

ことしも毎週月曜日は「社長食堂」でお料理に挑戦。
「将来は、働いてくれるみんなのためのメシ炊き人もいいなぁ」と
日頃妄想していたひと言からスタートした企画であります。
住宅の雑誌、情報メディアの仕事なので、
なるべくリアルな生活感をいつも心がけていたい、というのもある。
まぁなにより、わたしの個人的な料理好きが昂じて(笑)ということで。
せいぜい、スタッフから飽きられない、呆れられないように精進したい。
きのうも「豚肉のショウガ焼き定食」路線でメニュー構成。
なんですが、メイン料理の方は比較的簡単で、
豚肉を漬け込んで焼くだけ。その味加減を考えることになります。
こっちの課題は味がやや濃いめになってしまう点。
どうしたらいいかなぁと思案中であります。
なにか、いいヒントがあれば教えて欲しいと思っています。
一方、サイドメニューのほうがいまは楽しい。
まずは、ナマホッキを買って来ての包丁仕事であります。
だいたい直径10cm超のホッキ貝をお魚屋さんから買ってくる。
北海道ではうれしいことに、こういう生ものがコスパよく仕入れられる。
これを蝶番付近の筋肉に包丁を入れてあげて開かせ、
合計4個の「貝柱」部分を切り込んであげれば、ゴソッとまるごと取り出せる。
それを水平に切り込みを入れて、さばいていく手順になります。
だいたい、舌状の部分以外の「黒っぽい」部分を削除すれば
おおむね食べやすく調理することができる。
写真の左下に配したのが、こいつであります。
まぁ「サイドメニュー」なので、ほんのちょっとですが、
肉のメイン料理に対して魚介類の味わいも楽しめるのは楽しい。
きのうはプラス、タコ足、ホタテという3種のお刺身盛り合わせ。
やっぱり北海道料理では魚介類は王道でしょうね。
昨年取り組んでいた「握り寿司」以来、魚貝捌きにハマっております。
さらにきのうは、ごはんにもひと工夫。
先日モチ米5kgほどを入手することができたのですが、
これをふつうの白米(うるち米といいますね)とブレンドしてみたのであります。
ちなみにわが家のお米は宮城県の農家の知人から直接仕入れる
「ひとめぼれ」であります。
名前の由来は「見た目の美しさにひとめぼれ。食べて美味しさにひとめぼれ」。
その名に恥じないツヤと適度な粘り気、口当たりの良さが魅力の
バランスに優れた美味しいお米です。
それにさらに、モチ米を混ぜて炊くことで、ツヤのあるもちもちご飯になる。
もち米の水分が白米に移るためです。
効果はしっかり確認できて、炊き上がりの「クッキリ感」が違った。
・・・きのうの会食者全員、完食してくれました(笑)。
さ〜て、奥の深い食の探究、まだまだ追い求めていきたいです。
Posted on 1月 29th, 2019 by 三木 奎吾
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よく見掛けるようで画家の名前が出てこない・・・。
先日あちこち東北を飛び回っている最中、とあるそば屋さんに駆け込んで
ふとみかけたイラスト画に引き込まれてしまっていました。
線といい、デフォルメの感覚といい、
いかにも「蕎麦」を感じさせてくれる・・・。
なんと表現して良いのかよくわからないのですが、
青森のねぶたが描く線画のマインドにもぴったりと通じてきそうな、
いかにもニッポンの「田舎」という郷愁感を訴求してくる。
そばは北海道でも幌加内とか、新得とか
主要な産地があるのですが、
そういう産地ではこういった雰囲気、感覚はあまり感じられない。
むしろ、もっと乾いた空気感が支配的で、
その寒冷な気候がさわやかさに通じている印象がある。
シーズンになると開催の新そば大会、というようなイベントが幌加内などには
似合っていると感じます。家族揃ってモリモリ、ニコニコたべる、みたいな。
というか、この絵のような「食文化」性がまだまだ生育していないのかも。
こういった絵柄からは、独特の人間の手作業感が伝わってくるけれど、
北海道にはそういう手作業・食文化感は感じられない。
大規模にやっていて、もちろん機械を使って作業してます、みたいな。
なので、食べるということに玄妙さみたいなものは入ってこない。
こういう山形蕎麦のような一種独特な陰影感がないと思います。
たぶん、北海道人のそもそもの人間性としても
こういったドライで合理的を志向する傾向が強いのかも知れませんね。
こだわりのなさ、あっけらかんとした開放感の方が支配的。
でもまぁ、わたし的にはこういう蕎麦の味わいとマッチした
芸術的表現には日本人として深く癒されるものがある。
やがて北海道がその生産高実態を反映して、独自のそば食文化を創造し
日本社会に大きく訴求していこうとする段階になったら、
どういう食文化表現がもっともふさわしいだろうかなと・・・。
絵を見て、ふとそういった妄想を巡らせながら、
野菜をたくさん食べたくて、お店オススメの「けんちんそば」を
ありがたくすすっておりました。ごちそうさまでした。
う〜ん、北海道そばはどうイメージ戦略をやっていくべきか? オモシロいかも。
Posted on 1月 28th, 2019 by 三木 奎吾
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わが社の仙台オフィスは仙台駅の東口、新寺という地域にあるのですが、
2年前ほどに開通した「地下鉄東西線」がすぐ近くを通っています。
最寄り駅は「連坊」駅になるのですが、そこから1駅東には「薬師堂駅」があります。
その新駅周辺に最近、見慣れない古代木造建築風の朱塗り建築ができた。
ときどき前を通る度に「陸奧国分寺」という看板を見ていた。
きのう、仙台市内での仕事が一段落したタイミングで
気になっていたその「陸奧国分寺遺跡」を見学して来ました。
陸奥国というのは、645年の大化の改新の頃から国司が派遣され
いまの仙台市太白区長町に「郡山官衙」施設が造営されたとされています。
その後、724年頃に多賀城が対蝦夷の軍事拠点として築城され
やがて「国府」機能も併設されていくようになったとされる。
この時代は奈良の都の時代であり、国府と「国分寺」とは、
国家権力とはなにかをわかりやすく人々に理解させるふたつの機能を見せていた。
国府は人民を支配する政治機構。国分寺は宗教による人民救済を指し示していた。
多賀城からは10km程度離れているので、やや異例の距離感とされてきた。
しかし郡山遺跡に国府が置かれた位置関係からすると、
この現在の場所は、比較的に近隣であり常識的な配置といえる。
そういう国の歴史の最前線施設がごく身近に存在してくれる。
わたしのブログの読者の方々はわたしがこういう時間旅行大好きということは
ご存知の通りでありますが、こんなに近隣に軽く1,000年を超える遺跡。
これは徹底的に検証してガイド役も引き受けたくなってくる(笑)。
別にたまたま賃貸の事務所をそこに借りたというだけの縁ですが、
もうすでに誇らしい気分でハイテンションになってくる。
なにやら日本国の歴史が、北海道という新開地ネイティブ人間を哀れんで
あっちの方から近づいてきてくれた、みたいなウレシイ気分が充満してきます。
下のGoogle航空写真マップの左上の青いマークがわが社の位置であります。
歩いても十数分の近さにあることがわかります。
きのうはとりあえず、駆け足で一巡してみて、
主要な建築群の配置関係などを体感させていただきました。
最近の発掘などで869年の貞観の大津波で被災した状況もわかってきたそうで、
そこから被災、復興というプロセスも見えてきているようです。
仙台では昨年は住宅着工が「需要の先食い」の影響から落ち込んできたとされますが、
長い歴史でもそうした社会の「波動」はあったようですね。
まさに「身近」な歴史に大いに学んで生きていきたいと思います。
Posted on 1月 27th, 2019 by 三木 奎吾
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きのうお知らせしたように、東大の前真之准教授をご案内したのですが、
その移動前に先生からいただいたのが、写真のボールペン。
どういう風の吹き回しかと思ったのですが、どうやら同行案内の「謝礼」のよう。
大学の研究者のみなさんの住宅研究については協力させていただくのは
いわばこの業界に生きる人間として当たり前のことと思っているので
やや驚かされた次第であります。
「へ〜、先生からも気を使っていただけるのか」といったところ。
しかしそこは東大でありますので、多少はスタディに関係するグッズですね。
よくみると、「U-Tokyo」というネーミングを商標化しているようでもある。
こういったネーミングクライツ(命名権)ビジネスとして考えれば
東大というブランドビジネスは確かにあり得るのだろうと思われます。
ありがたく頂戴いたしましたが、さてどうしたものか。
わたし自身は愛用のボールペンがあるので宝の持ち腐れ。
誰か、欲しがっていただける方がいればとも思っています。
さて本日はわたし、仙台におりまして夕方には札幌に帰還予定。
なんですが、全国的に太平洋岸まで積雪の恐れというのが現実化して
仙台はいま、活発に降雪状況であります。
たぶん東北自動車道は通行止めになる可能性が高い。
関東から、冬タイヤを装着しないで走ってくる無謀ドライバーが多くて
すぐに事故って通行止めになることが多い。
高速を使わなければ良いのですが、一般道でもノロノロ運転が増える。
以前、福島県からの移動で高速ダウン、一般道超渋滞を経験したことがあるので、
やや恐怖心が襲ってきています。
さて無事ですまされるのかどうか、ハラハラであります。
みなさんもお気を付けて。
Posted on 1月 26th, 2019 by 三木 奎吾
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冬になると、各地域から北海道の住宅視察に来られるケースが多い。
東北地域からは毎年多くの工務店のみなさんが定期的に来られます。
また、キムラさんをはじめとした建材屋さんの展示会も住宅の施工閑散期ということで
冬場に開催されることも多く、そういう機会に本州地区から
見学に来られるというケースも多い。
ということで、わが社でもそういった対応をさせていただくケースが多い。
今年は、そういうなかにReplan関西でお世話になっている作り手のみなさんも
はじめてやってこられました。
事前には「関西の人間は冬の北海道というと恐怖なんよ」と言っていましたが、
来て見ればみなさんコテコテの関西弁がどこでもここでも満開(笑)。
まことにアップテンポというか、ハイテンションというか、
どんどんとホンネが飛び出してくる臨場感はさすがであります。
住宅見学でもツボにハマってくると、質問がどんどん飛びだしてくる。
東北のみなさんは案外口数が少なめなのとは対照的です。
わたし自身は、こういうハイテンション会話が始まると
ものの数分でそのペースに合わせられるネイティブ感があります(笑)。
関西圏の西の端っこの兵庫県西部に縁があることが関係しているのでしょうか。
22日からの見学では、東大の前真之准教授も自立循環のメンバーと
合計4人同行で合流されていました。
で、22日にはなんと見学会終了の懇親会で盛り上がったあと、
なんとススキノから南幌のモデルハウス群の「冬期測定」をしたいと
わたしは往復の運転者として同行させていただいておりました。
午後8時過ぎからの見学で、しかも冬の北海道、除雪の用意もして(笑)
長靴も準備の上、合計3名で熱環境の動向チェックをしておりました。
で、関西のみなさんは翌日の23日に追いかけて南幌の視察見学。
さらに24日も弊社スタッフの案内で札幌市内での建築家住宅見学でした。
住宅性能の進化は、北海道での実践が一定段階になってきて
いまは本州地域に大きく拡散していく段階なのだろうと思います。
こうして各地のみなさんと住宅性能を踏まえた家づくりについての共通感覚が
確実に育っていくのだと思います。
わたしどもも住宅のメディアとしてこの「拡散」にお役に立ちたいと思っております。
Posted on 1月 25th, 2019 by 三木 奎吾
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表題のようなことについていったいどう表記したらいいか、
たぶんあんまり日本語の語彙にないかもしれない。
現代住宅ではクルマと家のカギはほぼ必須のアイテム。
もし万一場所を忘れたら、一大パニックになることは必定。
の割には、その設置場所というのは住宅設計的には考えられない典型。
わたしもたくさんの住宅図面を見てきたけれど、
こういった「仮置き」場所について表記された図面は見たことがない。
個人情報のもっとも機微に属することであり、
住宅の設計プランであっても、打ち合わせするということには馴染まないかもしれない。
しかし、住宅利用のいちばんキースペースであるかも知れない。
防犯上のこともあるから、あんまり「似合った場所」を作ると
それこそ泥棒サンにわざわざ秘密を開示することにもなりかねない。
そこは「あうんの呼吸」で、なんとなく想定していくか、
施主さん本人に任せるというのが一般的でしょう。
たぶん一番多いのは、玄関脇の靴収納まわり、その上部平面が似つかわしい。
ただ、その家によって大きく違うだろうし、
また、夫婦家族それぞれでも大きく違いがあると思われます。
個人主義・核家族という考え方が社会に深く浸透して
こういうカギの類との「付き合い方」が、不可分な暮らし要素になりましたが、
必ずしもこういう暮らし方が人類ネイティブというわけではない。
カギとか錠前というようなものは、普通の人間が扱うようになったのは、
たぶんここ100年くらいのことでしょう。
DNA的に浸透していくような生活行動にはなっていない。
クルマのカギは近年急速に「電子化」してきて、
あの電子カギは電池で動いているシロモノなので、
道路の真ん中で立ち往生しているクルマがいたりするようになった。
緊急時にはアナログ操作可能なように考えているとはいえ、
そのことを常識として知っている人間は案外少ない。
家のカギについても、たとえばSECOMなどのロックの場合には、
どんどん電子化が進んでいる。そうしたことでのトラブルというのも
あり得るのでしょうね。
こういう中途半端な、まだ完全に機能定着していない、
人間生活の動と静の接点のような部分についての生活と住宅の進化も
オモシロい分野かも知れないなと妄想を働かせていました。
Posted on 1月 24th, 2019 by 三木 奎吾
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きのうは新住協関西支部のみなさんが札幌見学に来られました。
合わせたように東大の前真之准教授と自立循環のメンバーのみなさんも
同時に来札され、住宅見学に同行されました。
で、主に地元の高性能住宅ビルダー・棟晶さんの見学終了後、
ススキノで懇親会を行った後、なんと夜8時過ぎに
前さん一行を南幌町モデル住宅群視察にご案内しておりました。
幸い、みなさんの日頃の行いよろしく、天候が平穏に推移したので
無事、強行日程をこなすことができました。まぁこの時期としては奇跡的(笑)。
この見学の内容については、折に触れてご案内していきますが、
本日は、1件目の棟晶さんの既築住宅の様子。
こちらは、札幌市の西部地域に建っているのですが、
その2階リビングからの眺望であります。
札幌という街は京都の反対の都市計画で知られています。
基本は碁盤の目状の街割りで、整然としているのでわかりやすい。
京都の人はたぶん札幌に来ても違和感がないだろうと思います。
ところが、この街割りは「南北方向」が真反対なのです。
京都は北を山地が守っていて、南方向に向かって街が展開していく。
しかし札幌は、南方向が山地が閉ざしていて北方向に向かって開いて行く。
守護する「北海道神宮」も、北に向かって開いているのです。
アジア的な都市計画概念、「風水」からするときわめて異常な街割り形状。
たぶん、地理的な要因から導かれた都市計画なのでしょうが、
札幌という街が計画された起点的動機として、
対ロシアの国防戦略が色濃かったのではないかと思われます。
国土防衛の最前線として、いわば日本民族の意思を明確にしたのではないか。
「迎え撃つ」というような国家意志が体現されたように感じます。
で、結果として風水にまったく逆行して真反対になった。
この写真のように、札幌の街全体が南を背にして北をにらんでいる。
そうすると、冬期積雪の結果として南からの太陽光が雪原に反射して
得も言われぬ美観を見せてくれるようになる。
ちょうど京都の庭園でもっとも優れた美観を見せる
「北側眺望」が、このような高台からは自然に得られるようになる。
「1週間で飽きましたけど(笑)」と建て主さんは笑っていましたが、
北側眺望のこの時期らしい美しさにしばし感嘆しておりました。
まぁ京都の庭園群は「幽玄」な美観、こっちは突き抜けたような光の美
って言うような違いはあるように思うのですが、
長年見てきた視覚体験が再度呼び覚まされるような思いがした次第です。
Posted on 1月 23rd, 2019 by 三木 奎吾
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写真はReplan関西で取材した家具屋さん「TRUCK」。
ひとつの家具屋さんが、自分たちの価値感・テイストを追究して
家具から自宅の建築に至るまで「好き」を追究した姿勢が
出版を通して多くのひとに知られ、いまは一種の「聖地」化している。
雑誌の姿勢としても共感できるものがあって、取材し掲載させていただいた。
北海道は高断熱高気密という住宅技術を進化させることができた。
そのプロセスでは人間の生身の生活のベースをどう作るか、
そういう生々しい「環境」性能のたゆまぬ追究があった。
人間のいごこちについての床壁天井、ボックスとしてのあるべきモノの探究。
同じように「空間」とか、「空気感」というものへの追究があったと思う。
日本人として寒冷地において住宅の即物的な性能のことがらが解析され、
基本的な技術基盤はおおむね達成されてきて、
この技術は全国に対して「拡散期」を迎えているのだろうと思います。
そのときに、北海道は今後、どのような志向性を持って行くべきなのか、
このことは深く考えていく必要があるけれど、
拡散の方向で、いろいろに出会う「ニッポンの生活感受性」に邂逅する。
いわば「高断熱高気密meetsニッポン」のようなことも
同時にわき起こっていくのだろうと思っています。
高断熱高気密の住宅技術がその基本的な部分で貫徹されながら、
その地に暮らす生活感受性の部分と、どのように親和していくのか、
いわば文化としてのニッポン社会での調和を考えていくことになる。
北方圏出自の住宅雑誌として、テーマだと考えた次第です。
写真のような家具がもたらす「肌感覚」のようなもの、
そういうものに込められた、関西的気候風土と人間の感覚を体感する。
北海道人はしかし、その大多数は東北以南地域からの「移民」の末裔たちです。
寒冷という環境の中で暮らす中で、いろいろな「そぎ落とし」もあった。
日本家屋の「隙間」というものとは訣別の方向に向かった。
冬期に積雪があり、日射融雪が結氷する環境で
屋根雪の滑落といっしょに崩壊せざるを得なかった瓦屋根は早々に
北海道の住宅からは消えていった。
そういう日本人としての住宅への感覚「新常識」を持って、
ふたたびネイティブの地域に戻ってくる、という感覚があるのです。
ある意味、不思議の国のアリスのような視点もあるけれど、
しかし、深く癒されるこの生活感受性への共感も強く喚起されます。
いま、第2号の編集作業まっ盛り。自分たちもワクワクさせられています。
Posted on 1月 22nd, 2019 by 三木 奎吾
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写真はReplan東北最新号の「スモリ工業」さんの取材記事から。
同社は仙台からクルマで30分ほどの松島の奥の「大郷町」で
廃校になった小学校の建物を再利用して
「たのしいおうちづくりの学校」というコミュニケーション施設を作っています。
住宅というものを総合的に体験できる施設というものは
なかなか得がたいということで、実際に多くの子どもたちが見学している。
そんな様子を取材記事構成したのですが、
わたし的にオモシロかったのが、この写真の様子であります。
現代はお節介なほどに社会が人間行動に制約を加える。
危険回避という意味はもちろん了解可能だけれど、
いまどき「屋根にのぼる」というコトバ自体、聞くことができなくなった。
もちろん積雪地域では「雪下ろし」という一般語が存在しているけれど、
それ以外の地域では、ほぼ聞かれなくなったのではないか。
一方で人間というのは「なんにでも興味を持つ」という好奇心の要素が
その「進化」を支えてきた基本的な要因であると解明されてきた。
熱帯のアフリカから全地球に拡散していったグレートジャーニーは
強い好奇心なくしてはあり得なかったでしょう。
そういう意味では子どもたちにとって、日常的に目にする「わが家の屋根」に上って
そこからどんな風景が見えるか、どうしたら上れるか
そんなことを夢想するのはきわめて自然なことだと思う。
わたし自身、幼い頃、何度も家が改造されたこともあって
屋根にのぼることに好奇心を強く抱き、なんどか上った経験がある(笑)。
その結果は別段のこともなかったけれど、危険のキワを体験はできた。
ここまでは安全にやれる、というような体験記憶。
こういったことがらって、考えてみれば大切なことではと思うのです。
体験することで、その本質がカラダに刻み込まれ肉体化する。
具体的な想像力を持てる、という意味では得がたい体験だろうと。
そういった意味で現代社会の中で、この施設のように
実物大の瓦屋根に自分の手足を動員して、上ってみられる場は
非常に興味深い体験を子どもたちに、十分な安全範囲で体験させられる。
靴底と平滑に見える瓦屋根の摩擦の具合とか、
手足をどのように動作させれば「上る」ことが出来るのか、など
それこそ「おうち」についての具体的体験ができる。
こういった体験記憶が子どもたちにどんな刺激になるか。
少なくとも、自分の体感で感覚できることは間違いが無いでしょうね。
Posted on 1月 21st, 2019 by 三木 奎吾
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写真はふと見掛けた「おかぐら」建築。
おかぐらというのは平屋に2階を増築すること一般を指すことなのですが、
通常は、構造的に不安定な増築方法として避けるべきとされる。
この写真の建物はブロックの1階に対して、
木造と想像される2階が大きな面積になっている。頭でっかちであやうい・・・。
どうも最近、社会の見えない部分でこういうおかぐらが進行しているかも。
WEBは非常に有益な情報手段として定着してきたのですが、
一方でこのことが社会に変化ももたらしてきているというのも事実。
そろそろ、このことについての論考もされるべきではないかと思っています。
というのは、WEBの発展によって社会の「分断化」も進んだと思われること。
さらに、中国という共産党一党独裁のような国家体制が
その技術を悪用して社会管理を強化して、独裁の延命に利用してきていること。
このような「害毒」も無視はできないと思われようになったと思うのです。
とくに「社会の分断」については、WEBの「履歴検索対応」という
システムが非常に大きく関与しているのではないかと思われます。
一度ある特定の主張のサイトを見ると、WEB広告のひとつの機能である
履歴情報にその内容が記憶されて、その内容に近似した広告などの情報が
その利用者個人の同意を経ることなく、繰り返し表示されるようにプログラムされる。
みなさんよく経験されると思うのですが、一度WEB検索したら、
繰り返しその情報がパソコンやスマホの画面のどこかに表示されることがある。
あれは、情報を「合法的」に受け取って広告としての「高い効率性」を
追究するシステムが動作して、個人に対して情報を送ってくるのです。
本来であれば、こういう情報選択について個人意志が前提されるべきだけれど
現状では機械的な情報の偏り、操作が同意も論義もないまま、許容されている。
こういうことがもたらす社会の弊害について、
人間社会としての判断はどうしたらできるか、ということも不明だと思う。
政治が取り上げるべきなのか、それ以外の「公共」が取り上げるべきなのか、不明。
メディアのような存在が、こうしたWEB情報操作・利用について声を上げない限り
なかなか社会一般化しないように思われます。
ある特定の意見に引き込まれると、繰り返しその「方向」からの情報が
どんどん勝手に情報を送りつけられる。あまりにもお節介ではないか。
はたして人類社会はいつこういうことを許容したのだろうか?
Posted on 1月 20th, 2019 by 三木 奎吾
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