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【古代のナゾ 写実的な埴輪と「秦氏」の関係】

写真はちょっと前から気になっている埴輪であります。
埴輪といえば、最近は「元祖ゆるキャラ」と言われるように
ある種、キッチュな日本の文化伝統の創始にかかわっている部分がある。
たぶん、古墳の周囲に立て並べて祀るという目的から
下部が安定感のある作りになっていて、表現としてのリアリズムよりも
直立安定性重視であることが、その形象から見て取れる。
それがゆるキャラのイメージとの近似感につながっているのかも。
この写真の埴輪からはしかし、
古代史のキーワードとしての「秦氏」という存在が気になってくる。
平安京の建設の中心的勢力・古代史の有力勢力としてよく名前が出てくる。
この埴輪は、その秦氏が入植したとされる千葉県芝山で発見されたもの。
埴輪というのは死者の古墳に随伴させて死後も仕える
というような意味合いなんだろうと言われていますが、
この埴輪は非常に「写実的」な作られようで異彩感。
ある学者さんなどは、これは典型的なユダヤ人の人物描写だ、
というように説を唱えられているようです。
髪型と帽子のセットアップがかの民族性を端的にあらわしていると。
そういった説に接して気になっているのですが、さて。

どうもCatch a Coldであります。
一昨日、草木を扱って若干、土埃にまみれたのですが、
直後からどうも喉に来て、セキ・クシャミ・軽い痰。
ひょっとして花粉症かも?ときのうお医者さんに聞いたのですが、
喉をみていただいたら、あきらかに「赤変」がみられ、
花粉症状の「白っぽい」病変ではないので、夏風邪との見立て。
ちょうど1カ月前ころにも同様の症状が出ていて長引いたので、
早めに処方してもらったところですが、やや体力低下かも。
あしたは外部での会議出席もあるし、来週も岐阜での会議などの予定もあり、
あまり悪くならない前に、早めに復活させたいところであります。

【15年間 5000本以上のブログ記事(笑)】

自分はどんなことをしてきたのかなと、ふと考える。
いずれにしても人間として大したことは出来ていないのは確かですが、
そういう才能のない人間は、努力するしかない。
継続は力、と信じて日記的にブログを書いてきています。
ずいぶん長く書いてきてはいる。
そろそろそういう活動をきちんと整理整頓しておかなければならない。
ということで、見返し始めております。

始めた動機は、たしかスタッフから自社HPのコンテンツとして
書いてください、というようなことでした。
2005年8月9日から開始しております。
ちょうど開催されていた「愛・地球博」に、学校が夏休みになった
息子と同道して見学して来た見学体験から書き始めております。
それ以来、いまは15年目に入ってきています。
この間で数日はズル休み(笑)しているけれど、
たぶん10日未満のハズですので、総数は確実に5000突破している。
こんなにあると、自分自身でも「初めて見る」ような記事もある(笑)。
過去の自分と対話するような不思議な体験もできる。
対話がはじまると、自分自身なのでそのバックグランドもわかる。
で、毎日書いて記録しているので興味分野別カテゴリー分けできている。
最初からWordPress利用ではなかったハズですが、
環境をきちんと乗り換えてきたので、整理整頓の方法が明確。
自分自身で記事を体系的に「編集」することが容易にできるのですね。
そういうなかで、いちばんわかりやすそうな
「歴史系」についていま整理作業に着手してきております。
このテーマカテゴリーでも491件のブログがありました。
写真は、それをさらにいくつかの「年代」で仕分けた記事検索画面。
全体で5100くらいの総数のウチ、491件ですので、
だいたい10回に1回くらいは歴史ネタを書いてきているのですね。

WEBという人類がはじめて「経験」している環境での
ひとつの特異的な人間記録と言えないこともないかも知れません。
わたしのような「常人」がこれだけたくさんの発信記録を
残せていく段階にまで立ち至っていることは興味深いことだと。
そうした無数に拡散し蓄積される人間活動情報の整理整頓、
その総体としての「歴史」概念は、今後どのように変わっていくのか?
まことに未知のゾーンに突入してきているのでしょうね。
さて、こういう「まとめ」を行っておりますので、
その結果・成果を後ほどご報告したいと思っております。
読者のみなさま、よろしくお願い申し上げます。

【歴史人口増加と建築の進化発展】


歴史的なことを考えるときには、当時の人口を考えながら
なるべくリアリティを持って社会の様子を想像するようにしています。
ライフワークの建築テーマでも、その考えを踏まえて想像している。
建築の技術発展と建築需要把握についての決定的な「補助線」。

そういうことでいつも参考にさせていただいているのが
上智大学の鬼頭宏先生の研究「日本列島の地域別人口歴史」です。
平安末期1150年段階の総人口が724万人に対して
425年前の奈良時代725年には451万人なので、この間は1.6倍という人口増加。
武士の支配する時代の開始を経た1600年の関ヶ原の頃が1389万人。
450年間に人口は1.9倍とほぼ倍増している。
さらに、1600年から246年後の幕末1846年には約3300万人。
2.37倍と人口は急増しているのです。
歴史とともに人口増加趨勢が盛り上がっていったことがみえる。
国家としての基本骨格を天皇制と貴族政治・律令体制としていた時代から
地方の生産力の拡大を分権的に進めたのが鎌倉からの武家政権であり、
それによって経済規模が拡大してきたということがわかる。
とくに江戸期の人口増加は、日本全国の三百諸侯の分権での生産力拡大が
目覚ましい効果を持っていた、ということが明確にわかる。
国内戦争で富を奪い合うよりも、平和を達成する方が生産を上げる。
政治が正義かどうかはどうでもよくて、結局は経済発展こそが最大テーマだと。
巨視的には、そういうことが自然な理解なのでしょう。

図は鎌倉期の九州での建築工事の絵図ですが、
寺院建築の現場に運び込まれた木材と、現場での加工の様子。
歴史段階で言えばそれまでの京都に政治権力が集中した体制から
関東という急成長地域の独立的発展が鎌倉幕府創設で追認された。
寺社というのは、古代から中世にかけては巨大な利権構造であり、
経済主体として機能していた現実がある。
建築はそういった宗教権力が生み出す需要に即して発展したのでしょう。
平家の奈良の焼き討ちからの復興が頼朝の資金援助もあって
大きく進展した希代の建築プロデューサー・重源さんの活躍は
現代でいえば建設大臣と独占ゼネコンの両方を体現したように思うのですが、
その契機に、運慶などのリアリズム木像も多作された。
ああいったリアリズムが可能になり生み出された「木工技術」発展は
同時に建築技術に援用され、相互に影響し合いながら進化した。
戦争からの復興が、全国で活発化したことで、
建築も大きく発展した歴史エポックでもあったように思われます。

【北海道は地形の「カタチ」が美しい?】

って、北海道外の方から言われました。う〜む・・・。
そうなんだろうか、言われるまでまったく考えたこともなかった(笑)。
郷土愛的には褒めていただいてすごくうれしいけれど、
ホント、考えたことがなかったので面食らう。
で、そんなことがホントに一般的に言われているのか、知りたいと
WEBでググってみたら、
北海道の形が美しいから日本が美しい!その形のバランスの良さが際立つ!
というページがトップで表示されました。
「その形のバランスの良さが際立つ!見た瞬間その良さが分かります。
それが北海道の形にある!」
「北海道の地図を見れば見るほど、魅力に満ちた素晴らしい形をしています。
形のバランスの良さが—–抜群に美しい」
と感嘆してくれております。
著者は1981年に日本の建築家名鑑/新建築社から日本の建築家500人に選ばれた
堀江武之さんという方です。横浜で設計事務所をされているようです。
「最も形が好きな都道府県ランキング」というのがあるそうで、
第1位 北海道 138人(40.3%)
第2位 千葉県  22人(6.4%)
第3位 東京都  21人(6.1%)
第4位 愛知県  16人(4.7%)
第5位 新潟県  12人(3.5%)
っていうように話題を展開されていました。
建築の設計を業としている方であれば、
いわゆる「カタチ」についていろいろな思惟を巡らす仕事でしょう。
理解はできますがさて、この論拠になっていたランキングですが、
北海道と他県を「比較する」のはどうなんでしょうか?
北海道はひとつの島がそのまま県境になっているので、
いわば神さまの作りたもうた造形であるのに対して、
各都府県は人為的な区分がカタチになっているので、
いわば神さま対行政区分(笑)というようなハンディキャップがある。

たぶんこの神さまの業が、カタチに決定的な影響があるのだろうと思う。
地球上での空間位置にあらゆる自然条件要素が全部入った上で
もっとも合理的に地形のカタチは決まっていくものでしょう。
木は必ず太陽に向かって伸びていき、枝葉はもっとも太陽光を受けるように
合目的的な形態になっていくように、
地形というものも、その条件下でもっとも自然な造形をつくる。
全地球でももっとも活発な西部太平洋での火山活動の結果、
アジア大陸に沿って弧状列島が形成された。
それらが多雨の気候や海流の影響などが積み重なって
長い年月を掛けて現状のカタチに至ったのでしょう。
ほかの四国・九州島と本州島との間の瀬戸内海とはかなり趣の違う
津軽海峡による本州島との微妙な、つかず離れずの位置関係。
さらにはこの北海道が日本国の地形のワンピースとして加わったことで
「右を向いた龍」といわれるような弧状列島のカタチが完成した。
こういう与条件としての美感に感謝しながら、
人為でそれをさらに磨いていくことが人間の役割なのでしょうね。

そんなことを漠然と考えていたら、
なんと古い友人から中学校時代の「地図」を貸してもらえた(笑)。
物持ちのよさに驚くけれど、1965年段階の地理的知見が集約されていて、
さすがに目が点になるくらい驚く記述もある。
勉強をいかにやっていなかったか、もう手遅れですが(笑)、
変わることのない日本列島・北海道の地形に魅入らされております。

【木彫仏の隆盛と木造建築技術進化の相関】


さて今週は比較的に取材ネタが多かったのですが、
このブログでテーマにして行きたい木造建築技術の原初期を探る探究。
きょうは、木造技術の周辺領域についてです。

日本は東アジア世界の文化圏に長く位置してきて
この歴史経緯のなかで揺籃された模範的な「仏教国」ですが、
他国ではその信仰対象としての仏像は石造や金属製、粘土加工などが
主流であるのに対して、圧倒的に「木像」が多いのが特徴とされる。
写真は木でつくる仏像制作のプロセスの様子と、
この仏像制作の技術者たちの「道具」が下の写真なのですが、
まず一見して、そのまま建築技術に転用可能なものばかり。
たぶん「造作大工」の道具だと言われても疑問は湧かない。
あきらかに相互に緊密に影響し合っていただろうと思えます。
日本史では聖徳太子の「四天王寺」建設を嚆矢として、
当時の世界宗教の本格的導入が始められ、仏教寺院建設が隆盛した。
それは同時に本格的に「木組み」の加工造作技術発展を意味した。
やがて「一木彫り」というような発展もするのですが、
基本的にはいくつかのパーツが接合されて木像は作られた。
先般来ブログ記事で探究してみた、木造構造の架構部での
木組み、仕口技術の起源ですが、
このような仏像制作の精緻な加工技術をみれば、そこで
いわゆる建築の木組み技術が、活用されただろうことは自明。
三内丸山から吉野ヶ里と縄文中期から弥生時代当時の技術発展状況も見える。
日本で仏像制作が盛んになった時期には、木造架構の建築の側でも、
もちろん精巧な接合部技術が存在し進化していただろうことは明白。
ほかのアジア圏では多用されなかった仏像の木造化ですが、
日本で異常に盛り上がったのは、仏教を受容する社会の側で
相当広範な「技術基盤」が存在していたことも容易に想像できる。
三内丸山の縄文期から出雲大社の「高層建築」まで、
その軌跡は簡単にたどることができると思います。

どうもこのあたりの木造技術発展のミッシンクリンクは、
仏像制作技術史の探究が、きわめて近縁的ではないかと思われますね。

【家を操作するスマホ?「自立的」タッチパネル】

こちらの写真も、地域工務店グループ・アース21の見学会から。
住宅にはどんどんと便利な設備が導入されてくる。
玄関先に来る訪問者との応答対話、各種設備機器の調整コントロール。
太陽光発電での発電状況把握、いちばん身近な照明スイッチなど、
電気設備の制御パネルというものは増えていく一方。
で、こういう設備は配線の関係などもあるので、
一般的には「壁付け」という方法が多いだろうと思います。
無意識的に「面倒なものだから、隠しておこう」みたいな心理かと。

ところがこちらのモデル住宅では、
あえて、家での暮らしやデザイン性の中心の階段・吹き抜けに面して
コントロールボックスがニョッキリと自立しているではありませんか。
ふつうであれば、視界の抜けが優先されて
こういう場所に設置させるという発想は出てこないでしょう。
この設置場所は2階階段を上がったすぐの位置であり、
プラン的には2階リビングダイニングということで、
ちょうど写真撮影手前側がダイニングコーナー。
ふだんの「家族団欒」の定位置に当たっています。
そういう意味では、家族が在宅している時間で、
家中でももっとも誰かがいる確率の高い場所に相当している。
吹き抜けに面してもいるので、頼む場合の声の通りもいい。
「あ、ちょっとお客さんだから、話して〜」みたいなコミュニケーション。
そういう「利便性」ということで考えれば位置的には理解出来る。
でもここまであからさまな配置というのも刺激的。
また、このような位置に置くとしての「デザイン性」も気になるもの。
わたし的にはパッと見た目、
吹き抜けの景観がスマホの表示画面のようで、
それに対してタッチパネルのように「操作する」という感覚を持った。
というか、常設してある「家全体のスマホタッチパネル」。
そう思うと、逆に背景の吹き抜けの風景ともそう違和感はないかも。
考えてみれば、現代人の情報との接点はスマホがもっとも普遍的。
そういう「ふつう」がデザイン的に昇華してくるという
そんな「進化」というものもあり得るかも知れない。
スマホとのコミュニケーションが一般化して
住宅のデザインでも、それがイマジネーションの起点になってくる、
そんなイメージを持った次第です。さて、どうなっていくのか?

【北海道R住宅利用 古家「昭和」風改装】



もう5−6年経っているのですが、国が「長期優良住宅」事業を行って
その「補助金制度」を利用しての北海道での受け皿的な
制度設計として「北海道R住宅」というリフォームシステムを作りました。
内容については、WEBで検索していただければ、
道庁のHPや、当社ReplanのHPなどの詳細説明ページも
上位で閲覧可能になっていますので、ご確認ください。

一昨日、北海道の地域工務店ネットワーク・アース21例会で
この制度を利用して札幌市内の古い家を改造した店舗を見学しました。
札幌市西部の手稲山系からのなだらかな丘陵傾斜地の住宅街に
幹線道路に面することもなく、手作りケーキとカフェを提供している。
どうやら「わざわざ店」的な口コミだけで頑張っているようでした。
敷地は旗竿的ですが駐車場も含めるとけっこうな大きさのようです。
駐車場はたぶん全部で10台分くらいはありそう。
外観をみればわかるように、敷地は左右で1m以上の傾斜がある。
その傾斜に沿ってパラペットが3つに分かれていて、
それもデザインに取り込んでいてかわいらしくて、悪くない。
経緯を聞いたら、たまたま親御さんの遺した住宅を相続し、
そのときにたまたまこの「北海道R住宅」の制度が合致して、
獲得できた補助金が大きな支えになって、この店舗併用住宅が
計画起動したのだということでした。
もし、そういう制度利用ができなければ実現しなかったプロジェクト。
建物の奥側を中心に親御さんが遺した庭があって、
その庭木に対して大きく開口させて、落ち着きのある「離れ」的な
都市の中の「一服できる」空間が出現した。
コンセプトとしては「昭和的なノスタルジー」を狙ったとされていた。
きのうも触れましたが、北海道ではいわゆる「古民家」的な存在として
もちろん江戸期にまでさかのぼるものはなく、
明治や大正期建築も、いわゆる擬洋風建築的なものが多くて
いわゆる「民家」的なたたずまいを求めるとしたら、
昭和の、ちょうどわたしのような50-70代の年代が生まれ育ったような、
そういう住宅が回帰可能なデザインイメージなのだろうと思います。
既存の昭和期の木造住宅に対して、構造をしっかり補強し、
現代の基礎的な断熱性能で改修して、シンボリックな開口部には
木製3重ガラス入りサッシを使い庭との応答、性能デザインを可能にした。
長く使い続けていく「愛着」に対し力強い存続価値を付加した工事。

制度設計にかかわっていた者として、
こんな風な建物の存続・再活用の役に立ってくれたことがうれしい。
店舗なので北海道R住宅制度のランドマークに育って欲しいと思います。
喜茶ゆうご 札幌市西区宮の沢3条4丁目6−8 011-555-5870
<設計施工/ヨシケン一級建築士事務所 011-641-4906>

【開拓の歴史「石山軟石」を現代住宅で生かす】


北海道では「開拓期」移民・移住が、本土社会で行き詰まった
生活上の困窮からの止むにやまれぬ苦渋の決断だったことで、
その必然的な貧しさゆえ住居がより始原のカタチに戻らざるを得なかった。
わたしたちのほんの2−3世代前の先人のスタートはそこからだった。
しかしこの地が積雪寒冷という極限地域だったことで、
そこから母体の「ニッポン住宅」とはまったく別の発展
〜高断熱高気密が始まったという事実がある。
開拓から150年近い年月が経過し「経験したこと」をふり返って見て、
さらに一歩進めて日本社会に還元していくことというのも、
心がけて行かなければならないのだろうと思います。
基本的には、開拓から日が浅いので地味が他地域以上に豊かで
より自然に近しく、日本全体の食料生産拠点として地の利がある。
IT化が進行する現代世界ではバーチャル化発展が進むけれど、
食料というリアルの世界で、アメリカ的農薬管理大型農業ではない、
知恵と工夫と、この地の利を生かした日本農業の先端性が
大きな発展可能性を持っているだろうと思います。
さらに次いでの領域は「あたたかく住みごこちの良い家」
という住宅建築についての技術開発だろうことは明確でしょう。

3−4代とはいえ、積んできた歴史蓄積に対して
建築ランドマーク的に意識的でなければならない。
そんな明示的な「素材」というものはあるのだろうか、
そんな意識に気付きを与えてくれたのが、きのう見学した家。
北海道開拓時期「木骨石造」という建築が多く建てられ続けていた。
札幌市の南部の「石山」地域から、支笏湖カルデラ噴火での
噴煙堆積物としてやわらかくて加工しやすい「石材」が豊富に産出された。
これに最初に目をつけたのはアメリカからこの地の開拓に
助っ人として来てくれていた「建築技官」たちだったと言われる。
石で建築を作るという文化はそれほど根付いていなかったニッポンで
構造骨格は木造で作って、壁を石山軟石で作るという建築が多く作られた。
初期の開拓民にとってそれらの建築は、ほとんど始原的住居に暮らす日常から
坂の上の雲のように見ていた憧れだったのかも知れない。
ある時期までの札幌の景観のエキゾティシズムの一部分を彩っていた。
この家ではその石山軟石を薄くスライスした素材を
外壁材としてあらわしていた。
重厚な色合いのレンガと対比させていて永続性を感じる。
この素材はその後の「ブロック住宅」とも組成が近しく、
やはり短いとはいえ、北海道150年の歴史の証人ともいえる。
こういう素材を意図的に使っていく住宅には、
いかにも「この地に建つ」というアイデンティティが感じられる。
そんな思いを持って、見学させていただきました。

【「仕口」接合以前の木造架構を考える】


「仕口」は、構造部材である柱や梁、桁など2つ以上の部材を
組み合わせ接合する方法。 またはその接合箇所。
仕口はかかった力の伝達が的確に行われるようそれぞれに
「ほぞ」(突起)と「ほぞ穴」をつくり組み合わされる。

ここのところ、ライフワークの住宅取材について
過去20年間近い「遺跡復元建築」「古民家(移築や復元)」などの
追体験的な取材写真・整理整頓をしてきております。
そうすると見学取材撮影時に気付いていたけれど、それほどには
立ち止まって考えるのを忘却していたことがあらためて盛り上がる。
表題のようなことについて、根源的な疑問が湧いてきています。
きのうも書いた次第ですが、秋田の西方設計さんから
「吉野ヶ里を見ましたが、貫の復元が出土例がなく問題視されています。」
という指摘。興味を強く持たれたコメントをいただきました。
氏もこの「仕口」の初源について強い興味を持っているとのこと。
飛躍して「Replanでシンポジウム企画して」と想像を超える提案まで(笑)。
こういう「復元」プロセスについて吉野ヶ里を管理する佐賀県などの
該当ページなどでも、このあたりのことについての詳述はない。
おおむね3世紀を想定した復元で、卑弥呼と想定される「女王」の
居館をイメージした大型木造建築、物見櫓建築が復元されていますが、
貫という仕口の基本構造事例がこの時代「出土例」がないという。
日本の酸性土壌特性から考えると、そういう材の保存・出土が可能かどうか
大いに疑問ですが、あきらかに物証には乏しいのでしょうね。
一方できのうご紹介した竹中大工道具館展示では、「縄文中期」からは、
こうした仕口加工が認められているともされていました。
あるいは物証以外の証明から歴史認証されているのかも知れません。
このあたりの「仕口」の起源についてと、それ以前の架構について
どんどんと興味が深まってきている次第。
で、写真は三内丸山の高層櫓と大型木造建築の「構造材接合部位」。
仕口発達以前には、縄、もしくはつる状植物での縄接合で
「載せる・重ねる」という架構の固定化が図られている様子がわかる。
三内丸山はおよそ5,000年前が復元ポイントとされているので、
こういう架構方法を想像して復元したのでしょう。
まぁおおむね常識的に理解可能だと思いましたが、
よくみると櫓建築では柱に対して斜めの太い「枝」状の突起部位がある。
そこに太い横架材が載せられ、上階架構構造の起点になっている。
2階以上の「高層」建築の設計を想像すると、こういう「架構方法」が
初源により近いイメージなのではないか。
柱と横架材の組み合わせでより高層の建物を構想したら
最初に浮かんでくるアイデアは、こういう「枝」を利用して
そこに横架材を載せる方法が、自然観察からの人間思惟的に無理がない。
こういった架構であれば、石斧だけの道具段階でも建築可能だった。
ただし、少なくとも4−6本の同様の太さ、枝ぶりの自然木を
探し出して伐採、移動させてくる必要がある。けっこう太くて重い・・・。
さらに目をこらすと、補強として楔の初源のような端材も散見される。・・・

世界的にも稀有な木造構法である日本の柱梁建築技術。
弥生からだけではなく、もっと初源の縄文から訪ね歩く、
すっかり人類史・古代建築探偵団のモードになってきております(笑)。

【縄組み構法から「木組み」への木造技術過渡期】

どうもこのテーマ周辺のことが頭からなかなか離れません(笑)。
人文系の歴史とかが好きなタイプの人間が、
理系の建築技術について興味を持つと、
このあたりの自然の知恵から「建築工学」への過渡期に意識が集中するのか。
きっと納得するには、ある種の発想の「飛躍」が必要なのかも(笑)。

一昨日も触れていた「与那国の家」では、
柱梁の基本構造部分で縄で「縛り上げる」構法が使われていた。
たぶん100年前くらいまでは南方での「民家」として
初源的な「家の建て方」としてふつうに存在していたのでしょう。
それも、人口も少ない離島社会での伝統的家づくりとして
専門職が関与しない「家づくり」の「伝統工法」だったのだと思います。
写真は、下が先日もご紹介した「三内丸山と吉野ヶ里」の構造部分詳細。
で、この間には3000年ほどの時間差があり吉野ヶ里は3世紀推定。
この時間差のなかでどのように社会での変化があったのか、
そこが非常に興味深いなと思っています。
写真の上の方には、神戸の「竹中大工道具館」で見学したときに見た、
いわば「軸組」構法のはじまり、始原の説明図を組み合わせた次第。
で、説明図真ん中で石斧での「穴開け・仕口」加工が始まったという説明。
こういう建築工法「革命」があったけれど、
その時代以降の遺跡、北海道に遺された遺跡では近世のアイヌ期建築でも
こういった「軸組」構法採用は民家レベルでは寡聞にして知らないし、
沖縄の与那国島では、ごく100年前くらいまで採用されない住宅が残っていた、
ということがわかるのだと思うのです。
こういう建築の構法進化に伴って、社会的「分業」が明確化した、
というのがいちばんわかりやすい理解なのだろうと思う。

建築の「匠」世界というのはこの段階から、
いわばわかりやすくまっすぐに「発展して」いったのだろうと思う。
社会発展と人口増加に伴って、建築の需要はどんどん高まっていって、
いろいろな領域での技術発展も相互に影響し合い、
さらに中国から仏教建築が導入され、大阪四天王寺建立などで
聖徳太子が半島社会から「大工」職を招聘して技術加速がされたりした。
そこからはいわば歴史史実で後追いできるような世界がつながった。
この写真と説明図のところの「ミッシンクリンク」が
ムダに興味深い(笑)のであります。
こういうことに興味を持つ人間って、絶滅危惧種なのでしょうか(笑)?