

既報で「防火の木外壁」仕様が北総研研究で大臣認定とお知らせしました。
その「仕様」はPF(フェノールフォーム)断熱材仕様だったのですが
今回、それに加えて押出発泡ポリスチレン(PS断熱材)仕様タイプも認定取得。
北総研は研究開発主体であり、実際の認定取得は各断熱材業界団体などが
それぞれ主体となって申請するものとなっています。
板状断熱材の2大勢力がこれで揃ったカタチになりました。
以下、北総研の10/2発表資料より要旨抜粋。
〜地方独立行政法人北海道立総合研究機構(道総研)建築研究本部
北総研では、外装材に木材を用いた「北総研防火木外壁」の第2弾として、
付加断熱材にポリスチレンフォーム断熱材(PS)を用いた「PS仕様」を開発し、
この技術を用いて押出発泡ポリスチレン工業会、発泡スチロール協会
(申請者:デュポン・スタイロ株式会社, 株式会社カネカ、株式会社JSP、
日本フォームスチレン工業組合)は、建築基準法に定められる「防火構造」の
国土交通大臣の認定を取得しました。
この「北総研防火木外壁(PS 仕様)」は、北方建築総合研究所が
林産試験場と共同で取り組んだ道総研重点研究「道産資材を用いた
木造高断熱外壁の防耐火構造の開発」の研究成果の一部を、
押出発泡ポリスチレン工業会、 発泡スチロール協会に技術移転したものです。
「北総研防火木外壁(PS仕様)」は、建築事業者に自由にお使いいただけます。
1 大臣認定を取得した外壁名
「北総研防火木外壁(PS仕様)」
2 大臣認定を取得した外壁の認定番号と構造名
PC030BE-3884(1),(2)~ 3887(1),(2)
・グラスウール(ロックウール)断熱材充てん/
木材・ポリスチレンフォーム断熱材・構造用面材表張/
せっこうボード裏張/木製軸組造外壁
3 「北総研防火木外壁(PS仕様)」の社会的意義
木材仕上げには、高い人気があり、道民のニーズに対応できます。
法令の防火規制に適合しつつ、木材を外装材に使用できます。
北海道で広く普及している高断熱仕様の外壁であり、特殊な施工を要しません。
道産木材の利用を促進し、道内産業の振興森林資源の有効活用に貢献します。
4 「北総研防火木外壁(PS仕様)」の普及方法
・押出発泡ポリスチレン工業会、発泡スチロール協会会員各社を通じ
建築事業者へ普及します。〜
さらに今後、「北総研防火木外壁」は第3弾として、硝子繊維協会と
ロックウール工業会共同でグラスウール・ロックウール仕様の大臣認定手続きを
進めており、認定を取得次第、お知らせする予定とされています。
高断熱高気密がまさに基本的な住宅革新技術であり、
建築デザインに対してそれを制約するものではなく、むしろ自由度を
どんどん拡大させるものである面が認識されてきていると思います。
Posted on 10月 3rd, 2020 by 三木 奎吾
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「道」シリーズであります。
新型コロナ禍で仕事の仕方が大きく変わって、わたし自身は内勤的な業務に。
これまでなんとなく「後回し」的だった仕事内容に根を詰めるようになって
このブログでも過去に大量に「取材」ストックしたデータを整頓する志向に。
なんといっても北海道での住宅始原期データが山ほどある。
「そのうちライフワークかなぁ・・・」と思っていた写真データ類に
没入しながら、開拓始原の空気感を再生することになっています。
なんといっても北海道は「高断熱高気密」の揺りかごになった地域であり、
多くの先人のみなさんの研究労作などにも導かれながら、
「もっとあたたかい家を」という北海道人の希求の根源を掘り起こしたいのです。
ただ、当然この地での人間営為総体に関わってくる情報なので、
さまざまな人間模様、ドキュメントが時系列的に整理もされてくる。
いわば、基本探究領域からの「スピンアウト」も多くなってくる次第。
そのスピンアウトでも最近、ハマってしまったのが「道」であります。
日本の朝廷国家体制が出来上がって以降から明治終わりくらいまで
基本的な「人間移動」は歩行にほぼ依存していた、
明治初年の北海道での「道路開削」ぶりは写真記録も残っているけれど、
基本的には飛鳥・奈良時代くらいからこっち、道はそんなに
大きな機能変動、形態変化はなかったということに気づかされる。
一気に日本史を縦断して理解する「手掛かり」になるという気付きですね。
この移動交通手段は、飛鳥奈良から大きく変化していない。
歴史事実を解く「モノサシ」に使える。モノクロ写真がカラーになる(笑)。
で、きょうは明治元年10-11月に函館から陸路小樽経由「銭函」までやってきた
開拓判官・島義勇さんの具体的行動事跡の解明であります。
天皇勅願である「開拓三神」を開拓の首府札幌に鎮座させる大命を帯びたかれが、
ほぼ2ヶ月札幌の開拓進捗を睨みながら、銭函—札幌間を往復していた件。
現在のこの間の距離は、銭函駅—札幌駅間でクルマ移動で21.5km。
MapFanのデータでは5km以上は「歩行」データが出ない(泣)。
なんですが、距離は歩行でもクルマでもそう大きくは違いがないと思う。
当然ですが銭函札幌間の道路は当時すでに作られていたようです。
写真は先日紹介した天皇行幸のために開削した小樽—銭函間の
鉄路が敷かれることになる海岸線道路の明治12年頃の様子。
左右幅はなかなかの広さが確保されている。
たぶんほぼ同様の道を、島義勇さんは毎日のように札幌に向かった。
下の図は右に銭函、左に札幌の当時の「地形図」。
真ん中あたりは低湿地が広がっていて、運河水路などもあった。
札幌首府の工事進捗を督励しながら、札幌入りの期日を探っていた。
銭函の民家を借り上げて開拓使「仮庁舎」として使い、吏員も使役していた。
かれの背中には明治帝勅願の「開拓三神」がくくりつけられていたので、
心理としては、国家千年の大命の重大性に慄くようだった。
とにかくこの「開拓三神」安置の座所確保する使命感が強かったでしょう。
武人としてこういう民族的宗教ファンタジーって、やはり重大な部分だと思う。
日本人の倫理観にとってその存在は巨大で明治国家の成立に深く刻まれている。
さてこの21.5kmをどのように往復していたか。
函館からの移動でもウマの用意は十分にあったと思われる。写真も残っている。
札幌への建築資材などの搬入には、開削運河である「創成川」が使われ
大量の木材ストックぶりも写真に残っているので物流ルートは活発化していた。
間違いなくこの21.5kmは乗馬で往復。並足でウマは時速6kmといわれるが、
毎日往復することを考えると時速7-8kmくらいに速歩していた可能性。
たぶん片道3時間程度、往復6時間。かれの日常に具体的実感が出てくる。
日中稼動10時間と考えれば札幌滞在は4時間程度という日常生活。
もうちょっと働くかも知れないなぁ。ただ、この往復時期は11-12月なので、
日が短い・・・。さてどうだったのか、島さん、教えて欲しい(笑)。
Posted on 10月 2nd, 2020 by 三木 奎吾
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一昨日はすこし頭痛を感じ、手先指先の熱感もあったことから、
早くから就寝し、昨日も午前中いっぱいは念のため静養しておりました。
自己診断としては、鼻の下部分がひげそり負けして皮膚が荒れていた。
それを自然治癒させるべく白血球の体調維持機能がスイッチオンし、
皮膚表面の傷修復レスキュー体制で毒と戦った結果の微熱上昇と想像。
新型コロナ禍最中なので微熱にも用心が肝要。慎重な体調管理が不可欠。
15-6時間の安静の結果、おかげさまで頭痛はなくなり、
トイレでの「排出」は大小とも順調に機能。
センサーとしての循環器系統が活性化してくれば自然に健康復元する。
手先の熱感だけで体温自体は平熱で軽微な体調不良で済んだ。
昨日午後からは通常勤務に復帰しておりました。
体調不良があれば、即座に休みを取って欲しいとスタッフにも言っておりますが、
久しぶりに自分自身にも警告発出だった次第です。
わたしはこれまで定期的に風邪を引いておりました。
概ね年に1−2度はかかりつけの医院で風邪の初期段階で処方してもらい、
かかっても1−2日で具合の悪さは治まるという慣習でした。
まぁ早めに対処して、重症化しないようにするという体調管理スタイル。
インフルワクチンも定期的に摂取するようにしてきています。
それが、ことしは新型コロナの勃発以来、執拗な手洗い・うがいの励行、
外出時にはとにかくマスクをする、生活上で3密を避ける行動管理を行って、
ほぼ1年以上にわたって、風邪を引いておりません。
まぁ、社会全般での注意喚起、予防への意識付けが行き渡っているせいでしょう。
たぶんそういう人が多いのではないかと思います。
日本社会が比較的耐性を維持しているのには、この国民意識が大きいのでしょう。
かかりつけのお医者さんでは、患者数の減少傾向と聞きます。
ことしの冬のインフルシーズンには極端に患者数が激減していたという。
ということですがしかし、油断は禁物ですね。
わたしもそうですが、やはり緊張状態というのは持続は難しい。
社会全体でもう半年以上、こういう緊張状態を続けてきてどうしても緩む。
そういう注意信号なのかも知れないと思いました。
仕事の仕方でもテレワークは今後とも相当長期間の継続を覚悟する必要。
一昨日はそのための設備投資を行うように決定したところ。
気を抜かずに、ウィルスに負けない社会を築いていかなければなりませんね。
Posted on 10月 1st, 2020 by 三木 奎吾
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きのうは、日本の道路と移動距離について考えてみました。
人間歩行という移動の基本手段がモータリゼーションという大革命に置き換わった。
わたしの生きてきた時間の中で大きく進展してしまったのだと思います。
考えてみたらわたしは小学校時代から兄の運転するクルマで移動していた。
つねにモータリゼーションが身近な存在であり、歩くという営為よりも
クルマでの移動というものが肌感覚的だった最初の方の世代。
革命のただ中にいるとその大変化を自覚的に考えることに気付かない。
歩行を基本とした社会というのは、たぶん明治くらいから変化し始め
戦後になってクルマ社会が一気に大衆化するなかで、
たぶん人間の意識の中から相当変容してきたのだろうと思います。
それをよく見つめていくと、今度はさらに「住む」ということの変容にも気付かされる。
住むということは生きること、生産手段と不可分な関係であり、
それの随伴的なことで自ずと決定されていくもの。
旧石器時代が終わって定住の始まった狩猟採集、縄文的暮らしようでは
家というのは、海での海生動物の採取に適した地域に住み処は定まった。
「人類の定住革命」で家という概念が始まったと言えるのでしょう。
そこから自然を改造して農地を管理する暮らしが始まってのムラ社会的共生。
生産手段たる田畑の管理の必然性からの生産管理のために家があった。
そういったムラ社会共同体が人々の「大きなマユ」である社会が長く続いた。
家というコトバには、そのような共同性への従属というような要素も存在した。
狩猟採集では縦型の血縁意識は希薄だろうけれど、
農耕社会によって土地が絡む「所有概念」が強まったことと「家系」意識が高まった。
そのような在地性の強い社会から、資本主義的な生産活動が主流になると、
農家の次男3男たち、自分では家を持てない層が都会に出て
「一戸建ての家」を持ちうるという社会が実現した。
大都会で就職し、郊外ベッドタウンの新興住宅地にハウスメーカーの家が建った。
そして現代では人々は資本主義的な生産活動主体・企業を一種のムラとして
共生しているけれど、それ以前の社会と比較して「在地性」は薄らいでいる。
企業は企業戦士に対して転勤を命令し、住む土地への回帰性よりも
会社ムラ社会への帰属性の方を優位と見なしてきた。
しかしこういった社会変容の中で、住宅の「価値感」も揺らいできた。
「とにかく戸建ての家を持つ」という大都会会社勤務者のモチベーション自体
やや停滞感があるのではないかと思われる。
高度成長期そうして取得した「新興住宅地」の過疎化が話題でもある。
そもそも終身雇用で自動的に給与水準が上がるシステムは先行き不透明。
しかし一方で「住宅金融公庫システム」とでも呼べる住宅取得システムは
「財産形成」の仕組みとして社会に根付いている部分がある。
せっかくあるこの仕組みを有効に使いたいという部分も存在する。
そうしたときに、移動の革命が非常な勢いで起こっていて
定点居住ということの意味合いも変化する可能性がある。
ひょっとすると移動の自由の高まりで「居住」の複数化というすら想像可能。
一方で「居住性・いごこち」という価値感にも社会は目覚めつつある。
移動の革命で数日で世界旅行も可能だけれど、
そういう時代に「住む」魅力ははたしてどう変容していくのか。
いまがこうした状況がどこに向かうかの分水嶺でもあるかも知れない。
Posted on 9月 30th, 2020 by 三木 奎吾
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北海道は国土でもっとも遅く明治に道路開削された。
モータリゼーション直前期。基本的に移動手段が人間歩行だった最終期。
日本の道路交通で具体的にその移動距離基準を表す事例を探してみた。
●奈良の都が造営されたとき、諸国に国家事業として道路が作られた。
国ごとに「国分寺」も造営されたほど物資やひとの流通は常態化した。
奈良の都から東北の仙台のさらに奥の多賀城まで道が整備された。
約1,000km。
時速4kmで仮に10時間歩き続けるとしても40km。25日かかる計算。
この距離の移動が頻繁に行われたというのは信じがたい。
往復2ヶ月掛かっていては、気軽に「往復」できるものではない。奥の細道。
この多賀城に国家支配構造が常駐していたのだからカネがかかる。
ながく王朝文学で「松島」や「宮城野」が読み継がれたのには、
この「常ならざる」移動距離の長さ、日数が都人の社会に「遠国感」をもたらし
「異国情緒」にも似た特異な地域文化性を醸成したのか?
●時代は下って戦国期の「中国大返し」の事例が驚異として語られる。
<6月7日から8日、沼城(岡山市)から姫路城に移動。約70km。>
これが驚異的な速度として歴史に伝えられてきている。
前述のように時速4kmは概算でよく使われる距離時間尺度。
70kmというのは、17.5時間歩き続けるということになる。
まぁ、秀吉軍の中国大返しは乾坤一擲の戦争作戦計画であり、
非日常的な作戦遂行目的があった、特異な事例とも思われる。
●江戸時代の移動交通と言えば「参勤交代」が有名。
調べると、福井藩の例では東海道が使われた場合は1日平均約9.4里、
中山道使用の場合は約9.8里、1日あたり40キロ程度の移動。
朝の出発は午前5時から6時、途中昼食や小休止をはさみながら
「約10時間」を踏破し、夕方5時頃に宿泊先本陣・脇本陣<ホテル>に入った。
休日などなく、それぞれ割り当ての荷を負ってなのでかなりハードな行軍。
ということで、遠隔地・松前藩などは特例で5年に1度と配慮されていた。
●さらに京都食文化の「鯖寿司」原材料、サバを日本海岸・小浜から京都まで
運搬する道路、「鯖街道」という情報にも行き当たった。
産地・小浜で塩をふった鯖を背負って1昼夜歩いて京都にたどりつくコース。
この歩行移動の間、適度な「体動」に揺られて塩味が鯖にほどよくこなれ、
甘酢味付けして独特の鯖寿司文化が育ったのだという。魅力的情報(笑)。
この距離が公称で76kmなのだという。峠越えが数カ所ある難行。
鯖寿司は京都食文化を代表する食べ物なので需要は大きく、
この人力輸送はほぼ職業化された移動交通だったに違いない。
そのフィーと往復頻度はどれくらいで、さらに「帰り」にはどういう物資が
京都から日本海側地域にもたらされたかも興味深い。一度ぜひ取材したい(笑)。
しかし移動距離としては、たぶん限界に近く職業的運搬業の世界なのだろう。
モータリゼーション前、古代から明治くらいまで、日本人の移動概念は
やはり1日40km程度が移動距離限界だった。
これが常識範囲だったのではないか。ひとつの歴史のモノサシでしょうね。
Posted on 9月 29th, 2020 by 三木 奎吾
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なんとも不気味な9月27日昼過ぎの地震の情報ですね。
ここまで広域の内陸地域での地震というのは、あんまり記憶がない。
今回地震は広域ぶりを見ると富士山火山活動と関係しているのではと不安。
日本史にかなり大きな影響をもたらせた富士山の噴火。
気になって、WEB検索でいろいろ地震と噴火自然災害を調べて見た。
直近では東日本大震災時、平安期の貞観地震・大津波が記憶再生された。
その当時、先行して富士山の噴火記録が歴史に記されている。
富士山・貞観の大噴火が864年-866年で貞観地震が869年7月9日。
このときには富士山噴火が先にあって3年後東北沖で大地震が発生した。
大津波は、現在仙台駅のごく近くの「国分寺」まで襲ったとされる。
現在は東日本大震災から10年程度というスパン。連動性への素朴な不安。
以下、調べた古記録では富士山噴火は781年以後17回の記録とのこと。
噴火は平安時代に多く、800年から1083年までの間に12回の噴火記録。
歴史時代の「富士山三大噴火」は、延暦の噴火(800-802年)
前述の貞観の噴火(864-866年)と江戸期の宝永の噴火(1707年)。
『日本紀略』に記録の「延暦の噴火」は、山頂から激しい爆発と溶岩の流出。
いちばん近い大噴火は1707年12月16日(宝永4年)宝永大噴火。
大量のスコリア(火山噴出物の一種で、塊状で多孔質・暗色の岩滓)や
火山灰を噴出。この噴火は日本最大級の地震・宝永地震の49日後に始まり、
江戸市中まで大量の火山灰を降下させるなど特徴的な噴火とされている。
宝永地震は東海道沖から南海道沖を震源域とした日本最大級巨大地震。
南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生した。
以後、現在に至るまで富士山は大きな噴火はしていない。
日本史を知るほどに、社会の動向には天変地異が決定的誘引と気付く。
ヤマト政権成立時期、群馬県に関東の中心勢力が存在したけれど、
榛名山の巨大噴火、泥流でその本拠地地域が壊滅的被害を受けて
関東の経済的発展、政治的発展が大きく遅れたとされる事態。
その惨状は近年の発掘調査で明らかになってきている。
また、のちに天下を掌握した徳川家康の運命に非常に大きく関わった事態。
小牧長久手戦後の秀吉—家康の緊張関係の高まりの状況下での大地震。
のちに天下を取ったからすべて家康がやったことが正鵠を穿っていたかというと
けっしてそうではなく、秀吉の謀略戦によって家康はかなり追い詰められていた。
秀吉側からの包囲重圧が加速していて重臣石川数正による離反も起きていた。
この時期は家康は対秀吉強硬姿勢一点張りだったとされるけれど、
まさに絶体絶命で、強気に出るしか家内をまとめられなかったのだと思える。
秀吉側は徳川攻撃のために最前線城郭に大量武器弾薬・兵糧を集積させたが
攻撃直前になって当時の大型地震で秀吉側に大被害が出て
攻撃作戦がやむなく中止になり、和議の方向に政局転換していったとされる。
その後の秀吉施政下でも伏見大地震があり、当時は地震の活発期だったよう。
歴史にもしもは考えても仕方ないが、事実としてはこのような事例があった。
もし現代で噴火による火山灰が大都市に降り注いだ場合、どのような
被害状況に立ち至るか、あるいはそうした事態への備えは? と考えると不安。
その後、多少の噴火記録はあっても比較的平穏な状況が続いているけれど・・・。
人知の及ばぬことであり、注意深く暮らすしか対応のしようもない。
もし発生すれば社会変動は避けられない。用心は不可欠。
日本火山列島の中核・富士山の火山活動の平安を祈念したいと思います。
Posted on 9月 28th, 2020 by 三木 奎吾
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<明治天皇山鼻屯田通輦図>

<明治天皇北海道上陸から札幌行程図>
北海道は開拓から150年ほどと、もっとも新たに国家に組み込まれた。
それまでの日本歴史での最北の地・東北は「まつろわぬ」人々の地として
「土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」という意識から不幸な歴史時間を持った。
東アジアの「国家」意識にとって「中華」思想は抜けがたい基本思想であり
征夷ということが自らの存在意義であるという潜在意識があったのだと思う。
中央集権的なヤマト朝廷体制が列島社会に伸長していくためには
外敵の存在が必要でありそうした歴史営為の結果、国家が成立したともいえる。
そのような「征夷」概念の延長線で、武家による政権も成立し、
アジアとしては奇跡的で純粋な「封建社会」も実現した。
・・・そういう国家意識からさらにそれを再度、高める必要があったのが、
幕末明治の歴史時代だったのだといえる。
そのときもっとも喫緊な地域と認定されたのが、対ロシアの防衛ラインとしての
北海道の地。東北地域とはまったく違うカタチで日本史最前線に登場した。
このようなことは日本国家の中央集権化「統一」時期以来のことであり、
開国・近代国家建設が国家政治での中核的関心事になった。
その歴史時期にあたって青年天皇・明治帝は優れた素質を持たれていたと思う。
伝統的な京都御所の御簾のなかに神秘的に存在する天皇から
近代国家建設の象徴としての君主像にふさわしい行動的資質であった。
薩摩藩の政治指導者・大久保利通が、幕末にこの若き君主を行幸として
はじめて大阪湾での海軍艦艇閲兵に連れ出したときその目の輝きを見て
「この君なれば・・・」と万感のよろこびを感じたとされる。
その大久保の感慨の意味合いは、こういう政治目的だっただろうことはあきらか。
国家建設に行動する君主像を民に刷り込んでいくことが、近代日本の基礎。
・・・そしてシンボル化した北海道の国土経営開拓の明治帝による視察とは
明治の政権にとって重要なターニングポイントだったと思う。

<お召し列車「開拓使号>

時限的に設立された「中央省庁」開拓使のその最終期にあたって、
炭坑の発見経営に乗り出しており、同時に活発な殖産興業政策で
札幌では数多くの官営工場が稼働してきていた。
近代国家建設にとって、まことに中核的な事業の推進だった。
この明治帝の「巡幸」にあたって、青森から船で小樽・手宮に上陸され
このためにわざわざアメリカに発注した「お召し列車」を、開通なった鉄道に走らせ
明治帝を開拓の首府・札幌にお迎えした。
たぶんお召し列車はこのような風景の中を走って天覧に供したのだろう。
新橋-横浜路線とはまったく違う、国家意志による大自然を克服しての鉄路。
そして上の絵「明治天皇山鼻屯田通輦図(1881年)」のように藻岩山の麓、
札幌の開拓の様子を馬上からご覧いただいた。
明治帝にとっても死後、北海道神宮に神体として祀られたことが不自然でないほど
この地のことを深く思われたことは間違いがないだろうと思われます。
日本と北海道とは、たぶんこのような出会いと歴史経緯だったように思える。
坂の上の雲を追った時代が確実に存在したのだ。
Posted on 9月 27th, 2020 by 三木 奎吾
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毎朝の散歩道、札幌のイマドキは12-3度程度の日も増えてきます。
昨日などすっかり肌寒いほどの気温低下ぶり。
しかし、高齢のみなさんを中心に、そのお孫さんとおぼしき年代も
毎朝、北海道神宮前でお掃除ボランティア、ラジオ体操と元気な姿が見られる。
そういうけなげでかわいい様子にすっかりゾッコンのわたしであります。
で、いつもの散歩道にはドングリなどの落果が目立つようになって来た。
また、それを狙ってたくさんのリスたちがあちこちで俊敏にうごめいている。
ヘタをすると足蹴にしてしまうかもしれないほどにたくさん見かけます。
そんなふうに足下に注意を払いながら歩いているとふと写真のような光景。
「おっとっと・・・」と蹴飛ばさないように咄嗟に道を横に取っておりました。
わたしの散歩目的は運動量確保なので一定速度が習慣づいている。
で、なにげに通り過ぎてから、その光景の残像が目に焼き付いて離れない。
20-30mほど過ぎてからやはり気になって引き返してみた次第。
即座に「これはだれかが表現したものではないか」という判断があった。
そうですね、小さい子どもたちにとって落果の季節はそのオドロキから
それを拾い集めるのが一般的・人類初源的反応パターン。
たぶんネイティブに近い人間精神の発露なのではないかと思います。
で、それは「アート」の起源に近い行為であるに違いない。
戻ってみて、その「作品」を謹んで写真に撮影させてもらった。
基本の構図はドングリで表現されているけれど、
なんだかよくわからない堅果類が左側に流れるように配置されている。
ドングリたちはどうも「流動線」を意識したような配置のされ方をしている。
堅果類を囲むようにも配置されている。
そして、右手側には可憐な白い花々が添えられているではありませんか(!)。
見た感じではハート型を意図したようにも受け取れる。
この全体の配置バランスは、なかなか惹き付けられる(笑)。
白い花と茎の緑が、ドングリ・堅果の色と対比的でお互いを引き立ててもいる。
この「表現」の仕方にはなぜか強く「女性的感受性」も感じさせられた。
「おお、いいじゃんこれ」であります(笑)。
ちょっと立ち去りがたい思いもあったけれど、後ろ髪を引かれながら離れた。
想像すれば、たぶんいたいけな少女がドングリの姿カタチに魅せられて
それを夢中で集めて、堅果もついでに発見ゲットした。
で、その感動のままに道路をキャンバスにして配置する原初アートに取り組んだ。
「こうしたらカタチがオモシロいかなぁ・・・」と考えながら。
で一応の構図が固まったけれど、そこにふと視線の先に白い可憐な野花があった。
ドングリとその白い花のコントラストが彼女の表現意欲を刺激した。
夢中で花を摘み、「どこに置こうかなぁ・・・」
というプロセスで、このアートは完成を見たのではないか。
この表現に向けた素材収集・配置での構想持続力はまさにアートパワー。
わたしは朝7時前くらいにそこを通りかかったので、たぶん制作はその前日日中。
少女はたぶん完成を見届けた後、お母さんに呼ばれて現場を去ったに違いない。
それから約半日以上、ここを歩いた人たちはこれを目にしただろうけれど、
わたしと同様に、注意深くこの作品をリスペクトして残置させた。
誰も足蹴にすることなく、作品は一定数の人々に鑑賞の機会を与えたに違いない。
そんな風に考えると、朝から「いいものを見た」気分に浸ることが出来た。
さすがに翌日朝には跡形なく作品は姿を消していたけれど、
見知らぬ少女と楽しく対話できたようなうれしさがこみ上げてくる。
作者が大きくなってからもしもこの写真を発見したら、という想像も楽しい(笑)。
Posted on 9月 26th, 2020 by 三木 奎吾
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本日2度目の情報アップです。
実は昨日9月24日にたいへん不審なメールがわたし宛に
わたしの名前を騙って送られてきました。
写真(ウィルスっぽく彩色しました)の通りの内容で、
添付のwordデータを開かせようとするものでした。
で、さっそくITスタッフで情報を精査して、
ウィルスメールであると突き止めました。
マルウェア「Emotet」である可能性が高い状況です。
詳細は、弊社WEBページで内容を開示しましたのでぜひ確認ください。
Replanスタッフを装った「なりすましメール」にご注意ください。
わたしどもに関係するみなさんに
このようなメールが送られている可能性がありますので、
注意喚起の意味で、情報を公開させていただきます。〜以上。
Posted on 9月 25th, 2020 by 三木 奎吾
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先日発表した北海道の「擦文」期の大型住居続篇。
このオホーツク圏の常呂の古代住居遺跡群は2000軒ほどとされる。
もちろんそれは数百年にわたって人々が住み続けてきたということで、
一時に都市集住のように多人数が住んでいたということではない。
数百年間、2000家族が違う家を建てながら住み暮らしていたということ。
たぶん数十戸程度の集落単位で暮らし続けていたのでしょう。
世代更新を20年、住居の耐用年数を20年と考えれば500-600年程度でしょうか。
そういう定住が可能なほど、この地は食料獲得に適していたのでしょう。
古代の人々の生活風習文化として、家とその住まい手家族は一体として存在し、
その住人が死ねば家も焼いてともに「送る」習俗だったとされる。
子どもは結婚とともに新居を建てて移り住んだ。
家を「継承する」という概念はかれら社会にはなかったという説が強い。
本州以南の日本社会では生産手段としての田や土地の所有概念が強く
その管理のための住宅を当然のように継承する文化があるけれど、
北海道に住み暮らしていた先住の人々にそういう痕跡はうかがい知れない。
基本的に自然共生の暮らしがあって、財・タカラについての観念は大きく違った。
とはいえ一方で「交易」という概念は非常に強く持っていて、
たとえばこの時期のオホーツク文化で獲得される狩猟産物、鷹の羽根とか
アザラシの獣皮などが奈良平安期の貴族たちに珍重され入手を競ったとされる。
それはオホーツク文化の人々から直接ではなく、擦文の人々を経由した交易。
直接交易を考えたオホーツクの人々は日本社会に接近し道南の奥尻島まで進出。
結果、北海道西部の擦文社会と緊張状態となりかれらと友好的なヤマト社会からの
北征軍事集団としての阿倍比羅夫の遠征出征を招来し、
奥尻島でヤマト軍に敗退させられた痕跡が残っているとされる。最新の研究。
そういう「タカラ」と交易への執着はあるけれど、あくまで狩猟採集が基本であり
日本農耕社会のように生産手段などに対しての固執をみせることはない。
生きることとはもっと属人的なことで自然の意思と個人能力が根源と考えていたか。
いずれにせよ相続継承という観念は薄い社会であったように思われます。
さて、かれらの復元大型住居であります。
常呂には東大の遺跡研究探査機関があり、この復元住居には
その研究成果が反映されているとされています。
上写真は、常呂町広報誌に掲載された遺跡施設からの情報提供より。
この建物は定期的にメンテナンス作業も行われているということ。
自然素材の非定住住宅は囲炉裏火による燻煙も期待できないので
屋根の萱の更新とか、いろいろ維持が大変の様子。
しかも復元住居なので、どうしても現代の建築技術工具に頼れない。
萱の更新ひとつ取っても、現代の北海道で技術伝承があるとは思えません。
そういう労苦の積層された復元住居ですが、この住居は素晴らしい。
かまどが2つあるという大型住居。この時代かまどは属人的で主が決まっていて
他者がそれを使うことは禁忌とされていたそうです。
だから、この住居は単独世帯ではなく、多世帯同居住宅だった可能性。
梁行も豪快で見た感じでは10mくらいの長大さ。
東大の調査からの復元で、根拠の確かな寸法なのでしょうから
この遺跡全体から見ても、相当の「高級住宅」であった可能性が高い。
囲炉裏周辺の土間の広大さ、室内空間の豪快さに息をのむようであります。
想像では「族長」的な存在の住居痕跡とも思われます。
あんまりステキなので、ちょっと住んでみたくなりますね(笑)。
Posted on 9月 25th, 2020 by 三木 奎吾
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