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【幻想的な湿原自然美 カリカリウス遺跡への道】


北海道内の人跡、遺跡を訪ね歩くと、
あんまり都市化されていないので、
自然のなかをさまよい歩くといった経験をよくする。
写真はきのう紹介した北海道オホーツク海岸側の標津の
オホーツク文化遺跡・カリカリウス遺跡にいたる道周辺の様子。
この一帯は、古代からの人跡が絶えない地域のようで、
たくさんの遺跡が集中する地域です。
地元標津町HPには、以下のような記述。
〜標津遺跡群は、国指定史跡である伊茶仁カリカリウス遺跡、
古道遺跡、三本木遺跡の3つの遺跡と、伊茶仁川沿いに残された
国指定級の遺跡群から成っている。標津遺跡群の最大の特徴は、
現在の地表面から数千年も昔の竪穴住居跡が窪みとして確認でき、
しかもその数が日本最大の規模を誇ることである。
現在、同様の遺跡である北見市常呂遺跡群と共に、
「北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群」として
世界遺産候補に位置づけられている。〜引用終わり。
ということなのですが、このカリカリウス遺跡に向かうには、
周辺の国道に接道している標津町歴史民俗資料館駐車場からも
約1kmくらいは「散策」していくことになります。
周辺にはクマの出没もよく報じられるので、おっかなびっくりの道。
マジでラジオなどの音を発生させながら歩きたくなる(笑)。
昨日から札幌では南区の住宅街に9時間以上、クマさんが徘徊した。
大自然と共生する北海道はなかなかたいへんなのであります。

でもまぁ、無事に遭遇せず帰還できたのですが、
その道すがら、そういう決死の覚悟とはうらはらに、
ごらんのような「湿原」らしい光景が木道上から目に飛び込んでくる。
ただし、1枚目の写真のなかには「ルピナス」の群生。
このルピナスは明治以降にヨーロッパから移植されたもので、
その後の150年で野生化して、ここまで生息域を広げている。
北海道の気候風土がこの植物には「新天地」だったのでしょう。
そういう意味では西洋から来た「屯田兵」みたいな存在か。
遺跡探検のもうひとつの楽しみは、こんな自然との遭遇もある次第。
幻想的な湿原風景、かなりオススメです。

【ヒカリゴケに彩られたオホーツク人遺跡住居】



みなさんは「オホーツク文化(人)」って、ご存知でしょうか?
たぶん北海道に住んでいて考古学に興味のある人くらいしか、
知識を持っているヒトはいないのではないかと思います。
日本列島にはさまざまな人々が去来した。
最新の核DNA解析を信じれば渡来の波はおおむね3波に分かれる。
縄文のひとびとが2万年−4万年前ころに渡来して基層を形成した。
きわめて人類古層のアジア展開人種のDNAとされているそうです。
かれらが旧石器の様式文化も遺跡に遺しながらこの列島に姿を現し、
15.000年前くらいからは縄文文化を形成した。
それまでのキャンプ移動・狩猟中心から、定住的な漁撈+自然採集が生業になった。
その後、第2波の渡来民は縄文の末期で、『海の民』だった可能性があり、
日本語の祖語をもたらした人たちではないかとされる。
そして第3波は弥生時代以降。
生産手段としての本格的「農耕社会」の集団的移住。
さらに歴史年代に白村江の敗戦(663年)の結果、朝鮮半島の国家であった、
百済からの集団移住が最後の3波目を締めくくったとされる。
こういった世界各地からの「渡来」があり、婚姻などのブレンドがあって、
基本的な民族形成がされた、という説が有力とされてきている。
<国立遺伝学研究所・斎藤成也教授の説に準拠しました>

で、このオホーツク文化人というのは縄文人のDNAを色濃く残している
アイヌ民族での混血に関わるミニ「渡来」のようで、
北東アジア・アムール川流域地帯から、主に大型の海獣を獲物として
追ってきて北海道の東部、オホーツク沿岸地域に定住した人々。
特徴的にはクマのアタマを神聖祭器として祀る風習を持っていた。
そのひとびとの居住痕跡を発見し復元住居としたのがこの家。
わたし自身の「古民家」探究のなかでもかなりインパクトのあった住居。
平安期日本の宮廷社会では海豹の皮革が貴族の女性の身を飾ったし、
鷲の羽根が、貴族の装身具として最高級素材とされたそうです。
そうした素材は、オホーツク文化人の狩猟生活の産物であり、
奥州藤原氏などの交易中継を経て、日本国家と交易を行っていた。
やがて、クマの神聖祭器風習をアイヌ民族に残して混血同化していったと。
そういうかれらの「住居」なのであります。
どなたが復元設計に当たられたかは知りませんが、たぶん北海道の
古建築について知識を持った建築の先生が関与されたに違いありません。
現地に置かれている説明資料によると
「約1,000年前のオホーツク文化の竪穴住居を二つ復元しました。
手掛かりは柱や炉の位置、焼け残った柱や壁の材料だけで、
屋根や柱の組み方は想像した部分が多いのです。この時代の人々の
家を作る道具は、鉄製の斧やナイフのほかは、木や骨の道具でした。
ですから家を作るのに使う木の性質や特徴をよく知っていて、
加工する技術が高かったと言えるでしょう。」と書かれています。
そして「材料」として以下の記載がある。
「壁〜板143枚。
柱や母屋材〜太い丸太55本。細い丸太60本。
結束材〜ブドウつる 450m、シナ縄 600m
屋根材〜白樺の樹皮 300枚(長さ3m径30cm300本)
床材〜角6本 板22枚」
このインテリア写真は2枚の写真を接合合成したもの。引きが取れず2枚で撮影。
一部不整合部分がありますが、カメラマンの力量足らずです、ご容赦を(笑)。
内部はごらんの通りですが、炉の周りには「ヒカリゴケ」が異彩を放つ。
Wikiによると<1科1属1種の原始的かつ貴重なコケ植物。
その名が示すように洞窟のような暗所においては金緑色(エメラルド色)に光る。>
ということで、素晴らしい装飾効果を見せてくれている。
わたしの取材経験でもっとも感動したインテリアの演出装置。
まるで千年の時を超えて生物痕跡として、住んでいたひとたちからの
メッセージのようにその光彩がこちらに伝わってきた。

初めて訪問してからもう12年が経過していますが、
いまもときどき熱に浮かされるように思い出す住宅です。

【日本人の住まいとくらしの探究】


先日、社内スタッフのお父さんの葬儀に参列させていただいた。
わたしよりも8−9歳年上ということですが、
イマドキにしてみるとやや若い年齢での死と思えた。
その経歴などを聞きながら、自分自身の経験とも共鳴するような事跡が
語られていくウチに、ふと、重ね合わせて考える瞬間もあった。
生きることをどう使って、役に立つ、なにを残せるのかと考えるようになる。
まぁいわば、ライフワークということへの思い。

人間というのは現代では、そこそこの教育を受けることができる。
教育というのは、どういう「意義」があるかと考えれば
近代の資本主義社会の中で、それを発展させるために
「人材」として働いて生きていくための基盤を構成するものでしょう。
そしてそのなかで、どういう分野を選択するのかは、
各個人がそれぞれ自由に選択していくように社会が構成されている。
人類発展の現段階だと思いますが、かなり進化してきたと思える。
わたしの場合で言えば、一定の教育を受けてメディア関係の周辺で
仕事を選択して、とくに「住」の情報に特化して生きてきた。
そういう経験を、どのように自分で総括していくのか、
そんな思いがすこしづつ芽生えてきているように思われます。
写真は、千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」での展示詳細ジオラマ。
住という部分で日本人はどう生きてきたのか、暮らしてきたのか
その始原に近いようなものとして、青森県青森市の三内丸山遺跡がある。
このジオラマは、その中心施設・大型の竪穴建築での「暮らしよう」を
再現するべく構成されたものでした。
わたし自身は学生時代からもっとも歴史には興味を持ってきた。
仕事としては情報・メディア関係を志向して住関連にシフトして
そこで、人間のくらしのありようを「伝える」ことに集中してきた。
たまたま、日本最高の寒冷地である北海道に生まれたので、
そういう気候克服技術進化については、カラダで分かる部分も持っている。
その手法、スタイルで、歴史についてもついつい、
「あなたはどう暮らしていますか?シアワセですか(笑)」という問いを仕掛ける。
いろいろな歴史的建築・住居などを実体験しながら、
いまはもう死んだひとたちに「取材」しているように思うのです。
まぁ、自分がこれから、なにごとかをまとめていくとすれば、
こういった領域が、いちばんふさわしいと言うことを確信しています。

この15,000年前ともいわれる三内丸山の縄文のひとびとの生活は
いろいろな研究者のみなさんの解析で、相当に詳らかになってきている。
このジオラマ自体、そういう研究成果そのものでしょう。
大型住居の屋根は自然素材で「編む」ように仕上げられる茅葺き。
そういう技術が確立しているとすれば、むしろや衣類もまた、
その技術援用から可能になっているだろう。
農業とは言わずとも、栽培的な営みに近い営為は自然に想定できる。
ジオラマの一部、2階として利用している箇所には
植物性食料を保存させるような工夫も見ることができる。
・・・このブログではこれまでもそういうテーマが大きい部分ですが
こうした領域について、もうちょっと目的的に「取材」を進めてみたい。

【芝増上寺の徳川秀忠霊廟1/10模型】


江戸期における芝増上寺というのは、
一種の国家施設的な存在であって、いまの皇居からも4kmほどの近さに
広大な境内地を構えて存続してきている。
けれども、この寺院は東京空襲で焼かれて、
江戸期の貴重な工芸的建築であった、徳川秀忠霊廟「台徳院殿霊廟」も
消失されたということだそうです。
しかし、実はこの工芸建築の1/10模型が明治期にイギリス王室に
プレゼントされていて、それが近年里帰りして増上寺の「大殿」地下の宝物展示室にある。
江戸期の建築というと、日光東照宮が想起されますが、
その東照宮に先行して建てられた幕府の威信を賭けた工芸建築だということで、
見学して参りました。
こちらは、写真撮影などは許諾されていませんので、写真は増上寺「大殿」。
先日の東京出張の折、アポの時間合間に見学して来ました。

この模型は100年前にロンドンで開かれた国際博覧会に出展されたそうです。
この模型は、しかしイギリスでは保守管理する技術者も存在せず、
展示することもできずに長年倉庫に留め置かれていたということ。
今回里帰りしたのは、英王室から長期にわたって貸与された形式を取っているそうです。
プレゼントされたものを「返す」というのは失礼に当たるという考えでしょう。
コンパクトな模型とは言え、作りはまことに工芸品そのもの。
東照宮のような極彩色で曼荼羅の世界が再現されていました。
そもそもが御霊屋という一種の墓であるので、
建築でありながら、各部位はまるで工芸品のように仕上げられています。
内部でも無数の「組み物」が幻想的、宗教的な空間を作り上げています。
江戸幕府開設時期というのは、戦国期の活発な城郭建築が
全国的に終息することになって、建築不況に突入したのでしょうが、
一方で江戸幕府が武家政権として成立し、新開地・江戸の
まちづくりがあらたな「建築需要」として盛り上がっていたのでしょう。
そういうなかでも、もっとも手間暇の掛かる建築として
最上級の技術者が動員されていた様子が、展示からうかがうことが出来ます。
左甚五郎などの名工たちが、活躍の場を与えられた。
一方で、江戸に屋敷地を与えられた大名たちも、屋敷を造営し、
それぞれ庭園土木事業も活発に行った。
それまで戦争に傾けられていた財力が、こういった建築に資金が注がれていった。
大工という存在は最高に稼げる職業として人材を集めていったのでしょう。
この工芸建築の随所から、そうした時代の豪勢な職人仕事のありようが漂ってくる。
この時代の建築のありよう、その活況ぶりを追体験してみたいと思いますね。
まぁ、個人的にはこういうデコラティブな装飾性にはやや・・・(笑)
でも、繊細な工芸仕事にはやはり圧倒されます。
<撮影不可だったので、写真は同様式の「日光東照宮・陽明門」です>

【対韓国だけ「鎖国」が平和的では?】

韓国との関係が非常に難しい状況になっていますね。
当面の間は好転するようなことはないように思います。
こういう時期には、不測の軍事的衝突のようなことに慎重に注意すべきでしょう。
対中国やロシア、北朝鮮についてはさまざまな「シミュレーション」が用意され
いわば「危機管理」のひな形、定型化した対応があるそうですが、
韓国との間ではそのようなことを想定していないとされる。
<ちなみに、今この状況の中で、ノー天気に「芸術祭だ」と言って
公費を使ったイベントを仕掛けて炎上させている自治体があるようですが、
活動家的な「芸術監督」は別にしても、知事さんの感覚を疑ってしまう。>
こういう時期、とくに国家間のことなので、緊張はあり得るけれど、
そうであるほどに、注意深く「管理コントロール」する必要があるでしょう。
務めて冷静な世論になるようにキモに銘じていなければならない。

ただ、歴史を見ていると、
こういう国際情勢感覚は日本が置かれた地政学的な位置から、
ながくあり続けてきたというのは自明ですね。
江戸の「鎖国」は、東アジアにおける一種の平和戦略としても機能していたのでしょう。
東アジア世界ではながく中国との関係が基本的国際秩序であり、
朝鮮半島国家にしてみれば、日本は「夷狄」的に見えるのでしょう。
そういった国際秩序に対して、日本は「脱亜」の方法として
最低限の国際関係にしたいということで鎖国していたのではないか。
非常にすぐれた平和的外交方針だった。
幸いにして、海を隔てていることがこうした方針を可能にしたのでしょう。
最近の日本の対韓国の考え方で
「ていねいに無視する」という小野寺前防衛大臣の考え方があるけれど、
そこには江戸期の鎖国政策的な色合いが強く感じられる。
「鎖国」には対外的緊張をあおるような側面は見出しにくく、
相手側にも、基本的には平和的な姿勢は十分に伝わるのだと思われる。
国としては嫌われていることは知った上で、平和的に近隣でいるためには、
断絶ではなく、鎖国という「迷惑を掛けない」という姿勢の方がいいのでは。
「善隣友好」ではなく「善隣鎖国」という考え方。
国民間や経済の人的往来とか交流は大いに行うことは地政学的に当然で、
あくまでも政府間での関係について、ということ。
この「鎖国」的な対応の仕方というのはあくまで「対韓国」だけの考え方で、
世界との関係についてはまったくこれまで同様ということです。
心構えというか、国民感情的にヒートアップしないためですね。
乞われれば対応するけれど、けっして深入りはしないというように。
国としての対韓国外交方針として、鎖国的に対応すべきではという次第。

<写真は国立博物館で展示され撮影許諾の横山光輝さんの「三国志」原画。>

【万葉集編纂 日本語の成立・進化】

わたしの好きなBS-NHKの番組に「英雄たちの選択」があります。
日本史を題材に、歴史家の磯田道史さんがMCを勤め
歴史周辺関係のゲストたちと面白く日本民族の深層に迫ってくれる。
先週は「万葉集」についての特集でした。
万葉集の編纂は、奈良・聖武天皇の頃に開始された。
東アジア世界との活発な交流・戦争の時代であった天智天皇(大王)の時代から
白村江の敗戦を経験し、その後朝鮮半島から百済の国家的流入があって、
やがて中国の王権との平和共存が実現していって、
本格的な「国家」が樹立されていった時代なのだと思います。
天智の弟である天武がはじめて「天皇」の即位して、
中国王朝との外交を展開しそれまでの倭国から「日本」に国号を
国際的に認めさせ変更させたとされている。
たぶんこの間の戦争から国号変更に至る過程は、日本の根幹形成期。
そういう時代背景の中で万葉集は成立していった。
書き言葉はまだ漢字しかなくて、それを「万葉かな」ということで、
それまでの「やまとことば」に一音ずつ漢字を「当てて」いた。

明治の初め頃にも、日本はあらたな文明との遭遇から
日本語の創出をしなければならなかったけれど、
ちょうど、この万葉集編纂のころも同様の社会変革時期だったのだと。
日本ではこの時期から身分を超えて社会全体で
言の葉をつかって、万葉な多様なひとびとの感じたことなどが
残され、それを現代人でも「追体験」することができる。
日本語という独自の民族的文化基盤を獲得していった。
漢字という世界標準の言語が導入され、文章博士という存在が
日本全国に派遣されて、普及啓蒙されていくと同時に、
それを使って、この列島で暮らしていたひとびとの心象が表現されていった。
やまとことば、という文字を持たない言語が、
このように表現されるようになった。
そのことによってわれわれと同じような人間感情をもっていたことが、
明瞭に後世までそのことを感受することができる。
そこからでも1500年程度の「文化蓄積」が可能な基盤が形成された。
いまや、その存続時間は世界有数の国家社会。
基盤としての「日本語」というもののありがたさ、
そのために苦闘した多くの先人たちの営為を大いに思わされますね。

【三国志 「赤壁」戦争と「弩弓」兵器】

本日は、住宅ネタ休日。三国志世界の戦争ネタ。
悲しいかな戦争は、人類の進化と常に随伴して「発展」してきた。
他人を殺すという目的がなによりも権力獲得の最有力手段であり
その目的完遂のために、兵器は進化してきた。
中国は、人口集積・文化発展において日本にはるかに先行して
この三国時代には、人口760万人程度なのに、
その戦争スケールでは、常に十数万という多数が参加して殺し合いを行っている。
そういうなかでも「赤壁」はその後、魏・蜀・呉の3国が鼎立する
最大の契機になった揚子江を舞台とした大水上戦争としてのクライマックス。

この水上戦では、矢いくさが多様に展開したとされる。
その「花形」になっていたのが、ほぼ自動化した矢の射出装置「弩弓」。
今回の国立博物館展示でも、海上の1/4を独占して
写真上のような矢戦の様子が天井一杯に展開していた(笑)。
まことにわかりやすい展示展開。
みなさん「超弩級」というコトバは普通の形容詞になっている。
たぶん、この弩は中国大陸ではどんどん進化して
その後の鎌倉期の元寇でも主力兵器となっていたのでしょう。
弩級という言葉が根付いたのは、日本では少人数・小規模の局地戦争が多かったので
弩はあまり発展しなかったのに対して、アジア征服戦を戦っていた元軍は
このような大型射出装置が発展していたので、日本側が悩まされたと言われる。
諸葛孔明が、矢をたくさん収集するのに敵陣近くまで
草屋根にした高速船を浸入させて、屋根にたくさんの矢を射させて
高速全力で引き返して、戦利品として矢を一晩で得たという逸話がある。
いかにも大陸中国での戦争営為のスケールを大きさが
三国志世界の真骨頂なのでしょう。
しかしわたし的にはどうも戦争ばっかりやっている描写は、登場人物も多すぎて
いちいち名前を覚えて感情移入するのがメンドクなったりもした(笑)。
やっぱり戦争は、桶狭間のような電撃戦とか、
関ヶ原のような戦場以外で雌雄が決しているような政治陰謀の世界の方が
ニッポン人的には、近しい感じが否めません(笑)。

PS:
どうも「弩級」というコトバについては「弩」は関係なく、
以下のようなことがらがコトバを生んだ経緯だというご意見が寄せられました。
わたしの「意見」も添えさせていただいて、書き加えます。

Shigeru Narabe 弩級、超弩級は、1906年進水の英国の戦艦ドレッドノート
(HMS Dreadnought)から来ています。
https://ja.wikipedia.org/…/%E5%BC%A9%E7%B4%9A%E6%88%A6…

三木 奎吾
Shigeru Narabeさん,その通りのようですね。ただ、どうも自分的には
「弩」の方のイメージが強かった。司馬遼太郎の記述でも、兵器としての「弩」は
かなり日本人と鎌倉武士たちに強烈な体験を残したと書かれていた記憶がある。
この戦艦が登場したときに、ドレッドノートのアタマの「ド」に対して日本語として
漢字の「弩」を当てたのにはどういった整合性、必然性があったのか。
そこが知りたいと思っています・・・。
〜以上。

【1800年前中国三国志時代「穀倉丸抱え」住宅】


日本文化の深層変化を見る意味で東京上野の国立博物館企画展は
東京出張時、時間を見てチェックするのですが、最近の展示では
中国にちなんだ、というか、政治的に改善傾向を謳っている日中関係に配慮した
そういった企画展が相次いでいますね。
中国政府側の「微笑外交」米中貿易戦争の副作用ということがあきらかで、
日本側としては付き合っている程度で、あまり実質的とは思えないけれど。
顔真卿の書の展示であるとか、訪日中国人が好きそうな展示が目立つ。
今回も「三国志」についての展示ということで、
日本人来場者以上に中国人訪問者が多い印象。さらに全展示写真撮影許諾。
だいたい、国立博物館展示では主要な展示を除いて撮影許諾はありますが、
さすがに全展示OKというのは珍しかった。
中国ではいわゆる「国宝」的な位置付けになるものは「1級文物」と
呼ばれるそうですが、そういうものもさまざまに展示されていた。
中国国内ではこのあたり、どうなのかは事情を知りませんが
中国のみなさんはさかんにスマホでシャッターを切っていた。
まぁいろいろの文物でしたが、やはり住宅とか建築にはつい興味が強く湧く。

この三国志時代というのは西暦では2世紀に相当する。
日本では魏志倭人伝・卑弥呼の時代です。
中国での人口規模は263年ころで767万人。寒冷化の影響で
人口減少期に相当していたことから、社会不安が沸き起こっていた。
だいたい中国王朝は易姓革命であって、不安定期になると農民暴動が多発する。
この時期は漢も末期で、各地で「黄巾の乱」という民衆蜂起が繰り返されていた。
その結集軸として中国ではしばしば宗教が媒介になる。
現代共産党独裁中国でも、同様に宗教的な集会などには権力側は
非常に敏感になっているとされている。
こういう社会では、政治も経済も国家もなにより食べ物に帰趨していただろう。
ただでさえ、農民が食えなくなっている時代なのだから、
その収奪者たちの最大関心事は、まさに食料へのこだわり。
そのように見ていて、こうした時代の地域の支配者たちの住形式をあらわす展示。
写真は、上は「三連穀倉楼」と名付けられた1級文物で住宅ミニチュア造形。
下は「五層穀倉楼」というものでした。
どちらも穀倉を下層階に抱きかかえて、その上部に住居施設を作っている。
食糧危機に際して、まことにわかりやすく食べ物を大量に抱きかかえるという
「設計趣旨」のきわめて明瞭な住宅建築だと思います。すごい中国的(!)。
この文物自体は住宅のミニチュアですから、元のモデルになった住宅の
素材自体はわからないのですが、穀倉サイロ部分は土を焼成させたレンガと推定。
そのなかに周辺の農民から搾取した食料を一杯に貯め込んでいる。
その上の住居部分はたぶん木造で軽く建てられているのだろうと想像。
下の写真の方がより大型。魏を建国した曹操の息子で帝位を譲って退隠した
「献帝」の終の住み処というようなアナロジーが書かれていました。
しかし、個人的には上の写真のデザインセンスに軍配。
3つの穀倉と、その上の3階部分の平屋的な部分の対比がいい。
屋根はかなり軒が長く伸びていて、全体のバランスが取られている。
なんとなく「ツリーハウス」も連想させてなかなかいい雰囲気の家だなぁと、
勝手に「すみごこち」を妄想していました(笑)。

【国と北海道の住宅施策審議「交流」キックオフ】

きのうは「住宅・建築生産性向上促進事業」検討会議に参加。
そのなかで「2次インスペクション」という聞き慣れない概念について
そのガイドライン化検討委員というような役割でした。
わたしは、北海道で「北海道R住宅」という地域独自の住宅施策の
制度設計から立ち上げ、スタートアップ、組織作りなどに
関与した経緯があって、その「北海道R住宅」の施策の「先導性」が
国レベルでは評価されているそうで、そういった経緯からの要請のようでした。

昨日がそのスタートアップということで、
関係する委員・参加者のみなさん、名刺交換させていただいた方が26名。
その他、旧知の方が6名と言うことでした。
事務局は一般社団法人・住宅瑕疵担保責任保険協会、という組織。
ほとんど初めて知り合うみなさんとの会議ということで、
まずはどんな状況と問題意識であるのか、情報収集からと考えていたのですが、
途中から、わたしの名前が司会者の方から出るとか、
旧知のみなさんからの表情でのメッセージ伝達なども飛び出してきて
徐々に北海道R住宅での体験を踏まえた意見発出などをさせていただきました。
会議は4時間ほどに及び、さらに席を変えて参加者の旧知の方と
懇親しながら、全国の住宅業界情報を交換させていただけました。
今回会議をキックオフとして、岐阜・札幌と場所を変えて
12月まで、意見交換・ガイドライン化作業が続いていくことになります。
本州地域と北海道の住宅施策の交流というような側面も強く、
手探りながら、有意義な会議になりそうな予感がしております。

なんですが、ことしは東北出張が多く、東京は久しぶり。
多分2度目か3度目くらいですが、この時期、日中の暑さはやはりハンパない(笑)。
とはいえ、会議参加者のみなさんからは前日の札幌の暑さ(36度)を
混ぜっ返されたりもしていた(笑)。
でもまぁ、やっぱりまったく暑さの質が違いますね。
空気感の軽さと重さのコントラストが激しいというか・・・。
写真は浜松町のホテル近く、お酒が入っての帰路に撮影したもの。
大都会の眠らない光環境と木々、そして空気の「重たさ」が
一種、幻想的なたたずまいで迫ってきておりました。
大量の「資料類」で荷物が重くもなっていまして(笑)、
その精査などに踏まえて、お役に立てるようにしたいと思っています。
ふ〜〜。あっついなぁ・・・。

【東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展】

最近は日本画がブームということなのでしょうか。
西洋絵画をみることがめっきりと減ってきています。
っていうか、あまりにも生活文化背景に違いがありすぎて、
作品への内的な「同意」がなかなかおぼつかなくなっている。
やはり日本人として、感受性の共有に敏感になってくるのでしょうか。
ということで、日本画では「国民作家」といわれる
東山魁夷さんの展覧会が札幌の北海道近代美術館で先週日曜日まで
「唐招提寺御影堂障壁画展」が開かれていましたので、
カミさんから久しぶりのお誘いをいただき、大喜びで参観。

この展覧会は、全国で巡回的に展示会を開催していたようです。
唐招提寺が東山魁夷さんに、その開祖である鑑真和上さんの事跡に即して
御影堂を飾る障壁画を依頼し、10年を超える時間を掛け完成させた大作。
日本画の大きな特徴として、いわゆる「壁画」というものではなく、
建具としての引き戸に描かれることが一般的。
したがって、カンバスは建築的な柱梁架構によって縁取られることになる。
西洋絵画が主にカンバスに描かれ、作品単独性が強いのに対して
日本では建築との一体性がさらに強いように思われます。
本来であれば、やはり年に3日ほどしかないという「ご開帳」時に
奈良の唐招提寺で拝観するしかないのですが、逆に言えば、
建具であることで、このように移動展示することも可能だと言うこと。
日本らしい、ということはそんなことからも感じられる。
鑑真和上さんは世界文化としての仏教を導入した青年国家ニッポンを思い、
仏教の魂を移植するという宗教者としての使命感に殉じた人物。
日本の聖武天皇のころ、奥州で黄金が出土し
東大寺大仏、全国に国分寺・国分尼寺が建設されていった、
鎮護国家思想の最興隆期にあった時代。
日本側から繰り返された「招請懇願」を受け中国仏教界の指導者たる
鑑真和上さんが、何度も困難に遭遇し失明までしながら、
来日し、この地に骨を埋めてくれた故事に由来する。
奈良のこの時代は、日本の経済発展期に相当するそうで、
人口の拡大と奥州での産金によって、空前の国家プロジェクトが推進された時代。

東山魁夷さんは、依頼を受けて都合6つの作品を奉呈している。
写真は購入した「図録」ですが、この表紙に描かれた作品は「濤声」。
展示では最初のコーナーで、実際の唐招提寺での展示と同様な
柱梁による空間が再現され、その障壁を飾った様子が再現されている。
東山さんは、この絵を描くに当たって日本海側の日本の海を何度もスケッチ旅行し、
そのモチーフで鑑真和上さんが乗り越えてきた万里の波濤を表現した。
その端には砂浜が描かれて、この列島への上陸を暗示する構成になっている。
そして御影堂の「上段の間」の床の間から周囲の障壁に描かれた「山雲」。
このふたつを鑑真さんの来日をテーマとした初期奉呈作品とされ、
その後後期の作品として鑑真さんの中国での様子をモチーフに3作品作成。
そして最後のワンピースとして、鑑真さんの座像を収めた厨子絵までも
かれが苦難の末にたどりついた鹿児島上陸の絵で締めくくっている。
個人的にはやはり床の間を飾る大作「山雲」に圧倒されました。
なぜか、みなさん素通りされていたので、たっぷりゆったり拝観できました。
やはり日本画はわかりやすく、親近感を持てて素晴らしい。しっかり堪能。

さて本日は東京出張。建築の「2次インスペクション」というテーマの審議会参加。
北海道では住宅の審議会、参加機会は多いのですが国の審議会は初めて。
どんな状況になっているか、しっかりウォッチしてきたいと思います。
ユーザーの立場ということで、ご報告可能であれば様子もお知らせします。