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【日本的ダンディズム 頭を丸めて誠意を示す】

昨日の続篇であります。お雇い外国人と対照的な日本軍人政治家篇。
写真は明治2年、箱館戦争を戦って降伏した榎本武揚(右)を伴って
かれの助命嘆願を明治新政府に求めるべく上京した黒田清隆(左)の様子。
黒田は、明治戊辰戦争の官軍側の主力司令官であり、
中心勢力・薩摩閥の軍事の現場最高指揮官であった。
北越から東北と連戦し、赫々たる戦果を上げてその「政治力」を高めてきていた。
軍事=政治権力である旧幕府を打倒する新政府最大の軍事中核。
榎本は旧幕府海軍艦艇を持って函館五稜郭に立てこもって、自立する姿勢を見せ
一部では外国から「政府」承認も受けていたとされている。
そのような敵将軍に対して、その政治的構想力や部下の掌握ぶり、
そして指揮官としての豊かな将才などを攻撃軍指揮官として正しく認識し、
「殺すには惜しい男たい」と感じたモノかどうか、
黒田は自らの髪を剃髪しみごとにつるっぱげにして
ごらんの通り、まったく私心はありません、国家のためにぜひ助命したいと
「赤心」の誠を表す行動に出たわけです。

きのうのお雇い外国人たちは、全員が口ひげ・あごひげ姿だった。
当時の西洋世界的なダンディズムとはひげの「権威」感に共振するもの。
飾り立て、自らが孤高であるように演出する底意を感じさせる。
この「世界標準」規範に対し、極東の有色人種国家には違うダンディズムがあった。
ごらんのようにこの日本人の戦勝指揮官はつるんと頭の肌を露わにしている。
榎本の方も罪人という捕縛の姿でもなく、別に悪びれている風でもない。
そして驚くべきことに降伏者であるのに、帯刀まで許されているではありませんか。
この状況の場合、主役は戦争勝利者たる黒田清隆であり、
かれの挙作にこそ政治的意味があるのであって、榎本は素であることが日本的。
淡々と自らの運命に従う、恭順姿勢が常識的な態度になる。
この局面で榎本が剃髪するのは、罰を甘んじて受ける者として筋が違う。
もしそうした行動に出れば「私命を惜しんでいる」と見られ潔さ表現にならない。
基本的に淡々と「身を任せる」姿勢が、求められる日本的ダンディズム。
食事の直後らしく、長い楊枝を咥えゆったりとした表情を見せているし、
一方の黒田清隆も「これだよこれ(笑)」みたいなイタズラっぽい表情。
まるで助命嘆願というような悲愴な形相はうかがい知れない。
写真の説明は事実関係だけなので、この撮影時点が嘆願前か後かは不明。
もし後であれば、無事に助命されたことで「やれやれ」の食事後かもしれない。
付言すればこの局面では日本政治は大度を示して榎本を許したが、
よく似た局面の平安初期・アテルイの反乱では京都王朝貴族政治は
坂上田村麻呂と同道したアテルイに死罪を与えている。
その後の東北の反乱史はこの「日本的でない」政治判断が尾を引いた・・・。

こうしたパフォーマンス表現で日本にはなかなか味な文化があると思う。
頭を丸めて、天下に赤心をあらわすという行為規範パターンは、
あんまり他民族にはないものかもしれない。
出家遁世思想とか、チョンマゲでの「もののふの魂」象徴文化など、
民族的感受性への独特の強い伝達力が伝わってくる。
また当時すでに居留していた外国人たちにこうした日本的政治文化行動が
どのように受け止められ、欧米社会に報じられたか、興味も募る。
欧米人のひげと日本武士のチョンマゲの文化差異、失われて知る部分ですね。

【口ひげとチョンマゲ 男らしさファッション相似性?】

明治になって本格的に開拓された北海道は文明開化と同時進行であり、
日本でもいちばん「洋造」住宅が必要とされる寒冷地だったけれど
住宅だけに限らず、和風より洋風が急速に一般化していっただろうと思う。

で、現代から振り返ってみるとファッションの面でも
非常にオモシロいスタイルが世界規模で蔓延していた様子がわかる。
写真は真ん中左で座っているのがアメリカ農務局長であったケプロンさんと
同時期に「お雇い外国人」として明治開拓の「教師」役を担った専門技術者たち。
北海道、とくに札幌はそもそもが札チョンという移住「独身男性」主体の
変わった人口構成からスタートした特異な人工都市。
明治以前の制度として積丹以北への女性定住が忌避された時期すらある。
そういう意味では江戸東京といちばん相似性があるかも知れない。
で、国家政策として人口増を果たすにはどうしたらいいかと考えて、
官が主導するカタチで「ススキノ」歓楽街が整備された経緯まで持つ。
という気質からか、伝統的風習・風俗という側面が非常に希薄な街だった。
そこに「洋風」そのものの外国人教師たちが颯爽と現地赴任してきた。
たっぷりと高給取りであり、人目の集中する存在であったに違いない。
まぁ立場もあるから、ススキノに連夜繰り出すということはなかっただろう(笑)。
ファッションとしては重厚なダブルの背広でみごとに統一されている。
そしてみんな口元、一部あご下にも立派な「ひげ」がワンパターン。
一種のファッションリーダーとして耳目を惹く存在であったように思われる。
それかあらぬか日本のこの時期の著名男性も同様のスタイルで写真に残る。
明治天皇も残った写真では、口ひげを召されている。
ひげというのは、どういう無意識的ファッション感覚なのか、
まぁ普通に考えると「権威主義的」なものへの傾きが強いのでしょう。
世界情勢も「帝国主義」の時代であり、父権的権威的な価値感が主流だった。
しかし、みんなが同じようにひげとダブルのスーツというのは、
現代感覚では、ある意味笑えるようなワンパターンぶり。
なんだけど、誰も笑っている人間はいない。ややおっかない顔(笑)。

日本社会は明治維新までは武家支配社会体制。
それまでのチョンマゲという独特なヘアスタイル、和服というファッションから
一気に変化していく時代にあって、欧米社会で一般的なひげとダブルの背広は、
比較的に受容しやすかったのではないかと妄想しています。
江戸期までで口ひげが特徴的な肖像を遺した歴史的人物はあまり記憶がない。
日本のチョンマゲは口ひげ以上に歴史的な時間経過があるのですが、
さすがに世界標準からかけ離れ過ぎているので放棄した。けれど、
結果としてはアタマのチョンマゲが、口のまわりのひげに変わった(?)。
チョンマゲと口ひげ、その底意の相似性に密かに注目しております。
逆にアメリカからのこの時代の日本来訪者は、自分たちの口ひげと
日本武士層のチョンマゲについて、どういう正直な印象を持っていたのか、
探究してみたいなと思っております。
「OH! こいつら、立派なひげがアタマに乗っかっているではないか!」
っていう妄想ですが、さて、どうなんだろうか?

【口ひげとチョンマゲ 男らしさファッション相似性?】

明治になって本格的に開拓された北海道は文明開化と同時進行であり、
日本でもいちばん「洋造」住宅が必要とされる寒冷地だったけれど
住宅だけに限らず、和風より洋風が急速に一般化していっただろうと思う。

で、現代から振り返ってみるとファッションの面でも
非常にオモシロいスタイルが世界規模で蔓延していた様子がわかる。
写真は真ん中左で座っているのがアメリカ農務局長であったケプロンさんと
同時期に「お雇い外国人」として明治開拓の「教師」役を担った専門技術者たち。
北海道、とくに札幌はそもそもが札チョンという移住「独身男性」主体の
変わった人口構成からスタートした特異な人工都市。
明治以前の制度として積丹以北への女性定住が忌避された時期すらある。
そういう意味では江戸東京といちばん相似性があるかも知れない。
で、国家政策として人口増を果たすにはどうしたらいいかと考えて、
官が主導するカタチで「ススキノ」歓楽街が整備された経緯まで持つ。
という気質からか、伝統的風習・風俗という側面が非常に希薄な街だった。
そこに「洋風」そのものの外国人教師たちが颯爽と現地赴任してきた。
たっぷりと高給取りであり、人目の集中する存在であったに違いない。
まぁ立場もあるから、ススキノに連夜繰り出すということはなかっただろう(笑)。
ファッションとしては重厚なダブルの背広でみごとに統一されている。
そしてみんな口元、一部あご下にも立派な「ひげ」がワンパターン。
一種のファッションリーダーとして耳目を惹く存在であったように思われる。
それかあらぬか日本のこの時期の著名男性も同様のスタイルで写真に残る。
明治天皇も残った写真では、口ひげを召されている。
ひげというのは、どういう無意識的ファッション感覚なのか、
まぁ普通に考えると「権威主義的」なものへの傾きが強いのでしょう。
世界情勢も「帝国主義」の時代であり、父権的権威的な価値感が主流だった。
しかし、みんなが同じようにひげとダブルのスーツというのは、
現代感覚では、ある意味笑えるようなワンパターンぶり。
なんだけど、誰も笑っている人間はいない。ややおっかない顔(笑)。

日本社会は明治維新までは武家支配社会体制。
それまでのチョンマゲという独特なヘアスタイル、和服というファッションから
一気に変化していく時代にあって、欧米社会で一般的なひげとダブルの背広は、
比較的に受容しやすかったのではないかと妄想しています。
江戸期までで口ひげが特徴的な肖像を遺した歴史的人物はあまり記憶がない。
日本のチョンマゲは口ひげ以上に歴史的な時間経過があるのですが、
さすがに世界標準からかけ離れ過ぎているので放棄した。けれど、
結果としてはアタマのチョンマゲが、口のまわりのひげに変わった(?)。
チョンマゲと口ひげ、その底意の相似性に密かに注目しております。
逆にアメリカからのこの時代の日本来訪者は、自分たちの口ひげと
日本武士層のチョンマゲについて、どういう正直な印象を持っていたのか、
探究してみたいなと思っております。
「OH! こいつら、立派なひげがアタマに乗っかっているではないか!」
っていう妄想ですが、さて、どうなんだろうか?

【国民資産正当活用 既得権益構造の見える化を】

本日は時事ネタで書きます。よろしく。
菅新政権が16日本日発足。
で、いくつか総裁選挙中にかれが「公約」した事案が注目される。
考えてみれば、選挙中、具体的な政策を発信したのは菅氏だけだった。
「検討していくことを」「考えていくことが大切」みたいな石破氏の
ゴニョゴニョには残念な思いが強かった。支持のみなさんごめんなさい。
で、その発信の中でも「携帯料金値下げ」への政権の行政指導が大注目。
以前から菅氏は携帯料金は4割削減できると言い切っている。
こんな具体的な「政策」に対して無反応なメディアとはなにかと思う。
まぁテレビ各局は携帯各社からの広告料が生命線だから、批判は御法度か。
しかしこれにはほぼ全国民が巨大な恩恵を受けるのではないか。
携帯料金は毎月経費で多額。1台あたり1.5万程度はかかる。
これが4割削減ならば6千円カット。年間で7万円程度削減。
企業でいえばこれが通常10数台掛かっているから経費▲70-100万円。
「減税的効果」は相当レベルだと知れる。
これに個人所有の携帯を考え合わせれば、政策効果はたいへん大きい。
本来であれば野党勢力が訴えるべき政策を権力中枢側が打ち出している。
安倍政権8年間で中枢にいて「改革ポイント」を体感していた菅氏らしい。
いまの日本が抱える大問題は、やはり社会の「既得権益」の岩盤化。
携帯料金というのは、その極限的象徴なのでしょう。
こういうポイントでは、社会構造全体を知る保守政治家の役割が大きい。
官僚機構に対して「決定に従えない官僚は異動してもらう」とまで踏み込んでいる。
菅新政権と言うことで、携帯各社がパニックになっている報道もあった。
そして携帯各社の現状料金固定化を種々サポートし、
同時にそれを既得権益としている「業界構造」があるのでしょう。
その業界を指導監督するべき官僚機構・中央省庁組織も一体的存在。
「従えなければ異動してもらう」発言は、官僚機構に向けられた戦闘宣言。
さらに厚労省の再編、デジタル庁の創設という施策もアナウンスされている。
安倍政権最終期に、日本経済の再生に必要な中核的施策として
これらが特定された検討結果がこういった政策プランなのでしょう。
まことに現実的・具体的でこういう「政策論議」を政治には期待したい。

この1丁目1番地の携帯料金値下げについて、
菅氏はさらに興味深い「仕掛け」をしのばせている。
「もし値下げに同意できないならば、電波料金のアップも・・・」と。
言うまでもなく、携帯は国民の財産・資産である「電波資産」に関わる。
しかしそれは同時に、巨大既得利権であるメディアの存立基盤でもある。
そうです、違う言い方で電波利権そのものをクローズアップさせている。
別にTBSとか日テレとかテレビ朝日とかが、電波を持っているのではない。
かれらは国・国民の資産を借りてビジネスしているに過ぎない。
広範な情報取得がWEBに変化している時代に、
電波利用・許認可ビジネスの既得権益化は時代錯誤ではないのだろうか。
他方の新聞メディアは自由に発刊して、購読料・広告収入で成立している。
たとえ国から超一等地所有について各種の便宜供与を受けてはいても、
本質的に私企業であることは間違いがない。報道の自由は理解出来る。
しかし、電波媒体はあきらかに性格が違う。
企業としては私企業であるかも知れないけれど、放送拡散媒体たる電波は
あきらかに国民の財産であり、選挙によって国民信託を受けた政治権力、
そのハンドリングになる行政の「許認可」で成立しているビジネス。
本来、そのメディアに新聞事業者が資本的に関与することは論議もあるところ。
この巨大な闇、既得権益構造についてメスを入れる宣言。
そしてさらに行政府機構の非効率を切開するとしている。あらたな事業領域を
社会に創造していく可能性が大きいが、そこに正面から向かうとしている。
政治の右左に関係なく、閉塞した日本社会の既得権益構造を改革することは、
次代の日本社会の可能性を開く方向であることは間違いない。
推移を注目していきたい。・・・畏るべし秋田の脱・イチゴ農家長男。

【函館山から7−8km 明治6年五稜郭周辺道路】


さて、自民党総裁選挙。朝日毎日やテレビ各局マスコミの偏った期待と
石破氏の脳内だけの「願望」は残念ながら夢幻に近かった。冷厳な現実。
マスコミにいいようにオモチャにされ石破氏も自己陶酔していただけかも・・・。
安倍後継の菅さんは保守党内で圧倒的に支持されたけれど、
さて、リアルな日本政治はどういう方向に向かうのか?注目。
といったところですが、国内政治ネタは自制的扱いで(笑)。

先日「道」についての探索記事をアップしてみたら、かなりの反響。
道路もまた「建設」されるもの。でも道路自体はあまりにインフラで
当然ながら、論評、検証されるということは少ないように思う。
北海道はまだ国土としての開発から150年ほど。
初期の状況を伝える記録写真が北大ライブラリにかなり遺されている。
開拓の最初期では、奈良時代から始まった「官道」整備、
「日本の道」公共道路の姿を伝えるわかりやすい情報が残っている。
最後に開拓されたことで日本の「道」の原初に近い消息が記録として残った。
日本史では奈良から明治まで1,100年「陸路公共交通」の基本は維持された。
しかし最近、歴史・考古学で戦国期の軍事道路の発見が多数相次いでいて、
物言わぬ道路「建設」の手法、目的の変遷が注目されてきている。
戦国末期、織田軍団は「兵農分離」に基づいて職業的専門軍団を組織し、
そのうえ、多方面作戦を展開せざるを得ない「畿内制圧」達成のために
軍の移動高速化を最優先にし、現代感覚で言えば一般道に対して
「高速道路」に匹敵するようなインフラ道路を整備したとされている。
秀吉の中国大返しはこうした道路を利用して成し遂げたという論が強い。
現代はクルマの高速移動が目的だけれど、戦国期は兵員の高速移動目的。
それ以前の道路は、そのような「高速移動」用ではなく、
攻防で言えば、防御優先思想で複雑に曲がりくねらせて
侵入する外敵の進軍速度を低下させ攻撃を加えるのが目的だったという。
そういえば家康の天下取り後の最初の指令は東海道の整備といわれる。
戦国の終了と統一国家成立は実は道路の革命がインフラ要因だった?

写真の道路は五稜郭周辺で、函館山麓からだいたい7-8km北上した地点。
写真説明では「亀田橋より函館山を望む」と書かれている。明治6年の撮影。
五稜郭は近代的な城郭建築として造営された日本最後の城。
この「亀田橋」周辺道路は現在の五稜郭駅から五稜郭城郭につながっている。
地図確認すると駅の西側先には港施設があるので、軍需物資輸送路か。
かなりの幅広道路。明治6年写真だけれど5年前には五稜郭戦争があった。
現在位置的には市街地道路だが江戸期以前の城下町迷宮的道路ではなく、
まっすぐに造営された「往来交通・輸送物流のための」道路。
江戸期最末期で開港都市である函館防衛拠点である五稜郭への軍事物資の
搬入輸送のためが初源であったのかも知れない。
そうすると江戸幕府体制で建設された道路である可能性が高いでしょう。
北海道開拓期からやがてほどなく道と移動手段は革命期を迎える。
道は出来た最初の目的からだんだん乖離して社会発展の基盤に変容していく。
函館は函館山周辺地域が「町家」を構成して人口集住が進んでいたけれど、
この五稜郭周辺は軍事的性格が強かったのでしょうか。
函館はそれまでの都市の作られようを踏襲した性格もあったのだろうか。
現代とは違って権力も移動するので公共事業の目的性格も不明になる。
146年前の状況、写真情報から見えてくることは実に多い。歴史の逍遙。

【世界的鉱山技師ライマン 142年前東京の家】


北海道の明治の開拓使時代には「御雇外国人」が多数来日した。
とくに世界の中でアメリカ北東部開拓の経験事例がもっともふさわしいと
明治政府が判断したことで、アメリカからの技術者の来訪が多かった。
ときのアメリカ農務局長であったホーレス・ケプロンさんなどは、
極東の小国ニッポンの寒冷地北海道開拓への熱い思いに強く共鳴し、
その職を辞してまで北海道開拓の基本方針をまとめ上げてくれた。
いまも札幌にはアメリカ領事館がある。〜青春の学生運動時には、無知にも
よく「安保粉砕」デモ行進でごく近くまで接近させていただいた(笑)〜
明治の開拓から70数年後、日米は戦争に至ってしまうけれど、
しかしこの明治の黎明期に学ばせていただいた恩義は深いものだと思う。

そうしたアメリカ人技術者のひとりにベンジャミン・スミス・ライマンがいる。
北海道開拓史上でたいへん名高い人物で、
開拓使にとって決定的だった炭坑の発見、開発に果たした役割は巨大。
明治期の「産業革命」の主要なエネルギー源であった石炭産業が
北海道で開発されたことは、日本の殖産興業において画期的だった。
産炭地幌内と積み出し港の小樽間に、日本の産業革命を象徴する
鉄道が新橋—横浜、京阪神に次いで早々に開通したことは、
この発見開発のインパクトの巨大さを物語っている。
かれの経歴・人物の概要はWikpediaでは要旨以下の通り。
〜経歴 1835年にマサチューセッツ州のノーサンプトンで出生。
ハーバード大学を修了後、ドイツのフライベルクにある
フライベルク鉱山学校(現在のフライベルク工科大学)で鉱山学を学んだ。
ペンシルベニア州、インドなどの石油調査を終えたのち、1872年(明治5年)
北海道開拓使の招待で来日、1876年まで北海道の地質調査に従事し、
後に工部省の依頼で1876年から日本各地の石炭・石油・地質調査にあたった。
1891年に帰国するまで日本人助手に教育するなど日本地質学に貢献。
帰国後はペンシルベニア州地質調査所次長に就任。1895年に同所退職。
再訪日を望んでいたが訪日できずペンシルベニア州で1920年に死去。 〜
かれにとっても、北海道での日々は格別の体験だったことが偲ばれる。
北海道人として、はるかにリスペクトし続けております。

そんなかれの工部省依頼での東京滞在時期の住宅写真が、
北大の北海道開拓期の写真として保存されていたのであります。
確認できるのは上の2枚の写真で、札幌滞在時にはお雇い外国人の邸宅は
本格的「洋造住宅」であったものが、この東京「平河町」の家は、
写真から「取材」する限り、庭も石灯籠が据えられる純和風住宅。
もう1枚の写真は「書斎使い」していた部屋のようだけれど、
床の間が正面にあり書が掲額されていたりして、日本的知識人風。
この書、内容を理解して掲額していたとすれば日本への理解度ハンパない。
しかし床の間に本棚があったり違い棚にたくさんの書類が積まれたり・・・。
洋机が据え置かれ、コーナーには安楽椅子もあり使い方は洋風の使い方。
一方縁側から出入りの庭の写真からは、ライマンとおぼしき人物もみえる。
和洋折衷は日本人だけではなくかれらも面白がっていたのだろうか?
「郷に入らば郷に従え」を英語で咀嚼していたものか・・・。
また札幌での「洋造住宅」とこの東京平河町での和風住宅のどちらに、
より「快適性」を感じていたのかは、いまうかがい知ることは不可能だけれど、
現代で日本の住空間を考える立場からすると、興味深く
タイムマシンに乗ってでもインタビューしたくなってくる(笑)。
「和風もワンダフルだけれど、ちょと冬、サムイ(笑)」みたいな声が聴けたかも。
経歴ではその前にはインドでも滞在経験があるようなので、
住環境いろいろ体験国際人として、興味深い履歴のようです。

【日清戦争帰還兵の感染症水際作戦史】


新型コロナ禍によって世界は大きく変容させられている。
GDPの大幅下落、日米で約30%、EU圏で40%という記録的四半期経済失速。
このような変動には社会的起因もあると思うのでやがて検証は不可欠。
むしろそうした要因の切開のほうが、人間社会に意味が大きいと思う。

しかしこうした感染症がいかに人類史に関わっていたか、
歴史から学ぶカタチで多くの知見が徐々に発掘されてきて興味深い。
8月下旬、NHK-BSの「英雄たちの選択」で日清戦争からの復員兵さんたちの
「感染症対策」について、それを取り仕切った後藤新平の戦いが放送されていた。
以前、奈良時代の光明皇后の「サウナ風呂」下賜での衛生思想普及努力や
大正3年の「結核予防善悪鑑」という民衆への衛生教育をブログでも書きました。
歴史というものの本質、先人から人間への愛が伝わってきた。
歴史には「人間の思い」が込められているけれど、愛も確かに存在する。
そういった意味で、新型コロナ禍でのこうした日本人の事跡の「発掘」は
まことに深い共感を持てるし、その「戦いぶり」に激しく感動する。
どうやら、歴史関係のテレビ番組制作スタッフにもそういう思いがあるようで、
発掘されたこのテーマについても、グイグイと引き込まれてしまった。

日清戦争は明治以降の歴史、国民国家生成の過程で
欧米列強、とくに超軍事大国ロシアと隣接する日本の地政学的位置から
まさに世界史的な動乱として勃発した戦争。
北海道の開拓の進展とも状況としてリンクしていたものだと思います。
日本にとって北海道の開拓とは、対ロシアの平和の戦い最前線でもあった。
国内戦争である西南戦争と日露戦争では北海道の屯田兵も出兵した。
この日清戦争でも動員命令は出て出征したけれど、
国内で戦争終結の報に接して、戦地に赴くことはなかったとされる。
帝国主義世界情勢の中で、剥き出しの国家間戦争という歴史局面で、
一方ではおそるべき「感染症」が戦地で蔓延を見せ、そこからの復員に際して
国内での感染蔓延を防ぐために「水際対策」が待ったなしで必要になった。
記録では「これはひとつの戦いである」と記されてもいる。
日本史のなかでもまったくはじめて遭遇する極限的緊迫状況。

写真は、この大量復員兵を瀬戸内海の小島で「隔離・除染」した様子。
危険ゾーンと、防疫ゾーンにきれいに仕分けする防疫施設建築動線設計。
画面下の方から施設に入る兵隊さんが、装備品とカラダで分けられた動線を進み、
カラダのほうはお風呂や消毒で除染され、装備品は蒸気による
新構想の「除染装置」を駆動させて除染させている。
そして防疫されたゾーンに移動させることで施設を出られるようになっている。
防疫除染を集中管理する建築とシステムでの「ひとつの戦い」。
日本社会は、この感染症蔓延危機から正しく離脱することができた。
こういう「防疫」についても日本は欧米を正しくキャッチアップして
当時の世界最先端防疫システムを誇っていたドイツ帝国皇帝が
この日本の防疫除染の成功を褒め称えたとされている。
人道主義をベースにしなければ構想しにくいこのようなシステムが
まさか、極東の新興国・民族に可能だったことに驚いたのでしょう。
領導した後藤新平は、緒方洪庵・大阪適塾系の実学で鍛えられた人物であり、
大阪的市民社会の「公衆衛生」思想が日本を救ったと番組では推論されていた。
人間への愛情に即した「思想」が背景になければ除染防疫は成立しがたいのでしょう。
番組では第2次大戦での中央集権システムでの大量戦死が対比されていた。
まさに歴史が教えてくれるモノは本当に深い。

【北方型住宅2020:住政策の「見える」化】

2日間にわたって北海道の地域住宅「政策」である
北方型住宅2020について紹介してきましたが、
これがきわめてユニークであるポイントには、独自にモデルハウス的な
一般への「見える化」を進めていることも上げられる。

上のビジュアルは札幌から約1時間ほど近郊の「南幌町」で展開する
北方型住宅の理念をカタチにした「きた住まいるビレッジ」の様子。
2018年に全6棟のモデル住宅が建設されて一般に販売され、
おおむね1年以内にそれらは完売し、さらに継続的に事業が推進されている。
地域ビルダーと建築家が協業してユーザーの豊かな暮らしへの
「こだわり」欲求水準に足る家づくりを実現させている。
初期のモデル住宅については北海道地域外、
本州地域からの「移住」の受け皿としての需要で販売が実現した。
地域総体として目指している明確な住宅へのコンセプトとその表現が
住むことへの「こだわり」を持つ移住ユーザーに受け入れられるという
興味深い反応を引き起こしたと言える。
また想像をはるかに超えて、全国の住宅のプロの見学も絶えることがなかった。
この結果は他の北海道内自治体などからも注目されることとなって
同様の企画展開の動きに刺激を与えている。
地方自治体による「住宅施策」という事業の可能性が高まって来ている。
背景としてWEBという広報拡散手段がユーザーに幅広い反応を呼ぶという
社会構造の変化もある。地方のユニークな動きも即座に全国に伝わる。
地域の意欲的な住宅施策は、より広範な注目を集めることが可能だという
これまでは考えにくかったルートがあり得ることをこのチャレンジは示した。
人口減少社会への突入というなかで、地方が生き延びていくために
こうしたこころみは、ある志向性を表現しているといえるのではないか。

考えてみれば、北海道はその起源である「開拓使」の時代から
本州以南地域ニッポンからの「移住」によって人口増加が図られてきた。
自然の豊かさと暮らしの利便性が、札幌という大都会との微妙な距離感で
現代という時代のなかで適度な調和、暮らしの「いごこちのよさ」が実現している。
たしかに冬期は過酷な気候だがそれは住性能向上で安心レベルで克服された。
そのことは北海道が認証するほどのジャストフィットぶりであり、
価格的にも納得できるレベルが確保され、しかも作り手の顔が明確にみえる。
このような「安心価値」に対して距離感を超えた敏感な反応が増えているのかも。
少なくとも、地域としての北海道としてはこうした魅力について
もっと磨きを掛けて、大いにアピールしていくべきではないのだろうか。
北方型住宅は地域総体が注ぎ込んできた創造的エネルギーの結晶でもある。
こういった地域の「戦略的強み」に自覚的になっていく必要があるでしょう。

【北方型住宅2020 その性能基準は?】


さて昨日アナウンスさせていただいた「北方型住宅2020」基準。
上の表組みは、国の「長期優良住宅基準」と比較したもの。
住宅の性能基準にはさまざまなレベルがあります。
制度設計を現在段階で行っていくときに、いろいろな考え方があり得る。
「世界最先端の・・・」というような基準を策定するのもひとつの考え方。
住宅「エネルギー消費」に極限的にこだわるゼロエネ・創エネ的な方向もある。
「差別化」基準として、住宅性能値競争を仕掛ける考え方もあるでしょう。
多様な価値観のなかにあって、そういう志向性もありだとは思います。
それを実現可能な「作り手の技術レベル」も北海道は先端的に高いのも事実。
しかし住宅はふつうレベルで生活する住まい手があって成り立つもの。
当然生活水準・所得水準も考え合わせた、総合的「品質」が問われてくる。
よく言われるように、一例としての「ドイツパッシブハウス基準」は
北海道や北欧などの「寒冷地」でそれを実現しようとすると、コストとメリットの
バランスからはやはり過重なコスト負担が避けられない。
たとえば年間で暖房エネルギーコストを1万円削減するのに
初期建設コストが100万円増えてしまうのであれば、価値感は揺らぐ。
それこそ出自たる「開拓使」の理念、地方自治体である北海道からすれば、
この地に安定的に暮らせる人口を維持し増やしていくことがより重要であり、
他の地域に対して「差別化」して住むことが目的ではない。
より「住みやすく」「建てやすい」という住宅であることが大切だと思うのです。
飛び抜けていい数値基準の少数の住宅よりも、
ユーザーフレンドリーな価格と品質性能が平均値として保障されることが有益。
そういった方向性で、作り手のレベルの高さを維持し発展させることが、
地域自治体の「技術資産維持」にとってもきわめて有用という志向性。


この「北方型住宅」基準では、きわめて特異的に「作り手の要件」を重視している。
BISという地域認証の「断熱施工技術者」資格を推奨しているのです。
っていうか、事実上そうした技術資格者がいない工務店ビルダーは
この基準から想定されていないといえるのです。
絵に描いた数字を重視するのではなく「確かな作りよう」を重視している。
数値基準レベル自体はどんどん上げていけるかも知れないが、
それ以上に地域社会の技術品質レベルの確保に優位性を見ている。
この点が、北海道の住宅基準が大きく異なるポイント。
BIS資格について講習で「テスト」が実施される。けっこうキビシイ。
国の一般的な技術資格では「講習受講」だけが義務化されている。
また更新時講習では、常にリアルな最新技術知見が情報共有される。
貴重な地方自治体の建築技術資産の永続性を担保しているといえる。
そして上の表のように、特定の数値項目だけではなく、
いろいろな技術指標について、偏りなく各項目が網羅されている。
「履歴情報の保管」という項目がありますが、
一般的には「保管義務」があるとしか規定されていないものが、
北方型住宅では、公共的な保管機関までが用意され
万が一問題が起こったときにユーザーの権利が保全されるように
社会的に十分に機能することが仕組み的にも担保されている。
総体としての制度設計が歴史的検証を経てきているといえるでしょう。

【北海道の住宅施策「北方型住宅2020」発進】

日本は中央省庁による産業界支配が強固な国だと思います。
明治開国以来、殖産興業政策は日本の基本国策であったといえる。
欧米各国は「列強」として帝国主義全盛の時代、一歩間違えば
即座に「植民地化」という匕首を突き付けられながら、
天皇制という体制での国民の高い「国家意識」を唯一の拠り所にしながら、
ひたすら欧米をキャッチアップして国家社会の発展に努めてきた。
資本蓄積と産業の技術基盤が未熟な国家社会で、政府の強い行政指導が
全産業領域で活発に展開されていった。いわば国家資本主義的発展。
エネルギーとして石炭が注目されて近代工業化が計られていったとき、
新開地としての北海道は資源供給基地となって有効活用された。
そこから全産業が活性化して、有色人種国で最高レベルの国家意識が
国家発展の大きな基礎を形成し、高い教育レベルもあって、
中央省庁のコントロール下での産業発展が進展していった。

住宅建築においては、明治期の「文明開化」による洋風住宅化があった。
しかしそれはいわば上辺のデザインに偏ったモノであり、
一部の金持ちたちの文化としての「高級住宅」「和洋折衷」型デザイン。
一般庶民はごく一部の「中流」サラリーマン家庭が戸建て住宅を作ったに過ぎず、
大部分は江戸期からの「長屋賃貸」が基本の住環境だった。
しかし、北海道だけはまったく違う様相で推移発展していた。
民族の「新開地」北海道は、他の日本とはまったく違う気候地域。
多くの地域では表層的デザインにすぎなかった「洋造住宅」が
寒冷地対応の合理性の高い建築として推奨され根付いていた。
他地域で開口部にガラス建具・窓が導入されるはるか以前から北海道では
高価な「輸入建材ガラス」が、一般開拓民の住居でも普遍的に導入された。
その「新建材」が北海道が必要とする「気密性」に不可欠だったのだ。
始原期からすでに「性能要件」が優越的条件とされる住宅市場環境。
一方でそもそも「開拓使」は、始原において時限的「中央省庁」であった。
当時世界最強とされた軍事国家ロシアとの国境を樺太と北海道の間で画定。
国防という最優先事項の必要性から北海道の領土経営がはじめられ、
明治天皇の勅祭をもって開拓三神が北海道に遣わされた。
日本の自主独立を確固とさせるために北海道に民を移植することが安保上の
最優先事項でもあったことがDNAに深く刻み込まれている。
明治初期を代表する武人・黒田清隆が長く開拓使を背負ったのはそうした理由。
地域が求める「住宅性能合理主義」と開拓使的「強い行政指導」。
これが明治の最初期から日本と北海道の住宅産業を特徴付けていた。

この先人の取り組みを受け継いで、開拓使後継地方自治体・北海道は
戦後、地域独自の建材・コンクリートブロック造での家づくりまで踏み込んだ。
また、高断熱高気密工法として2×4木造に先導的に取り組んだ十勝地域、
在来木造工法の革新に取り組んだ高断熱高気密化の住宅運動、
などなど活発な技術開発の進展で全国の技術革新を先導してきた。
このよき伝統を受け継ぐ北海道独自の住宅施策が今回、
「北方型住宅2020」という現代化した住宅コンセプトとして始動。
この秋には運動を推進する中心の作り手たち「きた住まいる」メンバーによる
「オープンハウス」公開など広範な活動も予定。
地域の工務店・建築家の共同での高品質の家づくりを仕掛ける地方自治体として
地域に根ざした家づくりを強力にバックアップしている。
オリジナルなモデル住宅企画「南幌きた住まいるヴィレッジ」なども事業継続。
まったくユニークな地域独自の住宅運動として、ふたたび日本の住宅革新を
リードし続ける「北方型住宅2020」に注目です。
この北海道の住宅施策について折に触れ、最新情報を今後お伝えしていきます。
<マークは公募された北方型住宅2020アイコン>