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【囲炉裏の配置/日本人のいい家⑤】


囲炉裏は日本人がながくDNAに刷り込んできた暖房装置。
日本ではこの囲炉裏端が「食遊空間」でもあり続けた。
「家族」という繋がりは人類が進化プロセスのごく初期に選択した
種の維持文化とされるけれど、囲炉裏はそこに根がらみしている。
たぶん夜になって暖を取らなければ休息を取れない熱環境で、
人間の生命が永らえてきた炎への記憶が住空間に存続したのが囲炉裏。
同時にそれは、生命維持のための食にも深く関係してきた。
座卓文化の日本では卓を共有しての食事よりも膳に各人の食器に
食材を盛り付けて食事するという風習が一般的だった。
この囲炉裏を囲んで、各人の膳に盛られた食事を食べるスタイル。
あるいは、囲炉裏の周囲の仕切り木材が膳の代わりにもなっていた。

写真は会津若松の城下「家老屋敷」の台所土間と
板の間の中間に切られた囲炉裏。
囲炉裏はそれぞれの住宅・建物でその配置が工夫されているけれど、
このように土間から連続して、板の間との段差を活かした配置もよく見られる。
ちょうど縁側が簡易な「応接」として家人側が板の間に座り、
客側が土間などから腰だけを板の間にかけて対話する場面とも近似する。
家人側は気遣いして「上がれ」というけれど、
客人側は遠慮しつつ「いえ、こちらで結構です」と謙譲しながら対話する、
というような日本人的な相互信頼的繊細さの感じられるコミュニケーション。
台所土間でも、これよりもさらに気さくなコミュニケーション装置として
このカタチの囲炉裏は人間交友の空間を成立させていたと思われる。
縁側が主人との対話機会とすれば、こちらは奥さんとの対話っぽい。
まことに生命維持により近い生活そのもの空気感がただよう。
夏期以外ではたぶん火が入れられていて、
客人には暖を応接道具として提供し、簡単な白湯、麦焦がしなどがふるまわれ、
興が乗ってくると、あるいは自家製漬物などが提供されたのではないか。
いかにも気兼ねのない人間関係の象徴のように使われる空間。
現代住宅では、こういう人間関係建築装置というのは見いだせない。
なるほど暖房装置は進化し、食卓空間も機能的になったけれど、
しかし対人関係コミュニケーション装置としては、とても敵わない。
玄関というのはいかにも正式な対面であり、それほどでもない日常的な
交友関係、情報伝達関係ではこのような空間が使われた。
コミュニケーションにいくつもの「レイヤー」が存在して
無意識のうちにそれら機能使い分けが社会「礼儀作法」として存在していた。
非常に繊細な「精神文化的」な暮らしようではないだろうか。
想像をたくましくすると、家人も普段はこの板の間の別の囲炉裏などで、
日常の食事は済まされていた。
なので、この土間囲炉裏と板の間の間はこれもシームレスに連続していた。
いわゆる「オモテ」とは違うやさしいコミュニケーションの確かな存在感。

江戸期までは身分制社会であり武家は格式重視の家づくりだったが、
このような「台所空間」では、堅苦しい身分制が
ある程度緩和されたものに変化していたと思える。
日本的「融通無碍」という雰囲気を感じさせてくれる囲炉裏の形態ではないか。

【京都・伊根と北海道「環境」の巨大隔絶/日本人のいい家④】



北海道をベースにして住宅を考えると、自然環境というのは、
冬期の積雪寒冷が最大のテーマであり「暴虐な自然から身を守る」ことが
亜寒帯地域居住での無条件的な希求ということになる。一方で
伝統的ニッポンでは亜熱帯から温帯での自然環境への「最適化」が追究されてきた。

日本人は歴史年代を通して、当然ながら食料生産活動を最重要経済活動として
コメ生産を基本にして生存してきた。その最適地、あるいは多少条件がよくなくても
克服して適地に「変えて行く」発展を全体として追い求めてきたのが日本史の基本。
そのコメ生産が水利の利便性をもとめて河川流域の開発に傾注していって
当然のように周辺平地の拡大へと進化発展し、やがてその集散中心地として
都市が形成されて商業が生まれ、人口集中構造が出来上がっていった。
その人口集積が「労働力」に変容して工業発展も促進されていった。
しかし、この列島は四周を豊かな海で囲まれていて、
縄文的ライフスタイルとしての「漁業採集」型という原初的生活様式も存続した。
日本社会の主流はコメ生産型だったのでこっちの方は、
いわば原初期型「散村」的漁村として列島各地に分散的に形成された。
やがて漁業も大型化して、遠洋などの出漁も進むと集住が大型化して
いろいろな機能を果たす「業業基地」的な都市も形成された。
そのように日本人の「住」を考えてきていたけれど、
写真の「海の京町家」伊根の様子を見て、強く衝撃を受けた。
海との共生ということがタイムカプセル的に存続し、お伽噺のように成立している様子。
温暖地的「環境との調和」というありようをまざまざと目にさせられた。
日本海が大きく湾入りして穏やかな様相を見せている京都府北部に位置。
日本海の「外洋」の風波からはその湾入りが保護してくれている。
歴史年代を通して、大都市・京都と適度な距離(125km)があって遠からず近からず。
経済的交流と独自地域性が両立し得たものなのだろうか。
まるで縄文の世がそのまま一定の都市化も果たしながら
奇跡的に現代まで生き延びてきたようなありようを見せてくれている。

伊根の「町家」群は海に向かって各戸が船の「駐車場」を持って軒を接している。
開口はおおむね海に向かって開かれていて、自家用船ですぐに海のくらしができる。
海生動植物採集という生存条件に忠実に、それが小都市にまで発展進化している。
「いい家」という概念が、非常に直接的に表現されていると。
海という環境に対して、自然に適応して暮らしがあり得た奇跡。
たぶん、北海道的な自然とはまるで違う「環境」意識があるのだろうなと思えた。
太古から続く「自立循環」型のライフスタイルとも言えるのだろうか。
天橋立から車で30分だけれど、歴史年代を通じて一番近い人口集積地・舞鶴などへ
船での交通で行き来してきたに違いない。孤立集落的な感覚はなかっただろう。
こんな奇跡的におだやかな「環境」というものがあり得ることが
北海道人には打ちのめされるほどの衝撃だった。

【朝の気温は8度 彩りが深まっていく北の秋】


写真は朝の散歩路、札幌南西部の山岳地帯から流れ出る小川。
円山のふもとを縁取るように流れ下っている。
左側は円山の自然保護林で、右側は北海道神宮後背の杉林。
札幌の「扇状地形」はこのようないくつもの河川が複合して形成されている。
札幌の南・西側はこのような山岳地帯で、北に向かって扇状地形が広がっている。
で、北の方に流れている石狩川河口に向かって低湿地が広がっていた。
北海道でも最大の平野部が形成されているので、
この地を北海道の首府としたのは先人の知恵としてごく自然だったのでしょう。
南西部側の地盤は、山岳の岩盤の上にあり、
低湿地側に対しては標高も確保されているという立地条件。

朝方の気温がどんどん下がって来ていて、
いかにも「つるべ落ち」的な感じがしております。
散歩時の服装がどんどん重武装化してきている。
いまどきはダウンの内側の薄手の羽毛入り下地をまとってちょうど良い感じ。
本格的ダウンジャケットの手前くらいがピッタリの季節感。
なんですが、ランニングしている人はいまだに短パン仕様という人も見かける。
当方はズボン下にはやや厚手の下着も着込んでいるので、
こういう短パンを見かけると震え上がっております(笑)。

散歩道にはリスたちのうごめきが多数目撃される。
先日書いたように、落果がたくさん落ちているので、
それを越冬用食料として保存確保する作業にかれらは余念がない。
でもかれらは保存した土中の場所を全ては憶えていないので、
結果としては、植生の種延命継続に大いに役立っているのでしょうか。
あまりにも数多くうごめいていて、さらにかれらに餌やりする人もいるので
ほとんど人間を怖れることがなくその距離が非常に近い。
ヘタをすれば気づかずに蹴飛ばしてしまいそうなのであります(笑)。
徐々に落葉も始まっていて、山の色づきも目立ってきている。
ことしは中国韓国の観光客が激減しているでしょうから、
北の秋も本来の静かさで深まってきていると思います。

【縁側・囲炉裏は「幸福感」装置/日本人のいい家③】


写真は播州・福崎の古民家写真から縁側空間。
北海道の家からは「縁側」は150年前・最初期からほぼ消え去っている。
明治天皇の「休息所」として建てられた「清華亭」〜明治14年でも
縁側外周にはガラス建具が嵌め込まれ、いわば「大型窓」化している。
いわんや一般住宅に於いては冬は雪の壁を眺めることになるし、
夏場といえども、吹き渡る「涼風」を楽しめる期間は1ヶ月程度。
であればと北海道人は自然とのふれあいについては、
より直接的なジンギスカンなどで純粋な野外パーティ志向になり、
家はハコとしての密封性を高める方向に舵を切っていった。
いわば暮らし方の方で「メリハリ」をつけていったと言えるでしょう。
日本伝統住宅と北海道の家が枝分かれした最初期のパーツでしょう。
その後、北海道住宅は家の中の「環境性能」志向を高めた。
そこで検討されたのがいわば「いごこちの科学」。
温度や湿度コントロールが主に寒冷期を対象に探究され、いごこちが論議された。
で、そういういごこち研究の成果を通過してきて、今度は日本人として
もう一度、この縁側空間というもののオモシロさに帰り着く部分がある。
北海道での体験を経た上での伝統住空間のいごこちや体感的心地よさ再発見。

本州以南のニッポンでは、冬場でも雪はあんまり降らないので、
積雪を心配することはない。大体は縁側は南面して開放・造作される。
庭園主体の建築で被写体への採光鑑賞目的から一部に北面するものもある。
太陽光を受けた庭の輝きを視覚的に愉しむ意味ですね。
しかし圧倒的多数は南面する縁側空間というものに日本人は慣れてきた。
軒が張り出しているケースが多いので、日射制御コントロールが
さまざまに「デザイン」されるけれど、縁側本体では
「ひなたぼっこ」という楽しみが演出装置されることになる。
たぶん秋から冬、そして春にかけて、8ヶ月以上はこの体験装置空間になる。
この縁側でまどろむ、という民族的体感が現代住宅から消えつつある。
これってよく考えてみると、住宅の「温熱快楽体験」として
家庭風呂にも匹敵する建築装置ということができるのではないか。
もちろんその季節毎で太陽輻射熱によって得られる温熱体感は違うけれど、
縁側の自然素材の板の間から薫ってくるニオイまで含めて、
独特の民族的癒やしの空間であり「温熱装置」の側面が強い。
炎などはないけれど、一種の「暖房的建築装置」という理解もあり得る。
天気の良い日に縁側で過ごすというシアワセ・贅沢ぶりは、
現代的な住宅ではいまや見果てぬ夢。その喪失への残念感が募る。


さらに、直火輻射の囲炉裏のある空間は、古民家での最大の見せ場。
写真は川崎・日本民家園のなかの古民家で囲炉裏に火を入れたところに
見学で訪れていた小学生軍団が押し寄せている図(笑)。
手前にはかまどとせいろ蒸しも置かれていて、
なんとも賑やかで、そして煙い囲炉裏火だけれど、
子どもたちの明るい笑顔が底抜けで、釣り込まれるような「あたたかさ」。
温熱としては炎からの直接的な輻射熱だけれど、
心理に染みわたってくるような独特の幸福感で満たされる。
たしかに温熱で言えば、全体に一様なものではなく局所そのものだけれど、
北海道人感覚からするとかえって、これはこれ、という気分が感じられる。

縁側での太陽熱による輻射体感と、囲炉裏の直火による輻射体感。
かなり魅力的で自然な温熱体験とあこがれを持って見てしまう。
こういった古民家の「温熱装置」、単なるノスタルジー以上に
なにか訴えかけてくるものがあるように感じられます。

【「仏壇」ミッシングリンク論〜日本人のいい家②】


写真は北海道開拓期の「森林伐採」風景。
とにかく鬱蒼たる森林を伐採して農地を開いて行くことが開拓の実質。
森林から変貌の農地は、自然落葉で天然施肥が永年なされていたので、
驚くほどに地味が豊かでもあったという伝聞を聞く。
しかし森林伐採は気の遠くなるような作業であり、
空知地方のように、囚人労働の集中投下で筋道がつけられ
本州で農家技術蓄積のある美濃などの先進農業地域出身者に
優先的に農地が割り当てられた、というような情報もある。
北海道が食糧基地として日本をリードしていることの根源と言われる。
で、北海道に入植応募した人々は故郷では農地を獲得できない
農家の次男三男層が中心だったとされる。
「北海道には仏壇背負って来た人は少ない」という何気ないひと言を
ある住宅研究者から聞いたとき、大きな気付きがありました。
血統的「家意識」からは「仏壇を背負っていない」人々が北海道の多数派。
北海道に移民として応募する最大の目的は、自作農になれる、
自分が土地所有者になれる、というそれまでの日本社会が提供できなかった、
大きな人生飛躍の可能性への希求があったのだといわれている。

わたしの家系は明治末、大正初年に北海道に移民したけれど、
実は広島県から「仏壇背負って」来た一家です。
小樽の港に着岸上陸し空知地方に入植していた地縁者を頼って来た。
ただ北海道で生計が立つかどうか見極めてからということで
「本家」としての伝承の品々は広島県地方の縁戚に「預けて」いたという。
明治期までの日本社会では、家意識、本家意識は強烈な倫理規範であり
メドが立つまで「本家」としての伝来のものは遺しておいたのだと。
(このときの混乱で、いくつもの品々が散逸してしまったとも聞く。)
この「本家意識」というものは、日本人の「いい家意識」に深く関係している。
極言すればそれまでの社会では「家」はハコではなく血統だった・・・。
先祖代々の連綿とした「継続性」が、家の「格式」を表現するという価値感。
わたしはそのような家系の伝承を聞いていたので、ほかの北海道移民も
同様なのではないかという無意識の認識を持っていた。
で、北海道でたくさんの友人・知人たちとの間でこういう話題は
ほとんどしたことがないことに、改めて気付かされる。
「あなたの家はどこから?」という問いに答が返ってこないことが多い。
言いたくない、関心がないを含め、いわゆる伝統的「家意識」の喪失。
それは、北海道移民がほとんど「仏壇背負って来ていない」ことに由来するのだ。

このことが、北海道の住宅の進化にとってかなり大きなファクターだった可能性。
本州出身地の「本家」とははるかに離れて
この地で「フロンティア」として初代を始め(ざるをえなかっ)た意識が濃厚。
たしかに北海道には「代々この地に暮らしている」人間はごく少数。
「代々続く」家のありようから自由であり、多くが新規スタートだった。
日常生活に於いても伝統的ライフスタイルへの執着があまり存在せず、
地域の気候に対しての「環境適合」ファクター価値感がはるかに優先した。
寒いんだからとにかくあたたかい家を、という希求が最優先。
様式的・格式的価値感よりも、生活リアリズム・合理主義がはるかに優先した。
高断熱高気密という日本住宅の「革命」も渇望的に求められた由縁。
この日本伝統住宅と北海道住宅の進化の間の「ミッシングリンク」が、実は
「仏壇背負ってこなかった」ことに大いに関係があるのではないかと思われる。
北海道の住文化解析としては仮説的ですが、
深く納得できる部分があるのではないかと思い続けています。

【宮城水害被災地から2年ぶり「新米」到着】

昨日日中に宅配便到着。
「お」と思っていたら、案の上「新米です」という配達のお兄さんの元気な声。
1回に30kgを頼んでいるので、「重たいですから・・・、どこに運びます?」
という親切な申し出もあったのでストックヤードにお願い。
5k入りで6袋の「宮城県産」の「ひとめぼれ」令和2年度新米であります。

この農家は以前断熱材メーカー勤務の方で仕事関係での深い知り合い。
実家が米作農家で、定年退職後はこちらの農家を営んでいる。
そんなことからわが家の「契約農家」として継続的にお送りいただいていた。
ところが、昨年秋、宮城県で発生の水害で新米出荷直前のお米が被災。
やむなくわが家は1年間、ジプシー食生活を送っておりました(泣)。
やはり知人が作ってくれているという安心感は大きく、
また、味も滋味にあふれていてすっかりカラダに馴染んでいた。
昨年の被災直後には元気づけたいと、仕事で出張の合間に被災地を訪問し、
その被害の状況も見させていただきました。
土手の高い河川流域に面していて、土手の決壊という水害の様子を
まざまざと目のあたりにさせていただいた。
床下に流入した土砂流入の痕跡と、それを乾燥させるプロセスも見学。
コメは作るのに1年間かかる。
首を長くして待っていたところ、先々週にLINEでの「新米刈り取り」の知らせ。
「おはよう御座いますー
雨上がりましたら稲刈りですー
来月から新米ですー宜しくお願いしますー」といううれしい知らせです。
さっそく、「おお、ついに、ですね。雌伏の年月ご苦労様でした。
また30kgづつお送りください。楽しみに待っています。」と返信。

ということで新米の到着であります。
この1年の農家としての苦労などを思いながら、
まずはご苦労に感謝して神棚に上げさせていただいた上で、
ありがたく食させていただこうと、お腹を鳴らしております(笑)。

【日本人の「いい家」意識①/血統拝跪と環境調和】


昨日、ある住宅研究者からヒアリングを受けました。
わたしどもは住宅雑誌を32年以上発行しているのでその経験からお答え。
で、いくつかのポイントが浮かんできましたが、
追ってその研究の進展で当社の誌面にも反映されることが考えられます。
そのヒアリングを受けて逆にいろいろと再発見的な気付きもあった。
そのなかで大きかったのが、日本人にとっての「いい家」規範の変化ぶり。
このテーマでちょっと考えをまとめておきたい、その第1回。

考えてみれば日本人が「注文住宅」ということを経験し始めたのは、
たぶん、戦後の「住宅金融公庫」システム成立以降のように思う。
それ以前の住宅、古民家・歴史的建築物を見学取材する機会が多いけれど、
おしなべて「格式的・様式的」であって、人間表現個性表現的な部分は
その様式の「扱い方・利用の仕方」の範囲ではないかと思う。
このことがよくわかるのが、沖縄の中城に残る「中村家住宅」。
この家は沖縄での戦国武将・護佐丸配下の建築・築城家である中村氏が
中城城を築いた当時、その邸宅として建築されたものと伝承されている。
わたしの大好きな500年近い由緒のある古建築住宅。以下中村家住宅HPより。

〜今から約500年前中村家の先祖賀氏(がうじ)は、琉球きっての築城家として
名を成した護佐丸(中城城主)が読谷から居城を中城に移した時、
共にこの地にその「師匠」として移ってきたと伝えられています。
現存建物は18世紀中頃に建築という伝承。
建築構造は、鎌倉・室町時代の日本建築の流れを伝えていますが、
各部に特殊な手法が加えられて独特な住居建築。この遺構は、
士族屋敷の形式に農民の形式である高倉、納屋、畜舎等が付随して
沖縄の住居建築の特色をすべて備える。屋敷は、南向きの緩い傾斜地を
切りひらいて建てられて、東、南、西を琉球石灰岩の石垣で囲い、
その内側に防風の役目を果たす福木を植え台風に備えています。〜
という建物。その主たる建築計画の骨格は中村賀氏の設計と思われる。
沖縄での「愛着ぶり」を見ると住空間の一種の規範だったように思うが、
建築家としての「個性表現」の部分は少なく、環境調和性が際だつ。
環境調和で合理的な建築を作るのがホンモノの専門者という先人の教えかと。

で、戦前までの日本人の住意識では様式・格式へのリスペクトの方が強い。
明治期以降の高級住宅でも、和と洋の違いこそあれ、
どちらも様式への自然な帰依が根強く感じられる。
「いい家」とは、「格式の高い家」「立派な門構え、床の間、庭」という価値感。
たしかに縁側から流れてくる薫風を愛でるとか、
囲炉裏での団欒や、そのぬくもりなどの「居住性」も当然重視されたけれど、
それもまた伝統的スタイルへの無条件の拝跪の念があったと思う。
ただ、茶室という空間には茶人たちの芸術的嗜好性表現はあった。
しかしそれはあくまでも「あそび」の空間であり、
生活空間としては、やはり伝統的規範こそがデザインコードだった。
それは長い日本人の生活史を背景とした「一所懸命」としての「家」意識。
私有的な土地に執着し、家意識のマユに個人が包摂されていた。
タテの血脈伝承装置・血統証明的な「家」意識が最優先されていたのだ。
そういう「マユ」に包まれて生きる価値感が日本人には優勢だった。
しかし、先述のように囲炉裏の切り方・配置の仕方などで、
独特の「感受性表現」はあったし、ハレの間である
床の間付きの和室でもいろいろなその家らしさ表現はあった。
デザインコードに従いながらバリエーションを愉しんでいたのだと思う。
(明日以降も、このテーマ続けます。)

【事務運営費が過半支出:日本学術会議の会計】


時事ネタ、一昨日の日本学術会議テーマの続報であります。
昨日の官房長官発表で日本学術会議の過年度申告会計内容が明らかになった。
以下、産経WEBよりおおまかな各項目毎の経費分類。総額は10億5千万とのこと。
▽人件費などを含む政府・社会などに対する提言=2億5000万円
▽各国アカデミーとの国際的な活動=2億円
▽科学の役割についての普及・啓発=1000万円
▽科学者間のネットワーク構築=1000万円
▽事務局人件費・事務費など=5億5000万円

最後の使途には目を覆いたくなってしまった・・・。
ご存知「日本学術会議」問題。世論としてはほぼ決着がついてしまった感じがする。
この学術会議の予算使途の発表で、ほぼトドメだろう。
国家予算を注ぎ込む組織にしてその活動の本来目的業務よりも
「事務局人件費・事務費」というヤツが主体を占めているというのは完全にアウト。
いかにも国家予算に対する「既得権益」組織そのものであることは明白。
どう弁明しても、本来目的と無縁の自己組織運営費が過半を占めるなど
常識的にありえない。たとえはあまりよくなくてまことに恐縮だけれど
タコが自分の足を食べているという典型的症状。公費のムダの典型そのもの。
もし、「いやそうではない」と言うのなら公的な反論メッセージが発出されるべき。
しかしことが明らかになってから当事者組織からの意見発出はいまだ、ない。
ここは自らに誇りを持っているならば、政府支出の枠外に出て独立の法人に改組し
経済的に政府組織から自立した組織になるべきではないのだろうか。
海外の同様組織はみな「独立性の担保」として政府支出は受けていないとの情報。
ただ普通の組織であれば、自己運営費が過半を占めるというのでは
会計監査以前の「モラルハザード」として、当然出資者・資金提供先から
指弾を受けるのは当然だろうと思われる。
この問題で、朝日新聞などは相変わらず「学問の自由を守れ」的な主張を叫んでいる。
追随するメディアと一部野党がこれからも声を上げていくのだろうけれど、
どうも「またこういうヤツか」という既視感が浮かび上がってくる。
大多数の国民世論とマスメディアの「乖離」の構図。
朝日新聞世論調査での「前内閣実績評価・71%」が記憶に新しい。
薄汚れた「既得権益」に斜め上から目線的な免罪符を与えようとする大手マスコミ。

いつまでこういう建設的でないことがらで国会とか政治が壟断され続けるのか。
いま日本の最大問題は、少子高齢化社会での経済縮小、社会構造転換。
これに社会として備えねばならず、どうすべきかは
国家百年の緊急的事態だと思う。こういうムダに時間を費やしてはいられない。

〜写真は日本史最大の「既得権益」放棄、「国譲り」神話の出雲大社神楽殿〜

【政府組織からの「アンケート」の難行苦行】

昨日デスク上に帝国データバンクからの「アンケート」を発見。
どうやら金曜日に到着していた封書が、チェック後わたし宛に回されてきたもの。
休日ですが、そこは中小零細企業、総務担当カミさんからの送付案件。
中身は、帝国データバンクが「中小企業庁」からの依頼を受けて送られてきたもの。
わたしは、こういうのには普通に納税者国民義務として従順になるタイプ。
国が調査したいと思っていることには協力したいと思っています。
しかしその場合、特に「謝礼」「特典」などはなく民間人に質問をし、
回答を依頼するのですから、こちらへの配慮はしかるべきだろうと思います。
で、通常であればこの手の「アンケート依頼」は内容を絞り込んで
質問項目はA4換算で数ページ程度、たぶん8ページ程度が限界だと思う。
きっとその程度だろう、というこれまでのこの手のものへの常識理解があって
そのうえ日曜日だったこともあって、始めてみた。

で、このようなアンケートでは普通、書き込む手間も考えて、
WEBで回答する方がはるかに面倒くさくない。
ということで、その説明書きが写真の右側画面のペーパー。
「インターネットによるご回答」という説明書きですが、いきなり
OSがパソコンではWindowsオンリーで、ブラウザも指定されている。
こういったアンケート依頼では依頼先の利便性、答えやすさ優先で配慮がある、
というわたしの常識的予測はまず木っ端みじんに粉砕された。
わたしはMacなのですが一応、当該ページにログインしてみようとチャレンジ。
そうしたら、指定されたユーザーネーム、パスワード入力欄で
「この情報は他者に抜き取られる怖れがあります」という内容のアラート表示。
「マジか、ホントにWinでなければ答えられないのか」
と絶望させられた。この段階で諦めるという選択もあり得たけれど、
他の0S環境として「iOS」表示があったので、
iPhoneでのアクセスを試みた。こちらは暗号化対策がされているようで、
ログインが正常にできた。
ただし、みなさんも同様だと思いますがスマホでは「書き込み」が面倒。
単純なイエス・ノーだけの選択ボタン形式のみが望ましい。
ところが、こちらのアンケートでは最初から「会社名・住所」「部署」「役職」など、
いきなり多数の「ワープロ入力」を迫ってくる。
選択ボタン形式でもなく、直接入力しなければならなかった。ふ〜。
なんとかその段階は面倒ながらも入力してクリアしたが、
そこから、A4−24ページ全94項目の「質問」が羅列されていた!(あとで計算)。
しかもその質問内容ひとつひとつが、詳細な「説明書き」を読まねば回答しにくい。
それでも10問程度までは「まぁまぁ」と自分をなだめつつ取り組んでみたが、
そのうち、質問内容自体に強い疑問がある項目などに立ち至ってしまった。
さまざまな解釈ができる設問項目。
「これ、いろいろに受け取れる質問だなぁ・・・」と危惧しつつ答えたら、
案の上次の設問では、その「いろいろに受け取れる」ウチのごく特定のことに
基づいて延々と以下設問が設定されていた・・・。
どうも日本語修辞的にも「練られていない」設問設定。
で、この質問10/94に費やされた時間は軽く1時間は超過していた。
それを「いろいろ考えながら、スマホ画面へのタッチ操作」で答える苦行。
1時間以上経過後、さすがに忍耐力は限界を突破して作業を中止。
まったく質問構成その他で、回答者への配慮がほぼ無視されている。
きょうは本来ストレスを癒す日曜日なのだ(笑)。
で、前述のように「紙の質問書」を確認して、質問総数を確認した次第。
途中いくつも、考えて自由筆記させる設問までも挿入されていることに驚愕。
これはどう考えても、1日以上仕事であることが判明した。・・・
であるのに、これに答えての「対価」メリットは回答者には何もない。奉仕。
ただただ、中小企業庁と帝国データバンクにメリットがあるに過ぎない。

最近、国の事業でこのような「大手企業」への事業丸ごと発注が増えている。
GoToキャンペーンではリクルート社の旅行サービスなどが受注している。
たしかに新型コロナ禍で国のスタッフの作業量もハンパない事も理解出来る。
しかしこの政府機構の「IT」対応の非常識ぶりにはため息。
デジタル対応、中央省庁は根本的に考え直すべきだと痛感させられる。
ひょっとしてこのアンケートは官僚機構による菅政権への一種の抵抗なのかも・・・。
善良に国のことを考え、協力したい国民をむしろ反感を持つ方向に追いやっている。
政府機構は民のことをよく考えていただきたい。

【「学術会議」既得権益擁護は正義なのか?】


日曜休日に付き時事ネタです。
行政機構の総理官邸が日本学術会議の提出した新会員「任命」名簿の
一部を是認しなかったことを、共産党の赤旗が10月1日に取り上げ、
翌2日以降、朝日新聞や追随するメディアが「後追い」報道している。
いわく「学問の自由への侵害だ」という。
法に書かれている任命権を行使したことで、なぜそういう論理になるのか不明。
基本的な研究費用助成中止ではなく、既得権益権追加付与の中止に過ぎない。
逆に既成メディアはこれまで各種「任命責任」について常に声高だった。
そもそも日本学術会議活動では「軍事研究をしない」主張が目に付いたが、
一方で独裁国家中国の学術団体とは「協力協定」を結んでいるとの情報もある。
日本学術会議が具体的にどういう存在であるかは今後の調査報道に待ちたい。
しかし日本は「国民主権」であり民主主義にアンタッチャブルな存在は許されない。
天皇制度すらも国民の総意に基づくのがこの国の民主主義。
民主的手続きを経た行政の「任命権」行使が「許されない」とする論拠を示すべきだ。
許されなければ国民はその正統な権利・国民主権を行使しようがない。
正常に選挙された民意の発露たる政治権力は民主主義的な
いわば「シビリアンコントロール」の最高の発露であって、
それを妨げるのは民意への抵抗・反逆のススメだといわれても仕方ない。

最近の政治論議の中でいつも感じるのだけれど、
大手マスコミは「既得権益擁護」のホンネをさらけ出しているのではないか。
目に余ったのが文科省次官で天下りの司令塔として糾弾された人物の
教育行政での既得権益擁護の姿。それに対しマスコミは天下りの件は忘れ
ひたすら政権への批判のための批判で「正義の味方」にまで仕立てていた。
既成マスコミはテレビ放送電波使用での巨大な「既得権益」で守られている。
それが中央省庁官僚機構などによってながく保守されてきた。
国民資産の電波が不当な安値で継続使用されているのは既得権益そのもの。
新聞社の全国一等地社屋ビルと税の優遇処置なども目に余る既得権益。

わたしの青年期・昭和中期には権力への異議申し立ては、
世を覆う「既得権益」の重層構造に若い年代が風穴を開けると同義だった。
国民は国政選挙を通して政権を成立させるのであり、
それで主権を行使するという「建て付け」なのがニッポン民主主義。
しかしいま、政治権力へのクレーマー化したマスコミと一部野党勢力は
魑魅魍魎たる「既得権益」側のあからさまな擁護に走ってしまっている。
現代では政治はまったく保革逆転し主に「経済活性化」最善策として、
保守側が「既得権益の打破、競争の自由政策」に着手しているのに対し
残念なクレーマーは反対のための反対で既得権益擁護に回っている。
今回事態は、現政権の反「既得権益」政策の発露・攻勢とも判断できる。
そのターゲットとして日本学術会議が俎上に上げられたのかも知れない。
こういう政治社会逆転が常態化して以降、若年層の反マスコミ・反野党化が進んでいる。
いまや若者層の政党支持は自民党1択であり、立憲民主支持率は3%だという。
これは別に「若者の保守化」ではなく
むしろクレーマー派の「既得権益擁護・保守化」なのではないか。
若者はその直感力で正しく本質を受け止めているのではと思われてならない。