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【城と町、交通の相関 in岐阜】


きのうは国の住宅施策についての会議に参加して参りました。
年間3回計画されていて、最初は東京、続いて今回、岐阜で開催して
最後12月に札幌で開催の予定ということ。
会議については、継続中のことなのでまたあらためての機会に。

会議がなんと朝10時からということで前泊して参加。
岐阜で宿泊するというのははじめて。
これまではだいたい、名古屋からどこかに行くときの「経由都市」。
岐阜と言えば稲葉山に築かれた岐阜城であります。
この城のある稲葉山は周囲が長良川に囲まれて、城下町からは急峻な山。
信長は何回か、この城下町までは侵攻できたけれど、
山上から攻められて敗戦を繰り返していたとされる。
しかし、岐阜はまさに交通の要衝で、美濃平野から伊勢湾に下る
まさに「要衝地」にあることが目にも明らかであります。
この長良川は東海最大の穀倉地帯・美濃の交通のカナメ。
鉄砲の伝来によって、戦国の気運、戦争の仕方が大規模化して
明確に「天下統一」という目標が見えてきた段階で、
この地を抑えれば、あとは「上洛」するには「指呼」の間。
この地を抑えることが出来てそれまでの稲葉山城から「岐阜城」という
天下への志向をあきらかな軍事方針として明示したことが有名。

で、城と「城下町」という関係でもまことに明瞭。
戦国期には、こういう要衝地で軍事的に安定した地方政権は
さらに軍事費を最大限確保するために、商業の活発化をはかった。
信長は若い時期に堺の街に遊学したことがエピソードで残っているけれど、
世界との交易での利得をカラダで体感して
経済重視の国家経営・軍事費確保を相当強く思い定めたと思う。
この岐阜は東海地方のものの往来にとって要衝なので、
そこに商業活動の拠点を置くことの経済的利点は大きかったと思います。
そういった商業流通が活発化することで軍事費を拡大できたのでしょう。
城の建築もこの岐阜を得た後、すぐに既存のものを破却して
新規に造営したとされています。
今残っている山上の城も、かなり明瞭なランドマーク。
500年の時間を超えても伝わってくるものがありました。

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