想敵として国富を傾けて行かざるを得なかった。
しかし、高々100年の以前にはこういう環境条件のなかを
わたしたちの父祖は生きてきたということ。
ひるがえって思いが深まってくる次第なのであります。

<写真は20年前くらいの北欧視察時の住宅例>