
オランダの常設仲裁裁判所では近日中に、
国連海洋法条約に基づいて中国の領有権主張に抗議したフィリピンの
訴えに関して判決を下す見通しになっている。
この「裁定」をにらんで、中国政府はあげて国際社会に向けた
恫喝的メッセージを発し続けている。
この恫喝的姿勢の根底には、あの国が歴史的に持ち続けたアイデンティティ、
中華思想への国際的判断というものへの、根がらみの反発があると思う。
自らも多民族国家であり、内部での少数民族への暴力支配を
覆い隠すために歴史的に振り回されてきた「中華思想」は、
まさにナチス思想にも類似した他民族へのヘイト思想そのもの。
そして、歴史的にかれらは「国境思想」は受け入れたことがない。
南シナ海での「九段線」という、自国海岸線から最大1,600kmも先まで
自国海域であるとする主張など、まさにナチスの所業に近い。
鄧小平による経済発展志向による国際協調路線から、
経済発展を勝ち取ってからは、掌を返したように伝統的中華国家思想を
国際社会、周辺国に対して声高に恫喝する超大国に変貌してきている。
そしてその権力は民主的な選挙を拒否する共産党独裁。
こうした状況のなかで、これまで協調的姿勢を見せてきたアメリカが
オバマ政権が放棄したいと言ってきた世界の「警察」の役割を
南シナ海において、いま一転して増強させつつある。
さらにオバマ政権は韓国にミサイル配備を認めさせた。
来週の国際的「判決」によって、国際社会は
中国の本質的な姿勢がより露わになった姿を目にすることになる。
事前に於いてすら、あのような姿勢を見せていた以上、
判決後にも、より強硬な姿勢を見せることは容易に想像できる。
こういった国家を含めた東アジアでの安全保障をどう考えていけばいいのか、
日本国民として、未来に向かって賢く選択していかねばならない。
<写真は、まさに開花寸前のオオウバユリの一昨日(左)、昨日(右)>
Posted on 7月 9th, 2016 by 三木 奎吾
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北海道の建築家・藤島喬さんから投稿コメントをいただきました。
要旨は、日本の中央では「環境建築」というコトバの曖昧さが
勝手気ままな解釈を生んで、どんどんトンチンカンな方向に
行っているのではないかという危機意識でした。
世界的な気候変動問題があり、
人間のエネルギー利用由来による地球温暖化の危機が叫ばれている中、
その問題に立ち向かう最大の手段であり不可欠なものとして「省エネ」が
あるという基本認識、その「要素技術」の最大なるモノとして
「断熱」がある、ということは現代の共通認識だと思っていたけれど、
新建築住宅特集「環境住宅」特集号をめぐっての論議のプロセスで
実は、こういった共通認識、前提条件にズレがあることが見えてきた。
わたしたち日本の一部でもある北海道の側からすると
世界の動き、北欧や北米との長い時間を掛けた技術的「対話」から
共通の基本認識として、建築の「室内環境」をどう担保するのか、
そのエネルギーを最小化させる努力が、地球温暖化の対策になる、
それこそが「環境建築」概念の基本だと思ってきていた。
人間活動を過酷な外部環境から守る断熱は、
いわば世界共通技術常識の根底をなすと理解されてきている。
国交省や経産省など国の政策も、その方向にあることは公知の事実。
度重なる「断熱水準」の強化、義務化はそういう常識の進展であると。
そしてドイツが主導してEU総体として「パッシブハウス」へ舵を切ることで
世界の大きな技術底流になって来ていると認識していたけれど、
そうした今日、日本の温暖地域において「環境住宅」とネーミングして
前述のような「環境意識」とは大きく違和感のある
建築デザインに向かっている動きというものがあるのだと、知った。
どうも論議はそこからだということが、ようやくわかってきた。
理解しにくい「環境とつながる」という価値感の理念化、
それが建築にフィードバックされることで、
およそ省エネという概念とは「断絶」されたデザインの呼号になっている。
それを「環境」という拡散可能な概念・コトバで表現することで
あたかも現代アートの一手法であるかのように錯覚させている。
そこに「建築の可能性」が無限にあるかのように錯視している。
まさにガラパゴスだと、深く思わされるこの溝。
それでも渡るべきかどうか、深く悩んでしまう隔絶を
深いため息のようなものとともに、思わされている次第です。
Posted on 7月 8th, 2016 by 三木 奎吾
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きのうは北海道の工務店グループ・アース21の雑誌編集委員の会合。
いろいろな情報発信の形がある中で、
地域工務店の立場に立った雑誌を年1回発行し、
地域の住宅ユーザーへ啓蒙的に継続してきているものです。
わたしどもはそのお手伝いをさせていただいています。
当たり前ですが、住宅というのはその土地に根ざして建てられる。
地域工務店はその地域におけるものづくりを本質的に担う存在であり、
その地域の気候風土、その地域オリジナリティを体現もする存在。
「地域に似合う」ということは、
そのような作り手たちが主導していくべきものでしょう。
下の図は北海道内の事業規模別の住宅施工実績。
これをみると地域に根ざした工務店という存在が、
住宅づくりの中核であることが明瞭に見て取れます。
しかしそうでありながら、企業規模が中小規模であることから
各社それ自身の情報発信力にはおのずと限度がある。
どうしてもユーザーに一番近い声が、ユーザーに届きにくい現実がある。
そういうなかで年に1度とはいえ、自分たちのスタンスを
そのままユーザーに伝える雑誌情報発信機会は有益。
こういった編集会議の積み重ねは、誌面にさまざまに反映していく。
地域における「製造業」を生々しく担っている人からの
まさに現場的な声は、わたしたち情報生産の立場からしても貴重。
たぶん全国的にもこういった企業グループによるオリジナルな
情報発信というのは稀有な事例だろうと思います。
単発的に発刊したとしてもユーザーには声が届きにくく、
なんといっても、毎年継続して発刊し続けると言うことが重要。

こうした情報発信努力が、図のように民間戸建て住宅市場で
北海道では「道内」企業のシェアが89%という現実を生みだしていく
ひとつの大きなパワーにも繋がっていると思います。
ことしも年末の発行に向けて頑張っていきたいと思います。
Posted on 7月 7th, 2016 by 三木 奎吾
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本州以南では、もうすでにかなりの暑さで熱中症がうなぎ上りとか。
ことしの夏は世界的にも猛暑予想で、40度というような
信じられない気温が聞かれますね。
北海道ではときどき晴れ間が出ると気温が急上昇しますが、
イマイチ、天候が安定せず、ぐずついた毎日が続いています。
しかし、自然を観察していると
夏本番が間近になって来て
イキモノの生体リズムが高レベルになって来たことを実感します。
散歩路の円山公園の水辺では、カモさんたち親子が
朝の散歩を楽しんでいる光景に遭遇。
iPhoneのデジカメなので不鮮明ですが、
親子の情愛を感じさせてくれて、ほのぼのとした気分になります。
道庁の池のカモたちは、この時期に引っ越しをしたりすると聞きますが、
ここでもそんなことをする為なのか。
さらに、先日来注目し続けているオオウバユリ。
この1両日の様子であります。
同一個体なのですが、徐々に開花に向かうプロセス。
もう数日で、この花芽がどんどん左右に広がっていって、
開花するのであります。
多様性におどろかされる自然のリズム、
ちょっと気温は低めに推移していますが、
それなりに北海道の初夏、いまが盛りのようです。
Posted on 7月 6th, 2016 by 三木 奎吾
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先般来、新建築住宅特集の「環境住宅特集」を契機にして
東京で「環境」に関心を持つ建築家のみなさんとの対話が進行しています。
そういうなかでも、建築家・難波和彦さんは旧知ということもあり、
またちょうど北海道で、氏の「箱の家」の計画が進行していることから
面談やメールなどでの対話が成立しています。
わたしが「論文」にモノを申し上げた川島範久さんの東大での恩師に当たる。
そういうことなので、日頃から感じている
表題のようなことについて、率直な意見を交換させていただいています。
以下は、そういうやりとりの中のわたしからの一節。
私どものReplan誌ではどんな住宅でも「断熱仕様」というスペック項目を
住宅取材の基本情報として25年以上にわたって
ユーザーに意識的・啓蒙的に情報提供しています。
床もしくは基礎・壁・天井もしくは屋根などの「断熱構成」を
一般ユーザーに意図的に開示してきたのです。
室内環境を担保する「断熱」とはどういうものか、常識化を願った活動。
こういう活動が徐々に「ごく当たり前」のことになって、北海道では
少なくとも建築のプロの間で、住宅建築「共通言語常識」が成立している。
そういう活動からの流れで、わたし自身も北海道の住宅政策である
「北海道R住宅」という性能向上リフォーム基準・制度・組織の立ち上げ、
ビルダーの組織化、一般ユーザーへの啓蒙など広範に関わってきました。
そこでは地域金融機関(北洋銀行)にまで働きかけ、
この「北海道R住宅」仕様住宅に、独自に新築同様35年ローンが実現した。
築40年の住宅がそこからさらに35年のローンが可能になった。
事実上、住宅性能価値に投資する意味の「ノンリコースローン」だったと。
そういう地域住宅制度を担保する「地域認証」として、
非破壊・目視の検査手法を独自開発した「住宅検査人」制度の創設や、
地域住宅性能制度「BIS<断熱施工技術資格>」技術者関与規定など、
いま国・国交省、経産省が推進している諸制度の骨格は、
北海道が先導して社会的に制度設計してきた実績があると思います。
わたしたち北海道では、こうした地域のテーマで官学民が協力し合い、
地域の建築家もその一翼を大きく担っていると思います。
やはり基本認識において、十分な「対話」が必要と強く思います。
私ども北海道的立場からすると、「環境建築」ということの理解において
むしろ北米・北欧とは世界標準的な情報共有が可能だけれど、
住宅建築の「常識」部分で、日本国内・北海道と東京ではズレが存在する。
幸い、そういった主流の中で難波さんは隔意なく対話可能な存在。
今後、氏の住宅作品のプロセスも情報共有させていただき、
国内での南北の対話の幅を大きく広げていきたいと念願しています。
Posted on 7月 5th, 2016 by 三木 奎吾
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毎朝の散歩路では、いろいろな自然の変化が最大の楽しみ。
季節につれて、移ろいゆく花々は四季変化の明瞭なこの列島での
ひとびとの暮らしの歳時記を彩ってきたのだと思います。
そんななかでも毎年注目してきているのが
このオオウバユリです。
わたしたちの住む北海道は、日本社会からの移民が優勢ですが、
もともとこの地は、アイヌモシリ(人間の静かなる大地)だった。
アイヌの人たちにとって、このオオウバユリはまさにソウルフード。
かれら先人の生活文化に対してリスペクトを持たねばならない。
以下、食品としての扱い方をWikipediaより。
北海道に多く分布し、やや湿気のある林内、林縁に自生する。
高さは1.5 – 2.0mくらいになり、花期は7 – 8月で、10 – 20個の
黄緑色ないし緑白色の花をつける。
鱗茎はデンプンを含み食用にできる。
北海道ではアイヌによりトゥレプの名で食用にされ、
アイヌ民族にとって植物質の食品の中では穀物以上に重要な位置を占めていた。
以下の方法で澱粉を採集する。
球根から茎と髭根を切り落とした後、鱗片を一枚一枚はがし水洗いする。
鱗片を桶に入れ、斧の刃の峰を杵がわりにして粘りが出るまで搗き潰す。
その後で桶に水を大量に注ぎ、2日ほど放置する。
数日経つと桶の水面には細かい繊維や皮のクズが浮き、底には澱粉が沈殿。
溜まった澱粉のうち、半液体状の「二番粉」と粉状の「一番粉」を分離する。
これら2種類の澱粉は乾燥して保存するが、
水溶きした一番粉をイタドリやヨブスマソウなど、空洞になっている
草の茎のなかに流し込み、灰の中で蒸し焼きにしてくずきり状にして食べたり、
二番粉を団子に丸めて蕗やホオノキの葉で包んで灰の中で焼き、
筋子や獣脂を添えて食べたりする。
乾燥して保存された澱粉のうち、日常使用されるのは二番粉。
団子に加工して、サヨ(粥)に入れる。
この一連の澱粉採集作業の間、「酒」と「色事」に関する会話はタブー。
澱粉が落ち着かなくなり、うまく沈殿しなくなるという。
このようなことを知って以来、
札幌円山公園内の自然林を歩く散歩道で
このオオウバユリが毎年、華やかな輪舞をみせてくれることに、
祈りにも似たような気分を持ちつつ、楽しませていただいています。
この写真は、7月3日日曜日の様子。
これからの開花の変化がまことに劇的で、感動を与えてくれます。
Posted on 7月 4th, 2016 by 三木 奎吾
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きのうの投稿【住むだけの家と町家・民家との乖離感】には、
土曜日の投稿にも関わらず、多くのみなさんから興味を持たれたようで、
たくさんのコメントをいただきました。以下、要約すると・・・
●松井郁夫さんからは、
〜確かに民家の暮らしが、しっくりするのだと思います。
古民家の人気も、潜在的にはそこにあるのかもしれないですね。
●北海道の設計者である山本亜耕さんのコメント。
〜例えば「実家は八百屋です」とか「父は大工でした」などと言うと、
詳細を聞かずとも人となりや暮らしぶりが窺えるように感じるのはなぜ?
反対に「父は生産部門で製品管理が生き甲斐でした」とか
「金融係のアナリストが天職です」などと言われても
直ちにそれらを想いうかべるのは困難です。
なんだか商家と専用住宅の関係のように思います。
●堤 太郎さんからは、
〜本当は、住まいを語るのに「家単体」で語る、という事の方が
イビツなのかも知れませんね。
その地域性、コミュニティ、インフラその他諸々含めて
住まいが、人の生活があるという事は分かりきった事なのに。
新築住宅を提供する者は、長期優良だろうがパッシブハウスだろうが、
将来に渡りその地で住まい手に利益を供し得る存在意義があるのかどうか、
という命題を突き付けられている時代ですね。
●有本博英さんからは、
〜現在存在する職の大多数が将来AIに代わってしまうなんて、
哀し過ぎる社会ですね。経済の肥大化が人間生活の無味感を
引き起こすなんて、笑い話にもならない。それならば地域社会での
経済の完結を目指した方が、なんだか人間的にしあわせなのかもなんて、
時代錯誤的な思いを持ってしまう。
たぶんみなさんの声は、
まだ不分明だけれど現代住宅が抱え込んでいる「非人間性」の
ある部分をえぐり出しつつあるのではないかと思います。
前時代までの住まいには、ひとの「生きる実質」が社会的共通認識として
大前提で明瞭に存在し見えていたのに、今は無名性の方向に流れている。
むかしは、家における「父性」がその「生き様を背中で示す」ことが
ごく当たり前の風景として家に存在できたけれど、
いまは「ゴロゴロ横たわっている」存在としてしか、あり得ていないのかも。
社会の中で格闘しながら、生きがたき世を必死に生きているのに、
お父さんは家の中で、そういう背中の片鱗も見せられなくなっている。
そういった、生き様の開示による人間教育効果という
たいへん大きな、失われた「家の機能」への気付きがなさすぎると思う。
こういう家に住む時代は、親にとっても子どもにとっても不幸ではないか。
もちろんこういう、住宅性能でもなくデザインとも言い切れないテーマは、
ひとり住宅建築だけが背負い込む問題とは言えないけれど、
さりとて、広い意味での人間居住環境の提供という社会的職責から考えて
無視し得ないことがらであるような気がしてなりません。
Posted on 7月 3rd, 2016 by 三木 奎吾
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いまどき、町家と言ってもイマイチ、現実感のないコトバだけれど、
住宅を考えるようになって、日本人の住意識を
掘り起こすように探求していると、いつも繰り返し「町家」に意識が向かいます。
現代の日本人の住まいは、戸建て住宅では、
いわゆる「住宅専用地域」に「住むだけ」のために建てられているのが一般的。
そういった無条件的な前提に立って、機能要件は考えられている。
ではこういった住まいは歴史的に普遍的かというと
どうもそういう痕跡は古民家などでは見出しづらい。
秋田の西方設計・西方さんと話すと、江戸時代の中級武士の家に
現代の戸建て住宅のありようは近似しているというように言われる。
現代人の住居、その住まい方は、江戸期におけるサラリーマンといえる
中下級武士のライフスタイルに一番近似している。
たしかに形は、城下町の武家の専用住宅に現代住宅のルーツは感じる。
しかしそれは、住居としての外形的ありようのことだけだと思わざるを得ない。
そもそも武家はごく少数派の人口であって、割合で言えば1~2%程度。
わたしたちのDNA的な住宅体験としては、圧倒的に「町家」「長屋」「民家」が
あきらかな歴史的体験だと思えるのです。
言い方を変えれば、町家暮らしの生活文化を持った庶民が
家のスタイルとしては中下級武士の住居に住まざるを得ないのが現代だ、
というのが、実態に一番近いように思われます。
わたしの人生での「住宅体験」で比較的大きな体験があります。
わたしの生家は農家だったのですが、3歳には札幌に移転し、
記憶がある家としては札幌中心部の商家的な造作の家でした。
その家を父は中古住宅として買い取りそこで食品製造業を営んだ。
周辺には、大きな地所を持つ有力者の家などもあり、
札幌の街割りのなかでは、大きくは「住居地域」だったと思います。
しかし大多数は、それぞれに生業を持っている家、町家が多かった。
生業と暮らしが一体になった、商家・町家というスタイルが一般的。
こどもの社会でもそういう空気感の友人たちが多数派。
で、小学校に入ってはじめて「住むだけ」の家に住む友人宅を訪れた。
かれの家は文化的な香りの「サラリーマン」の家だったのですね。
お母さんが常時在宅しているらしく、なんと茶菓の接遇を受けた。
さらにその家の佇まいは、まことに静寂が保たれていて
こんなにも違う生活文化を隣人が生きていることに驚愕した。
「住むためだけ」の家と暮らしに、むしろ衝撃を受けていた・・・。
昭和20年代当時の札幌でも、町家的な暮らしようが主流だったのです。
時を経て、住宅の仕事に関わるようになったのですが、
古層の日本人の住宅体験を深掘りするようになって、
やはりどう考えても町家・民家の匂いが、よりDNA的だと思わざるを得ない。
みなさんはどう思われるでしょうか?
Posted on 7月 2nd, 2016 by 三木 奎吾
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上の図は野村総研さんの6月7日の発表でのもの。
で、既存住宅を購入した世帯の数と比率に着目すると、
2005年には12万戸で、18%だったものが、
2015年には26万戸で、29%にまで上昇傾向を見せている。
この10年間で数量で2倍以上に増えている。
野村総研さんの予測では、今後も増加基調とされている。
最近の市場実感でも、札幌市内の中古マンションがよく売れていて
なかなか物件の供給が追いつかないという話を聞く。
空き家の増加に対する対策として、既存住宅流通の活性化が言われて
その方向をどう後押しするかという施策が叫ばれるけれど、
実態としては、このように増勢が強まっているとされている。
野村総研さんの発表では、
〜既存住宅流通を活性化させ、空き家を減らすためには
『移動人口』の拡大(移住・住替え・買替えなど)が重要」としており、
それを後押しする中古住宅の価値評価システムの整備や、
民間事業者による新規ビジネスの創造〜移住・住替え・買換えの
サポートビジネスなどの取り組みが求められているという。〜
<ITmedia ビジネスオンラインから要旨転載>

一方で、新設住宅の戸数推移を見ると、
なだらかな減少傾向をずっと示してきている。
<国交省のデータより>
まだ、こうした傾向への分析は十分ではなく推測だけれど、
これまでの「新築信仰」が薄れてきて、
中古住宅でも「構わない」という需要が増えてきているということか。
たぶん、一番大きな要因は一種の住宅需要での
デフレというようなことなのかも知れない。
新築と中古での心理的なバリアが、より薄れてきているのかも。
わたしも関与してきた中古住宅対策としての側面も持つ
「北海道R住宅」では、きちんとした性能向上を目に見えるかたちで
ユーザーに示すことを最優先させたけれど、
それに対して若い世代ほど敏感な反応を見せたという実感がある。
性能が明確になり、生活デザインでの現代化がされれば、
若い年代の人ほど、手が出しやすくなるのだと感じました。
価格合理性があり、性能・デザインが納得できれば、
ユーザーにとっては、新築であるかどうかは
最優先にはならないのだという市場実験でもあったのだと思います。
この「市場」での知恵と工夫が
ユーザー側からの反応として求められていることを
こうした指標データはあらわしているように思います。
Posted on 7月 1st, 2016 by 三木 奎吾
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さて来週日曜日は、参議院議員選挙ですね。
わが家には、夫婦のほかに、いまは東京で大学に通っている息子宛の
選挙管理委員会からの通知ハガキが来ていました。
かれがどういう選択をするにせよ、しないにせよ、
その意志をきちんと行使できる環境は考えたいと思いまして、
先週土曜日に夫婦で「期日前投票」してきたあとで、
札幌市西区の選挙管理委員会に不在者投票についての
質問をして参りました。
息子は住所は東京のアパートではなく、
わたしども親元のところにそのままにしているのです。
そうすると、手続き的には「不在者投票」の申込書を、
住民票のある札幌市西区まで郵送する必要があり、
折り返し、「北海道選挙区」での候補者名簿がかれに送付され、
現居住地の投票可能場所で不在者投票ができるようになるそうです。
で、その投票は「期日前」までに済ませる必要があるようです。
ちょっと面倒にはなり、往復の封書郵送料、合計164円もかかるのですが、
日本人の成人としての権利であり、義務でもあると思うので、
親として、かれの意思表示の環境は整えてあげた次第です。
ちょっと過保護かもとは思ったのですが、
やはり選挙は大切に考えるべきだと、親の考えとして示したつもり。
あとはかれ個人の日本の成人としての考えに即してほしいと思います。
先日の英国の国民投票ではありませんが、
やはり民主主義は、国民ひとりひとりが国の主権者としての
自覚を持って行動することではじめて生きたものになる。
自分たちの未来についてよく考え選択できる機会があるということは、
人類が築き挙げてきた叡智のなかでも、最重要なことだと思います。
棄権や白票というのも、自覚を持って選択するのであれば、
大人のひとつの選択ではあると思いますが、
そういうことも含めて、しっかり意思表示するべきだと思います。
Posted on 6月 30th, 2016 by 三木 奎吾
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