
わたしは高校生時代に新左翼系学生運動に没入経験があります。
その後、その思考の呪縛から逃れられたのは、
政治での「革命」よりも人間の生き方を変革することの方が
はるかに意味がある、政治権力闘争で解決できる事なんてたいしたことはない、
っていうように思うようになったからです。
左翼運動政治って突き詰めれば本質は「ヤツは敵である。敵を殺せ」となる。
<埴谷雄高さん言。もちろん政治的抹殺であって肉体的殺人行為ではない>
なんかおかしい。人を変えるという本来の意味がない。
で、革命っていうことのホントの意味合いを考え始めて、
共産主義を理想とする思想からは中途半端な「改革」とされた
明治維新について深く学び、知るようになっていった。
司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」読書なんかもきっかけでしょうか。
そして「北海道住宅始原期への旅」で掘り起こし体験をいま継続中。
この時期の日本人ってすごい。
なんといってもコトバまで改革している。
まぁ日本は何回もこういう「徹底受容」を歴史的に経験してはいる。
弥生の農耕社会文化、漢字文化、律令国家体制、鉄砲文明など・・・。
あらたな「受容」対象を深く学び、それを血肉化させるプロセスです。
コトバって、自分自身の基盤である脳みそを直接「改革」することになる。
明治のニッポンにとって民族の独立と尊厳を守り近代化するには
巨大な文明総体、西洋文明を徹底解析して咀嚼しなければならなかった。
そういう「自己改革」に明治の先人たちは勇敢に立ち向かった。
そもそも共通語が芝居コトバくらいしかなかったのを、東京山手地区で話された
言語をベースにして創造していった。言文一致が叫ばれたとき、
落語などの口語表現が最先進的で多くの文化人たちが寄席に日参した。
二葉亭四迷が『浮雲』を書く際に三遊亭圓朝の落語口演筆記を参考にしたとされ、
明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼした、まさに日本語の祖。
旺盛な欧米文明受容意欲なのでしょうが、既存の「漢字+かな」を駆使して
論理で構成された科学的な西洋文明全体を翻訳コンニャクしている。
よく言われるけれど「中華人民共和国」という国名のうち、
もともとの「漢字熟語」は「中華」しかなくてあとは、
明治のニッポン文化が開発した和製漢字熟語なんだとか。
かつてのわたしのような子供じみた観念だけの左翼かぶれ人間が陥りやすい
政治的レッテル貼り攻撃みたいな無意味な心性からはるかに隔絶している。
<わたしがとくに好きなのは英語の「tic」という接尾語に「的」という
絶妙の翻訳語を考えたヤツ(笑)、ダジャレ感もあるすごいセンスだなぁと。
現代中国でもこの「的」はものすごく頻用されていますね。>
そういう集団的努力があって東アジア漢字圏は西洋世界をまるごと咀嚼できた。
そう、ひとり日本民族だけでなく、漢字文化圏に深甚な変化をもたらした。
中国社会の孫文さんはそういうことに深く気付いていたのでしょう。
その後戦争で日本が敗戦したことでこのことの文明的意義はやむなく
矮小化されていると思いますが・・・まぁ仕方ない。
やはりその基本は漢字+かなという複雑極まりない言語を駆使してきた
民族的「資産」なんだと思います。
難解な英単語もカタカナ表記すれば、単語として憶えてしまえる。便利。
他のアジアや世界の国の人々から日本社会について
ほとんどの西洋的概念を翻訳し自国語で理解していることに驚かれるという。
日本は漢字かな混淆文という複雑な論理思考言語だけれど、
これがもし「かな」だけになったらどうなるかと考えると怖ろしい。
たぶん論理思考が衰退し単純化に流されやすくなるのではと思います。
<ろんりしこうがすいたいしたんじゅんかにながされる>って、よくわかんない(笑)。
残念ながら隣国・韓国は戦後、日本をディスることを「国体」とした。
積弊一掃・反日のため漢字を廃止しカナ文化であるハングルだけにしたことで、
必ずしも論理的ではない国民社会状況があるのではと懸念されます。
読書率が劇的に低いというように言われたりしている。
しかし、別の見方では隣国の漢字廃止は漢字文化圏世界での
壮大な文化的「社会実験」ともいえるので、行く末がどうなっていくのか、
漢字文化圏の広い意味の同胞として注意深く見ていく必要があるでしょう。
やはり論理的・理性的思考の基盤の言語こそがその国民の最大の財産。
明治の先人たちの苦闘に、深く感謝の気持ちが湧いてくる次第。
<写真はNASAの画像で東アジア地域の「夜景」>
Posted on 12月 4th, 2019 by 三木 奎吾
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江戸から明治へ、局地的な戦闘はあったけれど、権力の中心
首府江戸は無血で開城されその主人が徳川将軍から天皇に代わった。
政変に伴う大破壊は回避され、あらたな権力意志表現の建築機会はなかった。
それは消滅の危機にあった都市江戸の再生延命につながったので
民族史的には喜ぶべき事だったように思えるけれど、
では明治という新政府は、どういう「概念思想」で国民に臨むのかは
必ずしも明確な意志を表明する建築機会がなかったともいえる。
明治の変革は貨幣制度・暦・欧米との「外交」など
信じられないほどの「革命」を社会にもたらしたと思います。
令和のいま、振り返る機会を作ってこのブログで追体験しているけれど、
その「青年国家」ぶりが非常に清々しい思いを抱かせてくれる。
そういうなかで明治国家は北辺国防も兼ねた北海道開拓・札幌都市建設をもって
新国家思想を「建築」的に表現したのではないか、と思えてきた。
きのう掲載した「開拓使仮庁舎」写真では城郭建築的な「土塁」が築かれている。
しかしそのあとの本庁舎ではそういう「防御的」建築機能は
失われてしまっていることを読者から指摘された。
建築とは、やはりその「性格」が明瞭に表されるものなので、
この「権力意志」の変位とはなにかと考えるきっかけをいただいた。
開拓使の先行建築としての幕府権力の現地中枢施設、五稜郭・函館奉行所は
西洋風とはいえ「城郭建築」であり「城下町」的な街の発展があった。
一方札幌は完全に国防思想からの開拓であったのに、本庁舎建築以降、
堀や土塁といった城郭的防衛建築思想は採用されなかった。
ケプロンやホルトなどアメリカ人が設計アイデアに参与した「開拓使本庁舎」は、
まったく民主主義的な「ホワイトハウス」的な思想イメージと感じられる。
国内内戦を通過して、国民に対してはみな公平平等である国家たらんとする
明治国家の建築的宣言だったようにも受け取れる。
敵将であった榎本武揚の助命嘆願を攻撃軍の総大将・黒田清隆が
坊主アタマになって訴えるというこの時代の空気感・精神性に気付かされる。
専制的に君臨の権力誇示ではなく、国民統合意志を高めるための象徴建築。
その時代的な意志が表現されたのが、この開拓使本庁舎だったと思える。
アメリカ的な民主主義を建築表現したホワイトハウスというのは、
そのシンメトリーな外観構成をみると、なによりも公平平等を訴えている、
そのような思想が建築表現されていると思われるのですね。
アメリカの気候風土とその開拓の歴史から
北海道にもっともふさわしいと自然に考えた結果として受容したのだけれど、
期せずしてかれらアメリカ社会から示された建築デザインはこうであった、
というのが実相ではあるでしょう。しかし結果として
このようなプロポーションの建築をわたしたち日本国家は選択した。
下のイラストはデザインを絵に描いて示した「ホルト」さんの手書きイメージ。
この「デザイン設計者」のことは詳細がまだよくわかっていません。
ホルトという名前は「お雇い外国人」中に「工業」担当者として
そういう名前があるけれど、本来的な建築専門家はいなかったとされている。
推測ではまだしも建築に関連する工業担当者に「お伺い」をして
既述の開拓使建築家・岩瀬隆弘などが、デザインについて諮問した結果、
こういったイメージ図が提示されたものとも思われる。
背景の山々と原札幌の平坦な立地条件が表現されていて
平明で牧歌的な、いわゆるホワイトハウス的なイメージが表現されて微笑ましい。
明治新政府は権力建築は東京では明瞭な表現を持たなかったけれど、
北海道開拓・建設という巨大プロジェクトそれ自体が、
それに相当したのであり、その象徴建築として開拓使本庁舎は
みたこともないモダンデザインとして当時の人々の耳目を集めたのではないか。
今に至る北海道の日本社会での精神的位置、その雰囲気イメージの基層は
このような象徴建築が担い、そして明治が表現した「建築」とは
北海道開拓の総体だった、というような着想を得た次第です。
明治国家は北海道に司馬遼太郎が書いた「坂の上の雲」を描きたかったと。
いかがでしょうか?
Posted on 12月 3rd, 2019 by 三木 奎吾
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<開拓使仮役所〜札幌市北4条東1丁目>

<官員たちの宿泊施設になった「本陣」>
さて引き続き、「北海道住宅始原期への旅」シリーズです。
明治初年のことがらでいろいろ調べながらなので、ブログ記事としては
行きつ戻りつというようになります。
でも、ブログに書くことで「絶対毎日」という強いメンタルが生まれるので
イマドキのテーマ追求にはこういうカタチはいいかもと思っています。
自由さがあって、毎日ワンテーマ的というのは書きやすい。
で、本日は「洋造」以前の開拓使建築。島義勇が札幌開府に猪突猛進し
ほかの上司たちから独断専行のそしりを受け転任させられるのが、
明治2年後半から明治3年3月という短期間。
しかし札幌の基本の「街割り」は決定し都市計画の基盤は確定した。
その後、明治4年には政府側の主導者・黒田清隆の方針が確定して
建築については「洋造」という大方針が固まり、
そのためにお雇い外国人や、開拓使側に建築の専門家スタッフも強化された。
明治4年の9月に建築専門家・岩瀬隆弘も札幌にやって来た。
そして明治5年から6年にかけての「開拓使本庁舎」建設が始動する。
・・・という流れになっていますが、この3年から4年にかけても
島義勇路線なのかどうか、建設工事は継続していた。
上の写真の「開拓使仮役所」や下の宿泊施設「本陣」建設などです。
仮庁舎は明治3年3月着工で4月に完成している。
建坪53坪、経費1,311円あまり。平面図は発見されていない。
前年まで建築と同様に「和風」の様式を持っていたとされている。
「明治2年11月(旧暦)島義勇は従属十有余名を率いて来地し、治所を相し、
仮に庁事を設く。」という記述が随行の高見沢権之丞の記録にある。
10数人が公務をここで執り行ったのだけれど、
史書には寝泊まりしたように受け取れる記述もある。
写真を子細に見るとチョンマゲ・帯刀の人物が見える、いかにも明治初年。
一方、写真下は「本陣」の仮建築から本建築に改修したあとの様子。
用途は江戸期同様の「本陣」という名前が表すとおり宿泊施設。
江戸時代には大名行列の参勤交代セレモニーでの旅宿。
この北海道始原期では、官員の生活居宅として使われたのだろう。
<下の仮本陣費用を見るとかなり安普請で仮本陣が建てられたと思われる>
明治5年に改修着工して7月に完成したと書かれている。
建坪245坪あまりという当時最大の建築とされていた。
その後、お雇い外国人の宿舎として「教師館」と通称された。
以下、最初期の非専門職「営繕」担当官・高見沢権之丞の記録に書かれた
2年から3年にかけての札幌本府建築状況()内は予算規模。
・西側壱番集議所(670両)・弐番小主典邸(880両)・三番小主典邸(854両)
・東壱番使掌長屋(1880両)・西弐番使掌長屋(1880両)・壱番板倉(201両)
・弐番板倉(158両2分)・御本陣(340両)・大主典邸(1360両)
・東壱番小主典邸(875両)・東弐番小主典邸(943両)・仮御宮(91両)
・営繕物置(325両) 以上〆て 10,387両 以て14棟。
他に取りかかり分
・民家 百弐軒 5,400両 ・板倉番所 凡そ2,500両
明治の革命というのは暦から貨幣制度、首都移転など、多方面にわたる。
そういうなか国家意志としての北方防衛国防意識からの北海道経営。
本府札幌ではこういった工事が進捗していた。
Posted on 12月 2nd, 2019 by 三木 奎吾
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「北海道住宅始原への旅」シリーズ。きのうの【江戸城から開拓使本庁へ
建築技術者のDNA移植】の続篇、スピンアウト篇です。
わたしは住宅取材という仕事をしてきている人間。
年間住宅数は最盛期には200軒くらい「取材」していた。
その経験から住宅を「どう作ったか」という設計思想のようなものは
雰囲気から「つたわってくる」という実感を持っています。
江戸後期下級武士の「公営住宅」ともいえる「八王子千人同心組頭の家」を
江戸東京たてもの園で体感した経験がある。ブログでも書いている。
その後、明治「武人住宅」の琴似・屯田兵屋をあらためて訪れたとき、
「どうも似ているなぁ」という強い感覚を抱いておりました。
八王子千人同心は、下級の武士団であり半農半士的なありようだったことも
琴似屯田兵との類縁性を強く感じさせられる。
住宅全体の中での農事作業のための土間空間の「按分」感覚とか、
平入りの土間入り口と「勝手口」が対面構成になっている、
いわば「通り土間」的な平面構成の感覚。切妻平入りで、間取り的にも
土間と板敷きの間、奥の畳の間、台所の配置関係など、
いかにも「似ている」。設計的なDNAの連続性を感じさせられた次第。
士族の心性を理解した空間構成だという感覚がある。
普通の江戸期農家住宅と比べて「座敷を見る」ことへのこだわり、
格式としての「ハレ」空間へのこだわりがより強く感じさせられる。
コンパクトに作らざるを得ないけれど、わが家は武家である、
というような精神性がその設計から伝わってくると感じるのです。
土間でのふだんの生活シーンから正面には格式を表す
座敷と床の間空間が「いつも見えている」ことが、
農事のなかでも身分を決して忘れるな、みたいなことを諭すように感じる。
屯田兵屋は写真左ですが、床の間には主君たる明治天皇の真影まで飾られている。
開拓と防衛任務の両用目的として、設計的な「下敷き」に
八王子住宅が屯田兵屋にDNA的に「移植」されたように思われるのです。
わたしは遠藤明久先生のような学究者ではないのでエビデンスを探って
実相をあきらかにすることは碩学のみなさんに期待したいところですが、
取材者の感覚として、強い「素性」の類似性を感じた次第。
で、こういう感覚のうえに、遠藤先生の研究を読み進めて
幕臣から開拓使の建築技術者に転身の岩瀬隆弘が発掘されて
この実感という「点」が「線」へと繋がったと思える。
外形的事実としては、かれ岩瀬隆弘が琴似屯田兵屋の設計に
深く関わっていただろうことはあきらか。
琴似の大規模公営住宅「屯田兵村」208戸建設は、明治7年中のこと。
かれは同年3月に札幌を去っているのだけれど、
基本設計は工事着工までには当然済んでいただろうし、
なんといっても208戸の大工事で設計は十分な時間をかけたでしょう。
幕府から明治政府への移行期、屯田兵という兵農一体組織の役宅建設で
その類似先行形態として江戸後期の「八王子同心住宅」の設計が
下敷きとされるのはきわめて自然ではないか。
こういう国家意志・建築目的があって、高齢(推定55歳前後)ではあるが
岩瀬に寒冷の地、札幌勤務が命ぜられたのではないかと思える。
しかもかれは同時進行した開拓使本庁舎のアメリカン「洋造」についても
当時の日本建築界で高レベルの基礎的知見を有していたとする記述があった。
〜幕末期には横浜で「洋館」建設の実経験もあったかもと類推できる。
このあたり幕末の公共事業の研究発掘も期待したい。〜
以上の「実感」はあくまでもスピンアウト的な想像であります。
しかしこういう取材者としての感覚もなにかのきっかけにはなるかもと
書きとどめておきたいと思った次第。
八王子千人同心は幕府末期に蝦夷地開拓に取り組んだりもしている。
困窮の暮らしの中で蝦夷地に夢と希望を抱き、そして挫折している・・・。
幕府機構にいた人間として設計した屯田兵屋に対して、ある思いも
かれ岩瀬の胸に去来することはなかったか、
人間の側から建築を見つめ続けている人間として、想像力がうずく。
Posted on 12月 1st, 2019 by 三木 奎吾
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さて「北海道住宅始原の旅」シリーズであります。
前回は、写真下の「開拓使本庁」をご紹介しましたが、
わたしのはるかな「導師」故・遠藤明久先生の論文を研究しています。
「開拓使営繕事業の研究」という労作の論文。
明治初年における開拓使の建築工事を丹念に考証されている。
開拓使の工事は明治2-3年の島義勇判官の着任早々での罷免の影響から
明治3年中は既存仕掛かりを除いて全体として緩慢な動きになった。
一方で実質的な開拓使の主導者・黒田清隆が明治4年に洋行し、
そこでケプロンなどの御雇外国人を招致し、
開拓使の建築をアメリカの基本建築技術に沿った「洋造」に決定した。
基本方針・国家意志が定まったことで明治4年末から大きく動き出す。
事実、島義勇には官舎の建設について思想らしきものは垣間見えないのに、
明治5年に着工し明治6年に竣工する「開拓使本庁」は明瞭な
アメリカンスタイルの「洋造」建築になっている。
この基本的方針を表す庁舎、その営繕工事の実質的推進技術者について
遠藤先生は歴史の掘り起こしを行われています。
そこで浮かび上がってきたのは、岩瀬隆弘という人物。
かれは旧幕臣であり明治新政府・民部省土木司、大蔵省営繕司の職員録に
その名を残したあと明治4年7月に開拓使に奉職し9月に札幌に着任。
もっとも象徴的建築としての開拓使本庁や琴似屯田兵村工事がこの時期行われ
その2年半あまり後の明治7年3月に札幌を去って帰っては来なかった。
慣例として、旧幕府当時の「履歴」についてはこれを記載しないという
文書上の決まりがあったそうで、旧幕府時代の仕事は詳らかではない。
開拓使奉職時点で53歳だったというので、生年は1819年前後。
脂は乗りきってすでにかなりの「高齢」時点での北海道勤務。
遠藤先生の掘り起こしでは屯田兵屋の建つ「琴似町史」の記述の中に
「(屯田兵屋の)設計を担当した人は、もと幕府の御普請方で江戸城西の丸
本丸の火災の後の新築造営にあたった、維新当時の日本建築の
権威者である岩瀬隆四郞という人で、この人は開拓使東京出張所の
営繕係の権大主典であった。」という記載があると。
<この当時は名前は幾通りか通称なども使用していて、
岩瀬隆弘さんも、別の記録で「隆四郞」名を使っていたということ。
注)権大主典というのは明治初期の官職名。係長とかに相当するか。>
さらにこの岩瀬さんについては、「札幌昔譚第二巻」に岩手県の士族で
開拓使に奉職後、屯田兵になった栃内元吉さんという方の談話で
「岩瀬さんは建築の大家なり。翻訳などにより外国建築にも通ず。」
というような逸話が遺されているのです。
これらの伝聞資料について遠藤先生は厳密性には疑問もあり断定はできないと
されています。学者としてさすがに実証性を重視される姿勢。
このあたりの検証については碩学のみなさんに期待したいのですが、
メディア人間として想像の翼を広げさせていただければ、
かれは開拓使本庁という象徴的建築の工事最盛期に
この「洋造」建築の発注者側担当官として任に当たっていたのであり、
その技術者としての技量を買われて開拓使に奉職したと考えるのが自然。
また、記述にある幕臣時の「江戸城西の丸の火災」は、
1852年(嘉永5年)西の丸御殿を焼失
1863年(文久3年)本丸、二の丸、西の丸の各御殿を焼失
1867年(慶応3年)二の丸御殿を焼失(この年、大政奉還)
といった事実がWikipediaにあります。
かれ岩瀬が関わったとすると、1852年であれば33歳時点であり、
最後の1867年では48歳ということなので担当として現役バリバリでしょう。
旧幕府と新政府、開拓使をDNA的に連続させる人物ではと思われてならない。
どうもいろいろな想像力が刺激されるような史実だと思います。
<おっと、だいぶ長くなったので、あした続篇を書きます(笑)>
Posted on 11月 30th, 2019 by 三木 奎吾
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最近、宮城県で住宅の動向を取材していて「雰囲気」として、
1000年前の貞観地震大津波から東日本大震災までの期間の長さをみて、
「もう1000年くらいはああいう大災害は来ない」
みたいな考え方が一部でささやかれている。
住宅ってそもそもそんな長期間の存続まで考えるものではないし
現代では核家族化の進行、企業勤務への生業変化などで
永続する「家系」の拠点という伝統的意味合いが薄れたか消失している。
子どもが「代々の」居住資産として受け継ぐような意識はないのだし・・・。
というのが抜けがたいホンネではないか、という次第。
結果、ローコスト住宅花盛りという市場の現実がある・・・。
これはある意味、ホンネそのものだろうなと思います。
ただ、貞観地震から東日本大震災のスパンが1000年だったことが
考え方の根拠だとすれば、それは「定理」ではない。
どうも活動期に入っているような列島のマグマ的自然状況をみると
むしろ災害は「常在戦場」的な危機が高まっていると思われます。
しかし、家というものは今日「受け継いでいく資産か」という疑問には
たしかに納得できる部分もある。
住宅の寿命は、物理的な長期優良性確保はもちろんだとしても、
しかし、用途と使い勝手などの細部までが不変であるとは言えない。
「暮らし方」は時代によって好みも変わるし、規範も推移する。
問題は「いまなにが重要か」という価値観の問題。
この価値観の変化のなかで、住宅もゆれ動いているということでしょう。
その点では家族でも親子でもやはり違いが出てくる。
そもそも住宅は土地に根付いて建てるので、
その「土地」に暮らし方が当然「縛られる」ことになる。
そんなことからちょっと自由になりたいという現代人の意志を感じる。
しかしまた逆に首都圏「地方」では新たな「地元」意識の高まりも見える。
図は関東の「古地形」と現状の姿。
1万年のスパンで見れば関東の平野部の多くは海の底。
その右側にあるのは、5000年前の海岸線とそれに随順した
生活痕跡である「貝塚」のマッピングです。
万年単位で見る必要はあまりないでしょうが、
しかし地盤補強などの基礎知識や、気候変動にともなう災害については
安全安心という重要要素についてベーシックな「知恵」を教えてくれる。
ビッグスパンの知恵と、個性的な生き方との相関関係、
住宅を考えるふたつの基本要素なのだろうと思います。
北海道発の寒冷地住宅の基礎技術は、そのなかの
「生き方」の基礎条件で「いごこちの満足感」を提供するもの。
こういうスタンスで、ユーザーのよりよい選択をナビゲートする
イマドキの住宅(情報)提供側は、こういうことになるのだと思います。
Posted on 11月 29th, 2019 by 三木 奎吾
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ちょっと前に1160万年前の「最新の生命絶滅痕跡」発見、
というニュースが流れていましたね。
写真はそのニュース当時、NASA提供の写真として流布されていたもので、
その下は産経WEBで見られた図表です。
地球の年齢は45億年前後と言われていますから、
この図表にあるのは、生命が宿った以降での「大量死」であって
それ以前にもたくさんの隕石や小惑星天体の衝突とか、
あるいは地球の一部が月になって分離していった、みたいな
人知を越える大変動が、こんなふうに幾度となく起こっている、
そのことがかなり明瞭に見えてきたということなのでしょう。
現代世界がたとえ滅びたとしてもそれが最後ではなく、その先にも
輪廻転生の世界は続いていくのだともいえる。
みなさんはこのニュースをどのように受け止められたでしょうか?
ここまでの巨大科学事実までは想像力は及びにくいのですが、
わたしは身近な北海道石狩平野地域や関西地域の「地形変動」が、
「ほんの」6,000年前や2,000年前程度で事実としてあった、
そういうことをさまざまに知るようになってからか、
ある意味、不思議と気分が軽くなっている自分がおります。
で、なんでなんだろうと考えるのですが、
こういう事実、科学的解析が導き出す宇宙規模の物理の姿というのは
「輪廻転生」という思想そのものではないかと思えるからなのです。
どちらかというと他罰的な傾向が強い
支配的な一神教宗教、そして左翼共産主義思想などでは、
こういう科学事実の普遍的受容は縁遠いかもしれない。
それはこれらに特徴的な、誰か他者、あるいは事柄を悪と見立てて正義を実現する、
みたいな思想体系が根本的に冷静さを欠いているのであって、
科学解析される宇宙物理は、この「輪廻転生」が基本だと証明されてきている。
そういう意味で「他罰的ではない」思想発展の機縁になるのではと思える。
こうした輪廻転生型の価値観を持っている
仏教思想こそ、こういう最先端の科学解析受容にはふさわしく感じられる。
極楽浄土の来迎には地球年齢と近い56億7,000万年後という年代特定もある。
科学的に冷静に物理を分析し対応することがもちろん基本ですが、
さりとて人類に小惑星衝突を回避できるような科学的な力が
できるとも思えないしその力を持ったとしても
人類社会がそれを的確にハンドリングできるかどうかにはきわめて懐疑的。
今後の精神的な判断基準は、仏教的な自省的宇宙観の方がふさわしい。
万物流転とか、諸行無常とかという輪廻転生思想の「正しさ」が
科学的に裏付けられてきた、というような思いがあるワケなのです。
繰り返し自然災害と共存してきた日本社会には
こうした輪廻転生思想は、比較的に民族の精神性にも根付いている。
・・・加齢の結果でこういう価値観に親近感がうまれるのでしょうか?
Posted on 11月 28th, 2019 by 三木 奎吾
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ことしももうすぐ師走という時期に差し掛かってきました。
年末進行でたくさんの案件が同時進行。
ということで、疲れが溜まってくるタイミングを見て
社長食堂の出番であります。
これまで参加人数について各部署ごとで4−5人程度など
メニューと相談しながら、いろいろな試行錯誤を繰り返してきましたが
やはりできれば、全員いっしょに食べられる方がいい。
少人数の方が作る方の量的負担はやや減るのですが、
一堂に会してワイワイガヤガヤしている方が楽しい。
ということで、メニューにはやや限定がかかりますが、
最近は大人数いっぺんにやっております。
作る方はまさに戦争のようなもので、15-6人くらいのメンバーの
胃袋を一杯にするのはなかなかの難事業ではあります。
わたしはよく知りませんが、大人数の食事を作る組織の
台所について、興味が募ってきております。
どうやったら、大人数の大量食材を一気に用意できるのか、
そのノウハウは知りたいなぁと思っております。
いまのところ、月曜日に挙行することが多いのは
前日が日曜日なので、準備作戦を整える時間が取れるワケ。
それとメニューですね。
大人数で大量に作らなければならないとなると、
どういうメニューにしたらいいか、深く悩む。
・・・ということですが、
けっこうこの「社長食堂」の外部ファンが多いようで(笑)
「今度はなにつくるのさ(笑)」とふるまっていない外部の方から
興味津々に話しかけられることがあります。
スタッフに聞いたらそういうファン(?)の方は多いようです。
SNS、WEB時代にはこういう「コミュニケーション」の和の拡大がある。
逆に大変興味深い現象だなぁと気付かされてもいます。
しかしそうなるといよいよメニューがアタマを悩ましてくる・・・。
ここんところは麺類で焼きそば、けんちんうどんと続きましたが
次回はちょっと変えて行きたい。
店主としては、大いに切磋琢磨を心がけたいと思っております。
次回は9日予定だったのが、え、火曜日10日?
ありゃりゃ、前日仕込みできないじゃないか、おお・・・。
Posted on 11月 27th, 2019 by 三木 奎吾
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明治の初め時期というのは、やはり戦乱さめやらぬというか、
幕末戊辰の内戦という修羅場をくぐってきているし、
同時進行でロシアによる樺太への侵略事実も生々しく勃発していた。
そういう時代にあって北海道の建築が手掛けられていった。
まさに戦争と権力闘争が生々しく展開するなかで建築の方向も決まっていた。
明治維新の内戦を現場で戦い抜いた薩摩の中核人物・黒田清隆が
開拓使の実権を握り続け、その方向性を決した重要人物。
かれは1840年生まれ。1863年の薩英戦争を戦った。
薩長同盟の局面でも「使者」の役を担っている。
1868年の鳥羽・伏見の戦いでは薩摩藩の小銃第一隊長として戦った。
その後、北陸・会津などの維新戦争も最前線で戦い続けた。
1869・明治2年の箱館戦争では旧幕府軍との最後の戦いの総指揮を執った。
その年の11月に結婚している。29歳。まことに青年武人そのまま。
ロシアの圧力が増したため、明治3年・1870年5月に樺太専任の開拓次官。
7月から樺太に赴きロシア官吏と外交し北海道を視察して帰京。
10月20日に樺太を放棄し北海道開拓に本腰を入れなければならないと建議した。
1871・明治4年1月から5月まで、アメリカとヨーロッパ諸国を旅行。
旅中、米国の農務長官ホーレス・ケプロンに開拓顧問を要請・受諾される。
ケプロンの年俸10,000円(現在換算5千万円~1億円)
8月にはケプロンとほか「お雇い外国人」が来日して旺盛な活動を開始する。
北海道での「札幌本府」建設事業も、こうした軍歴に基づく
かれ黒田の政治的支配下になっていたことはあきらかだろう。
そして開拓判官・島義勇による1869年明治2年からの計画実行が
半年あまりで頓挫し、本人が召喚された経緯とも符合している。
島義勇は肥前であり、薩摩の黒田とは政治的バックボーンに隔絶がある。
明治3年から4年にかけて札幌本府建設事業が停滞するのは、
黒田による大方針決定がかれの欧米視察後になったことが大きいのだろう。
ケプロンは「薄紙様ノ家屋ヲ堅材マタハ石造ニ代エ、北海道住居ノ体裁ヲ
改革スルコト」と明確な「住宅」建築大方針を建言し黒田も深く同意する。
そしてその時代には革命とも言える理想論的な大胆な「住宅政策」を打ち出す。
開拓使の建築はすべて「洋造」とするという大方針。
激動の時代とはいえ、若干30歳すぎの青年がこういう飛躍を現実化させた。
北海道住宅始原期において、こういう「革命」が現実に行われた。
写真は1874・明治6年竣工の開拓使本庁。
設計に当たったのは外国人ホルトで、1872年(明治5年)7月に着工し
翌1873年の7月に上棟式、10月に竣工。
まさに明治革命の精神がそのまま宿ったかのようなプロポーション。
Posted on 11月 26th, 2019 by 三木 奎吾
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いま日本全体が気候変動期に突入してきている。
明治以降、いや戦後70数年間比較的に気候安定期だったことから
それを「常態」と考える「平和ボケ」みたいな意識が日本人にある。
だからよく「想定外」というコトバが交わされる。
堤防などの「備え」についても安定期の常識に基づいて基準想定している。
しかし、もう少しビッグスパンで見れば、
まったく違う見え方があるのだということに気付かされる。
ここのところ、明治初年前後の歴史の掘り起こしをしている。
その前史としての地形変動なども下地として調査している。
大きな「気候変動」が波動として地域景観を大きく規定していることがわかる。
図とジオラマは札幌中央図書館にある「埋蔵文化財センター」展示。
基底的な標高図と、地形の成り立ちが色分けされて、
それにあわせて人文的な「遺跡」がマッピングされている。
先日のブログ記事で「古石狩湾」という6000年前の地形認識をもって
こういった図を見返してみると、いろいろな気付きがある。
おおまかに札幌は比較的高地と低地が、ほぼ函館本線で区画されている。
明治の初めの鉄道敷地選定は、非常にしっかりした基準でされていると
最近の水害などで気付かされているけれど、
こういった明治の先人の「知恵」に大いに学ぶ必要がある。
そしてこの地で暮らしてきた先住の旧石器、縄文、続縄文、
擦文、アイヌといった人々の「生業と安全」の臨界であったに違いない
遺跡痕跡からも多くのことをうかがい知ることができる。
まずは水の確保、そして食資源とのアクセス、(水上)交通の確保など、
人間の基本的な生存条件に対して適合的であることを教えられる。
古札幌の地で、先人たちの暮らしように思いをはせると
今の生き方を考えていく起点を提供してくれていることが伝わってくる。
きのうも、150年前・明治2年のほぼこの時期に小樽市「銭函」に
札幌入地前の段階で数ヶ月、開拓使判官・島義勇が居遇した地を探した。
記録では「白浜さん宅」を借りて「開拓使仮役所」としていた。
数ヶ月とはいえ、国の中央省庁同格組織の「役所」であります。
なにがしかの「よすが」が遺されているのではと思ったのですが、
いまのところ手掛かりはありません。
その帰路、島義勇が数ヶ月「通った」札幌創成河畔への20kmほどの道程を
そのように意識しながら地形の高低などを注意しながらたどってみました。
なにげなく見ていた光景が再発見に満ちた情景として
見えてきておりました。楽しいライフワークです(笑)。
Posted on 11月 25th, 2019 by 三木 奎吾
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