
悪夢だ。
一党独裁の監視社会国家が、全地球規模でのGPSネットワークを完成させて
それを発展途上国などに安価で売りまくろうとしている。
共産党独裁体制でのあからさまな個人情報搾取手段の確立。
独裁権力がIT技術を先進国から盗み取って超監視社会を作り全世界に拡散させる。
きっとそういったツメを隠して破壊的に安く提供することで
本来の邪悪な目的を達成しようとするのだろう。
いうまでもなく、わたしたちの個人情報を中国共産党は入手可能になる。
まさに悪夢そのものだ。
アメリカがこの時点で中国を「新冷戦」というカタチで
封じ込めはじめたのは、まことに有理だといえる。
ひょっとして、資本主義・自由主義が独裁に制圧されない
最後のチャンスだったのかもしれない。
ジョージオーウェル『1984年』でのビッグブラザーそのものだ。
12月27日から運用が開始されたのだという。
こういうものを安易に導入することだけは絶対にやめてほしい。
最近の中国の暴走ぶりは、まさにナチスの台頭を思わせるものだと思う。
しかも隣国はこういう暴力的権力に冊封される体制に歴史的に慣れてしまっている。
自衛隊機へのロックオン事件など
どうにもキナ臭い動きが連続して生起する。
なんともいやな歴史段階に向かうようで、本当に不安が募ってくる。
こういった現実が生起してきても、まだ、
中国共産党支配体制に擦り寄るような報道ぶりを見せるマスコミが見られる。
そろそろ目を覚まして欲しいと切に願うけれど、
日本の権力が悪であるという凝り固まった観念論者には通じないようだ。
この現在の危険な現実を直視して欲しい。
Posted on 12月 29th, 2018 by 三木 奎吾
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ITの進展方向ってどうなっていくのか、
みなさんでそれぞれお考えはあると思いますが、
最近わたしは、クルマの情報化を考えてきています。
直接的には、札幌にいるときにはオフィス環境にいる確率が高いのですが
東北から以南地域にいる場合には、クルマによる移動環境の方がデフォルト。
そういうきっかけがあったのですが、
その底意には、やはり先般の北海道の「ブラックアウト」があると思います。
全道ブラックアウトを経験してから、
身近なエネルギー装置で、毎日「使っているもの」として、
クルマがいちばん合目的的であることに気付いてきた。
非常の時にはクルマそのものを12Vの電源供給源として活用することが
もっとも合理的だと思われるのです。
実際にそのように最低限電力を確保した経験から、
その方向でふたたびのブラックアウトに対応するように考える一方、
クルマそれ自体の情報能力を上げていくことも合理的だと思ってきた。
ということで運転座席にいながらパソコン操作が使いやすくなるように
助手席をほぼ非使用領域にして利用することにしました。
さらに通信環境を確保するためにスマホのテザリングを活用して
ネット接続環境も常設的にできるようにした次第。
東北以南にいる場合には、主に仙台が拠点になることはそうなのですが、
だからといって、ずっとそこに留まることはいまのところない。
それよりは「東北道のどこかのPAパーキング」の方がオフィス環境頻度が高い。
っていうような目的意識から、
写真のように徐々にクルマオフィス化の環境整備を行ってきています。
いまのところは、パソコンテーブルの「可動化」が課題。
もっと運転の自由度を高めたほうがいいと思っているのですが、
そのためにはパソコン使用時の利便性との調整が必要。
このパソコンテーブルのアイデアは台湾メーカーなのだそうですが、
使い勝手はイマイチだと思います。
日本のメーカーならもっと利便性と強度などをカイゼン可能なのではと
今後に期待したいところです。
理想としては、非使用時には助手席側にずっと離しておきたい。
で、使用時にはもっと運転者側に引き寄せて使いたい。
そういう可動性にはまだまだ満足できない機器だと思います。
さらに運用時には、スマホテザリングが必須になりますが、
この場合の「データ通信費用」のコントロール、低減化の検討が必要。
わたしは、中高年代として超マイナーな映画「イージーライダー」文化に
イメージとしての郷愁があるのですが(笑)
こういう「自由・情報人間」志向っていうのもいいかなぁと(笑)。
Posted on 12月 27th, 2018 by 三木 奎吾
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人間は現代に置いては、都市に住む人が多い。
都市というのは人類が獲得してきたさまざまな生きるカタチを表現している。
利便性、情報性、居住性、景観性など
あらゆる人間感覚の根源に関わるように思っています。
いろいろな経緯、ポイントでひとは都市を選択して生きている。
そういった都市を巡り歩いていて
いつも感じることは、建築という物が果たしている役割。
その機能もさることながら、景観としての建築はやはり決定的。
札幌で言えば、札幌駅舎ビル、道庁旧本庁舎赤レンガ、時計台など
その都市らしさのランドマークとしてあり続けていると思う。
そういった存在が各地方都市では、商業施設が担っているケースも多い。
下の写真はある都市の中心街の商業施設なのですが、
看板サインのすぐ下の外壁コンクリート面、あるいはモルタル被覆面が
著しい耐候性劣化を見せている。
サインという存在は「見える」ことを前提としてあるので、
この街並みの中で、ひとの印象に占める割合はけっして低くはない。
そういった建築において、毎日こういう劣化を見続けているというのは
多くの人の印象に対してどうなのだろうかと気になってしまう。
たしかに店舗内部を訪れても活気が感じられず、
いかにも中心市街地の残念感は満載になっている。
売上の減少の結果、再投資修繕のコスト負担に耐えられない現実は理解出来る。
こういう景観は原因ではなく、結果ではあると思うのですが、
とくに寒冷地都市の場合、このような耐候性劣化について見るのは
建築に関わるものとして、なんとも無力感を感じてしまう。
素材選択、仕上げ方法など、こうならない選択があったのではないか、
どうしてもそんな部分に思いが至ってしまうのですね。
一方ですぐ隣接した場所には上の写真のような建築。
こちらは市が管理する施設のようでみごとにスケスケのガラス建築。
下の写真建築のように手入れされずに放置されて
街の印象が暗くなっていく危機感から、街が中心市街地の景観について
行政的に関与している様子が見て取れた。
たしかに「明るさ」という要素は、寒さという要素に優先するとは言われるし、
表層的な部分でこのように街の印象劣化を食い止めたい思いはわかるけれど、
しかしエネルギー無駄遣い感がどうしても強く迫ってくる。
このふたつの建築を見ていて、
建築が果たしている「街の印象」というものの責任意識について
否応なく考えさせられていました。
外観というのはコケ脅かしを伝達する手段ではなく、
その街の暮らしようがサスティナブルであるかどうかを表現するもの。
そんな思いが強くしてきます。
Posted on 12月 26th, 2018 by 三木 奎吾
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年末にある3連休というのは、天皇誕生日が移動することで
さてこれからどうなるのか、ですが、
平成の30年間、年末のこの時期におおむね3連休というのが定着した。
慌ただしさはそれまでに片付けなければ、というプレッシャーになって
倍増したとみるべきか、それとも年末作業はそれまでで片付け
この連休を新年への準備に充てられるようになったと考えるか、どちらかでしょう。
わたしの場合は、19日までで出張生活は一段落して
この1週間は札幌で過ごすことが出来たので、この連休は貴重な整理整頓日。
ちょうど一連のリフォームで残っていた「エアコン取り付け」作業に連休初日、
業者さんが来てくれたので、さっそくエアコンカバーをDIYしていました。
ちょうどよかったので、もう1台ハダカ状態だったほかのエアコンにもカバーした。
ひとつは雨だれと落雪の恐れも考えてアルミ製と
もう1台は比較的にそういった恐れが少ない箇所なので木製に。
こういうヤツは、だいたいが「自分で組み立てる」タイプが多くて、
その分コスパに優れていて、2つ買っても16,000円ほどの投資で済んだ。
木製の方の色合いがイマイチですが、まぁ経年変化で落ち着くでしょう。
わたし年代というのは、少年漫画雑誌の「付録」世代でして
いろいろなものを「組み立てる」ということに、慣れているかも知れません。
たくさんの失敗経験はバッチリ。で、比較的こういう組立が嫌いではない。
ただし、コスパが良いヤツは大体が組み立てる上で困難がいくつかはある。
めげてしまう可能性もあるのですが、最近、そういうことはなくなってきた。
今回の2つのヤツも、それぞれで困難がありました(笑)。
ひとつのアルミ製の方は、部品同士をネジで固定していくのですが
ちょうど前面側のすだれ状部分をとりつけるネジが、
なかなかなくせ者でありました。
というのは、要するにネジの穴が不完全状態のために、
たださえネジ位置キメが難しいのに
さらにネジがすんなり入ってくれなかったのです(泣)。
数十分ほど、この段階でトラブっていて、もう諦めようかと思ったときにふと、
ネジ穴を事前にプラスドライバーで「ねじ込んだらどうかなぁ」と
考えた作戦がズバリ決まった(笑)。
こういう「解決・爽快感」が欲しくてこういう「組立」への挑戦心はあるようです。
組立終わって施工したら、ちょうど雪融け水が落ちていたのが、
こいつで保護されて本体のエアコン外部機は長命化しそうです。
一方、木製の方はこれも前面の「ラチス」状の部分を
嵌合させて最後、組み上げるところが最大難関だった。
こっちは木製だけに素材もアバウト、組立構造もアバウト。
いろいろ悩ませられたけれど、最後は「ダメ元」覚悟でネジ込み先行でやったら、
なんと4面全部がキッチリと収まってくれた(笑)。
もう一回やれと言われてもたぶんできない奇跡の仕上がりであります。
こういう「小さな波瀾万丈」がDIYの醍醐味かも知れませんね(笑)。
っていうことで、完成させることが出来ましたが、
出来上がりをカミさんが非常に喜んでくれた。
やっぱりこういう心遣いが一番ウレシイ(笑)。さぁ、またやるぞ!
Posted on 12月 25th, 2018 by 三木 奎吾
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超マイナーな個人的歴史探究ネタのようですが(笑)
秋田県南部・大仙市大曲で古代城柵「払田柵」にほど近い古四王神社について
その建築的異形性を感じ取っている件、
秋田の建築サークルで情報発信していますが、まだ返信はありません。
これは建築史のみなさんに直接聞くしかないかと、やや閉塞感。
そんな思いを持ちながらWEBで検索していたら、
「古四王」という名称について、実は古代の国制である「越〜こし〜の国」と
関連しているのではないかという説があることに思い至った。
この「古四王神社」については、秋田城資料館の学芸員の方から、
「大阪の四天王寺が国家鎮護思想に基づいて勧請された」
「その後、神仏混淆思想の結果、寺院から神社に変更されて、その出自を
名にあらわすために四王という名称が付与された」と説明された次第。
たしかにそのような見解が、古代史の「常識」ではあるのかも知れません。
しかし、であればなぜ「古」という接頭語がついたのかの説明がむずかしい。
四王神社であれば、すんなりと受容できるけれど、古四王となれば、
やはりその読み、音に強い意味づけがあったと思われるし、
この地は日本海側文化圏の最北地域である秋田であるのです。
言うまでもなく、日本海側の古代国制として「越の国」は広大な地域を表現していた。
越前から始まって、上越、中越、下越というように4カ国規模だった。
近江に隣接して「北国」概念の総称として広大な地域が認識されていた。
太平洋側の「東海道」諸国家群とも対比できるような広大な地域。
さらに古代には継体という「越前王朝」まで出現している。
そのような「越の国」の王権という存在が、この「古四王」表記には
深く含意されているという説明は大いに留意されるべきではないか。
そのようであるからこそ、古代政庁としての政治的安定を計って
この「越王」を宗教的存在として尊崇することで
地域との融和を意図していた可能性は大いにあるのではないか。
けっこう魅力的な想像のように思われてなりません(笑)。どうなんかなぁ?
Posted on 12月 24th, 2018 by 三木 奎吾
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雪上がり、という表現はあまり日本語にはない。
雨上がりという表現はあるのに、と北国人は思う。
たぶん雪に対してのさまざまな感受性が現代以前の日本社会では、
それほどの感情移入の対象とされてこなかったし、
一般化もされなかったので、表現語彙として少ないのだろうと思う。
花鳥風月というのも、基本的には畿内地域以南の気候風土が前提で
そのなかで育まれてきた感受性表現なのでしょう。
とくに北海道という明治以降、多数の人間が住み暮らすようになった地域は
基本的にそういう文化圏と相対的に馴染まなかった。
しかし、北国・北海道に暮らしている人間は出自を
そういった日本文化圏に置いている人間が圧倒的多数派。
すでにそうした人間としての積層した精神生活体験を持っている。
たとえば、この写真は吹雪が上がったあと、一瞬の晴天が訪れて
森の木々が雪氷を身にまとっている表情が神々しく輝く瞬間。
それも移動するクルマの中から、それを流動する風景として
動画として、こころに刻んでいくような精神性の景観。
木々に張り付いた雪氷はいま輝いて、
日光の反射が雪がついている箇所とそうでない箇所でのコントラストが激しい。
しかし、全体としてはグラデーションがあって、遠近感もある。
息をのむような美観が一瞬の晴れ間とともに突然現れ出る。
こういった瞬間とか、感受性景観は北国の日本人は日常的に接する。
いわば現代花鳥風月的にこころで受け止めている。
まことに情韻がただよってくる。
こういった情感を表現する日本語がなかなかない。
こころみに「雪上がり」というコトバはどうだろうか、
というひとつの文化的定義の提案であります。
Posted on 12月 23rd, 2018 by 三木 奎吾
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ことしもあと10日ほどになりました。
本日はわが社でも忘年会ということで、慌ただしさのなかのいっとき。
しかし今年はいろいろな考古学の成果が既成概念を塗り替えてくれた。
というか、不勉強だったので、ようやく自分のやってきた仕事領域と
人類史的な視点とが合体を見せてくれたように思います。
わたしは考古学とか、人類史とかは大好きな領域であります。
こどものころは勇壮な戦国時代への興味が旺盛だったのですが、
年を経るにつれて、もっと初源的なことがら、事実への興味が深まってくる。
で、さまざまな経緯があって、住宅雑誌を30年以上継続発行している。
人間と住宅ということと、この歴史・考古興味とは従来、なかなか
同心するきっかけが無かったように思われるのです。
大学に行って建築の先生たちとも交流することが増えてきていますが、
そこで素朴に「住宅の歴史はどの辺から教えられるのですか」と聞く。
大体が「熱環境系」や「デザイン系」の先生との交流が多いこともありますが、
そうすると、やや一呼吸があってからようやく「竪穴住居から、ですかねぇ・・・」と。
おかしいなぁとわたしなどのエイリアン系建築界闖入者は思ってしまう。
だって、人類は100万年規模の歴史があって、
現生人類史としても7-8万年というように規定されている。
竪穴住居というのは、「定住」生活が始まってからのものなので、
どう考えても1万数千年が限度ではないかと推定されている。
それ以前の狩猟採集で、移動生活の方が人類は長いハズなのです。
そういった暮らしの時代の「住宅」概念はどうであったのか、
あったのか、なかったのか、という部分に激しく興味を持たざるを得ない。
住宅雑誌をやっていると、必ず「住宅取材」という行為があるので、
「どうしてこういう家にしたのですか?」
というのが、もっとも根源的な興味であり問いかけだからです。
その同じ質問を、人類全体の歴史に対して発してみたくなるのは自然。
こういった初源への強い興味がことしは大きく前進した。
そうなんですね、初源的な「木を切る」道具である「石斧」の歴史解明です。
だから家の材料としての木材は「石器時代」に遡ることは確実なのですね。
さらに、どうやら石斧で木を切り始めたのには、
家を建てるのが最初の理由ではなく、「舟を作る」ことの方が
初源的にはきわめて決定的動機だったことが見えてきた。
人類は「グレートジャーニー」という地球上の大陸制覇という偉業を達成したけれど、
このことへのきわめて大きな役割を石斧は果たしたようなのです。
石斧に適した石を、木の棒状のものに「くくりつける」技術は
さてどこから来たのか、というのも重要なピースではありますが・・・。
ある歴史展示施設で、ふたたびこの「石斧」の情報に接して
ことしのこの大きな発見体験が身体中を駈けめぐっていました。
Posted on 12月 21st, 2018 by 三木 奎吾
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秋田県南部、払田柵のことを先日書きましたが、
そこから秋田道高速に移動しようとして、ふと道端に「重要文化財」の文字。
よく見ると「古四王神社」とありました。
あとで知ったのですが、払田柵以降に奈良平安期の律令国家が
出羽国に置いた本格政庁・秋田城にも「古四王神社」が祀られていたそうです。
その創建時には大阪の「四天王寺」の別院のように建てられていたとのこと。
いうまでもなく四天王寺は聖徳太子が仏教を日本に国家として導入する
その嚆矢となった宗教建築。
国家鎮護思想の一環として、東西南北四方の安寧を祈願する意味があったという。
律令日本国家として、北辺の鎮護に当たって、
こうした宗教建築が意図されたものだろうとされています。
その後、この四天王寺分院は江戸期の「神仏習合」政策の結果、
「古四王神社」として今日まで存続してきているというのです。
実際に秋田城にほど近く、神社建築はありました。
で、この払田柵に近い位置にある「古四王神社」も、同様の意図を持った
宗教建築であったと考えるのが自然だろうと思われます。
そういった背景を持った神社なのですが、
その「重要文化財」としての説明文を見ると、この神社建築は
戦国時代の「元亀元年(1570年)」に、「飛騨の匠」と伝承されていた
岐阜県古川出自の大工・甚兵衛が作ったという墨書が発見されたのだそうです。
さらにこういった経緯を発掘した昭和5年の調査時に
文部省からの委託を受けた調査官・伊東忠太博士(明治から昭和期の建築家、建築史家・
東京帝国大学名誉教授)の文章として
「手法磊落放縦、端倪すべからず実に奇中の奇、珍中の珍なり」と評されたとされる。
さらに天沼俊一(建築史家。京都大学名誉教授。)氏からは
「建築様式にまったくこだわらず、和・唐・天を超越した天下一品の建物である」
とまで激賞されていたと書かれていた。
・・・というような情報に、この正史文献記録にも書かれていない払田柵近くで
まさか遭遇するとは思わなかったので、驚愕させられた。
まぁいくつかの驚くべき事実がそこにはあると思われました。
1 戦国期にあっても、こうした古建築への需要があったということ。
2 どのような経緯で「飛騨の匠」とされた大工がこの地で仕事したのか?
3 この神社建築創建時、払田柵は秋田城と比肩する社格という「常識」が存在した。
4 どのような権力機構主体が公共建築としてこの建築を勧請したのか?
5 こういった創建時の消息がその後、情報としては忘却されてきたのはなぜか?
6 そもそもこの建築の建築デザインの「意図」はどのようであったのか?
7 払田柵は戦国当時、秋田城並みに歴史的建築価値を持っていたのか?
こういったナゾが、わたしに一気に訪れてきたのであります。
というようなことで自宅環境に戻ってから、撮影した写真データを修正加工し、
まずはデザイン意図把握のため、建築データ的に水平垂直を再構成してみた。
写真の上2枚は「本殿」建築のものであります。
一目して、屋根と主体建築部がスライドされているような建築と読み取れる。
本殿とその前方の「拝殿」とおぼしき建物は
屋根がそれぞれ反対方向にスライドされているので、
全体として流動感、水平ラインが強く意図されていることが伝わってくる。
昭和5年段階の建築史家権威2者が激賞したということは、
この建築の独創性を強く権威付けしたでしょうが、
ではそのデザイン意図はどうであったかは、読み取りきれない。
個人としての表現者称号としての「建築家」という職業人格性に似たものが
「飛騨の匠」名称には強く込められていた、という歴史文化概念も浮かんでくる。
まるで戦国期に出現した安藤忠雄建築的驚きといったらいいでしょうか?
わたしとしては、まさに鳩が豆鉄砲を食らった驚きが
今に至っても、ずっと続いている状態なのであります。
ぜひ多くのみなさんからのこの建築への情報を求めます。よろしく。
Posted on 12月 20th, 2018 by 三木 奎吾
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秋田県を県南の払田柵から大館方面までぐるっと回っての行脚。
途中、きっかけをくれた西方設計・西方里見さんが設計した表題の建物を探訪。
なんですが、西方さんにはまったくなにも「取材」していません(笑)。
なので、勝手なエトランゼの好き放題の「感想」であります。
なにより、立地の環境設定が楽しかった。
なんでも明治帝が東北地方巡幸のみぎり、この地で
皇后からの手紙を見られたか、お便りの歌に触れられたとかで、
その皇后からの「あなた早く帰ってきて」みたいな相聞歌にちなんで
この地の名前が「きみまちの里」というロマンチックな名前になったのだそうです♥️
周辺の景観も米代川を挟んで対岸側にはかわいい山もある。
なんとなくではありますが、人が出会うという環境要件にピッタリ。
そんなことからすっかり「デートスポット」化しているのだそうです。
西方さんの相貌を思い起こして、内心、してやったな感が募ってくる(笑)。
確かに自称ジャムおじさんにキューピッドは似合っているかも。
建築は木造架構による大空間が特徴。
木の都と言われた能代にふさわしい建築だと思います。
最近はどうもわたし、こういう大空間の架構建築に出会うことが多い。
公共建築の木造化というのは世界的に広がってきているということですが、
やはりこうしてたたずんでいるとそのことが、同意できますね。
その上、階段上のキャットウォーク空間には龍神様のような木の彫像。
これがなかなか人気者のようで、子どもたちが自然に近寄ってくる。
蛇行した米代川から上がってきた龍神様が、出会いを演出しているかのようで
かわいい子どもさんたちと似合っている空間だなと思いました。
大空間だけれど、親近感の機縁にも配慮していてたのしい道の駅でした。
Posted on 12月 19th, 2018 by 三木 奎吾
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政庁正門
Googleの航空写真図
古代において日本国が成立した経緯は、いろいろとオモシロい。
国家という概念がそれほど強くなかった時代には、
列島と半島、大陸という東アジアの情勢というのは流動的で
相互に相当規模で人的移動や集団での相克があっただろうと思われる。
そういうなかに律令制を伴った本格的な国家が大陸で成立したことで
列島社会でも、それに対応したカタチで「中華」思想を持った
国家が反射対応的に成立した側面があると思う。
中華思想というのは、要するに自分だけが「文明」であり、
他者はたとえば東夷とかいうように、野蛮であるという身勝手な「差別」思想を持つ。
日本という国家は、大陸でのこの中華思想を自らも行う意志を持った。
それが東アジア世界での普遍的思想だと断定したのだろう。
そういう考え方は、たぶん大陸での政争から排除された知識層が
この列島に流れ着いて政権に関与するようになって顕在化したのではないか。
自らの「中華思想的正統性」のために野蛮を求め、それを征夷するのが、
文明化であるというきわめて「野蛮な思想」だったのではないかと思う。
そういうことで、まつろわぬ、という東北・北方の人々を
異端であるかのように決めつけて、征夷に乗り出していった。
実態としてはむしろ侵略だったのだろうと。
そういった東北地方への侵略拠点として、柵といわれた城郭が築かれた。
この払田柵は、出羽地域への進出拠点として想定された
正史には記載されなかった政庁施設、拠点だったとされている。
きのう探訪記を書いた「秋田城」に先行した施設だったようです。
現代ではさまざまなアプローチで復元に取り組まれてきているようで、
上の写真のような「正門」が復元されていました。
周辺には印象的な背景として「和賀岳」がそびえていて
この柵が平野部を治める中心施設であることが象徴的に見えていました。
平野部でのコメ農耕を集約的に収奪することが古代政権の
中心的な興味だったことがGoogle地形図からも明瞭にわかる。
この柵が、しかしその後、平野部としてはここに面積的に劣る
秋田城にその役割を譲っていったについては、
そういうコメ管理以上の「国家意志」が働いたのであろうことが推測される。
それが北方世界、北東アジアや列島北部地域住民組織との「交易」だっただろうことも
容易に推定可能だろうと思われますね。
今回は時間がなくて駆け足見学で、しかもこの時期らしく柵自体は
冬の間の公開中止期間にあたっていた(泣)。
北海道では冬期でも公開している施設も多いのですが、
北東北では公的管理に「冬仕舞い」という対応が自然に支配的なようです(笑)。
冬にどうであるかも見てみたいというのが自然ではないかと思いますが。
さすが東北。なんとなく、おいおいと思わされました。
また春以降にチャンスがあれば、詳細に見てみたいです。
Posted on 12月 18th, 2018 by 三木 奎吾
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