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【土蔵開口部に見る職人魂/日本人のいい家⑫-4】



福島県福島市・上飯坂という地域に建っている堀切邸記事なんと4日目。
いろいろとオモシロいテーマが次々と湧いてくる古民家であります。
蔵がいくつもある広大な敷地の地方有力者の住宅。
この福島市地域に根付いて440年以上で最古の建築・米蔵は築245年。
江戸時代中期「土蔵建築」の開口部のクローズアップ篇。

開口部の仕様というのが、建築でもっともデリケートに進化する部分。
建築としての主役は「土」であります。
真壁構造で柱梁がオモテに表れているけれど、その柱間には下地の木舞が
組み上げられて、そこに重厚な「土塗り壁」が作られている。
こういった土壁は、戦国期くらいから建築に使われるようになったとされます。
相次ぐ戦乱火災で木材が枯渇して材料不足をまねき、
それまで木材で壁を作っていたのが難しくなって土壁が増えたとされる。
木材不足はハンパでなくて、京都北山では対策として大規模植林も行われ、
それが「北山杉」のブランドの発祥起源になったとされている。
京都での戦乱復興として住宅再建が活発化していったとき、
同時に大工職人が圧倒的に不足していたことも、
よりDIY的に施工可能な「土塗り壁」が隆盛したきっかけとも言われる。
当時の社会では建築木材は不足していたけれど、人手はたくさんあった。
戦乱で焼け出された大量の労働力が市中にあふれていたので、
大工に比べて深い技術を必要としない建築職・土塗り左官職人は豊富だった。
このように建てられた都市住宅・京町家は薄い土塗り壁だったけれど、
その土塗り壁技術のマザーになったのが、土倉建築。
なんといっても、火災に強く中の重要物資を保護するのに適していた。
ということから、米蔵などに工法採用されるケースが多かったのでしょう。


この写真をご覧いただければ、その壁厚の重厚さは一目瞭然。
見た感じ、30cmオーバーは確実そうであります。
通常であれば4寸角構造材でも12cmが上限の壁厚に対して倍以上。
入口の観音開きの扉も同程度の厚みがあると見える。
木骨構造で重厚に土塗り仕上げが施されている。
防犯性からも重みのあるもので、開閉には相当の重量感。
扉は開閉の利便性を考えてか、壁面に対して「外付け」仕様になっている。
なので、窓の外観写真でも錠前は扉の外側でかけるようになっている。
蝶番も手前の扉は上下2箇所ですが、奥の扉は3箇所になっている。
土倉なので、保存性能として「断熱性」が高いものになっている。
土は自然に存在し入手しやすい素材として比類のない性能を建物にもたらす。
日本の蒸暑の夏にも、寒冷な冬にもなかの食品をしっかり保存し続けられる。
一方、下の写真は窓の様子であります。
入口の内側には、扉を開けた状態での出入りに引き戸の建具がありますが、
壁に開けられた「窓」は現代住宅と類似した開口部仕様。
入口と同時解放して基本的には「通気」として機能させたモノでしょう。
外側では土塗りの観音開き扉があり内側の開口部仕様は写真の通りです。
木舞の木組みの代わりに金属とおぼしき格子組が目に付く。
これが構造の柱に緊結されていると思われます。
そして、外付けの扉と同じように、ウチ側に張り出す形で窓建具が付いている。
その引き戸建具には繊維製の面材が張られている。
外側の土塗り扉の開閉・内側の室内建具の開閉という4段階の通気調整機能。
とくに繊維面材による微妙な温湿度コントロールなど、工夫が細かい。
こういう建具面材はあんまりお目に掛かったことがない。

入口扉もそうだけれど、これらの造作は地元建具職人が腕をふるったのでしょう。
福島地域で土蔵建築が年に何棟も建てられたとは思われないし、
このような建具仕事は、一世一代ではないまでもかなり稀有な技術仕事。
みごとに納まり、245年の風雪にビクともしなかった職人仕事が
凜とした風合いとしてつたわってくるモノがある。
こういう仕事ぶりを見ているのは、なかなか気持ちが良いですね。


[Craftsmanship seen in the opening of the storehouse / A good Japanese house ⑫-4]


Horikiri House article in the area of ​​Kamiizaka, Fukushima City, Fukushima Prefecture.
It is an old folk house where various interesting themes spring up one after another.
A house of a local influential person on a vast site with many warehouses.
The oldest building, Yonezo, which has been rooted in the Fukushima city area for more than 440 years, is 245 years old.
A close-up version of the opening of “Dozo Architecture” in the middle of the Edo period.

The specifications of the opening are the most delicate parts of architecture.
The leading role in architecture is “earth”.
The pillars and beams appear on the front in the Makabe structure, but there is a wooden dance underneath between the pillars.
It is assembled and a heavy “earth-painted wall” is made there.
It is said that these clay walls have been used for construction since the Warring States period.
A series of war fires depleted wood, leading to a shortage of materials.
It is said that it became difficult to make walls from wood until then, and the number of earthen walls increased.
The lack of timber is not a hamper, and large-scale tree planting is being carried out as a countermeasure in Kitayama, Kyoto.
It is said that this was the origin of the “Kitayama Sugi” brand.
When housing reconstruction became active as a reconstruction of the war in Kyoto,
At the same time, there was an overwhelming shortage of carpenters.
It is also said that the “earth-painted wall” that can be constructed more DIY-like became prosperous.
In the society at that time, there was a shortage of building timber, but there was a lot of manpower.
The city was flooded with a large amount of labor burned out by the war, so
There were abundant architects and plasterers who did not require deep skills compared to carpenters.
The urban house Kyomachiya built in this way had thin earthen walls,
Tsuchikura Architecture was the mother of the earth-painted wall technology.
After all, it was resistant to fire and suitable for protecting important supplies inside.
Therefore, it seems that there were many cases where the construction method was adopted for rice breweries.


If you look at this picture, you can see the weight of the wall at a glance.
As you can see, over 30 cm seems certain.
Normally, even with a 4-inch square structural material, 12 cm is more than double the upper limit wall thickness.
The double door at the entrance seems to be about the same thickness.
It has a half-timbered structure and is heavily soil-coated.
It is also heavy in terms of crime prevention, and it feels quite heavy when opening and closing.
The door is “external” to the wall, probably because of the convenience of opening and closing.
Therefore, even in the exterior photo of the window, the lock is hung on the outside of the door.
There are two upper and lower doors on the front of the hinge, but there are three on the back.
Since it is Tsuchikura, it has high “insulation” as a storage performance.
Soil gives buildings unparalleled performance as a naturally occurring and readily available material.
You can continue to preserve the food in Japan in the hot and humid summers and cold winters.
On the other hand, the photo below shows the window.
Inside the entrance, there are sliding door fittings for entering and exiting with the door open.
The “window” opened in the wall has an opening specification similar to that of modern houses.
It will be a thing that was released at the same time as the entrance and basically functioned as “ventilation”.
There is a clay-painted double door on the outside, and the opening specifications on the inside are as shown in the photo.
Instead of the wooden frame of the wooden dance, you can see the metal and the lattice structure.
This seems to be tied to the pillars of the structure.
And, like the external door, the window fittings are attached so as to project to the side of the house.
The sliding door fitting is covered with a fiber face material.
A four-stage ventilation adjustment function that opens and closes the outer earthen door and opens and closes the inner interior fittings.
In particular, the ingenuity is fine, such as delicate temperature and humidity control using fiber surface materials.
I haven’t seen many such fittings.

As with the entrance door, these features may have been done by local joinery craftsmen.
I don’t think many storehouses were built in the Fukushima area each year,
This kind of joinery work is a very rare technical work, if not a generation.
The craftsmanship that fits nicely and didn’t make a big difference in the wind and snow of 245
There is something that comes in as a dignified texture.
It feels good to see this kind of work.

【戦国期からの豪農家系 in福島/日本人のいい家⑫-2】




1578年戦国期に若狭(現福井県)から現在の福島市上飯坂に進出してきた家系。
今から442年前ということになりますね。であれば、
モノとしての住宅以上に家系としての歴史が人として優越する領域。
住宅建築は「客観性」の表現であって主体分析の基本はやはり人文系テーマ。
歴史事実としてはこの年には織田家の播磨侵攻があった。
徐々に織田家は畿内を押さえ中国地方に領土を拡張しつつあった。
戦国期が終息に向かい織田政権を母体とする統一国家権力が伸張しつつあった。
明智光秀の丹波攻略は完了し、福井・若狭国も織田家の版図に組み込まれた。
そういう年に若狭からはるばる奥州・福島まで「移住」するというのは、
どう考えても反織田の勢力家が、その圧迫から逃れたという推測が自然か。
京都北方で、丹波・明智か越前・柴田勝家ら織田勢に追い詰められた地侍層、
地域に根を張っていた豪族層が危険を察知し、大移転したのだろうか。
日本海海路を移動したのだろうが、しかしそれにしても
現在距離で見ても570km近い。ものすごい遠距離を引っ越した。
もし歩いての移動ならば、荷駄も同道では1日20km程度。とすれば1ヶ月。
カネも掛かるだろうし道中の危険も想像を絶する。
普通に考えればいまの新潟あたりまで海路を船で行って、そこから磐越道。
会津を抜けて福島県中通りに至るという行程になるけれど
たぶん猪苗代湖経由での日本海海運+河川水運は利用できる。
経緯から想像すると平家の落ち武者、能登の時国家とも重なるイメージ。
日本人社会は「一所懸命」であり農地を確保することが生命線。
ある程度の「地縁」はあったと想像される。当時は会津が地域中心だろうが
そこでは一族を支えるほどの大規模土地を確保できず、
のちの東北道幹線地域とはいえ鄙であったこの地を選んだのか。
遠隔地に移住し広大な農地を入手できるほど経済力はあったと推定できる。
政治軍事亡命で移住した福島で徐々に農地を広げ、開拓などもしたのだろう。
河川流域で水害時期には周辺河川の氾濫に悩まされ、
一度は濁流に対して「堀を切って」水没被害からのがれたとされる。
それが「堀切」の名前に繋がったのだという。
このあたり、農業土木技術で若狭と福島では進歩格差があったと想像できる。
先進的な若狭地域の農業土木技術眼からすれば水害危険地も
堤防技術で十分に美田運営が可能と判断し、有利な条件で土地取得できたか。
そういう消息を、この言い伝え情報から推察できると思う。
・・・北海道開拓に先行すること300年。移住と農業技術の消息も興味深い。

戦国期といっても日本の農地開拓は常時進展し、そういった経済的努力は
ごく一般的に追究されていたことはあきらか。
一昨日紹介した「十間蔵」以外にも、広大な敷地には多数「蔵」が点在する。
在地の武家支配勢力と関係を持ちつつも経済主体で生き延びてきたと思える。
現存する住宅は明治10年代に火災での焼失後の建て替え建築。
それ以前、江戸期から建っていた建築の様子はよくわからない。
しかし明治10年代建築でも現在時点では140年近い古建築。

基本的な建築思想としては前段で見たような「家」の存続が基本であり、
個人主義的な「個室」は見当たらず、格式意識に基づいた間取り構成。
明治期以降この住宅建築から中央政界で活躍する政治家が多数輩出した。
日本人の「奉公」意識の根源には個人主義の要素は少ないのだと思う。
個人主義とは「身を立て名を上げる」立身出世範疇のことで、
床の間仏間など家系存続意識の空間的規範性文化を持ってはいなかった。
たぶん茶室は個人主義の萌芽なのだろうけれど、この家にはない。
空間性としては家系共同体型というのが日本人意識の原風景。
その延長にムラ社会があり、個人主義も「故郷に錦を飾る」というものだった。
幾人かの「衆議院議員」を輩出した住宅だが、あくまで家系意識優先装置。
生活装置としては後背の蔵との関係が面白い。これについてはきのうふれた。
個人主義的住空間というのは、戦後日本で出現した特異な建築なのかも。
そういった特異性に気付き可能性を探究しつつあるのがReplanかなぁ(笑)・・・。

アップを1日間違えました(笑)。
この記事の方が2で、きのう先に3をアップしてしまいました。・・・
長編を書くには注意が必要ですね(ポリポリ)。

【蔵と中庭のある暮らし/日本人のいい家⑫-3】



ことしの大河ドラマでは「中庭」に隠れたスポットが当たっています。
将軍の住まいでは中庭に面した「縁」が繰り返し画面に映るし、
そのセットを活かしたのか、信長の居館シーンでも繰り返し出てくる。
光秀が尊崇した義輝の最期は、この中庭で討たれるというものだった。
大河ドラマ「麒麟がくる」建築考証担当、広島大学名誉教授 三浦正幸先生の情報は
この時代にはまだ民家では土間が主流だったなど、
非常に興味深いのですが、この中庭のシーンについての解説はまだ聞いていません。
ただ、様式などの研究成果は当然反映されているでしょうから、
この時代の幕府施設では中庭・縁空間は重要な緩衝空間だったと目せる。
多数人物キャラやストーリー説明ドラマシーンとしていい背景設定としたようです。
基本的に平屋主体の建築であれば、その空間相互を機能的に
活かすためには、縁とか廊下の役割が高くなると思いますが、
そのなかでも四周が縁で囲い込まれた中庭が繰り返し映し出されるのです。
ドラマとしても重要な「場面転換」シーンとしても欠かせない背景。

こういった「中庭」空間って、いわゆる農家住宅などにはあまり見られない。
逆に「にわ」という名詞は農作業のための室内土間空間に名付けられる。
都市住宅としての京町家では当時の固定資産税基準が間口の広さだったとされ、
必然的に極少の間口に対し長い奥行きという間取りが採用され
坪庭的中庭を取り込んでもいるけれど、貴族や武家の高級住宅では、
生活機能的な間取りではなく、様式的・格式的な間取りとして
中庭という発想があったように思われます。
空間の初源的には中国の高級住宅である「四合院」が思い起こされる。
写真は本日で3日目の福島・堀切邸であります。


こちらでは玄関と反対側、奥座敷が縁に面しており、その縁を介して
蔵が3つ対面側に建てられている。
渡り廊下でこの間が繋げられていて、すばらしい空間の句読点になっている。
その蔵も、奥座敷側には「中蔵」と「新蔵」が面しているのだけれど、
ふだんの居住空間である炊事場、茶の間、勝手口などに相対しているのは
「道具蔵」というように仕分けられている。
きっと、生活上の細々とした生活具などはこっちに収納され頻繁に出し入れされ
一方の「中蔵」と「新蔵」の方にはいわゆる「お宝」的なものが納められたように思える。
そのどちらへも渡り廊下がアクセスになっていて、
いろいろな生活シーンが思い起こされていました。
奥座敷で賓客と対面するときには、渡り廊下を渡って
「実はご覧に入れたいものがありまして、どうぞこちらへ・・・」
というような密談的シーンが浮かんでくる。
「おお、堀切、おぬしもワルよのう、ぐふふ」だったのか(笑)。
一方の普段使いの道具蔵とは家事の女性たちが
「お正月の飾り物、たしか蔵の奥の方にあったわねぇ・・・」というように
忙しく立ち回って往復するようなシーンが浮かんでくる。
ただどちらも中庭というクッション装置があることで、心理的結界効果があった。
こういう外ではない外部空間、いわゆる「中間領域」というのが
暮らし方に奥行きをもたらせていたように思います。

【築245年米蔵・福島「十間蔵」/日本人のいい家⑫-1】



過去探訪の「日本人のいい家」シリーズ。本日は福島市の堀切家住宅。
このシリーズを続けていると、いまに残っている重厚な古民家建築の家系には
ある共通項的な「経緯」があると思います。
北海道にいると気付きにくいけれど、日本の現在に連なっている「有力家」って
江戸期に淵源を持つ大規模土地所有者であるということ。
それが明治初年の「日本資本主義」勃興期において、それまで幕藩体制下では
国持「大名」たちの専制支配で、大規模な土地所有が難しかったものが、
明治維新の結果、かれらを中心に大規模土地所有層が全国で出現した。
江戸期にも大庄屋などの経済主体は確かにいたけれど、
支配層の武家の都合で自由な経済活動はできにくかった。
そういった権力制約が維新で解放され、土地所有の自由が拡大した。
そして「担保価値」のある土地所有者が日本資本主義の基礎になった
あらゆる「殖産興業」の主体資本家として登場した。先見の明があったというよりも
経済勃興の自然な推移として特権的階級が形成されたという事情。
こうした社会階層の大変化が起こったことが見て取れる。
その体制が基本的には第2次世界大戦まで続くことになる。
現代で各地域に残る「立派な家」には、おおむねそのような歴史経緯が見て取れる。

住宅は、兵庫県の箱木千年家のように実際に1,000年続く家もあるけれど、
おおむね2-300年程度が建築と社会支配層の「耐久性限界」のように思う。
日本は比較的に社会階層の流動性、循環性は高い社会だと思います。
「おごる平家は久しからず」「家は三代」という格言はそういう民族性をあらわしている。
あ、除く北海道でありますが(笑)・・・。

この福島市の「堀切家」という存在は、今から440年ほど前、1578年に
梅山太郎左衛門菅原治善が若狭国(現在の福井県)から当時の上飯坂村に移住し、
名を「若狭」と改め、「川跡田畑4町歩(約39,700平方メートル)あまりを開作」し、
農業・養蚕に力を入れていきました。〜という戦国期由来の家系起源。
若狭という先進地帯から福島に来て、「川跡」という河川管理の困難な未開削地を
豊かな田園に変えて行ったのではないか。
江戸期には在地の「大庄屋」として年貢の納税主体を務めてきた。
そういった階層にとっての最重要建築が「米蔵」だったのでしょう。
これは1775年に建立された蔵で、桁行が10間(約18メートル)梁間3.5間。
構造材は野太く、200年を超える歳月、コメを守り続けてきた建築。独特の風格。
1部2階があるけれど、平屋35坪の大型倉庫建築。おもに米蔵として使われた。
建立年代が判明するものとして、福島県内最大最古の土蔵であり、
平成19年に福島市の有形文化財に指定されています。
明治期になって、この家系からは有力政治家が多数輩出する。
東京市長なども出ている。推測だけれど、福島県は本来会津が中心だが、
幕末明治の政治情勢のなかで会津は冷遇されて他地域、中通り地域が優遇された。
そういう薩長閥の思惑が感じられる気がする。
明治政権としては相対的に会津を下げ、福島を上げる意図があったのでは。
会津攻城戦では、官軍の本営は福島に置かれたという故実もある。
あるいは明治初年の政戦両面で、この堀切家は重用されたのかも知れない。

家の盛衰には、こういった生々しい部分もきっとあったに違いない。
ただ単に住宅としての「耐久性」を越えた要因も複雑にからむ。
「いい家」というフレーズには、どうも人文的な側面も見いだせますね。

【ただただ拍手 はやぶさ2カプセル無事地球着陸】


こういう感動を共有できるシアワセを深く実感しています。
やはり人類の最先端技術での未知への挑戦はすがすがしい。
人類は世界の全大陸に進出した未曾有の生物種といわれ、
種のDNAの根深い部分にフロンティアの血が仕組まれているに違いない。
その生物種としての普遍的共感の部分が激しく刺激されるのだろうか。

わたしのような昭和中期生まれ世代はアメリカの月面着陸計画、
アポロ計画のロマンと同心していた世代なのだと思う。
手塚治虫の鉄腕アトムや一連のSF的マンガに魅せられて、
人類進歩は無限に広がっていくと固く信じられた世代なのだと思う。
そのアポロ計画が一段落して、どんどんと宇宙開拓が進むのだろうかと
そんな夢を見てきたのだと思う。
現実は、そのようには進展せず、さすがのアメリカの経済力を持ってしても
コストパフォーマンスを考えれば、主に軍事での技術進展という
確実な「果実」を結実させることに主目的が優先されてきたのだと思う。
アポロ13号でのクライシスも、頓挫の大きなきっかけにもなったのだろう。
冷静になってみれば、宇宙空間でしかできないことを確実に研究するという
大きな方向性は決して間違いだとは思われない。
次の大きなテーマは有人火星往復とは言われるけれど、
そのためにはそのメリットがどこにあるのか、ターゲットの確定が不可欠。
一方ではるかに予算の小さい日本の「はやぶさ」計画は
太陽系起源に関わるナゾの解明という目的において合理的・理性的と思われる。
そして小惑星からその物質を持ち帰るという技術進化に特化して
コンパクトな駆体とシステムでアメリカや中国とはレベルの違う低予算で
しかしその特定分野の技術では、実用レベルまで到達していることが証明された。
オーストラリアの砂漠地帯に着陸し、丸1日も掛からずに回収されるってすごい。
ちょっと前までの人類の宇宙計画とは隔世の感がした。
たしかに実際にその惑星や天体に人間が行くよりも、
研究を進化させるには、その天体の物質を採取して分析研究に活かす方が
はるかにコストパフォーマンスがいいと思う。
日本の戦後の技術進化はよりコンパクトに、より精密にという方向で
発展してきたことを思えば、はやぶさの方向は日本らしいと思える。

しかしはやぶさ2というプロジェクト全般は、擬人化されていて、
まるで一個の生命体のように認識されてくることが面白い。
最後の、カプセルが地球に帰還してくる火球になって天空を翔る様子など、
いかにも「はやぶさ」というネーミング通り、かわいくけなげな印象を持つ。
ひょっとして、ロボットが人格を持つ人工生命体の嚆矢に、
このプロジェクトがやがて記憶されていくようになるかも知れない。
人類が関与した、生命概念それ自体の進化であるのかも知れないなぁと・・・。

【北海道に残る円空仏か? 有珠善光寺神棚飾り】



円空
(えんくう、1632年〜1695年)は、江戸時代前期の修験僧(廻国僧)・仏師・歌人。
各地に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫り仏像を残したことで知られる。
円空は一説に生涯に約12万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに
約5,300体以上の像が発見されている。円空仏は全国に所在し、北は北海道
南は三重県、奈良県までおよぶ。多くは寺社、個人所蔵がほとんどである。
その中でも岐阜県、愛知県をはじめとする各地には、円空の作品と伝えられる
木彫りの仏像が数多く残されている。北海道、東北に残るものは初期像が多く、
多作だが作品のひとつひとつがそれぞれの個性をもっている。
円空は、北海道でも広尾町・伊達市・寿都町の円空仏に記される「寛文六年」の
年号などから1666年35歳の時、北海道に渡って仏像を残したとされています。
北海道の円空仏は、観音坐像を中心に40数体が確認され、慈悲に満ちあふれ
微笑みをたたえるその表情から人々の心を和ませ信仰に導いたといわれています。〜
・・・というような人物ですが、大体人間加齢してくると円空に惹かれる。
わたしもまったくご多分に漏れません。

各地で円空仏を見てきたり、あるいは国立博物館の展示などで
たくさん見ておりますが、写真はわたしの撮影した有珠善光寺の「神棚」。
こちらの神棚はごくなにげに撮影したのですが、
善光寺というお寺なのに、こんなふうに神棚があって、
真ん中には般若の面が鎮座し、金ピカの仏像あり神鏡ありと豪華絢爛(笑)。
なぜ鬼の面が中央に鎮座しているのか、まことにフシギ。
これは「神棚」ではなく、神仏、魔界大集合というシルシなのかもしれない。
まことにキッチュな光景で、日本でしかあり得ない多神教の世界であります。
後述のような自然災害頻発で、宗派の違いを超え衆生救済に立ち上がったか。
江戸期の「神仏習合」のさまをまざまざと見せつけられる思い。
で、この左右に円空仏とおぼしき2体が鎮座されています。
左側の仏像の右隣の座像もそれっぽい。
円空が訪れたころの北海道・有珠は、1640年駒ヶ岳噴火津波、
1663年有珠山噴火など自然災害が頻発の頃とされている。
あるいは自ら志願して蝦夷ヶ島に渡り、自然災害に苦しむ人を助けたいという
かれとしての祈りをこめたのかもしれません。
コロナという現代の阿鼻叫喚のなかで、円空さんの仏たちの表情に
なにかつたわってくるモノがあるのではと、写真整理して見ました。

【解約申請フォームで解約「キャンセル」へ誘導?】


さてトラブル続きの2020年でありますが、もう少し混乱が続くのか(笑)。
わたしどもの会社では数カ所の駐車場賃貸契約をしております。
で、随時、契約・解約は日常茶飯で起こってくる。
ごく当たり前の日常業務であります。今回は直接わたしが関わった物件。
ということで12月3日朝に「解約しますから」と電話で不動産仲介屋さんに連絡。
そうしたら「追ってすぐに解約担当からメールを送ります」という答え。
「了解しました、即対応をよろしく」と返答し待つことにした。
で、そのあとは各種業務に没頭して忘れていた。
最近は対面しての話合いよりもWEBベースの対応が多くなってきた。
まぁ非対面で要件が済むので、便利になってきたことは間違いない。
とくにコロナ以降、顕著にデジタル化が進んでいると思います。

ところが、このメール丸1日経っても来ない。
解約に関する申し出なので、期日が遅れると直接利害がからむ。
たくさんの処理案件があるのだしこんな些事はさっさと片付けたい。
仕方なく、翌日4日再度こちらから電話連絡した。
「あのう、メールが来ないのですが、解約申し出は受理されているのですか?」
という当方の危惧をお伝えした。
電話対応担当としては、「それは申し訳ありません」ということでした。
で、再度別人の「解約担当」に至急連絡させますという返答だった。
数時間後、メールがようやく到着。文面に遅延対応へのお詫びはない。
あとでわかったけれど、どうも業務の定型文書をクリックして送信している様子。
<さらに本筋からズレるけれど、発信者名が女性担当者の個人名でのメール。
たまたま「タイトル」も見て気付いたので良かったのですが・・・。
どうも最近DMメールなどの発信者名、こういうのが増えている。
堅苦しい会社名よりも「気付いてくれる」というマーケティング的対応なのか。
ただ、このような要件についての連絡は不似合いのように思う。>
・・・おっと、横道。
で、そのメールには解約申請についてはWEBページの「フォーム」から入力して
という案内文とそのURLがリンク表示されていた。
契約書には「解約文書を提出」と記載があり、その文書を求めたのだけれど、
そういう対応をもって「文書」に換えたものかも知れないと善意的に推察した。
けれど、そういう確認が取れる文章箇所は見られない。
「まぁそういうことなのかなぁ」と受け取って、フォームに入力して、
最後に当方の情報と敷金相当の返金口座も入力した後、
「次へ」というボタンを押した後に表示されたのが写真画面。
タイトルはいいとして案内文が、ありゃりゃであります。
「解約の申請をキャンセルします。
お間違いなければ「送信」をクリックしてください」
・・・普通に考えれば、ここまで入力させて最後にどんでん返しと受け取る。
解約しようと入力しているのにそれ自体をキャンセルさせる、という悪意的誘導。
これをうっかり「送信」したら、詐欺的に契約を延長させられる可能性が高い。

ということで、このフォーム段階でストップしてメール送信先に電話。
苦情を申し立てたら、コトバでの謝罪はあったけれど、
対面であれば納得できないような口調での物言いでした。
謝ればいいんだろう的な、・・・う〜む。
まぁ、今度はメール本文に内容を書き入れての返信で「解約受理とします」
と対応変更する旨伝えられ従ったけれど残念ながら一貫して誠実さはなかった。

どうも賃貸不動産業界、おかしな方向に向かっていると危惧させられる。
対面であれば人間関係の「信頼感」がベースになってスムーズに行くけれど
デジタルではもっと低位の部分から疑って対応する必要がある・・・悲しいかな。

【コロナ感染者の国籍が発表されない理由】

第3波といわれる感染者数の拡大局面になってきています。
とくに北海道・札幌は寒さに向かう季節ですので北海道特有の、
乾燥してしかも寒冷という条件下で感染拡大の危険があるとはされていた。
その危惧のままに、グラフのような「新規感染者」の状況で推移している。
北海道は第1波が大きかったのですが、欧米発とされた第2波は比較的平穏で、
しかし今回の波はきわめて大きいという状況。しかし
このグラフで見る限り、直近では少し下降曲線に向かっているようにもみえる。
まったく未知の事柄への対応なので、注意深く対応しなければならないのは
今後とも変わらない。一進一退の状況が続くのでしょうね。
しかし今回も「GoToキャンペーンが」というような、根拠が明確でない
過度の「危機煽り」が横行しているようにも思われる。
未知への対応なので誰が悪いとか責めても仕方がないと思う。
少なくとも情報は明確にして理性的な対応を心がけて行くべきだと思います。
ただここのところ、日本は海外からの旅客は受け入れてきている。
GoToとは違うレベルの問題、日本人と外国人のこの感染症でのデータは
いったいどうなっているのかについて明確な情報が出てこない。
このことは半年前くらいのブログでも書いたのですが、不明だった。
ところがこの件について、6月段階で国会質疑があって、当時の安倍総理が
国会答弁している一部始終が国会記録で開示されていた。
あるいはメディアでの報道を見落としていたかも知れないのですが、
わたしははじめて内容に接することができたので、多くの方も知らないかも、
ということで以下、報道してみたいと思います。

質問者は立憲民主党の松原仁衆議院議員。
このことに関する質問は以下のくだり。(要旨)
●厚労省発表の感染者に占める「日本国籍」「外国籍」「国籍確認中」区分について
1 「外国籍」に区分されるものの国籍別、または白人・黒人・アジア系などの人種別の
データを持ち合わせているか。またそうしたデータを公開しているか。
していない場合、どのような理由によるものか。
2 「国籍確認中」の区分にはどのような患者があてはまるか。受診時に健康保険証や
身分証明書を所持していなかったなど偶発的な理由によるものか。
3 「国籍確認中」の区分から「日本国籍」「外国籍」の区分に変更された
ケースの件数をそれぞれお示しいただきたい。
この質問に対しての安倍総理(当時)の答弁は以下。(要旨)
●厚労省HPの「新型コロナウイルス感染症の国内発生動向」では、
「日本国籍が確認されている者」及び「外国籍が確認されている者」を示しているが
「外国籍が確認されている者」の国籍の公表については、
「一類感染症が国内で発生した場合における情報の公表に係る基本方針」
(令和2年2月27日付厚労省健康局結核感染症課事務連絡)の参考
「一類感染症患者発生に関する公表基準」において
国籍を「公表しない情報」としていることを踏まえ、取り扱っている。
また国内における新型コロナウイルス感染者等の人種については、把握していない。
というような答弁が行われているのだそうです。

なんのことはない、門前払いに等しい対応。そう決めているからそうなんです、と。
ちなみに「一類感染症」とは、
〜エボラ出血熱、クリミア・コンゴ出血熱、痘そう、南米出血熱およびラッサ熱の
ウイルス性出血熱、ペスト、マールブルグ病が指定。〜で新型コロナはこれに該当。
ようするに厚労省の一部局の「事務連絡」判断で「国籍を公表しない」とのこと。
少なくとも政治的にこのことは判断されたわけではないというのですね。
ここで松原議員、大いにツッコむべきだと思うけれど進まなかった。
厚労省という役所の壁か、アリバイ的情報のガス抜きか。
この質疑についてその後も、論議が深まった形跡はない。
しかし感染症の恐怖に慄くばかりの民に、冷静な情報は不可欠。
より多く日本人が罹っているのか、外国人が罹っているのかという情報は、
これだけの社会混乱のなかで秘匿するよりも公開する方が
パニックを抑えるという意味では優先度が高いのではないかと思われます。
まぁ差別に繋がるのでは、という危惧は想像できるけれど・・・。
せっかくこの問題に踏み込んだのだから、論議は深められるべきではないか。
国民の知る権利として優先されるべきではないかと思われる。

【三つ子の魂か?人の生き方はそれぞれ】


写真はある古民家施設で囲炉裏を囲んでの子どもたちの様子。
っていうか、その履いてきた靴の様子がなんとも楽しくなってしまった次第。

わたし自身、母親から靴の履き方、揃え方を諭された強烈な記憶がある(笑)。
わたしは幼い頃、靴の右左に無頓着で、よく反対に履いていた。
母親はいつ言おうかと考えていたのでしょうが、あるとき玄関で
「見てごらん」と言って、靴の右左を教えてもらった。
いつもやさしい母親が真顔で諭すので深く足下に気付かされた。
「そうか、靴って右足、左足で違いがあるんだ・・・」。
その記憶が鮮烈、強烈に残っている。まさに三つ子の魂、百までもというヤツ。
日本人の「しつけ」としては、こういう靴の脱ぎ方について
作法として親から言われることが一般的なのでしょう。
なのでこういった場面、状況の場合は、ここから帰るときの進行方向に向かって
両方の靴の先っぽを向けて、2つの靴を左右も整えて脱ぎそろえるのが理想。
この場合には画面の上側に囲炉裏の部屋があるので、上から下方向にそろえる。
しかし、この見えている靴12足でそういった「傾向」が辛うじて見えるのは
最右側の1足だけという状況であります(泣)。
この1足にしても上がり床面からは遠い位置なので、やや減点対象。
しつけの観点からはまことに嘆かわしい日本民族の未来であります。
しかしまぁ、子どもたちにとっては楽しい「囲炉裏」体験のソワソワの場面。
われ先に、他の子よりもいい場所を確保したい一心がそうさせたのかも。

しかし、そういうしつけ問題とは別に、しげしげと見ると
靴の脱ぎ方の様子で、なんとなく性格とか人間性とかが表現されていてオカシイ。
よい子の模範的な揃え方は、それはそれで素晴らしいけれど、
大混乱しているような靴の盛大な乱雑さも、これはこれでなんとも可愛い。
物心ついて、あるいは大人になって、では確かに困るけれど、
天真爛漫なこどもらしさがそのまま表現されているようなのは魅力的。
「おお、囲炉裏だってよ、もち食べられるかも、うまそう!」
というような心の動きが正直にこの脱ぎ散らかしから漂ってくる。
もちを食べさせながら話をするのには、こういう不揃いな子どもたちも
オモシロいかも知れないと、ホッコリさせられる。
きっと、その子どもたちに自分との同質性を感じるせいでしょうか(笑)。・・・

【進む冬景色 2020年も師走・最終盤】


きのうなにげに朝6時過ぎ、いつものように北海道神宮参詣。
朝の気温はマイナス3度と確認しましたが、風も少しあって体感はもっと厳しい。
足下もすっかりスパイク仕様の冬用シューズ、外装上下ともダウンで防備し
アタマには毛糸の帽子という完全冬用スタイルであります。
本格的に根雪になった方がむしろ断熱され、それ以上は地上が凍り付かないので
かえって今時期がいちばん寒さが身に堪えるともいえると思います。
北海道人、暑さにも弱いけれど、寒さへの弱さもハンパない。
で、神宮にたどりついたら冬季時間体制で朝7時でなければ本殿境内は
戸締まりしているところ、開場しているではありませんか。
「あ、そうか」と思い出したのが、毎月1日に神さまから下賜される「塩」。
ここのところ1日は決まって雨で散歩中止していたりで、わたしは遭遇していなかった。
このために参道が1列になっていて、参拝に10分以上は掛かりそう。
見ると先頭では下賜塩が品切れしたようで、行列が進まない。
わたしは、特段下賜塩が目当てではなかったので、列を離れさせていただいて
こころしずかに毎朝の参詣をさせていただきました。
振り返ることもなく行列を離れましたが、みなさんけっこう忍耐強く待たれていた。

ことしもそういうことでついに「師走」であります。
すっかりコロナ禍で1年が、まったく違う様相で去って行く気がします。
仕事ではスタッフの安全最優先で「テレワーク」体制を組んでいました。
非常事態宣言期間中と期間明け、そして第3派襲来と
「働き方改革」が待ったなしで迫られるような状況だったと思います。
通常のビジネス業務はそれはそれで進めつつ、
しかし仕事のプロセスでは実にさまざまな困難が襲っても来た。
東日本大震災でも、「未曾有の」ということを経験しましたが、
今回のコロナ禍は同じような「非常事態」とはいっても
まったく始末の悪い状況だと思います。
しかし弱音を言っても仕方ない。この環境の中で
なんとか創意工夫で戦っていくしかありませんね。
Replanの旗艦誌「北海道版」も年末年始発売最新号が最終段階の真っ最中。
Zoomなどの手段も駆使しなにより集中力で仕事と向き合うしかない。
テレワーク、リモートワークというものももはや業務の基盤になっているし、
Slackとかchatworkなどの業務連携ツールも使い始めるともはや手放せない。
<でもこういった環境にMade in Japanがまったくないのは、う〜む。
たぶんアメリカとは起業創業に際しての金融環境が違いすぎる。
中小零細企業にいつまで「個人保証」を続けるのでしょうか、ニッポンは。>

こういった環境要件はコロナが収束しても継続していくことは確実。
まさに環境激変の2020年師走でありますが、
寒さに向かってアフターコロナ戦略を練って乗りきりたいと思います。