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【窓辺の冷輻射対応 TAO・川村弥恵子スタイル】


年の初め時期は研修などの社内行事に好適ということで、
仙台からのスタッフも交えて、住宅見学に行くことが多くなります。
きのうは札幌市内のTAO建築設計・川村弥恵子さんの事務所を訪問。
南北方向にも、東西方向にも1.5mほどの高低差がある敷地条件に
柔軟に対応した内部プランのワンボックス的空間。
南面からの太陽光日射に即してそれを冬場の暖房エネルギーとして
輻射熱として取り入れると同時にさまざまな「反射光」としても
大きな内部空間要素として取り込んでもいる住宅サイズの建築。
いずれは住宅としての利用を考えた設計になっているということ。

建築家の自邸的事務所建築ということで、
いろいろ実験的な試みがなされているのですが、最終的には
「北方向に開口させた窓からの庭の景観」をメインに据えたデザイン。
そういう意味ではきわめて日本建築的な、
京都に見られる庭園満喫建築群と同質のデザイン感覚だと思います。
龍安寺や大徳寺龍源院などに一種の極限を見る日本人マインドが
どのように高断熱高気密をわきまえながら実現できるか、という
北方ニッポン人的な空間構想だと思います。
たぶん、北海道で住宅サイズの建築をいま作ろうとする人には
広範に存在するメンタリティそのままなのでしょうね。
そういった建築意図に対して、いろいろな素材だったり、材料、技術が
試行錯誤を重ねながら、ディテールでいろいろな表情を見せてくれる。
わたしとしては、小さなところに目が行くタイプなので
北海道の住宅ではほぼ必須である窓辺の冷輻射対応としての
窓下放熱の扱い方に興味が向かっていました。
暖房自体は砂利を床面下に敷き込んで、
そこに銅管でパイピングした温水を循環させているそうです。
それに対して、写真下の窓辺のスリットは窓の結露を防ぐため専用の工夫。
どんなに窓ガラスの性能が上がり、コストが下がったとしても
やはり壁よりはどうしてもガラス窓は表面温度は下回らざるを得ない。
そこでやむなく「コールドドラフト(冷輻射)」は発生する。
ここではスリットを2本床面に開けて、窓辺に近い方でダウンドラフトを自然に受け入れ
そして室内側のスリット側に温水循環させた銅管で放熱させることで
空気循環を促すようになっている。
冷輻射に対して加温して空気を上昇させることでマイルドに室内空気と
ブレンドさせて、室内気温を一定に保たせる工夫、という説明でした。
そういった検討の結果、この2本のスリットの幅と間隔が決定されている。

このような冷輻射対応はさまざまな試み、対応がされてきていますが、
言って見ればTAO・川村弥恵子スタイルのデザイン処理とでもいえるでしょう。
さらに、窓辺ではもうひとつオモシロい発見もありましたが、
それはまたあした、触れてみたいと思います(笑)、乞うご期待。

【Replan東北「家づくりのタイミング」&岩手特集1.21発売】

さてことしもReplanは次々に発行が続きます。
トップバッターとして、1月21日には「Replan東北63号〜2019冬春号」発刊。
今回は巻頭で「家づくりのタイミング」特集と、最寒冷地域・岩手の地域特集です。
とくに岩手は暮らしのありよう、寒冷の質どちらも北海道にいちばん近い地域。
地域気候を知り尽くした住宅性能、しかも豊かなデザイン住宅大特集です!

【特集】いつが正解? 家づくりのタイミング
人生の中でもとても大きなイベントのひとつである家づくり。
「子どもが小学校に入る前に建てなくちゃいけない?」
「ローンの年数考えたら早くしたほうがいい?」
「消費税増税前に建てないと損?」
「ライフステージが変わるタイミングで考えるべき?」
いつ建てるかというタイミングへの疑問は尽きないことでしょう。
はたして、「家づくりのタイミング」に正解はあるのでしょうか?
Replan取材先のアンケートや実際の事例から、
その答えが見つかるかもしれません。
timing 01 結婚を機にはじめる家づくり 人生設計で見えてきた平屋の暮らし
timing 02 家族の変化を経て夫婦だけの暮らしを刻む実家のリノベーション
timing 03 人生二度目の家づくりで実現 大きな三角屋根の平屋の住まい
Contents
●巻頭特集/いつが正解? 家づくりのタイミング
●巻頭特集連動企画/
 家づくりのタイミングで考えておきたい「もしもの備え」
●エリア特集・岩手で建てるなら、ココ! 2019
☆★今回の目玉企画エリア特集。東北の主要都市のなかでも寒冷地で知られる
盛岡を中心とした地域住宅特集。岩手の気候風土を知る優良ビルダー総集合!
必見の地域特集ですよ☆★
●新築ルポ あなたの街のパートナー
●連載 Q1.0住宅デザイン論 〈新住協 代表理事・鎌田 紀彦〉
●連載 いごこちの科学 NEXTハウス16 〈東京大学准教授・前 真之〉
●NPO住宅110番
●TOHOKU ARCHITECT 「八山田の家」 高橋 悟

WEBでのお申し込み・購入はこちらから
Replan東北VOL.63
2019年1月21日発売・2019年冬春号・A4版 本体価格463円(税込:500円)
1月8日~14日までにご購入された方は21日までに配送致します。

【地域ものづくり道具生産「鍛冶」in会津歴史】

福島県でときどき撮影を依頼しているカメラマン・赤沼博志さんから
写真のような「写真集」の本が送られてきた。
戦国時代末期に会津地方を秀吉政権から受領した蒲生氏郷は
この地を領有・支配するに当たって、同時に自らの出身地・近江から
大量の「職人」たちをこの地に勧誘して、地場産業を興した。
この会津に根付いたとされる製鉄職人としての「鍛冶」について
そのありよう、歴史経緯などを地域に残った資料、実物写真などで
本と言うアナログのカタチで「遺そう」としたのがこの作品です。
戦国武将にとって、鉄の技術というのはまさに中核的な技術だったことは自明。
戦争の度にまさに「命が掛かる」その道具の優劣を考えない人間はいない。
「殿、先の戦では当方の刀損耗率はこれで、相手方はこうでした」
ということを専門に把握する家老職まで当然のように存在しただろう。
織田軍の鉄砲装備での長篠合戦の例を挙げるまでもなく、
このことは戦国武将にとって最高の関心事だった。
いろいろな戦争が起こる度にその帰趨を制した「技術進化」が問われ、
すぐさまに抱えていた技術者の「鍛冶」に最先端技術開発が委託されただろう。
そういうなかでいわばブランドとしての堺の鉄砲とか、備前長船などの
地域製造業が独自進化を競っていたに違いない。

日本史において、製鉄技術はまさに核心的な産業だった。
農業の開墾道具・諸生産必需装置、漁具、林業の基本道具、さらには
戦争のための武器の生産においてまさに決定的な技術だったことは明らか。
弥生の遺跡である吉野ヶ里でも、こういう鍛冶集団痕跡が認められると聞く。
古代史を見ていると、政治的・軍事的事態の裏側で、
この製鉄・鋳造の技術がこの列島でいかに創始されたかがほの見えてくる。
白村江敗戦以降、この列島社会が半島・大陸との間で
比較的に独立的で離隔した関係になって行くことができた背景には、
海を隔てているという地理的関係以上に、
この鉄の技術が列島社会で自力生産させられるようになったことが、
大きく関係していることが深く理解出来ると思う。
そういう「社会進化」の具体的な地域歴史について
ほぼ人間血脈的なサイズで記録が一地方としての単位で残されていて、
現代のわれわれが知ることができるということに深く驚かされます。
北海道にいると、こういった地域間競争の結果としての地域史のようなものに
どうしても感覚が鈍くなるし、またそれ以外の地域でも一般の現代生活では
こうした地域を支えてきた技術についてのニーズはほとんど残っていかない。
しかし、確実にこうした営為が存在し、生き延びてきた事実もある。
そういう根底的な気付きを、この本はもたらしてくれました。

「会津手語り」 写真・文 赤沼博志
歴史春秋社刊:A4変形本文152ページ
TEL 0242-26-6567   定価:2,800円 
http://www.knpgateway.co.jp/knp/rekishun/
Mail rekishun@knpgateway.co.jp

【茶室=茶の間⇒リビング? ニッポンの憩い空間】


写真は千利休が師匠の武野紹鴎から茶道を教えられたと伝わる茶室・実相庵。
大坂の陣や空襲で全焼してしまったモノを現代になって1961年に再建築したとか。
しかし建築当時の図面を参照しての再建築なので、
多くの知見が動員されたに違いなく、利休さんも見ていた建物ではないかと。
内部は非公開ということだったのですが、「利休好み」の茶室だったとされる。
「二畳台目の下座床の平面構成で、給仕口が開き戸となっている点と、
床の間の落掛に卒塔婆が嵌められて「卒塔婆の席」とも呼ばれる。
実際には手法・材料から利休の時代まで遡ることは出来ないようで、
後年に利休風の茶室を造ったのがその真相のようだ。
露地にある袈裟形の手水鉢は利休遺愛のもの。」っていう紹介がWEBであった。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~chinke/nansyuji.html
以前から住宅の歴史の中で、この「茶室・茶の間」という部位特定する名詞が
日本生活文化の定型になっていることに深く疑問を持ち続けてきた。
文化として建築と喫茶習慣がなぜ一体化し日本的デザインの究極になったのか、
さらにこういう「生活習慣文化」が、なぜ「家元制度」というようなカタチで
永く存続してきたのかも不思議だと、ずっと考えさせられ続けています。

わたし自身、家族の暮らしの中心としての「茶の間」畳敷き空間体験はある。
となりに台所があって、食に近接した「自由空間」というイメージ。
そこでわざわざ「茶を喫する」ことが主要な用途だったとは思われない。
そこにはテレビが端座し「見る娯楽」が定置され自動的に家族が寄り集まった。
茶の間と言うより共同幻想装置としてのメディアの場ではなかったかと。
もちろんそこには主にテレビの番組ガイド機能を果たしていた
「新聞」が常に参照可能なように広げられていた。
そのテレビ視聴の合間に、一定の思想傾向に基づいた新聞記事を読み
「そうか、知識を持つ人はみんな反政府でなければならないんだ」
みたいなそういう「一般性」が存在していたように思う。
ちょっと横道にそれたが(笑)、茶の間ではそういった時間が経過していた。
たまにはお茶を飲むこともあっただろうけれど、
それは単に水分補給ということであり、茶よりもジュースなどの
飲料に主役の座は移っていたと思われる。
なので、茶の間というコトバが茶室にルーツを持っているということに
その連関性がきわめて実感として薄い。
われわれの時代感覚では、茶の間からリビングへという移行はわかりやすく、
常識理解出来るけれど、茶室⇒茶の間という流れはイマイチ、実感がない。
さらに現代にいたって、テレビ視聴も個人的なものに移ってきて、
家族一緒にテレビを見る習慣も薄れつつある。
各人が個室的空間でWEBに接続している。空間として連続しているけれど
不連続な住宅空間が一般化してきている。
言って見れば「家族から個族」とでもいえる流れになってきている。
そういうとき、茶室・茶の間が定型住居指示代名詞としてあり続けるのか、
住宅デザインの核心テーマと関わるので、強い関心を持ち続けています。

【大阪梅田地下街トイレ看板にみるPOPアート魂】

そろそろお酒は切り上げて帰ろうかと思ってトイレへ。
慣れない街なので、案内看板の類もしっかり確認しようと・・・。
おいおい、であります(笑)。
さすがであります。コテコテ感が充満している。
キタはナンバよりも気取っているとされるのに、これかよ、というところ。

しかしこういうメンタリティにはホンマ、圧倒される。
この場所は一応は「公共的」な空間のハズであります。
正確にはどうなのか、このあたりはハッキリしない。
なにしろ梅田の地下鉄駅にすぐという地下街で、どこのビルの地下になるのかも
よくわからない場所ではある。
公共という概念と私企業の公共へのブリッジの淡い境目ということか。
しかし公共性が高い場所であることは間違いない。
まぁ東京であれば、こういうのは通用しそうもない。
街全体に「許さない」感が充溢している。
まちがいなく「許せない誰か」さんからの「タレコミ」などですぐに修正勧告が来そう。
なにしろ、南青山にはなになにがふさわしくないと言い切る輩がいるくらいなのだ。
また東北一円ではこういったギャグはまったく通用しないだろうし、
北海道だったら「なんも、いいべさ」・・・とはならない。
「なに書いてるのさ?ハンカくさいんでないかい」という反応かなぁと。
っていうより、酔っ払いすぎたらこの時期、凍死・行き倒れの可能性もある。
いずれにせよ、公衆トイレはあくまでパブリックな場所で
そういう場所に、落書きならいざ知らず、正規のPOPとして
こういう表現はなかなか他の地方では存在しにくい。
しかしそこが関西らしいというように感動する部分も大きい。
鉄道でもJRを圧倒するほど私鉄が充実しているし、公共交通機関というのが
私企業が担っているケースが圧倒的に大きい。
そういった私企業が生み出す公共意識には、こういうのを許容する文化がある。

北海道の田舎の純朴人間には抵抗しようもありませんね、もちろん。
しょがない、もう1軒は行くか、となってしまった・・・(笑)。

【無情の足切り・シード権、ドラマが同時進行の箱根駅伝】

平穏な正月と思いきや、熊本でふたたび震度6弱。
謹んでお見舞い申し上げます。余震が心配ですね、被害の少ないことを祈念します。

さてわが家ではきのうはカミさん実家にて親族新年会。
わたしもまた握り寿司を作ったりしてことし卒寿の義母を囲んでおりました。
が、話題としてはすっかり「箱根駅伝」TV中継にかじりつき(笑)。
これまでほとんど関心の無かった箱根駅伝でしたが、
2−3年前からときどきチラッとテレビを見るようになっていました。
というのは卒業校の國學院という名前がときどき聞こえるようになってきたから。
もちろん優勝争いとは縁がなく、「シード権争い」で地味に盛り上がっていた。
駅伝はいろいろな見どころがあることを知らされたのです。
首都圏の大動脈道路を使っての新春のイベント。
ふつうであれば、こんなに長時間通行規制がかかるイベントはありえない。
そういうことで、どんどん時間制限、足切りが掛かってきて、
ほんの数秒でランナーが見捨てられていく、あの無情シーンがたまらない(笑)。
かくいうわたしの國學院も、昨年はあと5秒足りずに無念の足切りを経験していた(泣)。
また、10位以内の次年度シード権争いもまた熾烈なものがある。
そういうトラウマが「また見たい」欲求を刺激する。
なかなか考えてある仕掛けだと感心していました。
そういう地味な楽しみをひそかに期待してきたのですが、
ことしはなんと、前日の5区、箱根上り区間でなんと区間賞をゲットしてくれた。
いわゆる「山の神」新人・浦野雄平(3年)クン誕生であります。
昨年も1区で2位快走を見せてくれていたとのこと。
ことしは「花の2区」を希望していたけれど監督から5区を指名された。
とくに上りが得意というわけでもなく、ふつうに走ったらまさかの「区間新」。
順位を一気に往路3位まで上げてくれたのですね。
しかしどうも聞こえてきたのは往路に全力を賭けたので、復路は心許ない、という声。
ということで半ばは諦めつつ、往路で見せ場を作ってくれたことに感謝していた。
ところがそういった声を覆すように、4年生中心の復路でも頑張って
全体で順位は4つ下げたけれど、堅実にがんばってなんと過去最高の7位をゲット!
OBとしては無上の歓び、幸福感で満たされておりました。
なぜか青学押しのカミさんとの夫婦バトルにも
娘がわたしに味方してくれて、これもチョーうれしかった。
そしてさらに、坊主の大学にもひとつだけ負けてあげるという心配り(笑)。

2位でも敗北感に包まれていた青学さんはかわいそうですね。
でも走った青年たちはみんなふつうの大学生たち。
ごくふつうのコメントを聞く度に、なにか癒される部分がある。
まことにいろいろな見方ができる駅伝、すばらしいゲームだと。
そういうことなので、最下位のチームが走り終えるまで、
ゴール地点の観衆もほとんど立ち去らずに迎えてくれていた。
下位は下位なりの目標を持って最善を尽くして戦う姿は、
社会人になったら、ごくふつうに毎日がそういう勝負だと思います。
小さな積み重ねに全力で立ち向かう、すっかり駅伝ファンになってしまいました(笑)。

【瀬戸内は情報と物流、ニッポン商業の揺籃地域】

写真は今回の旅ではじめて渡った瀬戸中央道から四国を望んだもの。
ルーツの痕跡を中心に歴史を探訪し続けているのですが、
どうもこの瀬戸内海世界というものが主役のような気がする。
ながい日本列島での歴史発展の中で、この瀬戸内はまさに歴史を揺籃した。
日本という国は、その成立の過程で深く東アジア世界に関わっているけれど、
その交流は、基本的には北部九州地域が「玄関口」になり、
畿内地域での「応接」に至る「交通・流通」ということについて、
瀬戸内地域は、その大きな部分を担っていたに違いないと思うのです。
陸上交通というものは大変な費用コストがかかったことを想像すれば、
基本的なモノの流通は海運が担ったことは自然。
その海運とはまさに瀬戸内海が主要舞台だったといえるでしょう。
戦国期の織田軍は一度、毛利の水軍に手痛い敗北を喫している。
主に陸上勢力であった織田軍には十分な「水軍力」がなく、
伝統的水軍力優位勢力であった毛利に敵わなかった。
また、石山本願寺があのように長く織田軍と対峙しえたのも、
バックアップとしての制海権を毛利側が持っていたことが
大きかったのだろうと推察できます。

こうした水上交通は歴史的に見れば、同時に「情報力」でもあった。
商業とはモノの値段を掌握することが基本だろうと思われますが、
通信というものが無かった時代には、このような水上交通ネットワークが
もっとも「早く」流通させたに違いない。
今回、中世までの大阪湾地域のビジネスの中心であった堺を探訪し、
その湊から指呼の間である兵庫県姫路・英賀地区間を巡ってみた。
まさに石山本願寺の戦闘力を支えたのは、この海運による兵站だった。
織田氏はいちはやく自治都市・堺を手中にしたけれど、
堺はやはり「自治的」に海上交通勢力とも深く関係し続けていたのだろう。
そもそも織田以前の畿内支配者・三好松永勢力とも深く関係していた。
陸上戦力の多寡が軍事としての戦争では決定的であり、
その戦力は大きくは農業的な生産システムから供給されるけれど、
しかし中世を破壊するのは商業であると喝破していた信長にとっても
どうにも戦いづらい勢力が、この商業ネットワークだったように思われるのです。
陸上のように「関所」を設けて人の流れを管理することは
海上交通に対しては不可能だったのでしょう。
秀吉が結局はこの海上勢力と結託することでその後の歴史は動いていった。
海上交通兵站ネットワークを駆使した石田三成などの豊臣中核には
堺の町衆代表として小西行長などの名も見えていますね。
さらに三木城合戦以降、城主別所長治は自死したけれど、それ以外の勢力は
その勢力を長らえ、江戸期には徳川権力にまで食い込んでいた数奇な事実。
まことにいろいろな発見をすることができた次第です。
しかし、同時にたくさんの「宿題」も湧き上がってきて、
ディープな歴史探偵旅には終わりが決してないようです(笑)。

【最後は鬼が出るかと恐る恐るの播州紀行(笑)】


訪れる人もなく、庫裡に呼びかけても応答のない山深い古刹。
寺の紹介をWEBで調べたら、なにやら「鬼踊り」という奇祭で有名なんだとか。
そういう案内には「大みそか」開催も、ということでしたが、
そのような雰囲気はみじんも感じられない。
写真は「奥の院」とされている本堂の様子ですが、
なかには人気〜ひとけ〜は感じられず、数脚の椅子が円形状に置かれていましたが、
人間が寄り集まっていたというよりは、
どうも「鬼」たちがどうやって人間を捕まえるかの相談で盛り上がっていたような(笑)
という不思議な「蓮花寺」を播州・三木の山奥で訪ねておりました。

今回の自分のルーツにまつわる探訪の地として
播州、兵庫県のあちこちを巡っていたのですが、
大みそかには、ここを訪れておりました。
わたしの家系伝承では、現在の姫路市英賀保周辺がどうもポイント。
そういった関係からほぼ相互に交流のあったのが
秀吉の中国攻略の最初の起点にあたる「三木城攻防戦」の三木市です。
堺・南宗寺の「徳川家康墓」の一件で別所長治さんとの縁が浮かび上がったので、
三木市周辺を調べてみたところ、わたしの家系が広島県福山市近郊・今津で
生きていた江戸後期、縁が深かった寺の名が「蓮華寺」と同音だったのです。
蓮華と蓮花とひと文字の違いがあるのですが、
これは単なる偶然の一致なのかどうか、非常に興味をそそられた次第。
で、訪問してみたら、真言宗という宗旨も同じだと知れた。
秀吉の播州平定によってこの蓮花寺は一山が焼き討ちされて灰燼に帰した。
英賀城も同様に秀吉によって潰滅させられた。
よく似た境遇であって、人的な結びつきも強かった痕跡が認められる。
英賀で敗残となった一族がやがて広島県福山近辺で同名の蓮華寺を
菩提寺にしたのに、なんの脈絡も無かったという方が不自然ではないか。
WEBでいろいろ調査してみていますが、今のところ、明瞭な手掛かりはない。

しかしこちらの蓮花寺は訪問してビックリですが、
役行者にも似たいかにも超人伝説を持つ「法道仙人」という渡来系宗教人が
この寺を開基し、そういうのが大好きな空海さんもここで修行したという。
で、宗教者として空海さんが都で大成功を収めてのことが関係してか、
この蓮花寺も954年に村上天皇の勅命として醍醐山の菩提上人が再興したという。
一時期は寺領16町4面、18院33坊の大伽藍を容し隆盛を極めていたが、
天正7年(1579)の三木合戦の戦火で消失した。
現在の本堂、多宝塔、鐘楼、仁王門などは江戸時代に再建されたという。
まさかの想像を超える大寺院であります。
江戸期に再興されるだけの格式の明瞭な大寺であり、そのことを
同宗派の真言の寺院、今津・蓮華寺が知らないわけもないだろうと思います。
古い交通路では三木というのは中国路の要衝だったともされているので、
いわば「情報」業の側面の濃厚な宗教の方で無関心であろうハズがない。
・・・う〜む、であります。
ナゾはコンコンと湧き出て止まらない(笑)。
年末休暇歴史ディープ旅、最後に至るまで深まりこそすれ、
いっこうに解明されることにはならない。むしろ、あらたな混迷が横たわってきた。
これは奥深い播州で、行方不明になりそうであります。助けて欲しい(笑)・・・。
ということで、きのうようやく見慣れた雪景色の札幌に帰還。
落ち着きを取り戻しながら、情報の整理整頓に立ち向かいたいと思います。

【謹賀新年、国宝櫻井神社拝殿】

あけましておめでとうございます。

北海道というのは「国宝」というのはまだひとつしかありません。
それも「中空土偶」という縄文時代の作品であり、
建築的なものではまだ、なにひとつ国宝の基準を満たすものはありません(泣)。
あと数十年も経過したら北海道発祥の「高断熱高気密」技術というものが
歴史的に有為なものとして、顕彰される可能性はあると思うのですが、
たぶんわたしが生きている間には、そういう日本国家の承認はないでしょう(笑)。
その場合、それがなにに由来するかという点も論議を呼ぶでしょうね。
日本の権威的国宝級建築とは、おおむねアジア世界からの輸入技術がベース。
そういう意味では北米北欧という「違う世界」から同様に思想は輸入したけれど、
しかし軸組構造という南方起源と思われる隙間の多い構造建築を
高断熱高気密化させた技術は独自の「進化」といえるでしょう。
なにしろ、冬の寒さを技術で克服したということは、空前絶後のことでしょう。
しかしそれが「文化」であると認証されるには、相当に時間が掛かる。
たぶんこういう評価が将来、あり得ると思って日々を暮らしております。
もしそうなると、その国宝的技術の「始原建築」を保護する必要があると思います。
しかし当面はそういった建築的な評価はニッポン文科省・文化庁的にあり得ない。
そういうことなので、国宝建築などは「内地」に見学に来ることになる。
なにをもって「文化」とするかの評価軸、根拠も見学させていただく次第。

今回の見て歩きでひときわオモシロかったのが、この古建築。
大阪府堺市の郊外型ニュータウンのなかに忽然とある古社であります。
戦国の戦火で多くの古社建築が焼失したのですが、
この鎌倉期と推定されている「拝殿」建築が遺り、国宝になっている。
そうと聞かされなければパスしてしまいそうなさりげない中にありました。
カタチはいたってシンプル。最近の平屋住宅ともプロポーションは通底する。
構造が「二重虹梁蟇股」で平行する2本の梁材が屋根を受けている。
その屋根には神社建築には珍しい「瓦」が乗っけられている。
そして画面中央の土間通路を通って本殿に参拝する「割拝殿」という形式。
さらに正面左右の建具は「桟唐戸(さんからど)」という当時の最先端技術仕様。
こういう古建築としてながく存続してきた外装として丹塗りが施されている。
北海道でも北欧の木造住宅建築の塗装形式が取り入れられて
こういう金属を含んだ塗料が塗られている建築が多数ありますが、
洋の東西を問わず、こういった技術には普遍性があると思いますね。

新年はじめての投稿ですので、この建築ではじめようと考えました。
本年もどうぞよろしくお願いします。

【建替え工事中・姫路「英賀神社旧拝殿」の残照】



歴史ディープ旅続篇であります。
わが家系(「かけい」です。「いえけい」(笑)ではありません。)伝承では
どうもこの「英賀」が大きなポイントになるのです。
ご先祖さまは戦国の頃にここを拠点にしていたらしい。
司馬遼太郎さん本名の福田さん家系ご先祖さまともここでご縁があったようです。
司馬さんの文章を読み続けていて、その文体や思考の流れなどに
いつも親和性を感じさせられるのですが、実はこうした「発見」が与ってもいます。
司馬さんの「播磨灘物語」では、この英賀のことはほとんど触れていないのですが、
あとがきの部分でその経緯について司馬さんも書かれている。
どうもあまりに血肉すぎて書けなかった、というように。
戦国末期からずっと播州、そして関西圏で生き続けてきた司馬さん家系として
体験温度感が継続し続ける部分があるのだなぁと感じた次第。
その後、広島県に移りさらに明治期末に北海道に移住した家系のわたしには
この寒冷地移住「体験記憶」の方が大きくなって、
それが一段落してようやく、こうした故地のことを考えられるようになった。
そういった「違い」を大きく感じているところです。

で、ときどきこの「故地」に足を向けるようになっている次第。
そのなかでも「英賀神社」は、こうした時空間が長く保全されているので、
かならず訪れるようにしていた場所であります。
で、この建物は本殿よりもその前に建っている「拝殿」の方が特徴的だった。
拝殿が異常に広大で、お祭りの時にはこの拝殿に各町の「神輿」が「練り込む」。
ようするに大人数が神輿を担いで乱入するほどだった。
この英賀というのは、戦国期には石山本願寺の後方支援拠点だったようで、
一向宗の「英賀御堂」という宗教拠点もあった。
秀吉軍との話し合いで戦火にさらすのを避けるために亀山に移設した経緯もある。
ただ、この神社での「拝殿」のありようを見ていると、
一向宗独特の、まさに民衆「決起集会」場的な雰囲気を強く感じていた。
「仏敵織田氏を粉砕するぞ!」という掛け声もこだましていたように思える(笑)。
たぶんわたし自身の学生時代の学園政治闘争の空気感が、そのまま
この「拝殿」のありように感じさせられていたのであります。
このあたりはごく個人的な「感じ方」ではあるのですが(笑)、
「場の雰囲気」というモノが伝わってきて、強い共感を持っていた。
建築というものの持つ「磁場」のようなものが時間を超えて感じられたのです。
という次第で、個人的に大好きな建築空間であったのですが、
今回訪問したら、その拝殿が建て替え工事中。
神社の社務所で聞いたら、神輿の練り込みなどで土台や基礎の耐久性が
きわめて怪しくなってきて、今次計画になったということでした。
はるかな時間を経て「地縁」に繋がる者としては
失われた空間への残念感はあるのですが、地元のみなさんが神輿練り込みなどの
建築の機能性それ自体に大きく価値を認められて、
その継続を担保すべく、工事を決断されたことも深く理解出来る。
建物の写真は、2014年に訪問したときに撮影したものの一部であります。
内部には実にキッチュな掲額などがあって、いかにも民衆的な場の空気があった。
再建に賛同しつつ、以前の建物への郷愁も再度、呼び覚まされた次第です。