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【江戸期以来の豪壮な和のライフスタイル 旧岩崎邸探訪-11】

岩崎家の日常生活は、この「和館」で行われていた。江戸期の城郭建築などでも天守閣のような象徴建築の周囲に城主の日常生活が営まれる和風建築、それも甍を連ねてたくさんの居室が作られる平屋の巨大建築が建てられた。高層性は天守閣で […]

【洋館から和のいごこちへの結界 旧岩崎邸探訪-10】

さてコテコテの西洋文化の木造建築デザイン空間から、三菱創業家の当主は普段着の世界に移動する。和館と名付けられた別棟に「帰っていく」のですね。この感覚についての推測はわたしの感じ方です。 この旧岩崎邸の探訪で、わたし的にも […]

【明治期建築テラス「異世界」と和館 旧岩崎邸探訪-8】

旧岩崎邸では表玄関側の表情以上に、庭園に面した裏側の外観表情がまことに異国風。 いかにも西洋人の建築デザインの素性を表しているのではないかと思う。日本建築でも庭園との視覚的な一体感というのは追究されてきたけれど、それは「 […]

【西洋的階段フェッチ・財閥版「鹿鳴館」 旧岩崎邸探訪-7】

日本建築では城郭建築でも、階段というのはほぼ機能性空間とだけ考えられているように思う。そもそも城郭とか、塔の建築などはそれ自体がある機能に特化した建築であって、そのなかで人間が暮らすということを想定していないのでしょう。 […]

【土佐藩士から経済人へ岩崎弥太郎 旧岩崎邸探訪-5】

現代の中国を見ていると、ちょうど幕末期の江戸幕府体制を見ているような錯覚にとらわれる。 現代世界というのは西欧文明の自由・平等という人権概念と、自由競争の資本主義によって基盤が形成されている。やはり人類発展の方向性の基本 […]

【武将榊原氏〜明治政府〜三菱創業家へ 旧岩崎邸探訪-3】

この旧岩崎邸の説明資料にはこの広大な邸宅敷地について以下のような説明記述。 「本庭園敷地は江戸時代には越後高田藩・榊原氏の屋敷であり、その後明治政府に上地され薩摩藩閥などの所有を経た後、1878(明治11)年、三菱の創業 […]

【人格化されなかった神の社殿・息栖神社⑤ 東国三社探訪-25】

息栖神社の境内には「本殿」「拝殿」というような建築はない。代わりに「社殿」が中心的な建築物として建てられている。いわゆる祭神の明示がない。由緒書きには以下の記述。 〜息栖神社が最初に置かれたのは現在の日川地区と伝えられて […]

【海上交通の社、陸の景色・息栖神社④ 東国三社探訪-24】

息栖という神社名の由来についてもう少し考えて見たい。 「栖」という文字は鳥の巣、ねぐらというような意味合いの文字なのだという。そうだとするとこれは漢字的な「意味」からの命名だろうと確定して考えることができるのではないか。 […]

【おきす⇒いきす&国内海運史・息栖神社③ 東国三社探訪-23】

現地の息栖神社では不覚にもこの「碇」の存在に気付かず、説明板のついでに周辺を撮影した写真から今回いちばん上の写真を拡大・編集してみた。よく文章を読んでみたらこの目立たない「碇」が重要な役回りで港(津)であったこの息栖の地 […]

【列島海民のはるかな交流・息栖神社② 東国三社探訪-22】

鹿島や香取は海との関係はそれなりには感じるけれど、この息栖に至ってなぜ、東国三社というように言われ続けてきたのかのワケが腑に落ちてきています。 そもそもこの日本列島に現生人類が到達したのには海を渡って来たのでしょう。わた […]