

きのうの続篇ブログであります。
この写真の「英賀神社」については、数回取り上げてきています。
播州のこの「英賀」は、夢前川河口に位置していて
地域一帯がわたしの家系の伝承に連なっていると考えています。
ときどき出張や旅行で訪れる機会があり、
そのたびにこの「拝殿」をたのしく見学させていただいています。
いまは、たぶん建築基準法上からの判断で不適と見なされ、
建て替え工事が行われ、先日「建前」が行われたと地元の議員さんの
ブログで紹介されておりました。
秋の例大祭でのお披露目を目指して急ピッチで工事進捗しているようです。
北海道人というのは、こういった「産土神」というような生活文化を
ほとんど感じないで育ってきている。
神さまというのが、もともとその地を開拓した伝承に基づいている産土信仰、
そういった感覚からはまったくほど遠い。
神社もそれこそ官製の「北海道神宮」など、戦前に国家が建立した
そういった存在しか、北海道人としては馴染みがない。
そういう理解に対して、この英賀に来てはじめて「産土」ということを
はじめて知らされる思いが強いのです。
とくにこの「拝殿」建築は、内部に入ると絵馬堂という機能も持っている。
絵馬というのは、北海道ではいきなり近現代の小さな絵馬しか想像しない。
地域社会から寸志が寄せられていわば「公共」として
大きい絵馬を奉納するというようなことがこの英賀では連綿と行われている。
日本の歴史とともに長くそういう民衆的な価値感が継続してきている。
一方北海道では地域社会が歴史が浅いためにいきなり現代的な契約概念的で
いわば地生えの「パブリック」というものが存在しない。
官製の神社としてしか存在しないように思うのです。
そういう近現代の「常識」的価値感からすると、
自然発生的なパブリックの意思が歴史的に継続しているというのは、
大いに驚かされ、また深くリスペクトを感じさせられる。
掲額されている絵馬群のいかにも大衆的な絵柄、わかりやすさにも
「ニッポン的地生え民主主義」みたいなものを感じさせられる。
たしかに戦前の一時期、国家神道のようなカタチで産土神も編入されて
変容させられた一時期はあったのだけれど、
それをただただ全否定していては、ニッポンの民衆の歩みも見えなくなる。
こういった神社仏閣がニッポン的「公共」社会のきわめて重要な
ファクターでもあったのだということが見えてくる。
単純に「政教分離という一神教」理解では、歴史も見失うと思えます。
Posted on 8月 17th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究, 歴史探訪 | No Comments »


きのうも1日、義母の遺品の整理整頓作業をやっておりました。
っていうか、こういう作業は男はほとんど役に立たず、
ひたすらカミさんと娘の女子軍団。
で、わたしは付き添い&食事作り役に専念しておりました。
で、その間、前からやらなければと考えて休み期間中継続している
大量の「取材写真」類の大整理を継続しておりました。
デジカメやiPhoneのカメラ機能に写真撮影ということが移行して
それからでももう20年近く経っていますが、
だいたい年に20〜30箇所以上で自分自身の「強い興味」のままに
写真を撮り続けてきています。
ありがたいことに、そういう写真類がパソコンというツールで
保存され続けているワケですね。
写真類を一部は修正などもかけて整理整頓しているのです。
そういった記録が可能になってきて、それで気付くことというのがある。
そうです、自分自身の興味というものが明瞭に浮かび上がってくる。
やはり建築というもの、古今の建物についてっていうか、
その中でもある特定の領域について強い興味のありかが見える。
本日写真でピックアップしたのは、そのなかでも2011年に撮影していた2件。
ひとつは兵庫県姫路市南西部の「英賀神社」の拝殿と、
もうひとつは北海道旭川駅(設計/内藤廣)であります。
なぜか、この2題への「強い印象」というものに気付いた次第。
旭川駅は、移動交通手段の発達した現代をリアルに表現している。
撮影の時にはそう強く感じていなかったのですが、
建築としての駅というものを考えたときには
まさに風洞型建築ということが明瞭に伝わってきた。
移動交通手段である列車の移動を確保するためには大開口が不可欠。
一方で豪雪地域である旭川では積雪をどう考えるか、がキモでしょう。
そうすると、全体を囲う屋根とその架構の力学的検討がまずあって、
その内部でのひとの受け止め方を考えていくことになる。
いかにも力学構造から導き出された鉄骨フレームがコンクリート構造と
緊結されて、大屋根を保持させている様子が窺われる。
そういう力学表現が写真のように展開している。
旭川ではこのプラットホームから降りていく空間で木質が「出迎え」ている。
そっちはまた別のこととして、この架構ぶりについて、
つい最近まで建っていた英賀神社拝殿との共通性に気付いた。
旭川駅では列車が移動する風洞だけれど、
この英賀神社拝殿は、ひとが移動参集する風洞として機能してきていた。
(この拝殿は現在は建て替えられる予定)
こういった機能としての「拝殿」そのものは、
日本に根付いた機能性建築としてたくさんあると思うのですが、
この英賀では、そうしてできた屋根が大きく掛けられていて
その「見上げ」可能な空間一杯に「掲額」が奉納され続けてきた。
たぶん、氏子たちが歴史年代を通じて年に1度、プレゼントし続けてきた。
絵のテーマはそれこそ時代背景のままのようで、
キッチュな大衆的表現がまことにたのしくさせてくれていた。
<そのうち一挙公開いたします(笑)>
機能性と建築表現としては似たようなふたつの建築、
さて「優れている」のはどっちなのかなぁと、
ややイジワル気味に(笑)、対比させてみたくなった次第。
あ、いや、内藤さんのつくった駅も大好きなんですよ、ホント。
Posted on 8月 16th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 日本社会・文化研究 | No Comments »


ことしの札幌・北海道の夏は比較的に好天に恵まれています。
8月の第2週からやや涼しくなって高温は落ち着いてきましたが、
それでも今年の夏は久しぶりの暑さに恵まれている。
ということで畑の作物は順調な生育状況のようです。
わが家でもことしは夕張メロンとか楽しんでおります。
価格が安くておいしいというウレシイ夏なのであります。
そんなある日、郊外の長沼町を走っていてふと、
畑の中に大きなドームを発見しました。
職業柄か、一見してこれぞ「自然派住宅」の究極ではないかと
一瞬にして強い感動に包まれてしまっていた・・・。
しかしそんなバカなことがあるワケはないだろう、じゃぁなんだあれ?
わたしは3歳までは農家を営む家に育っていたとはいえ、
そこから先はずっと札幌の街育ち。
丸3年程度の「体験」では記憶に刷り込まれるまでは行っていない。
ただ、空気感とかでかすかに体験記憶が刺激される程度。
まぁ、いつの時期なのかはわからないけれど、
「野焼き」の匂いにはひどく感覚が揺さぶられることがある。
しかしその程度で、視覚体験的には畑風景は記憶がない。
なので、写真のような葉っぱドームも、初めて見た。
深く興味を刺激されて、こころのなかで許しを請いながら
畑にぐっと近づいてカメラでやや遠目にして、
ファインダーを見て驚かされた。
カボチャが宙に浮かんでいる、まるでランプかよ、であります。
恥ずかしながら、カボチャはあの重さなので畑にゴロンと
寝そべって育っているに違いないとこの歳まで思っていた。
・・・って、普通はやはり地べたに寝転ばせて育てるのが一般的。
こういうふうに育てるのは「立体栽培」という手法なんだそうです。
メリットとしては病害に強くなるということですが、
それにしても支柱を立てて行く必要があるので、手間がかかる。
ふーむであります。
野次馬シロウトとしてはこの成り行きドーム構造にも惹かれた。
畑の中で、中に入る許諾は取れなかったのですが、
ぜひこのドームの中を体験してみたいと強く思った。
目をこらしてみてみると、途中からは長なすのようなヤツが
ぶら下がっている様も見えた。
あれはいったいなんだろうと、激しく好奇心が突き動かされる。
今度一度、農家の方にお願いしてあの中を体験してみたい。
なんとなく自然住宅そのものという気もするのであります(笑)。
あのなかで夏の暑い盛りにベッドを置いて寝そべってみたい。
それこそ、カボチャが照明か星のようで楽しいのではないでしょうか?
Posted on 8月 15th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング | No Comments »


昨日はことし亡くなった義母の供養、墓参り。
ごく近親だけでしたが、ワイワイと都合6回ほどわたしが
「私度僧」役で般若心経を唱え上げておりました。
わたしの父母が死んだ,30年前くらいによく唱えているウチに
自然と暗唱できるようになったのであります。
そういうことなので、小さいときから墓参りで耳にしていた娘などは
「人間は大人になったら般若心経は自然と唱えられるようになる」と
固く信じていたのだそうです(笑)。
誤解させた身の不始末を嘆いている次第(笑)。
なんですが、本日のテーマはトウキビであります。
面倒なので標準語の「トウモロコシ」ではなく「トウキビ」にします。
先般一度、ほっかいどうの味覚として取り上げて、
けっこうな(笑)反響をいただきましたが、
先日ふと市場で、いろいろな品種のトウキビが売られていたので、
「おお、こんなにあるのか」と驚かされてつい購入。
それを「味比べ」する企画を立案してしまった。
農家ではないので、トウキビの品種については無頓着でした。
そういえばそばについても「ではかおり」品種のおいしさを実感したし、
いろいろな食品で品種改良努力は継続しているのだと再認識のおり、
こういった気付きの機会があったというところでしょう。
「どれがいちばんおいしいの?」
「う〜〜ん、う〜〜ん」
「どれがいちばん甘いの?」
「それは味甘〜みかん〜ちゃんかな」<写真の左から2番目>
「つぶが白いのはどれさ?」
「味甘ちゃんとロイシーコーン<左端>」
「黄色いのは?」
「ゴールドラッシュ<左から3番目>とおおもの<右端>」
というおおまかな概略であります。
つぶの白っぽいタイプが概して甘味が強いタイプのようです。
じゃぁ、黄色い方はどういった特徴があるのさ、といったところ。
ということで例によって皮を最後の一枚だけ残して茹で上げてみた。
やや邪道かもしれませんが、包丁で断面切りにしてみた。
味比べの結果、やはり甘み自体は味甘ちゃんがいちばんかも知れません。
しかし、同じ甘味の強いロイシーコーンの方が
1箇1箇の「つぶ」の皮膚が強い感じがします。
トウキビの食べ方で、わたし自身は1箇1箇のツブを本体から「バラして」
食べるというエレガントな食べ方が好みなのですが、
そういう食べ方では味甘ちゃんはきちんと本体から離れる確率が
ほぼ20-30%失敗する。
それに比較するとロイシーコーンの方は10%程度の失敗確率。
失敗するとつぶがペシャッと破壊してしまうのですね。
どうも甘み系はそういう腰の弱さが気になるということのようです。
一方、黄色みのタイプの方では、腰が強くてほぼ失敗はない。
「おおもの」では、やはりツブは大きめですが、
糖度と腰の良さ、そしてトウキビ独特の「味わい」では、
ゴールドラッシュがやや、優勢のように感じました。
・・・って、一般的に多く流通しているのはゴールドラッシュだそうで、
図らずも、市場の評価そのままであるということでした。
しかし、こうやって活発に品種改良を重ねているって、
北海道の底力のように思えてなんだかうれしい。
さらに競争レベルを高めていってほしいですね。
Posted on 8月 14th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: おとこの料理&食, 日本社会・文化研究 | No Comments »



石器時代までの狩猟採集生活から、定住が始められたのは
農耕の開始時期が措定され、日本列島では縄文時代からとされる。
縄文時代は約16,000年前ころからというのがほぼ定説。
住居の歴史と考えれば定住以降を基本ととらえるべきでしょう。
この長い人類の「定住生活」にとって竪穴住居は基本的な住環境。
平安期くらい、つい1000年前までは基本的に竪穴住宅。
16,000年前以降のライフスタイルのなかでは、
竪穴のなかで暮らしてきたのが一般的だといえる。
そのなかでのくらしで囲炉裏は生き延びてきた最重要な設備。
囲炉裏は暖房装置であり、同時に煮炊きの基本装置。
人類の空間適温環境と食という生活の屋台骨を支えてきた。
写真は上から1000年前のオホーツク遺跡、1,800年前の吉野ヶ里、
そして一番下は江戸期の福島県いわき市の古民家。
吉野ヶ里の方は、囲炉裏上部の「火棚」のクローズアップです。
火を熾して燃やし続ける囲炉裏の上で、
このような装置、火棚がもれなく付帯している。
この火棚にはさまざまな効用があったのでしょう。
その最大な効果は「食品の乾燥保存」だったであろうことは自明。
囲炉裏で薪を燃やせば、熱量が発生する。
それを最大限ムダなくフルに利用しようと工夫するのはごく自然。
この火力を得る薪の採取には多大な労苦が費やされているのです。
食事の直火煮炊きの次に普通に考えられるのは保存食品加工用途。
火力からの「輻射熱」で時間を掛けて熱を加えるのに、
この火棚は利用されてきたのでしょう。
冷蔵庫がくらしに利用される以前、備蓄的な保存食品として
魚や肉類、植物食品などの燻煙乾燥という食品保存方法が
広範に利用されてきたのでしょう。
直火で焼いて食べ残った食材を火棚に上げ保存させるのが一般的利用。
秋田ではたくわんを食べて残ったヤツを火棚に上げ「いぶりがっこ」にした。
考えてみると、こういった知恵はまことに「エコロジー」。
薪という貴重なバイオエネルギーをフルに有効活用する知恵。
現代ではキッチンの火力エネルギーのフル活用までは
あんまり考えられてはいないと思います。
省エネ、ということが空理空論に陥りやすい現代と比べ
ムダのない伝統的生活装置から教えられるのではないでしょうか?
Posted on 8月 13th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪 | No Comments »


北海道の考古遺跡群はDNA的には縄文の残滓が色濃い。
縄文の人々は、アジアに進出した人類の中でも
いまから4万年前くらいに古層で枝分かれした人々という説がある。
この縄文の人々が日本人のベースを作って、
現代日本人には縄文人の特徴を示す遺伝子型が12%程度認められるとのこと。
それに対して大陸から渡来しただろう弥生文化様式の人々は、
日本列島への渡来としては、第3波を形成する人々という。
だいたい3千年前くらいから列島にきて、弥生的生産様式、
コメ生産に特化した社会を形成した人々だったのでしょう。
その掉尾を飾るのが、百済国家からの列島への集団渡来なのだと。
で、九州・吉野ヶ里では「環濠」で他と明瞭に区切られた
支配ー被支配という関係が明瞭な社会として出現している。
建築としては、高床式の「敷居の高い」建築が支配も表現していた。
ただし、日常生活の住居は支配層も竪穴住居だったとされる。
で、写真上のような畳状の敷物付きのベッドが復元されていた。
見学したのは、いまから15年程度前で、
最近、古建築探訪の記録写真を整理していて気が付いた。
この竪穴住居は「王の家」とされるものの内部で、
縄文の竪穴と違って地面に1段段差を付けたりしているので
「身分制」ということが建築としても表現されたものか。
ほかの竪穴でも下の写真のように、「むしろ」状の敷物が多く復元されていた。
やはりコメ生産技術に特化した社会として、ワラを利用した
生活備品というものが同時進化した様子をみることができる。
畳の素材はイ草ですが、初源の歴史ではどういう素材利用だったのか?
全国畳産業協会のHPで「畳の歴史」コーナーで以下の記述。
〜日本ならではの敷物「畳」が貴族階級から庶民へと普及するまで。
中国伝来のものが多いなかで、畳は日本固有の敷物。その歴史は
「菅畳八重」「皮畳八重」などの記述がある古事記にまでさかのぼります。
まだ畳床などはなく、コモなどの敷物を重ねたものと推測されます。
現在の畳に似た構造になったのは平安時代。板敷に座具や寝具として置く
使い方で、使う人の身分によって畳の厚さやへりの柄・色が異なりました。〜
ということで、古墳時代3世紀を想定しているこの吉野ヶ里展示で
使われている「畳の原初」というのは、暗示的ということで了解すべきか。
畳というのは、日本オリジナルの敷物ですが、
なぜこのようなインテリア装置が発展してきたのか、
コメ生産と周辺繊維質素材との相関だけでは他国との相違が説明できない。
やはり高温多湿という独特の気候風土が関係したのでしょうか?
敷物自体は人間の皮膚感覚としての必然としてそれぞれで進化した。
いろいろな可能性が考えられる中で,日本社会では畳が選択された。
その選択が進むと、独特の文化風土としても昇華発展もしたのでしょう。
なかなかに興味深いですね。
Posted on 8月 12th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪 | No Comments »

人間性のごく基底的な感性領域に「帰巣本能」がある。
なぜかWikipediaにはこの項目がない。で、アンサイクロペディアによると
〜帰巣本能(きそうほんのう)とは、生まれた場所や過去に過ごした場所へと
戻ろうとする本能的行動。
人間の帰巣本能は雌雄で大きく異なり、基本的には男性の方が強い傾向にある。
また年代によっても左右され、十代半ば以降で強まるが六十代以降は
弱体化するとされている。ただしこれはあくまで帰巣衝動の弱体化であり、
機能自体はほぼ残るという説もある。〜
というように書かれている。
住宅ということを主要テーマにして生きてきた心理の奥底に
この「帰巣本能」ということが根深くあるのではないかと思っている。
人間は帰巣することで、さまざまな社会ストレスを癒して生き延びてきた。
住宅の最深の意味合いは、そこにしかないでしょう。
で、とくに住宅の外観について考えるとき、
いつもこの「帰巣本能」という無意識の「基準」を考えている気がする。
やっぱり住宅は「帰ってきたいなぁ」というメンタルへの訴求「性能」がほしい。
どんなにモダンデザインの住宅であっても
この基準自体は変わらないと思う。
この「帰りたくなる」ということのデザイン的な追求の仕方は
それこそ千差万別なのだろう。
人間の生きた数だけ「帰りたくなる」心理には多様性があるのかも。
例示した写真は最近何度か紹介している
オホーツクの遺跡住居ですが、こうした自然のなかの
単純な幾何形体がそのたたずまいだけで存在感が強く際だっていた。
はじめて来ているのに「よく帰ってきたな」というメッセージが
わたしの感覚ではまことに強く感じられた。
また、去るときにも「またいつか帰って来いよ」と言われたと感じた。
そういう意味で、人類のDNAに刷り込まれたような「コード」が
あるようにも思えてならない。
家の「既視体験」的な部分に、そういうヒントが隠されているのでは。
お盆休暇のまっ盛り。
帰省ラッシュということで、各地から高速道路の渋滞情報。
こういう集団的帰巣本能って、やはり人間の基本的文化なのでしょう。
家のそういうメンタル的性能、奥が深いけれど探究したいですね。
Posted on 8月 11th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング | No Comments »


人類が洞窟住居とか、移動狩猟生活でのキャンプ生活から
定住的なライフスタイルを採用し始めたのは、
日本列島での縄文期というのが最古層ではと思っています。
だいたい16,000年前というように言われているようです。
では定住を始めるのにどういう住居に住んでいたかと言えば、
それは当然竪穴住居だったのでしょう。
地面に穴を掘って、その地域の年平均気温程度の室温確保が可能な
地熱利用できる深度まで掘り下げた。
その上で自然環境から得られるもっとも身近な素材として木を切って
屋根材として、あるいは柱材として利用しようと考えた。
そのときに、それらの木を「組み合わせる」技法、
いわゆる「木組み」について、相当研究開発したに違いない。
木を利用する動機としては、舟を作ることが先行したのでしょうが、
その技術はやがて建築に援用されるようになった。
船大工と家大工技術は相互に影響し合いながら人類発展を支えた。
この「木組み」技術について、どのような進化過程があったのか、
かねてから深い興味を持っております。
写真は、三内丸山(左)と吉野ヶ里(右)の
望楼建築とおぼしき建物を比較対照させたものです。
時代的には縄文と弥生の社会の技術の相違、進化ぶりですね。
高さ的にはほぼ同様程度と措定されているようです。
柱の数はどちらも6本となっていますね。
たぶん遺跡に残されていた柱の穴、その大きさと深さ,間隔、数など
情報を統合させて建築として復元したものだろうと思います。
年代的には三内丸山の方は5,000年前というように情報があった。
一方の吉野ヶ里は3世紀ころに最盛期を迎える遺跡ということなので、
いまから1,800年前ころを想定しているようです。
下の写真は両方の建築の「木組み」接合部の拡大写真。
縄文の方はつる性植物と思われるロープが利用され,一部では
斜めに柱に「受け木材」が付けられてそこに横架材が乗っている。
一方、弥生の吉野ヶ里では、
明確に柱に通し穴を貫通させた部位に、横架材が挿入されている。
いわゆる仕口の技術が明瞭にあらわれている。
このあたりは、重要な部分なので復元に当たっては建築史的な検証が
なされたうえで、こうした技術仕様に間違いないとされるのでしょう。
一昨日紹介した今から1,500年前ころの北海道オホーツク遺跡では
つる性植物によるロープ架構が措定されていました。
先述の船大工と家大工の系統分化もあって、
たとえば船大工の世界では、当初の丸木舟からさらに大型化のために
当然、防水を兼ねたしっかりとした「木組み」技術は追求されただろう。
想像としてはそういう技術開発の必然性は舟の方が先行して
やがてその技術が家大工の方に伝播していったのではないか。
それと、そのように精巧に仕口を造作するには鉄の道具革命も
あいまって進行しただろうと思われるのですね。
この木組みの進化物語、深く興味をそそられています。
Posted on 8月 10th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪 | No Comments »


北海道内の人跡、遺跡を訪ね歩くと、
あんまり都市化されていないので、
自然のなかをさまよい歩くといった経験をよくする。
写真はきのう紹介した北海道オホーツク海岸側の標津の
オホーツク文化遺跡・カリカリウス遺跡にいたる道周辺の様子。
この一帯は、古代からの人跡が絶えない地域のようで、
たくさんの遺跡が集中する地域です。
地元標津町HPには、以下のような記述。
〜標津遺跡群は、国指定史跡である伊茶仁カリカリウス遺跡、
古道遺跡、三本木遺跡の3つの遺跡と、伊茶仁川沿いに残された
国指定級の遺跡群から成っている。標津遺跡群の最大の特徴は、
現在の地表面から数千年も昔の竪穴住居跡が窪みとして確認でき、
しかもその数が日本最大の規模を誇ることである。
現在、同様の遺跡である北見市常呂遺跡群と共に、
「北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群」として
世界遺産候補に位置づけられている。〜引用終わり。
ということなのですが、このカリカリウス遺跡に向かうには、
周辺の国道に接道している標津町歴史民俗資料館駐車場からも
約1kmくらいは「散策」していくことになります。
周辺にはクマの出没もよく報じられるので、おっかなびっくりの道。
マジでラジオなどの音を発生させながら歩きたくなる(笑)。
昨日から札幌では南区の住宅街に9時間以上、クマさんが徘徊した。
大自然と共生する北海道はなかなかたいへんなのであります。
でもまぁ、無事に遭遇せず帰還できたのですが、
その道すがら、そういう決死の覚悟とはうらはらに、
ごらんのような「湿原」らしい光景が木道上から目に飛び込んでくる。
ただし、1枚目の写真のなかには「ルピナス」の群生。
このルピナスは明治以降にヨーロッパから移植されたもので、
その後の150年で野生化して、ここまで生息域を広げている。
北海道の気候風土がこの植物には「新天地」だったのでしょう。
そういう意味では西洋から来た「屯田兵」みたいな存在か。
遺跡探検のもうひとつの楽しみは、こんな自然との遭遇もある次第。
幻想的な湿原風景、かなりオススメです。
Posted on 8月 9th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 日本社会・文化研究 | No Comments »



みなさんは「オホーツク文化(人)」って、ご存知でしょうか?
たぶん北海道に住んでいて考古学に興味のある人くらいしか、
知識を持っているヒトはいないのではないかと思います。
日本列島にはさまざまな人々が去来した。
最新の核DNA解析を信じれば渡来の波はおおむね3波に分かれる。
縄文のひとびとが2万年−4万年前ころに渡来して基層を形成した。
きわめて人類古層のアジア展開人種のDNAとされているそうです。
かれらが旧石器の様式文化も遺跡に遺しながらこの列島に姿を現し、
15.000年前くらいからは縄文文化を形成した。
それまでのキャンプ移動・狩猟中心から、定住的な漁撈+自然採集が生業になった。
その後、第2波の渡来民は縄文の末期で、『海の民』だった可能性があり、
日本語の祖語をもたらした人たちではないかとされる。
そして第3波は弥生時代以降。
生産手段としての本格的「農耕社会」の集団的移住。
さらに歴史年代に白村江の敗戦(663年)の結果、朝鮮半島の国家であった、
百済からの集団移住が最後の3波目を締めくくったとされる。
こういった世界各地からの「渡来」があり、婚姻などのブレンドがあって、
基本的な民族形成がされた、という説が有力とされてきている。
<国立遺伝学研究所・斎藤成也教授の説に準拠しました>
で、このオホーツク文化人というのは縄文人のDNAを色濃く残している
アイヌ民族での混血に関わるミニ「渡来」のようで、
北東アジア・アムール川流域地帯から、主に大型の海獣を獲物として
追ってきて北海道の東部、オホーツク沿岸地域に定住した人々。
特徴的にはクマのアタマを神聖祭器として祀る風習を持っていた。
そのひとびとの居住痕跡を発見し復元住居としたのがこの家。
わたし自身の「古民家」探究のなかでもかなりインパクトのあった住居。
平安期日本の宮廷社会では海豹の皮革が貴族の女性の身を飾ったし、
鷲の羽根が、貴族の装身具として最高級素材とされたそうです。
そうした素材は、オホーツク文化人の狩猟生活の産物であり、
奥州藤原氏などの交易中継を経て、日本国家と交易を行っていた。
やがて、クマの神聖祭器風習をアイヌ民族に残して混血同化していったと。
そういうかれらの「住居」なのであります。
どなたが復元設計に当たられたかは知りませんが、たぶん北海道の
古建築について知識を持った建築の先生が関与されたに違いありません。
現地に置かれている説明資料によると
「約1,000年前のオホーツク文化の竪穴住居を二つ復元しました。
手掛かりは柱や炉の位置、焼け残った柱や壁の材料だけで、
屋根や柱の組み方は想像した部分が多いのです。この時代の人々の
家を作る道具は、鉄製の斧やナイフのほかは、木や骨の道具でした。
ですから家を作るのに使う木の性質や特徴をよく知っていて、
加工する技術が高かったと言えるでしょう。」と書かれています。
そして「材料」として以下の記載がある。
「壁〜板143枚。
柱や母屋材〜太い丸太55本。細い丸太60本。
結束材〜ブドウつる 450m、シナ縄 600m
屋根材〜白樺の樹皮 300枚(長さ3m径30cm300本)
床材〜角6本 板22枚」
このインテリア写真は2枚の写真を接合合成したもの。引きが取れず2枚で撮影。
一部不整合部分がありますが、カメラマンの力量足らずです、ご容赦を(笑)。
内部はごらんの通りですが、炉の周りには「ヒカリゴケ」が異彩を放つ。
Wikiによると<1科1属1種の原始的かつ貴重なコケ植物。
その名が示すように洞窟のような暗所においては金緑色(エメラルド色)に光る。>
ということで、素晴らしい装飾効果を見せてくれている。
わたしの取材経験でもっとも感動したインテリアの演出装置。
まるで千年の時を超えて生物痕跡として、住んでいたひとたちからの
メッセージのようにその光彩がこちらに伝わってきた。
初めて訪問してからもう12年が経過していますが、
いまもときどき熱に浮かされるように思い出す住宅です。
Posted on 8月 8th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪 | No Comments »