

きのう紹介した「最小限オフグリッド」の住宅続篇です。
櫻井百子さんは、北海道の女性建築家としてたいへん頑張っています。
たいへんやさしそうな印象とは裏腹に、表現方法はなかなかにダイナミック。
北海道の建築家として、まっとうな寒地住宅技術に取り組んでいる。
今回の住宅でも、素器としての環境的性能で、
だれもがいま、考えるべきテーマとしての課題に回答を探っている。
断熱をより強化していって、次のテーマになってくる日射コントロールに対して
長い軒の出や、2階バルコニーなどの手法で取り組んでいます。
軒の出については、基本木造構造の上に、ちょうど
壁への付加断熱と同様の考えで2×6材で面的に被覆させる考えだとか。
端部には写真のような構造骨組みが現れています。
積雪荷重と軒の長さとの見合いで、正直に骨組みが決まってくる。
一方で玄関から階段室の空間では全開放型の日射取得を行っている。
断熱が強化されていって、パッシブに日射熱を確保していって
一方で、その過剰なまでの日射熱のコントロールも果たすべきという、
きわめてシンプルな北方住宅の解が見えてくる気がします。
そしてきのう紹介したように、設備的な要件、
万が一の災害時での延命装置についても、
過剰ではなく、いなすような考え方で対応しようとしている。

2階のバルコニーの床の幅はやや長め。
確認していませんが、90cmは大きく超えて135cmくらいはある感じ。
これくらいの広さがあると、アウトドアリビングの感覚にも近づく。
正面には最近注目されてきている新川サクラ並木が眺望できる。
そういった眺望を楽しめる装置ではありますが、
主たる用途は夏も冬も問わないオーバーヒート防止の日射遮蔽でしょう。
北海道では通常の屋根形状では屋根端部の軒先に氷柱がつき、
それが「すがもれ」被害の拡大とともに巨大化していった経験から、
いっそ軒の出をやめるという、まことに防御的な考えだったのが無落雪工法。
牧歌的に隣家との距離感が確保されていた時代には、軒先から落雪しても
隣家に被害を及ぼすと言うことは想定しなくても良かったけれど、
札幌などの人口密集地ではそもそもの土地面積もどんどん狭小化していった。
その結果、落雪屋根から無落雪屋根が考案された経緯がある。
なので、軒の出を出すということへの地域としてのためらいもあった。
しかし最近は、このようにまっとうに無落雪屋根で軒を出す家も増えてきた。
そういう意味では一回転してもう一回、
日本的な住宅デザインの要素が復権してきている。
外壁仕上げについても、風致地区という周辺環境も踏まえて、
ほぼ全面的に木質外装仕上げとしている。
住宅地ですが、防火の基準もムリせずにクリアさせている。
この家の日射取得のカーテンウォール部分と、バルコニー・軒の出の
配置バランスを見ていて、モンドリアンの絵のようでもありますが、
こういった機能要件とデザイン仕上げの応答が
今後の北海道住宅の基本的な問題意識として共有されていく、
そんな思いを持った次第です。
Posted on 5月 23rd, 2017 by 三木 奎吾
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みなさん、オフグリッドってご存知ですか?
系統の電気とは関係なく、電気の自給自足をめざす試みですね。
電気を自分の宅内で発電するのには太陽光発電が考えられるので、
こっちの方は、比較的に一般化してきている。
ただし自然の太陽光に依存するエネルギー創出なので、
天候条件などでどうしても不安定な供給状況になる。
そうするとそのエネルギーを「蓄えておく」装置、蓄電池が必要になる。
同時に太陽光発電からの電力を家庭内で利用する転換装置も必要になる。
これらの設備をフルユニットを導入すれば、
系統の電力に依存することなく、いわば電気の独立自営が可能になる。
考え方はこのような単純なことですが、
大きな壁はそれら設備機器のためのコスト上昇と、性能問題。
解決されていくためには、現状では蓄電池の機能向上・流通問題がある。
現実にそういった志向性を持った動きは札幌でもありますが、
アメリカ製の蓄電池製品の輸入が遅れに遅れたりしている。
そもそもリチウムイオン電池の寿命問題もある。
蓄電のトータル回数で上限がまだまだ発展余地が大きいとされている。
・・・っていうことで、なかなか進展を見せないのですが、
きのう札幌市内で見学会が行われていた建築家・櫻井百子さん関与住宅で
「災害時電力自給」を実現させた、いわば「最小限オフグリッド」住宅を見学。
これは外壁側面に取り付けた0.2kwの太陽光発電で発電させた電気を
床下のコンバーター・蓄電池に貯め、家庭用に転換させて
災害時にもっとも不可欠な暖房装置、この家の場合にはペレットストーブへの
供給電力として利用させるというもの。
もちろん、通常時にも家庭用の電力として照明などには利用する。
200Wということなので、どんどん使える、あるいは家庭中の電力を賄うということは
パワー的にできない相談なのですが、
このように災害時の安全確保という考え方は、現実的で
受け入れやすいし、コストもごく安価に済みそうなのであります。
東日本大震災時にも、ほかの熱源による暖房機器はあっても、
起動には電気が不可欠であって、結局利用開始は電力の供給回復頼みだった。
少なくとも生命維持のためには、災害時に暖房用エネルギー確保が必要。
そういう意味で最小限オフグリッドという、こうした提案は有意義。
もちろん断熱がしっかりしていて、発生させる熱の保持が容易であることとの
合わせ技で実現することではありますが、
北海道での現在の住宅性能レベルであれば、容易に実現させられるでしょう。
ありそうでなかった、面白く有意義な住宅提案だと思いました。
Posted on 5月 22nd, 2017 by 三木 奎吾
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なかなか東京への出張機会がなく、観に行けないかなと思っていた
クロマニョン人の遺した世界遺産「ラスコー壁画」展、
なんと、東京から移動して仙台の「東北歴史博物館」で行われている情報を得た。
それがちょうど東北フォーラムの年度総会開催時期と重なっていた。
ということで、楽しみにしていたのであります。
この展覧会については、期待感を拙ブログでも一度書きましたが、
その見学感想についても書きたいと思った次第です。
まず、クロマニョン人についての研究の最新成果ではかれらは
現生人類ホモサピエンスの仲間とされているようです。
「違う人類が見ていた芸術世界」というように前回書いたのですが、
その点は大きく認識、理解を改めさせられました。
現代のわれわれからすると、遠い先祖の一部にあたるとされている。
このラスコーもアルタミラも、かれらクロマニョン人が遺した人類の芸術遺産。
顔料は日本画と同様に鉱物などの粉末。
高所への描画についてはハシゴなども開発されていたに相違ないとされていた。
さらに洞窟は、その入り口近くが居住用に利用されただけで、
地中奥深くまでの壁画描画という行為は、
相当に目的的な営為だと言うことも展示から教えられました。
そして作業用のパレットや、描画手法でも繊細な方法がとられていた。
そういった道具の開発についても、種族的な才能を感じさせられる。
同時並行的に生きていたネアンデルタール人と比較して、
食料としての動物獲得についての方法も、
より合理的で知的な先端的技術を持ってあたっている様子が示されていた。
しかしそれにしても、
洞窟の奥深くまで、光源となる動物油分を利用したランプを携行して
多くの動物相を描画し続けていた、その起動力はなんだったのか?
美的センスに優れていたかれらは、ネックレスなどの装身具も
その遺体痕跡などから発見されたりしている。
非常に高度の狩猟技術、食文化を持ち、
こうした洞窟壁画のような芸術を理解し、愛好していたという、
まことに豊かな人生を謳歌していた様子に、はげしく揺さぶられます。
どうも相当に高いレベルで、かれらクロマニョン人は「人生を楽しんでいた」。
かれらは4万数千年から1万年前くらいまで生きていた。
アフリカ起源のホモサピエンスの一種族で、
ヨーロッパの西部方面に至ってこのラスコーなどの周辺を生存地域としていた。
一方、わたしたちユーラシアの東岸から日本列島方面に進出してきた種族は
「航海」というあらたな領域でのフロンティアになっていったとされた。
行って帰ってくるのに、船でしか行けない2点間移動記録が発見されてきている。
ちょうど、人類史という領域に知的興奮を感じているなかで、
動物としてかなりおかしな存在である現在のわれわれが持っているものが、
結局、多くのこうした先人たちのたゆまぬ営為に起源している。
ほかの動物、もっとも近縁である霊長類との明確な違いである
われわれがいま当然としている知的能力や当たり前の技術精神について
その動機と方法開発を現生人類は日々生み出し続けてきたのだという
ごく当然で科学的な理解に至ります。
クロマニョンの人々の観念のなかの美的世界に圧倒されていました。
Posted on 5月 21st, 2017 by 三木 奎吾
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きのうは仙台に移動して、東北フォーラムの年次総会に出席。
慶応大学の伊香賀先生の最新・健康住宅の知見を受講していました。
その講演の最後で若干触れられていましたが、
国交省の健康=断熱改修支援補助事業、あまりはかばかしくない状況とのこと。
このままでは、多くの予算が未消化のままに終わってしまう可能性があるとか。
このキャンペーン、ほとんどタッチしていませんでしたが、
どうもユーザーへの訴求方法がずれているように思われます。
で、その後、参加者のみなさんと「意見交換会」。
各自の発表会を経て、懇親会でも活発な意見交換。
で、ある地域ビルダーさんから仙台地区のユーザー動向を聞きました。
北海道では大手ハウスメーカーに住宅を依頼する割合は
一般的に約3割で、7割は地元工務店に依頼する。
高級住宅の分野でも同様で、地域の作り手がユーザー選択に叶うように
企業の個性をアピールするマーケットの状況がある。
一方で宮城県地域では、この大手ハウスメーカー比率が
ぐんと大きくなっているといわれています。
あるユーザーと打合せを重ねてあとは契約を、という段階になって
団塊〜中高年の奥さんから、急に手をついて頭を下げられながら言われる。
「お宅の会社はいい会社だと言うことはよくわかるのだけれど、
知人たちにまったく知られていない会社には頼めない」
「せっかく家を建てるのに、変な会社だと自慢もできないワ」
「最低限、テレビ宣伝でもしているような会社でないと・・・」
と、面と向かって断られるケースを話されていた。
どうも現実の住宅ではなく、会社の「格付け」のような選択眼で
住宅の依頼先を選ぶという、まことに残念な状況があるのだという。
「宅は◎◎ホームでございますの、ホホホ」というような
「ミエ」最優先の住宅会社選びが現実にまかり通っているのだそうです。
住宅会社名ヒエラルキーが存在し、「選民」意識までがそこに見られる。
若い年代にはこういった選択眼はほぼないのだそうで、
団塊〜中高年みたいな年代層にそういった傾向が強いとされていた。
市場競争者としての、敗北感の行き場の無さに深く同情の念を禁じ得ません。
こういった傾向って、東京以外の関東広域でも見られるようで、
東京に通勤で通っている親世代には深くハウスメーカー信仰が強いけれど、
そのジュニアたちには、それぞれの地域への地元感が育っていて
かれらは地域の作り手のなかの「個性派」ビルダーへの選別眼が育っている。
団塊〜中高年世代にだけ、ハウスメーカー選民意識があるようです。
よくいわれる「支店経済」が支配的な宮城県では、こういった市場構造がある。
北海道札幌も同様に支店経済型ではあるのだけれど、
少しはフロンティア的な自立型の精神構造があるものかも知れません。
こういうユーザー心理。なかなか手強いものがあると思いました・・・。
Posted on 5月 20th, 2017 by 三木 奎吾
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かねてから当誌Replanでは新住協・鎌田紀彦先生に「Q1.0住宅デザイン論」という
連載記事の執筆を継続してもらっています。
ユーザー目線を基本とする住宅雑誌として、
「良きものはカタチとしてもその明瞭な表現が求められる」と考え、
わかりやすさ、万人が納得できる住宅デザインへの強い希求があると
先生に対して、ユーザーの潜在的要望を伝えてきていた。
住宅デザイン進化も「科学的に」探求できないのか、と考えていた次第。
鎌田紀彦先生は、システム工学が中心的研究テーマの科学者であり、
住宅性能の探求と並んで、そういうシステム化が専門領域。
そのような方向性を連載のベースにして目指すべきものが
徐々にある志向性として、カタチを見せるようになって来た。
それが住宅デザインの「プロトタイプ」論だと思います。
個別の住宅の条件・希望へのていねいな応答ともいえる自由設計的な
いわゆる「建築家」デザインの逸品生産デザインの住宅に対して、
より一般解とでもいえるプレタポルテ的な共有性の高い住デザインの探求。
鎌田先生の言葉を借りれば「住宅のユニクロ的デザイン」。
こういった住宅デザインの探求にあたっては、
いくつかの条件を想定しながら、一般解を探っていく志向になる。
先般、札幌で講演していただいた東大名誉教授の難波和彦氏の
「箱の家」シリーズの趣旨骨子とも通底するような住宅デザインの方向性。
こんな問題意識で鎌田先生と対話していたら、
一時期の東大工学部での内田祥哉先生と、池辺陽先生との論争が
起点になっているといった歴史にもお話しが及んで、
興味深い展開にもなっていました。
それぞれの弟子スジにあたる鎌田先生と難波氏の交点がみえて、
またその志向の類似性に目の覚めるような思いを持った次第です。
そういえば難波氏「箱の家」は住宅の「無印良品」と呼ばれてきたし、
いま、鎌田先生の提唱される「ユニクロ」もまた、
より広範なユーザーの需要の本質を掴み取って、
その最適解を示していくという方向性はまったく共通すると思います。
このような先生の提起を受けて
先生との「共同開発」の長い経験知を持つ北海道の住宅の作り手たちが、
きのうからゼミナール形式で、参集したのです。
さっそく現代生活の必須要件の絞り込みなど活発な意見交換が。
交通利便性の高いエリアでの変形・狭小敷地対応のニーズの高さや、
現代生活の必須要件としてのクルマ駐車スペース2台分確保、
個室の確保数と、そのトレードオフの関係の解明など、
モデル的プランの検討、煮つめが議論されていました。
今後、有志のビルダーと先生で月1回程度の「ゼミナール」を重ねて
成案を煮詰めていく行程が確認されていました。
この探求の動向、今後に大注目だと思います。
Posted on 5月 19th, 2017 by 三木 奎吾
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わたしは、一般的ニッポン人の志向性として
琳派とか、茶の湯とかの文化には親近感を持っています。
今回の出張では東京で1日行動できたので、
要件をこなしながら、合間に山種美術館と東京国立博物館を探訪しました。
一方で琳派の「花の絵」と、片方では「茶の湯」文化の展示会が開かれていた。
本日は、琳派の絵の方であります。
展示会の案内は、同美術館の開催案内には要旨こうあります。
〜春夏秋冬の中でさまざまな表情をみせる自然の姿は、
古くから日本人の心を魅了してきました。とりわけ、四季折々に咲き誇る花は、
季節を象徴するモティーフとして愛好され、描き継がれています。
その表現には、単独の花、鳥や昆虫との組み合わせ、
一画面に描く構成など、個性豊かなバリエーションが生み出されました。
当館では春爛漫に合わせ花をテーマとした企画展を開催いたします。
日本美術に描かれた梅、桜、牡丹、薔薇、百合、紫陽花、朝顔、菊、桔梗、
水仙、椿などの代表的な花を通して、江戸時代から現代までの
華麗なる絵画の世界をご覧ください。
江戸時代、琳派の絵師たちは季節の草花や花木を多く題材としました。
花を風物や鳥と組み合わせて趣きある世界を作り上げた
酒井抱一《月梅図》、《菊小禽図》、
濃彩で四季の草花を鮮やかに配した鈴木其一《四季花鳥図》。
金地、豊かな色彩を用いた装飾的な画面、斬新なデザイン性を持つ
琳派の作品は、時代を経ても色あせることのない魅力を放っています。〜
という次第で、まことに人生の句読点として
たのしく豪華な時間をたのしむことができます。
で、なんと、この手の展示会としてはきわめて異例なことに、
写真の酒井抱一《月梅図》については写真撮影許諾が明示されていた(!)
この絵はどうもこの美術館の所有ではなく借り出されたものなのかもしれませんね。
で、その所有者の方の篤志で撮影の許可が得られたのかも。
こういった展示会というのはあるテーマの元に作品を蒐集する。
その際に自分たち所有のものだけでは展示構成がむずかしい。
たまたま、こういったケースも発生するのでしょう。
ありがたく、iPhoneカメラを向けさせていただきました。
ただ、作品保護のためにガラスケースに入っているのですが、
その表面に後ろ側からの光源の映り込みが避けられない。
・・・なんですが、もちろん贅沢は言えませんね。
琳派の絵師さんたちの中でも、武家の徳川氏家臣・酒井家出自の
酒井抱一さんは、西洋絵画でのルネ・マグリットのような位置ではないかと、
ずっと思い続けています。
わたしが仕事とした広告の領域で、表現の基本的姿勢において、
日本人としては琳派の美術は基本ではないかと思うのですが、
そのなかでも、もっとも近しいと感じさせられる
「ものの見方」「テーマ的切り取り方」「構図表現」を見せてくれます。
この画像、一部には修正も施してみているのですが、
そこそこ個人として画像処理を楽しめる画像解像度のデータです。
6月18日(日) まで東京恵比寿の山種美術館で開催中ですよ。
Posted on 5月 18th, 2017 by 三木 奎吾
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北海道に生きていると、いろいろ遠い地域について
それがなぜであるのか、よくわからないことが多いものです。
この信州長野で、どうして善光寺という存在が人を惹き付けてきたのか、
よく理解出来ない部分があるのであります。
そうであるのに、長野駅を下りればすぐに正面玄関が
善光寺を想起させるデコレーションに彩られているし、
実際に善光寺を訪れてみても、巨大なひとの蝟集ぶりはわかるけれど、
ではそのコアになるものはなんであるか、
各堂塔を巡ってもさっぱり実相は見えてこない。
ただただ、たくさんのひとが善光寺参りよろしく、キャーキャー言っている。
境内の中ですら「恋愛おみくじ」みたいなものまで販売していて、
宗教であることすら不用なのではないかと、その存在が思われる。
善光寺というもの自体が、東京ディズニーランドのような
アミューズメントを目指していたのかも知れないとも思えます。
ソウルフードである「おやき」については、これはもう脱帽でして
来る日も来る日も、いくらでも食べていたくなる(笑)のですが、
善光寺というのはよくわからない筆頭です。
今回は信州大学の先生たちと同道させていただいたので、
善光寺ってどうしてひとを集めているのでしょうか?と、質問しましたが、
明瞭な回答にはどうも巡り会えなかった(泣)。
ただ、同じ信州の諏訪大明神絵詞に古い北海道島の記録が残っているという
故事から考え、そしてこの信州の日本列島内での位置を考えてみて、
どうも、この信州というのは東西南北の交通の要衝ということではないかと、
そんな思いが強くなってきています。
古代以来、地方の宗教施設というのは中央の権力との関係よりも
自立的な存続を図ってきたと思います。
なにより僧侶は知識人であり、交易における通訳のような役割を担い、
商業にとって、相当に有力な存在でもあった。
そういえば、「坊主丸儲け」というような陰口もよく聞く(笑)。
まぁ、ほとんどはじめての訪問でしたので、
今後、いろいろに理解を深めていきたいものだと思わされた次第です。
Posted on 5月 17th, 2017 by 三木 奎吾
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情報は自ら発信しないと、面白い受信にも繋がらない。
そんなことを心がけていると興味深い出会いに繋がってくる瞬間がある。
ご存知のように、わたしは北海道出自の住宅雑誌発行者ではありますが、
同時に古民家のような伝統的建築文化にも関心を持っています。
古民家関係のブログに対してこの海野宿の古民家設計者・茂木香織さんから
投稿コメントをいただいた。以来折節、何度もコメントが寄せられた。
彼女は北海道北見市の出身で建築を京都の大学で学び、古民家再生で知られた
同じ長野県松本の「降幡設計事務所」で修行を積まれ、独立した。
ご主人も降幡設計事務所出身で、いっしょになられたということ。
北海道出身者で、こういった古民家再生のような方向に向かった設計者は
あんまり知らなかったので、興味を持った次第。
やはり北海道出身者なので、生活可能なように温熱環境はなるべく現代化させ、
断熱化気密化は図っていきたいという志向性を持っている設計者です。
ことしの2月にはテレビ東京の時代劇番組でこの建物が使われたとのこと。
っていうようなことから、なんとか時間を調整して今回の出張で訪問しました。
この「旧北国街道・海野宿」というのは、重要伝統的建造物群保存地区。
Wikipediaの記述は以下の通り。
〜1625年(寛永2年)に、北国街道の宿場として、江戸幕府によって設置された。
宿場町開設以前は、海野郷や海野庄などと呼ばれ
東信濃の豪族滋野氏やその嫡流に当たる海野氏の領地として栄え、
宿場町開設以前から集落が形成されていた。木曾義仲が挙兵した地や
海野氏の子である真田幸隆やその兄弟の出身地とも言われている。
海野宿には、約6町(約 650 m)にわたり街並みが続き、
本陣1軒と脇本陣2軒が設けられ、佐渡の金の江戸までの輸送、
善光寺までの参拝客や、北陸諸大名の参勤交代などで利用され、
非常に賑わいをみせていた。現在でも本陣、脇本陣、問屋、旅籠などの
跡が残っており、明治時代の養蚕業に用いられた伝統的建造物も残っている。
1986年(昭和61年)には「北国街道」が日本の道100選に。<要旨抜粋>〜
ほとんど土地代だけくらいの費用で、
以前は「旅籠」として使われていた、崩落寸前の建物付き不動産を入手。
まず基本的な延命工事を施して現在は設計事務所として使っている。
基礎を部分的にジャッキアップしながら、コンクリート基礎を打ち込んでいったとか。
屋根も以前の茅葺き形状のままに金属被覆させています。
やわらかいウェーブが、独特の優美さを見せてくれている。
広大な敷地内には、この本屋のほかに現在住宅として使われている建物、
土蔵、作業小屋のような建物と4棟の建物がある。
まぁ、この建物の詳細については以下の記録をごらんください。
海野宿民家再生日記
北海道の高断熱を体感している設計者の古民家への挑戦といえるでしょうね。
茂木香織さんの設計事務所「栖風采プランニング」は
この海野宿の「家守」的設計事務所であり、情報発信にも積極的なので、
今後ともその動向を遠くからですが(笑)チェックしていきたいと思っております。
Posted on 5月 16th, 2017 by 三木 奎吾
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昨日、上田に宿泊して午後3時の新幹線で
長野駅を出発するまで、束の間、長野でみたかった地をいくつか探訪。
そのなかでも、この上田市郊外の「無言館」はいちどは訪れたかった場所。
なぜこの無言館の存在を知ったのか、いまは定かには思い出せない。
ただ、戦没画学生の描いた絵を収集し、展示するというコンセプトには
抗いがたい魅力というか、惹かれるものを感じさせられていました。
絵を描くということは、
アルタミラ洞窟の絵画をみて驚かされるように、
人類普遍的な共感を覚えさせられるツールだろうと思います。
わたし自身も、子どもの頃、絵を描くと言うことに強く惹かれていた。
なにかを見て、感じたことを対象化する営為ということですが、
「なにをどう感じるか」ということでは、およそ人間であれば共感が可能な手法。
そこにどんなものが投影されていくかが、
その作品の味わい,魅力というものだろうと思います。
19世紀、20世紀は国民国家という概念が沸き立って、
その結果としての国家間での戦争に人類が否応なく引きずり込まれた世紀。
国民国家は、外側から見れば自らの利益追究に専心する「帝国主義」。
国民教育というプロセスを経て、その一員としての刷り込みの中で
若い世代は徴兵制度によって戦地に赴くことが強制された。
そういう時代の中で、絵を描き続けていた画学生たちが
多く戦地で命を落としていた。
恋人をモデルにした裸婦画を描いていた最中、
「あと5分、10分、この絵を描き続けていたい」という思いを持ちながら、
出征兵士を送る日の丸の小旗に送られざるをえなかった。
そうした若い画学生たちの裸婦画から、痛切なものが伝わってくる。
世間の眼に身をちぢめながら、
裸婦画のモデルになっていた女性たちもまた、そうした恋人・夫の思いを受け止め
描かれたエロスは痛切で、人間の本然を明瞭に伝えてくれる。
こんなにも瑞々しい感受性のまま、戦地で命を落とさざるを得なかった。
そして、そうした画学生たちが残した作品を
戦後50年間、守り続けてきたひとびとの思い。
絵がそのまま、描いた人間そのもののように思われて持ち続けていた。
傷んでしまった絵をわたすときに、その絵を描いた肉親に「申し訳ない」と思うこころ。
申し訳ないというコトバにも深く打たれる。
しかし、その残されたはるかな孫の世代の人々も、
「若いおじいちゃんの絵が大好き」だという。
絵がなぜ、人間を魅了し続けるのか、
そこにやはり命が宿るのだと、思いが至っておりました。
たくさんの美術に接してきたけれど、
いちばんなまなましく人間を感じることができた美術館鑑賞でした。
Posted on 5月 15th, 2017 by 三木 奎吾
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12-13日と長野市で開催された東北フォーラムほか、住宅関係団体の
「合同研修会」に参加しておりました。
ホストである「信州の快適な住まいを考える会」各メンバーからの
研究発表を受けての「分科会討論」、懇親会を1日目に行い
2日目には各団体からの研究発表などが相次いで行われました。
こうした模様については、本日札幌に帰った後、
来週にまとめてご報告したいと思います。
で、会は昨日の午前中で発表会を終えて、その後、
人口減少問題に直面し、自然エネルギー活用に活路を見出す試みを行う、
長野県・鬼無里〜きなさ〜地域の取り組みを見学しておりました。
で、その後、この重要文化財という「白髯~しらひげ〜神社」を見学した次第。
この神社は、天武帝の時代に「遷都」が計画された地にある。以下Wikipediaより。
鬼無里は紅葉伝説や遷都伝説など都に関わる様々な伝説が残る山里である。
伝承によれば白鳳13年(685年)に信濃国への遷都のため天武天皇に遣わされた三野王は、
鬼無里を候補地とし、新都の鎮守として裾花川の両岸に東京(ひがしきょう)の加茂神社
と西京の春日神社、そして鬼門の方角に白髯神社を建立したという。
本殿は一間社流造、杮葺きで桃山時代の建築と考えられ、
国の重要文化財に指定されている。なお、本殿は保存のためコンクリート製の
鞘堂に収められており、通常は拝観できない。
神楽は長野市の指定有形文化財で、鬼無里ふるさと資料館で展示されている。
ということなのですが、今回は縁あってこの「重要文化財」の本殿を
見学させていただけました。2枚目の写真であります。
この本殿自体の創建年代は確定されていないということ。
およそ300年ほど前に大規模修復され、そのときの記録では
200年以上経っていたという記述があることから、少なくとも500年前、
戦国末期くらいまではさかのぼることができるとされていました。
拝殿は下のような様子で、こちらは江戸末期くらいの建築とされていました。
ただし、祭られているのは猿田彦命とされているので、社格としては
そう高い神社ではないのだろうと推測されました。

天武帝と言うことで、壬申の乱のときに
かれは一旦、東国に身を逃れて兵を募ってから
西上して天下掌握を考えていた件があるので、
その場合の新京造営比定地としてこの山深い信州の地を考えたのかも知れません。
いまは小高い山の上にあるのですが、古代には
周辺の「水利」の要衝地であったという説があるそうです。
歴史年代を通じて田んぼが開発され続けた列島社会では
自然の変貌もすさまじかったのだろうと思われます。
まだ善光寺などは見学できていないのですが(きょう予定)
畿内地域と東国を結ぶ日本史の交通交差点としての歴史来歴の古さを
これらの宗教施設の古格ぶりに見させられる思いがします。
また、北海道の中世の消息もこの地方の諏訪大明神絵詞に記述があるとされます。
日本史の中でこの地域は、まさに東西南北の交流史が積層もしているのでしょう。
本日、短い時間ながら、若干探訪したいと思っています。
Posted on 5月 14th, 2017 by 三木 奎吾
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