本文へジャンプ

【アジアの希少な「海洋国家」日本の生存戦略】

ここのところの韓国との関係の騒々しさはすごかったですね。
<本日は久しぶりの時事ネタであります、ご容赦を>
もうそろそろ、感情的なレベルでのことからは離れて
かの国の政治の混乱に巻き込まれないように
日本自身の冷静な国家戦略を国民レベルで論議できる方向に
舵を切っていくべきではないかと思っています。
どうしても生々しい隣国関係なので、近視眼的な見方が強まってしまう。
朝鮮半島国家の盛衰史は、歴史的にも「半島国家」であり、
大き過ぎる「大陸国家」中国やさらに軍事国家ロシアといった
他国への関与動機の強い国家群からのさまざまな影響が国内情勢に
敏感に反映する地政学的な位置にあることが大きい。
一方で日本は「海洋国家」であり、今日の世界秩序の中では主流である
米英型の志向性と価値感を共有できる国なのだと思います。
世界貿易志向の強い資本主義国は、おおむね海洋型国家。

日本は東アジアで稀有な国家としての長い歴史を持っている。
確実な歴史年代の継続としても1500年を超える単一国家。
それに対して大陸国家である中国は、易姓革命を繰り返してきて
つねに軍事的強者が独裁支配する政体での争闘の歴史。
日本の皇室に「姓」がないのはかなり究極的な生存戦略である由縁。
いまの中国共産党独裁体制というのも、その一変形とみなせる。
海洋国家は天然の城壁として海洋があって、地政的に侵略される畏れが少ない。
陸上交通に比べて圧倒的にコストの安い海上交通を利用できることから
現代世界の基盤である「貿易」についてそのルールの主導権まで握っている。
東アジア世界が帝国主義列強の弱肉強食的覇権争奪に
もろくも侵略されたのに対して日本だけが独立を守り得たのは、
もともと日本が海洋国家であったことが大きいのだと思います。
明治以降の国際関係の中で日露戦争の勝利とは、日英同盟の結果。
不幸な戦争以降、ふたたび米英の海洋国家との同盟に復帰した日本。
日本の国家戦略は今後ともこの海洋国家同盟が基軸になるのが自然。
間違っても大陸国家への帰依という選択は歴史理解的にもありえない。

一方、朝鮮半島国家というのは、なかなか自立存続が難しい。
歴史年代的には中国独裁王権に対して従属する形が永かった。
日本はアジアの希少な海洋国家として自立、鎖国を保てたけれど、
半島国家というのは、つねに大陸国家への帰依が肉体化している。
そもそも国家のありようが常に他者依存的な思考になるので
日本のような海洋国家的な開かれた戦略性を持ちにくい風土なのでしょう。
今回の局面ではかの国自ら日本との距離を離れようとしているのですから
それ自体は仕方のないこととして、流れに任せていった方がいい。
日本としては海洋国家同盟戦略をもっと深めて、
今後混乱が予測される大陸国家・中国とは一定の距離を保ち
つかず離れずという方向性が正しい戦略なのではないでしょうか。
日本の歴史を深く知れば、こういった東アジア世界との「付き合い方」の
大きな教訓をたっぷりと学びうると思えます。

【北海道では咲かない花がある・・・】

いろいろな時期に北海道からそれ以外の、とくに関東以南に移動すると
花の違いに癒されたり、驚かされたり知りたい欲求が盛り上がったりする。
今回もセントレア空港を往復したけれど、
この写真の花がそれこそ行く先々で目を楽しませてくれていた。
ちょっと前のハナミズキにも色合いが似ているけれど
花の様子、枝振りがまったく違う印象。
で、そういうときの「この花の名は?」系のアプリで
写真をアップすると親切な人たちから教えていただける。
以前にも札幌市内でまったく見たことのない花を見つけて教えていただいた。


こちらは「アスチルベ」という花だそうで、
名前もまったく聞いたことがなかったヤツでした。
今回出会った花も、なんとなく似た花の色合いではあるけれど
枝振りとか、大きさとかまったく違う。
ただ、わたし的にはこういった色合いの花には強く惹かれるのか?
で、最初の写真の花の名は「サルスベリ」だそうであります。
本州地域のみなさんにはありふれた花の名でしょうが、
北海道人にはほとんど目にすることがない花であります。
札幌中心部の大通公園の花壇は地元の園芸業者さんたちが
腕をふるってくれているようで、そこでは姿を見せているという情報。
なんですが、一般的な家庭のお庭ではほとんど見ることがない。

調べてみたら、自然状態ではほとんど津軽海峡のラインを
越えることのない花のようですね。
よほどの「育成力」がなければ花を咲かせられないのでしょう。
寒ツバキなど、北海道では咲かない花たちとの
こうしたふとした遭遇は、移動交通の発達したこの時代だから、
共有しうる経験知だとありがたく受け止めております。
しかし名前もいいですね、サルスベリ。

【城と町、交通の相関 in岐阜】


きのうは国の住宅施策についての会議に参加して参りました。
年間3回計画されていて、最初は東京、続いて今回、岐阜で開催して
最後12月に札幌で開催の予定ということ。
会議については、継続中のことなのでまたあらためての機会に。

会議がなんと朝10時からということで前泊して参加。
岐阜で宿泊するというのははじめて。
これまではだいたい、名古屋からどこかに行くときの「経由都市」。
岐阜と言えば稲葉山に築かれた岐阜城であります。
この城のある稲葉山は周囲が長良川に囲まれて、城下町からは急峻な山。
信長は何回か、この城下町までは侵攻できたけれど、
山上から攻められて敗戦を繰り返していたとされる。
しかし、岐阜はまさに交通の要衝で、美濃平野から伊勢湾に下る
まさに「要衝地」にあることが目にも明らかであります。
この長良川は東海最大の穀倉地帯・美濃の交通のカナメ。
鉄砲の伝来によって、戦国の気運、戦争の仕方が大規模化して
明確に「天下統一」という目標が見えてきた段階で、
この地を抑えれば、あとは「上洛」するには「指呼」の間。
この地を抑えることが出来てそれまでの稲葉山城から「岐阜城」という
天下への志向をあきらかな軍事方針として明示したことが有名。

で、城と「城下町」という関係でもまことに明瞭。
戦国期には、こういう要衝地で軍事的に安定した地方政権は
さらに軍事費を最大限確保するために、商業の活発化をはかった。
信長は若い時期に堺の街に遊学したことがエピソードで残っているけれど、
世界との交易での利得をカラダで体感して
経済重視の国家経営・軍事費確保を相当強く思い定めたと思う。
この岐阜は東海地方のものの往来にとって要衝なので、
そこに商業活動の拠点を置くことの経済的利点は大きかったと思います。
そういった商業流通が活発化することで軍事費を拡大できたのでしょう。
城の建築もこの岐阜を得た後、すぐに既存のものを破却して
新規に造営したとされています。
今残っている山上の城も、かなり明瞭なランドマーク。
500年の時間を超えても伝わってくるものがありました。

【都市集中と未来の「住み方」変化】


あるデータを見ていて興味深いことを発見。
わたしは昭和27年生まれですが、どうもこの時期に
日本社会は「郡部」から「都市」に人口比率が重心移動している。
平成22年国勢調査で都市人口は1億1615万7千人と総人口の90.7%を占め,
一方、郡部人口は1190万1千人(9.3%) というデータがある。
約60年前の「逆転」から以降、ずっと人口重心移動が継続している。

で、わたしの兄たちはむしろ「郡部」が人口多数派だった時代を
経験し、その「常識」感を共通言語として持っている世代。
わが家は昭和30年に北海道岩見沢市近郊地帯の農家を離農して
札幌に移住して、食品製造業に生きる道を求めたのですが、
それ以前の郡部でのくらしのありようを話して盛り上がっている。
3歳までの実感しか持たないわたしとしては、会話について行けない(笑)。
「そうそう、あそこの家の隣に蹄鉄屋があったよな」
「そうだ、いっつも馬の蹄の焼ける匂いがしていたよな(笑)」
っていうような話題であります。
郡部では小規模な特定技能職者が独立自営できている状況があった。
主要産業である農業のための必需業種でのそういう存在があった。
かなり多様な「生業のあり方・生き方」が存在していたのだと思う。

家族のありようを考えるとき、こうした「生業のあり方」が大きい。
結局は「どう稼げるか」に人間の生き方は決定的に規定される。
この「職」の問題をどう解決するかが最大の問題だと思います。
現代では農林漁業や地方公務員以外では「定住性」を選択しにくい。
しかし、待ったなしで「人口減少」局面が訪れてきて
企業でも人材確保が最優先される時代になって来た。
また、女性の就業も格段に増えてきている。
女性の場合、いくら男女格差是正とか言っても家庭の優先・維持は
大きな人生選択要素であることは基底的な事実だと思います。
どうしても出産・授乳は女性にしかできない人類存続の基本要件。
事実、高学歴女性が結婚し出産することになれば、
おのずと定住的志向が強まっていくことは必然的な流れ。
女性の社会参加には、子育ての安定的環境構築が欠かせない。
いまの「核家族」下では必然的に「保育」を外部委託するしかない。
しかし、日本の社会生活伝統には大家族での「子育て」文化がある。
人生百年時代の健康な高齢者である祖父母の存在を生かすには、
必然的に「大家族」志向になっていくのが自然な流れだと思える。
そういった社会圧力から、企業の側でもこうした「働きやすさ」志向は
大いに考えなければならなくなってきている。
さらに世界で見れば、英米社会では「地域主義・一国主義」が強まり
いっとき世界を席巻したグローバリズムへの嫌悪が広がってもいる。

これまでの都市集中は資本主義的生産様式が世界に拡大した
そういったことからの社会変化だったけれど、
これからの変化は、その生産様式がどう変化するのか、
そこを見据えながら、ある志向性を持っている必要があると思います。

【核家族から大家族へ 社会復元は可能か?】

先日、身内の兄弟姉妹であつまる機会があった。
わたしは6人兄弟(姉1名)の末っ子。
従っておおむねは高齢社会の問題で話が盛り上がる。
兄弟での話なので、いちいちは確認のしようもない情報が行き交う。
「高齢者の免許返納は認知症対応だけど、返納した人のその後の
認知症進行が進んでいるそうだぞ」「おおお」
というような話題が大きな盛り上がりで展開する(笑)。
結局は終の問題、「死に方」ということになる。
それまでの自宅を売って資金を作ってケア付きの施設に
入居した知人の高齢夫婦がいるけれど、ご主人に最近病気が見つかって
入院せざるを得ず、90を超えているのでその病気は直せても
いったんベッド生活になると、筋力が急速に衰えて身動きがままならず、
リハビリに明け暮れる入院生活を余儀なくされるという。
なんとか、奥さんのいるケア付きの施設に戻れるかどうかと。
また、それまで戸建ての自宅で過ごしていて
急に多人数での「共同生活」に「閉じ込められる」という
社会関係収縮的な状況も精神的に大きなストレスになるとも言われる。
・・・といったような「高齢社会」の現実を見続けている高齢者なのです。
ことし、義母は長年過ごし慣れていた戸建ての自宅で
90を過ぎて眠るように亡くなったけれど、
それまでの間、息子が同居し娘はつかず離れず様子を見に通っていた。
ケア付きの施設に入った自分の母親の様子を見ていて、義母は
施設にだけは入りたくないと考え家族も協力して
なるべく家事もさせるように仕向けていたのです。

日本は英米的な資本主義を受け入れ、そのもうひとつの側面である
「核家族」システムもそれと知らされることなく基本的に受け入れた。
その結果、江戸末期約3,000万人人口社会から今日1億2000万人超の
大きな人口規模、経済社会が実現してきた。
大家族制度から核家族に移行し経済拡大があれば人口増加は加速する。
しかし、こういった人口増加は今後はまったく見込めず、
人口規模の急激な縮小が目の前に迫ってきている。
当面、労働力を海外から受け入れる方向に舵を切ってきているけれど、
もっと本質的には家族制度をどうするか、どうなるか、
という問題が最大のテーマになってくるのだと思う。
日本的なムラ社会としての相互関係も含めた
「田舎」での大家族形態から「都市」での核家族へ。
約150年やってきたシステムが日本民族として「経験知」のないまま、
そのシステムの急激な破綻を迎えようとしているのではないか。
ケア付きの老後施設というものは核家族の終着駅のような気がする。

どうも大家族の社会復元が迫られているのではないか。
その復元とは、ようするに家族がもう一度寄り集まるということ。
一度「核家族」のありようを経験したあとで、
そこから再度、意図的に作り上げていく「大家族」という考え方。
若年層から、高齢層までその意義を見つめ直して
より積極的に希求するような「家族関係」として再構築できないか。
そのときの「いごこち」「ありよう」を考える住宅の知恵も必要だと思う。
住宅「作家」たちもまた、核家族型のデザインを競ってきたのかも。
大家族成立のための「集合力復元」に気付くべきではないか。

【韓国仏国寺 結界でギター奏でる「仁王さん」4体】


きのうブログ記事の流れで触れた「韓国慶州・仏国寺」。
もう3年前の訪問でしたが、これまで写真整理をあんまりやっていなかった。
たしか忙しい時期に知人たちに誘われての旅でした。
帰国してからもトンボ帰りで秋田でテレビ出演したりして、
整理する余裕を持てなかったようです。
まぁ、取材している写真類はとにかく膨大なので、
ある機会の写真整理を始めるとそれだけでも根がつながって
どんどんとテーマが膨らんで行かざるを得ない。

で、本日は狛犬、じゃなかった「仁王像」であります。
宗教建築では日本の場合には定番・付き物として結界の門付近に
こういった存在が鎮座している。
東大寺にもきちんと仁王さまがおりますが、
しかし記憶では法隆寺「南大門」周辺にはなかったように思います。
なにか、一定の法則性があるのかどうか、知らない。
日本は地勢的に東アジア世界との関わり合いがながい歴史の基底にあるので、
こういった「定番」についても、無意識的に
隣国とはいえ韓国でも似たようではないかと思っていた。
入り口を「守護する」という精神性が付与されているに違いないと。
で、こちらの仏国寺では確かに左右に仁王さん風の風体の像があった。
けれど、いきなりギターを弾いて
「Oh,You,Welcome」みたいな軽いノリの像が迎えてくれる。
お隣さんも剣を持ってはいるけれど、2体一対と考えると
音楽に合わせて剣舞でも踊り出すような印象を持たされる。
対手側の仁王さんも左手にソフトクリーム(笑)。
イヤ違います、なにか塔の模型のようなものを持ち上げている。
しかし、ギター男の印象が強烈でソフトクリームと勘違いするのも自然かなと。
薄い衣類の表現などは、東大寺の仁王像との相似感がありました。
ただ、歴史年代的には最近の復元でしょう。
そのマザーに対して忠実な復元かどうかはわかりません。
・・・ということですが、仁王さんが4体ある。
狛犬が4匹、というような宗教建築っていうのは日本では見たことがない。
調べた範囲では、どうも「東西南北」を守護する武神というのが
この像たちの表現している「宗教性」ということだそうです。
風水的な「四神相応」思想を表現する。四神とは玄武、朱雀、青龍、白虎。
また日本では一般的な「阿吽」という表情もこれらからは見て取れない。
要するに「四天王像」ということのようですね。
で、ギター男は持国天という存在ということのようです。
以下Wikipediaより〜持国天は東方を護る守護神とされる場合が多く、
仏堂内部では本尊の向かって右手前に安置されるのが原則である。
中国の民間信仰に於いては白い顔で琵琶を持った姿で表される。〜
とあるので、そういった大陸国家からの影響なのか?
下の写真は中国の寺院の持国天像で、楽器がやたらでかい(笑)。

狛犬とか金剛力士の一対表現の代わりに四天王像が置かれているのでしょう。

このあたり同じ仏教とは言っても国家がかなり関与して発展してきた日本と
むしろ国家としては儒教が長く支配的で仏教弾圧を繰り返してきた
かの国との違いでしょうか。似てるけど違う、不思議な感覚。

【韓国慶州・仏国寺 取材写真再チェック】



さて、きのうは法隆寺建築工事のことを書いたので
隣国・韓国の同年代、751年創建という世界遺産・仏国寺のこと、
以前2016年3月13日にもアップしましたが、
写真をチェックしてもう一度、ふり返って見たいと思います。

このお寺、創建時は法隆寺のような「国家建築」ではなかったようで、
〜新羅景徳王の時代の751年(景徳王10年)宰相・金大城(キムデソン)により
建立がはじまる。『三国遺事』には金大城が現世での父母のために建立した。
李氏朝鮮の太宗1407年(太宗7年)の儒教国教化での仏教弾圧の際、
存続を許された88寺院の中に名前がなく、既に荒廃し廃寺になったようである。
その後1424年の弾圧時に存続を許された36寺院の中にも名前がなく、
引き続き廃寺のままだったようだ〜とWikipediaには記述されている。
日本では仏教が一時的な危機はあったにせよ、おおむね存続したけれど、
韓国の場合には大陸の専制国家からの暴圧が強烈に吹き荒れて
仏教が弾圧されこの仏国寺の歴史に影を投げてきているようです。
今日、仏国寺の案内板などには秀吉の出兵で消失したと記されている。
で、いまある仏国寺は
〜日本統治時代の1924年4月から1925年8月迄の朝鮮総督府の再建工事によって
石壇・石廊を含む主要構造が修復された。〜(同Wikipedia)
その後、1965年の日韓国交回復を経て1968年からさらに修復復元されたとのこと。
日本が負担した5億ドルのお金が回り回って復元に至ったのか?
ただ、かの国では「木造建築」の技術がほとんど廃れているので
このお寺の再建に当たって、どのような職人さんがあたったのか不明。
宮大工・金剛組の開祖は1400年以上前にかの国から来たのですが・・・。
この金剛組の来歴を見ていると、四天王寺の創建(593年)時に来日したとあり、
同時にほかに2名の大工の記述がみられる。金剛組は完成後も日本に残り、
ほかの2名は帰国したらしいので、この仏国寺創建(751年)のころには、
そういった技術をもった集団の末裔などが存続していた可能性は高い。
韓国ではいま、古来からの木造住宅を建てようとすると苦労するとのこと。
ほとんどRCの高層マンション居住が一般的という住宅事情。
このような流れなので木造建築的には創建時の様子はうかがいようがない。
儒教を国教としたことで仏教が排斥されて廃寺状態だったのが、
いくたびかの修復を経て現在に至っている、ということのようです。
ただ、1枚目の写真のような「軸組」が目に付いた。
大雄殿か、無説殿のどちらかで、仏像に向かって左側を見渡した写真ですが、
こちらの柱と横架材の様子には、やや痕跡が感じられた。

どうも「儒教」というのは、悩ましい思想。
いろいろに歴史をゆがめ続けてきているように思えてならないですね。

【1400年前「法隆寺」国家事業建設】



きのうは現代の「高断熱高気密技術」について
技術をより高めて継承していくには、目的的な行動が必要という
そういうテーマで書きましたが、いろいろ反応が寄せられました。
高断熱高気密住宅についての「民族史」的な意義ということも念頭に
北総研さんに資料などの提供を求めて、快諾いただけましたので、
基礎資料として参考にさせていただきながら、
「記憶の継承・発展」の一端に取り組んでいければと念願しています。
わたしどもができることと言ってもなにもできないとは思いますが
なにかの痕跡、きっかけになれればと思っています。

そんなことを考え始めていると
わたしたち民族には偉大な先人たちと、その事業痕跡がすばらしく遺っている
そういうことに深く思いが至ります。
写真は法隆寺2016夏の様子でありますが、
あわせて、竹中大工道具館展示で示されていた「法隆寺で採用された工法」
についてのイラストであります。
上の写真は回廊部分ですが、その柱がどのように礎石に立てられたか、
そしてどのように「製材」されたか、がわかりますね。
Wikipediaの「鋸」について見てみると、この写真のような板材や角材は
〜古代・中世の社会では鋸はほとんど普及せず、斧、ちょうな、槍鉋で
樹木の伐採から製材までをこなしていた。
斧で樹木を伐採して手ごろな大きさに断ち切り楔(くさび)で引き割って
大まかな形を取り、ちょうなや槍鉋で表面を仕上げる。〜
っていうような工程だったとされています。
こういった作業工程で建築工事が進められたけれど、
五重塔のような高層建築まで建築されるほど木造の技術が確立していた。
金剛組など大陸から技術者たちも移入してきていたとはいえ、
大量に動員されただろう職人たちは大部分が日本人「使役」でしょう。
総敷地面積18.7万㎡(5.6万坪)という広大な寺院建築であります。
こういう工事を、人口規模がこれより100年後の奈良時代で450万あまりの
経済規模段階で取り組み、完成させたということですね。
たぶん、300万人台だっただろうと思います。
今の時代で言えば、北海道が560万人口で、
たしか予算規模が2.6兆円程度。そのうち「建設費」項目で2000億円なので、
だいたい割合は7-8%程度ということですね。
人口比を考えれば経済規模はたぶん半分程度。
当然この予算(おおむね1000億円として)との対比では
新国立競技場の総工費が1490億円とされている。さて彼我の価値感は?
さまざまな技術開発、道具の開発もあっただろうし、
現代でもはたして法隆寺建築を建てられるかどうか。

しかしまぁ、こんな巨大公共事業、
それも仏教を導入するというきわめて文化性に特化した事業に
国費をほぼ傾けたという国家意志の特異性に目眩がするほど。
それだけ、アジア世界での自立化が急務だったのでしょう。
木造建築の美感が民族に深々と浸透していっただろうことは、明白ですね。

【高断熱高気密技術をどう継承するか?】

昨日は北海道建設部の住宅施策諮問会議参加。
座長を鈴木大隆さんが務める北海道住宅の方向性検討会議です。
わたしはメディアを発行してユーザーの「取材」を業としている立場で
そういった意見を述べさせていただく次第。
いろいろな立場のみなさんからのご意見を拝聴できる貴重な機会でもあります。

昨日もある現場実務者の方から、
設計者の集まりなどで、断熱技術の地域認証資格である
BIS資格について、若い年代の人たちの認識がやや希薄という
問題提起がされていました。
北海道では、主にエネルギー削減を狙った国の「省エネ」施策としての
住宅断熱推進とはややスタンスの異なる、
より生活実感に即した住宅性能技術向上の地域的努力が
それこそ明治初年以来、継続的に取り組まれてきています。
それは「あたたかい家」という共同テーマが無条件の前提にあったことで
「なんとか、具体的に改善しなければ」という実践意欲が
参加プレーヤー全員に共有されていた、ということです。
しかしそういった克服技術レベルがある程度浸透してきて、
そういう住宅建築の仕事上の「環境」への依存心が強くなり
自らの問題意識として、認識がやや弱くなってくるのかも知れません。
ということは、技術の「伝承」に関わる問題かと。

そういう問題意識に立って、少しでも地域の資産が継承されるために
各人がどういった努力が出来るのか、というテーマ。
制度設計の現場的には、そういう部分への対応を考えることになるでしょうが、
わたし自身としては、いろいろ気付かされる提起だったと思います。

【電子書籍 縦書きか、横書きか?】


出版の世界は大きな激動期・変革期。
わたしどもは「雑誌」から電子メディア系がメインの領域ですが、
一方で「書籍」という領域も業界構造としては大きい。
というか、雑誌的コンテンツから容易に書籍化という流れがある。
よく言われるように、マンガ雑誌で「連載」して好評だった作品は
即座に「単行本化」されて、そちらの売上げ規模が大きくなる
という意味で相互補完的な関係で成り立ってきたと言えるでしょう。

下のグラフは、書籍の紙と電子形態の販売割合。
昨年2018年度では、電子書籍は書籍全般のなかで16%に上ってきた。
徐々に趨勢が伸張してきているのがわかる。
わたし自身も、書籍については紙の本よりも
電子書籍の方が非常に便利だと思っています。
雑誌については、写真表現とその「切り取り方」レイアウトが
かなり決定的な印象領域を占めるので、紙の方がとも思うのですが、
どちらかというと、テキスト主体の書籍では
文字の読みやすさをメインに考えると、電子形態に魅力がある。
で、長い論争が展開し続けている「縦書き・横書き」であります(笑)。
建築関係でも、新住協・鎌田紀彦先生は「横書きでいいじゃん」という
ご意見で、何度かそのようなレイアウト原稿を試したこともあります。
一般的なビジネス文書では、ほぼ横書きレイアウトが主流だと思います。
このブログにしても、パソコンやWEBでの表示では横書きですね。
しかし、いざ電子書籍という領域全般に考えると、
このあたりは、なかなか悩みどころであります。
というのも、電子書籍で販売されているものをみると、
圧倒的に「縦書き」で、右から左に行を移動していくスタイルが主流。
一般社会ではほぼ「横書き」主流であることと、違いがある。
わたし自身はやはり縦書きのほうが、慣れているということもあって、
「読書する」という感覚のアナログーデジタルでの移行も
まったくスムーズに行えると思っております。
ただ、わたしはもう歳も歳なので、若い世代のみなさんはどうか、と
いろいろに意見を聞かせていただくようにしております。
みなさんいかがでしょうかね?

しかしこれまで本という形式は紙をベースにして
千年間くらいは進んできたけれど、紙出力という形式が徐々に衰退し、
電子形態中心に変化していくのかどうか。
こんな巨大な変化の時代に遭遇すること自体、オドロキですね。