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【明治初年・屯田兵屋「住みごこち」と設計者】


きのうの続きです。琴似屯田兵屋の「設計者」は以下だという。
村橋久成(1842年〜1892年)幕末薩摩藩士、開拓使官吏。英国留学経験あり。
事跡からは特段「建築を学んだ」形跡は見られず、薩摩軍人として
明治戊辰の箱館戦争〜慶応4年/明治元年・明治2年(1868年-1869年)で
旧幕府・榎本軍と戦い戦功により400両の恩賞を受ける、とある。
明治6年(1873年)12月、北海道の七重開墾場に赴き、測量と畑の区割りを行う。
翌明治7年(1874年)屯田兵創設に伴う札幌周辺の入植地を調査、
琴似兵村の区割りを行う。明治8年(1875年)4月、七重開墾場と琴似兵村の
立ち上げを終えて東京に戻る。〜ということのようなので、
軍人・明治国家の高級官吏として関わったようなのだけれど、
建築は専門家とはいえないだろうと思われる。
設計者として名前は残っているけれど、建築計画は担当者が別にいて
かれは高級官僚として政府側との折衝責任者であったように見える。
その後官職を辞して数奇な人生を歩み、神戸で行き倒れて死んだという。
たぶん配下意識を持っていた明治の元勲・黒田清隆が葬儀を出した。
札幌市にある北海道知事公館前庭に村橋の胸像『残響』が建てられている。
屯田兵屋当初企画案では、煉瓦製の洋式炉が切られていたが、
実際には予算不足から一部土壁で純日本式の囲炉裏付きの兵屋に。
窓は隙間のある無双窓で煙出しからも雪が吹き込むなど
寒冷地対策はほとんど施されなかった。
琴似兵村の兵屋は「東京旧幕組屋敷足軽乃宅也」(松本十郎大判官)、
「薄紙様ノ家屋」(ホーレス・ケプロン)などと評価されたようです。
ケプロンの多くの発言からは北米式寒冷地住宅との乖離が読み取れる。
・・・付記すれば、村橋の下僚は旧幕府の建築担当役所である作事奉行の
組織がそのまま新政府の官僚機構として引き継がれた形跡が濃厚で、
一昨日記事掲載の「八王子千人組頭の家」との設計プランの酷似ぶり、
などを勘案すれば、徹底的にコストパフォーマンスを追求した
江戸幕府機構の合理的設計だったように推量可能かと思えます。
ただ、あいついだ戊辰戦争の戦費からの財政圧迫で
屋根が重厚な萱葺きから柾屋根葺きに変更、洋式ストーブから囲炉裏になど
設計後退を余儀なくされたものかも知れない。
そういう政策決定判断に関東人でもなく薩摩人があたっていたことは
本格的な日本寒冷地公営住宅事始めとしては残念だったかも知れない。

どうしてもこの屯田兵屋の住み手の感想が知りたくて探したら
以下、WEBでいくつかの証言を発見。北海道屯田倶楽部HPより。
〜屯田兵家族らの証言(一部・要旨・抜粋)
「天井が張ってなかったので屋根裏が直に見えた。冬になると柾釘先に
霜が着いて屋根裏が真っ白になった」(湧別・三浦清助・上湧別町史)
「屋根に煙出しが付いていたんですが、炉で薪を焚いたので煙たくて
いつも眼がクシャクシャ」(湧別・西潟かぎ、上湧別町史)
「5日がかりで永山へ入ったが来て驚いた。兵屋の中に蕗や笹がいっぱいで、
度肝を抜かれた。雪が五尺六尺と積もるのにも驚いた。雪中伐採木のため
兵屋が壊れたり死傷した者もあった」(永山将校・野万寿、北海タイムス)
「はじめて家に入ってみると土間に三尺 (約114cm) ある切り株が二つもあった。畳はカヤだった」(一已・原タマ、深川市史)
「家は粗末で焚き火に向かった前だけ暑かったが背中から寒くて煙たくて
吹雪の時は雪が入った。大きな囲炉裏に薪をいっぱいくべて寝たが朝起きたら、
蒲団の上に雪が積もっていたことも」(納内・北出長一、深川市史)

まさに前記の2人の「感想」がそのままに生活実感として語られている。
わたしの感覚で、この屯田兵屋の先行形態として旧幕府武家住宅との
類縁性を感じていたのですが、「東京旧幕組屋敷足軽乃宅也」(松本十郎大判官)
という当時の観察者の証言もあるようですね。
こういった住居から明治期北海道の住環境は始まった・・・。
この先人たちの「住みごこち」の感想は時代を超えて迫ってきます。

【江戸由来の武家規格住宅 札幌・屯田兵屋】



さてきのうは江戸期の中級武家住宅、八王子千人同心組頭の家を
記事構成しましたが、ひるがえって北海道での特異な戸建て住宅、
札幌市西区・琴似の屯田兵屋について考えてみたいと思います。
わたしどもの事務所は、この屯田兵屋(跡)から徒歩7−8分。
いまは札幌西区役所周辺のビル群に囲まれるように建っている。
それでも上の写真のように、敷地の菜園も含めて1戸が遺されている。
敷地の面積は10間×15間の150坪で、住居面積は3.5間×5間弱、
平屋の17坪と記されている。このような住宅が写真図のように配置された。
配置から考えると、いまの「札幌地下鉄琴似駅」も敷地に含まれていた。
近隣には「琴似神社」もあり明治ニッポンの開拓を感じさせる。
昨日見た江戸幕府の中級武家住宅は21坪ほどですから
特異な「武人」向け住宅として、スタンダードっぽい規格住宅ぶり。
北海道には「歴史的建造物」はそう多くはありませんが、
この屯田兵屋はかなり特異な建物と言えるでしょう。
さすがに縁のある地域なので、いまもこの近隣に住んでいて
祖先が屯田兵として入地した、という高校同期の友人もいます。
かれの伝来の家もこの屯田兵屋にほど近いので、
この屯田兵屋群が展開したそのままの土地であるかも知れない。

明治初年に入植した当時の記念写真が残っている。
屯田兵の制度は明治7年に定められて、榎本武揚などの
旧幕臣を活用することを方針としていた開拓使次官・黒田清隆の
建議によって、制度が定められた経緯から東北諸藩の旧士族が
大量に採用されたといわれる。
明治8年、総戸数198戸がこの札幌市西区・琴似に入ってきた。
隊が編成され入植してすぐの明治10年に西南戦争が勃発して
旧幕府方だった屯田兵たちは動員され仇敵・薩摩に対し勇戦したとされる。
しかしその屯田兵部隊を指揮した士官たちは薩摩出身者が多く
戦場ですこぶる戦意が薄かったとされる。
であるのに、戦後の論功行賞では士官に篤く勇戦した東北諸藩出身者に
薄かったため、1人の将校が抗議の切腹をしたと言われる。
この写真に残る屯田兵の人々の表情にそんな歴史の残像が重なる気がする。
士官とおぼしき人物以外は、裸足のようにも見られる。
幕末から明治にかけての内戦がさまざまに陰を落としている。
その後、出征した日清戦争では交戦記録はなかったけれど、
明治37年の日露戦争では、乃木希典の指揮する第三軍に属した。
最激戦・旅順攻囲戦の一翼を担って甚大な損害を出した。合掌。

屯田兵は家族を連れて入地し、入地前にあらかじめ用意された家「兵屋」と、
未開拓の土地を割り当てられた。写真上の150坪ほどの敷地・菜園は
各戸のための農作地でほかに共同作業での農耕地があったとされる。
兵屋は一戸建てで村ごとに一定規格で作られた。
板壁・柾屋根(薄い板で葺いた屋根)の木造建築で、
畳敷きの部屋が2部屋、炉を据えた板の間、土間、便所からなり、
流しは板の間あるいは土間におかれた。決して贅沢な間取りではないが、
当時の一般庶民の住宅よりは良かったとされている。
高温多湿の気候に向いた高床式の日本建築ゆえ、冬季には
寒さで非常な苦痛を強いられたのは、他の入植者と差はなかった。
この時代というか、江戸期の公営規格「武家住宅」というのが、
この屯田兵住宅の基本的な作られようであったことがわかる。
ただ、昨日見た江戸期の八王子の家が「茅葺き」でまだしも
「断熱」を意図しているのに、薄い柾屋根というのはキビシイ。
このあたり明治国家の「規格」は江戸幕府よりも劣化した?
より温暖な薩長に権力が移ったことが、こんなことに反映したのか。
このように始まった明治ニッポンの消息がわが家直近にも息づいている。

【現代住宅のルーツ? 「江戸期中級武家」屋敷】



写真は江戸東京たてもの園の「八王子千人同心組頭の家」。
秋田の設計者・西方里見さんから、よく
「現代住宅のモデルは江戸期の中級武家住宅」と言われる。
氏と本格的にこのあたりの「どうしてなの?」というところは
ヒアリングは出来ていません。
しかしまぁ、なんとなくこういうイメージなんだろうなぁ、
というのを感じている部分はある。

江戸期までの日本では「庶民の都市戸建て住宅」概念は乏しかった。
社会の基本のムラでは職住一体機能の「農家住宅」はあった。
そのなかでも支配階層の土地持ちの庄屋たちの住宅は
内部空間の大きな家で、たくさんの小作たちを組織する屋敷。
それらでは集団的農事作業の広大なスペースが用意されていたり
大人数での「寄り合い」集合も可能な広間もあったりする。
なかばは「半公共」的な家屋敷だったことが見て取れる。
実際に領主からの年貢のとりまとめ、請負機能も持っていたので、
社会的にもそういう側面を持っていたと思われます。
古民家として残されている一般小作層の住宅というのはごく少なく
例外的に見ることがあるけれど、土間主体のもので、
大家族が身を寄せ合う様子がその圧倒的な「貧しさ」として偲ばれる。
わが家系は商家でうまくいかず広島県から北海道に移住したのですが、
同郷の知人が農地地主でその小作として家族が生き延びた住宅は
時代は明治期ではあっても、ほぼ同様の「小屋」だった。
身分制というよりも、階層的分化が明確な住形態だったといえる。
一方で都市の「町家」は独立自営の商家の職住一体住宅。
税の基準が「間口」の寸法でおおむね計量されたという
そういう社会的制約に対応した建築群だった。
中庭の工夫など、規制制約の中での自由探究もオモシロい。
それ以外の都市集住者たちは「長屋」形式の賃貸住宅に暮らしていた。
その「長屋」のなかにも一部には成功者の戸建てタイプも
見られたようですが、しかし基本のくらしは長屋共同体生活。
大枠としては土地持ちの「旦那」に賃料を払う賃貸が大半の庶民住宅。
いわゆる都市での独立的「戸建て住宅」は概念自体がなかった。
というか、そういう社会的階層自体が存在していなかった。

明治維新以降、産業革命が徐々に日本に根付き始め、
そういう産業会社に勤務する勤労者という「階層」が成立して
大正期にいたって、そういう少数階層が戸建て住宅を都市に持った。
大正デモクラシーを生み出した都市居住者の生活文化。
こうした階層は、徐々に拡大していって、
戦後社会の高度成長に伴った地方からの大量の都市移住に結果して
「都市で勤労し戸建の独立的持ち家を持つ」というスタイルが作られた。
そういう時代になって住の歴史的なモデルとなり得るとすれば、
この写真のような江戸期での「階層とその住宅形式」が想起される、
ということだったのだろうと理解したのです。
そんな住宅の具体的なイメージで思い浮かんだのがこの家。
あらためて見てみると、間取り形式は3.5間×6間程度。
土間と座敷空間に大きく分かれている。
武家としてのしつらいと半農的な暮らしようも見て取れる。
まぁ、武士だから菜園仕事とか内職は別にして、
いわゆる生活の仕事の匂いというのは感じられない。
他の同時代住宅と比べて「職住一体性」がきわめて希薄。
たしかに現代住宅の仕様・形式への近縁性は強く感じられますね。

【フェイクも多い中国正史 「明史」日本伝】

魏志倭人伝というのはナゾ多き古代史の白眉。
邪馬台国、卑弥呼というフレーズに日本人は揮発性が高い(笑)。
わたしは本格的国土になって150年の北海道ネイティブでもあり
やや引き気味。ただナゾといわれると野次馬的興味は高まるのですが、
でも、中国の正史と言ってもそもそも信憑性に疑問は持つ。
かの国にしてみれば遠い異国の、情報も乏しい時代での伝聞記録。
その片言隻句を日本人が微に入り細に入り論争し合うのはやや滑稽かもと。
そんな思いを持っていたら東京外国語大学名誉教授、故・岡田英弘氏は
著書「日本の誕生」のなかで1753年に編纂された中国・明の正史である
「明史日本伝」を引用。この時代より150年以上前の日本の
戦国時代末の歴史を描いた部分を抜粋している。以下。
・・・・・
日本にはもと王があって、その臣下では関白というのが一番えらかった。
当時、関白だったのは山城守の信長であって、ある日、
猟に出たところが木の下に寝ているやつがある。びっくりして
飛び起きたところをつかまえて問いただすと、自分は平秀吉といって、
薩摩の国の人の下男だという。すばしっこくて口が上手いので、
信長に気に入られて馬飼いになり、木下という名をつけてもらった。
・・・信長の参謀の阿奇支というのが落ち度があったので、
信長は秀吉に命じて軍隊をひきいて攻めさせた。ところが突然、
信長は家来の明智に殺された。秀吉はちょうど阿奇支を攻め滅ぼした
ばかりだったが。変事を聞いて武将の行長らとともに、
勝った勢いで軍隊をひきいて帰り、明智を滅ぼした。(p.33)
<以下、「明史日本伝」漢文当該箇所>
【日本故有王、其下称関白者最尊、時以山城州渠信長為之。偶出猟、
遇一人臥樹下。驚起衝突。執而詰之。自言「為平秀吉、薩摩州人之奴」。
雄健蹺捷、有口弁。信長悅之、令牧馬、名曰「木下人」。・・・
有参謀阿奇支者、得罪信長。命秀吉統兵討之。俄信長為其下明智所殺、
秀吉方攻滅阿奇支、聞変、与部将行長等乗勝還兵誅之。】

ご存知のように中国易姓革命国家では、
前王朝の記録を次の王朝が「正史」として記録するのがならい。
そして1753年に編纂された記録というのがこの内容なのですね。
さまざまな誤解が盛り込まれていて、日本人が読むと驚かされる。
メッチャ、オモシロいことは確かだけれど、
信長が関白や「山城守」だったとは寡聞にして聞かないし、
秀吉も平氏だったことはもちろんなく
また攻めたのは毛利であって、「阿奇支」ではない。
阿奇支と明智、認識の混同も明らかだけれど?・・・。
〜150年経過した18世紀でこうなのです。いわんや3世紀編纂の国史。
縁遠い他国情報の魏志「倭人伝」部分について、
その片言隻句を詮索するのは、論理的とは言いにくいのではないか。
なんとなく歴史の流れの概略としてストーリーの脈絡がある、
程度に抑えておくくらいが正鵠と思えますね。
中国ではかつて正史はやがて書かれたのだけれど、
現代の共産党支配の中国はその成立直前の時期について
かなり事実とはかけ離れた歴史フェイクも多いと思います。
白髪三千丈の国民性もあり、少し冷静な見方が必要でしょうね。
それよりは、きのうまで触れている国土の詳細な歴史地形、交通手段の
科学的探究などから歴史事実を再検証する方が、核心的ではないか。
歴史教科書に当時の国土地形を併せて載せる方法が有益かも。
<写真は吉野ヶ里の復元建築内の様子。ニアリー邪馬台国?>

【豪放磊落 丸太木組みの美感】


どうもこういう力感に弱くなってきています(笑)。
丸太が縦横にそのままにあらわされて
くっきりと目に見えるかたちで構造美をたたえている。
まことにシンプルに「こうできているよ(笑)」と語りかけている。
一見「無意匠」というように見えるけれど、
こういう素材そのものでデザインを完結させるのは
まことに清々しい「意匠」の根源かもと思う。
ニッポン人の心性に非常に寄り添っているとも思える次第。

この建物は北海道のおへそに近い上富良野町郊外にある。
「土の館」という名前に引き寄せられるように
カミさんが運転するクルマでたどりついた休日ドライブの訪問先。
わたしはその間、まったく気絶して眠っていたので
どうして彼女が引き寄せられたのかはまったく知りません(笑)。
気がついたらカミさんがドアを開けてきたのです。
寝ぼけながら「土の館」を見学した後、
隣接するトラクターの展示館を見ていたら、この光景。
この建物の左右幅、上の写真の横方向ですが、
それは窓の長さを基準にしてみてみると約5間超程度。
たぶん10m超はあるのではと推定された。
その長さで梁に利用された丸太は接ぎ木のない1本のようで
しかも見た感じ、太さが「上下」で変わらないようです。
建てられてから20年近いということを聞きましたが、
「これは外材ですけど、今じゃ外材でもこういう材料は入手できない」
というような説明を「土の館」の方から聞きました。
第一、この材料を道路輸送で運んできたこともすごい。
まぁ上富良野ですから、十勝の方から幹線道路輸送だけでしょうが、
端部を含めれば10数メートルの丸太がけっこうな量で
運ばれてきたことになるワケで、胸躍る光景であります(笑)。
木組み自体は金物で緊結されているので、
精妙さというようではないのですが、
まことに久々に見る豪放磊落感で、スッキリ目覚めさせられました。

【過去地形から歴史を見つめ直す】


きのう「過去地形」について触れたら、
さまざまな反響、ご意見をいただきました。
たいへん貴重な声をいただき、感謝の念に堪えません。

わたしの家系は祖父は広島県福山市近郊生まれで北海道に移住し、父も彼の地で
生まれましたが、わたしは北海道生まれのネイティブ北海道人。
まぁ3代で江戸っ子という言葉を聞くことがありますが、
「蝦夷っこ」という言葉はあんまり聞いたことがない(笑)。
でもそろそろこの地に深い愛情を持って来し方行く末をと考える世代。
しかし、なかなか過去歴史の少なさに心許なさも感じている(泣)。
それでも考古的な発見とか探究が進められていて大いに勇気づけられます。
そういった学究にも知人がおります。
上の図はそうした学究の一人である右代啓視氏が関わった北海道博物館の展示。
<ブログ過去記事【北海道の「過去地形」を見る】を参照ください>
約21万年前の北海道島の地形図であります。
きれいに石狩低地帯が海沈していて、太平洋と日本海がつながっている。
その後、この海が陸地化してきたことが視覚化されている。
こういった探究もさまざまな知見を総合する作業なのだと思います。
だいたい現生人類も出現したかどうか、という時代のことがら。
現代の知見、文字記録などはもちろんまったくないけれど
それでも考古的には探究の方法はあるのですね。ファイトは湧く。

しかし一方、下の図は大阪の歴史地形であります。
こちらの方は、21万年というような考古の年代とはまったく違う。
左側が5000年前くらいにあったとされる「縄文海進」での地形。
そして右側が2005年段階の衛星俯瞰地形図であります。
で、さすがに人口密集地域なのでこの間の地形の変遷も
公的な研究業績の蓄積で確認できるのだそうです。うらやましい(笑)。
上町台地といわれる固い地盤層に
大阪城とか、難波宮とか、四天王寺、仁徳天皇陵など
歴史年代きわめて重要な建築群がならんでいたとされています。
縄文海進時点図の北に向かって突出するような地形地がそれにあたると。
北海道とは違って、人口集積がハンパなくしかも歴史蓄積が
文字記録もふくめてメッチャすごい。
人間の事跡痕跡蓄積の多さに、まさに目眩するほどであります。
ひるがえって、蝦夷地の手掛かりの少なさよ(泣)。
この両方の地域について、住宅に関する仕事をしているので、
地形とか地盤とか、土壌・風土とかを考える上でまことに対照的。
行きつ戻りつしながら、相互に気付きを持てればオモシロいかも。
そんな興味がどんどん深まってきております。ふーむ。

【歴史年代で陸と海がまったく違うニッポン】


人間は無意識のうちに、見えていることだけにとらわれやすい。
しかし、見えていることも常に変転する。
地球規模の気候変動要因で海陸が変化するというのは、
比較的にわかりやすい出来事と言えますが、
しかしやはり実感として常に把握するのはむずかしい。

一番上の図は釧路湿原展望台近くの「高台」にある北斗遺跡の
歴史年代での海岸線の変遷の説明。
現代の写真では広大な釧路湿原が見晴らせる高台ですが、
この遺跡は重複遺跡で、旧石器から縄文・続縄文・擦文時代までの
合わせて300以上の竪穴痕跡があり長い歴史が刻まれている。
現在は釧路湿原を望む標高20mですが、
遺跡に人間が住んでいた当時はここはごく海岸に近かった。
直近の擦文時代っていうのはいまから1,000年程度の過去。
水利の交通の便が良く海産品の確保もできて
周辺陸上樹木からの採集など人間居住・ムラ形成には好適地だった。
北海道の遺跡には、いまの海岸線からは離れた
こういったやや高台にあるものを多くみることができます。
丸木舟のカヌーや少し大型の海での漁撈のための舟など
多様な乗り物を操りながら日々の暮らしを営んでいたに違いない。
300以上もの竪穴住居跡が確認されているということなので、
おたがいの生存を支え合う数百人規模のムラ社会がそこにあって、
それぞれの役割分担で分業的な社会構成があったのだろうと。
そしてこうしたムラ社会が各地に点在して、相互に
行き来する中で「交易」が営まれてもいたのでしょう。
北海道島の人々は隣接するニッポン社会や北東アジアと
活発な「交易」を営んでいたことが確認されています。
北海道の「鷲の羽根」やアザラシの皮革が日本の首都・京都社会と
交易され、最上位の「威信財」となっていた記録が残る。

こういった海岸線の光景がまったく変化するということは
わたしは北海道の遺跡探訪でよく確認していたのですが、
やはり日本各地でも同様であった知見が積層してきている。
3番目の図は大阪文化財協会が発表されている縄文期の大阪の「地形」。
いまの陸海感覚とはまったく違う光景がそこに広がっていて
さらに日本史の中心地域なので、展開した日本の歴史事実にも
こういった「地形変動」が大きなファクターであったことが明らか。
浪速という地名は内海、その後、湖になった河内地域から
潮の干満に合わせて「浪が速くなる」ことを表現した地名だという。
北海道でもそうだけれど、交通手段は舟が主体なので
こうした地形の動態的な違いをアタマに入れなければ、
能動的な歴史理解には至らないということも至極当然ですね。
わたしの生きてきた数十年でも「交通の変化」はすごいのですが、
歴史年代でも同様に水上交通・人の生き方の変化は必須前提条件。
知らずに垢のようにたまる常識のウソ・ワナをキモに銘じております。

【ムラ社会を超える人間共同体は可能か?】

先日、このブログで【核家族から大家族へ 社会復元は可能か?】
っていう記事を書きました。
それがけっこうロングセラーな反響(笑)をいただいています。
要旨としては現代の趨勢である「核家族」が生み出した
人間の生き方をよりバラバラにしての資本主義的発展の結果である
人間疎外的な現実に対して「大家族」という、より生きやすい環境を
再度、復権させる方向を考えられないか、ということでした。
その意見に対して、けっこう多くの方から
大家族の再構築というのはムリではないか、
それよりも町内会的な地域的結びつきとか、あらたな趣向興味的な
人間の「共同体」が現実的ではないかというご意見。
わたしの年代は大家族的な生き方の残滓を濃厚に保持していると
勝手に思い込んでいたので、同年代とおぼしき方から
そうではないのでは、というご意見を聞いて意外だった。

もちろん家族関係というのも歴史的な選択のことなので、
今後の人類趨勢がどうなっていくのか、誰にも将来はみえにくい。
しかし資本主義と「核家族化」はやはり相関関係にはあり、
株式会社システムは、自立した個人主義が無意識の大前提だと思う。
個人はそれまでの社会の大きな共同体的な「まゆ」から自立して
より小さい「夫婦・親子」だけの、それも子育てが終われば
こどもは自立して家を出ていく社会システムがいちばん都合がいい。
資本主義では面倒な社会システム維持みたいな責任から自由でいられる。
だから、資本は多国籍化して自由に国境も越えるような
そういった束縛からの自由を希求するのが本質でしょう。
いちばんわかりやすい実例は、戦後の日本での大都市への人口集中。
日本資本主義が発展する過程で、それまでのムラ社会からの
集団離脱が発生して、都市圏での「マイホーム」が憧憬された。
わたしどもの「住宅」マーケットが巨大化したのは、
こういう地方のムラ社会からの「自立」が個人主義と結びついた結果。
そしてとなりに誰が住んでいるのかまったく無頓着な擬似共同体、
町内会組織のようなものが対置されてきた現実がある。

しかしいま、世界的に資本主義的グローバリズムへの反転が起こっている。
マルクスが考えたような労働者階級の目覚めではなく、
むしろ保守主義的な流れから、国や自然的共同体から発露している
流れというのが大きく起こってきているのだと思う。
むしろ、グローバリズムに最適なのは共産党独裁の政体だということに
多くの現代人の反発が巻き起こっているように思える。
イギリスで起こり、アメリカでトランプ政権が出来、
アメリカによる中国否定の動きが大きな流れになり、
香港で中国共産党独裁が拒否されている現実には、どうも根底的な
同時代性があるように思える次第です。
そういう時代性のなかから、どうも大家族的な志向性が
強まっていくのではないかと、そういった思いが芽生えてきたのですね。
住宅を考える仕事をしてきて、人間の生き方のシアワセを
見つめていくことを繰り返してきて、そんな思いを持っています。
写真は北海道の釧路湿原にある北斗遺跡。
かわいらしい住宅が寄り添うように隣居する様子が好きです。

【北海道「後方羊蹄」をなぜ「シリベシ」と読むか?】

きのう、奈良時代の陸奧産金と万葉集編纂のことを書きました。
最近、この万葉集のことが令和の命名のことがあって
話題になっていろいろ勉強してきていたこともあります。

で、万葉集のころの日本語表現「万葉かな」のことに触れたのですが、
わたしのブログを応援してくれているShigeru Narabeさんから
この「万葉かな」についてコメントがありまして
〜万葉仮名のまとまった使用は古事記や万葉集あたりからですが、
鉄剣の金象嵌などでは5世紀からすでにあったようです。
今では羊蹄山と呼ばれるシリベシ山も
「後方(シリヘ)羊蹄(シ)という万葉仮名です」〜というご指摘。
おおお、であります。
実はわたし、この「後方羊蹄」という地名漢字がなぜこう付けられたか、
長年疑問には感じていながら探究していなかったのです。
こういうご指摘を受けて、とっさに「阿倍比羅夫」の
古代での海軍的「蝦夷征伐」北征のことが浮かんだ。
かれは、658年から660年の3年間にわたってこの「遠征」をしている。
高校の後輩の考古学者・瀬川拓郎さんはこの遠征に着目して
オホーツク文化人(粛慎と日本書紀には表記されている)との交戦事跡を
発表されたりもしています。で、Wikipediaでも
〜『日本書紀』によれば、斉明天皇4年(658年)に水軍180隻を率いて
蝦夷(北海道)を討ち、さらに粛慎を平らげた。
翌年には再び蝦夷を討って「後方羊蹄(シリベシ)」に至り、
政所を置き郡領を任命して帰った〜と記述されています。
この時代とおぼしき札幌近郊「江別古墳群」というものも発見され、
この日本書紀記述には蓋然性が高い。
・・・といったようなことは知識を持っていたのですが、
この「後方羊蹄」の読みが「万葉かな」由来であるということは
うかつにも気付かなかった次第なのであります。う〜む。

北海道の地名というのはほとんどがアイヌ地名に由来するというのが
一般的な常識であって、そこに道南地域など一部に
和人文化の堆積に比例して和名も加わってきた、という
常識的前提理解に立ってきていた。
そこを疑うというか、疑問を持たずにいたことを思い知らされた。
「後方羊蹄」=後方(シリヘ)羊蹄(シ)という万葉かなであるなら、
北海道の日本式地名としては最初期に相当する。
<現在は後志と書いてシリベシと発音しています。>
古代史で阿倍比羅夫の遠征というのは、あまり関心が寄せられませんが
そういえば、白村江の戦い(663年10月)にも阿倍比羅夫は参陣し、
太宰府の大宰帥(だざいのそつ)大宰府の長官にもなっている。
九州における外交・防衛の責任者となったとされているのですね。
今日的には外務から防衛大臣の河野太郎さんの役割とも類推できるか。
もっと言えば任命者は「安倍」さんだ(笑)。歴史は繰り返す?
この時代、朝鮮半島関係に注力するのは戦略物資「鉄」が絡むので
経済的軍事的に当然だとも思うのですが、同じ武人が
それに先だって北海道にも遠征していたというのは、
この時代の「国家意志」のありようの一端をあらわしている。
北海道とニッポンの関わりということでのミッシンクリンクですね。
う〜む、興味深い領域テーマが立ち上ってきた(笑)。

【万葉かなと陸奧産金 大友家持「万葉集」一首】

休日には歴史探訪写真整理で追体験するのが楽しみ。
日本という国は世界に稀な、単一国家としての歴史が続いている。
きのうも書きましたが、海洋国家という性格から、
他国からの侵略によってのホロコーストが記録では存在していない。
少なくとも、文字記録が残る1500年くらいはそういうことがない。

で、きわめて同質性の高い文化が涵養されてきたけれど、
平安期にいたって成立した「かな文字」の試行は、
万葉集編纂のころからの「万葉かな」にその起源が求められるようです。
政治と経済、文化の総体を国家という存在が管理していた古代、
天皇から万葉集編纂の仕事を命じられた大伴家持さんは
奈良時代にこの仕事を完成させることができた。
写真左側は万葉集に収められた陸奧産金を言祝ぐかれ自身の一首ですが、
漢字はすべて「音」の機能だけで、表意文字としてのものはない。
もともとの「ヤマト言葉」に対して、漢字をすべて当てはめている・・・。
明治のときの欧米文化の巨大受容期にあたっての言語創造は、
その記録もしっかり残っていて漢字文化圏で明治日本が創造した言語が
共通言語化した事実があります。
いまは東アジア世界は非常にバイアスがかかった関係なので
こういう客観的事実は必ずしも共有化されませんが、
韓国の文在寅政権の反日政策で「日本の影響」を否定的にあげつらうなかで、
「大統領」という言葉すら日本製であることにむしろ気付くでしょう。
明治期には欧米文化受容が大きな民族国家的課題だったけれど、
それ以前の奈良期の歴史事実も、この大伴家持さんが中心になった仕事から
明瞭になってくると思います。
奈良時代の初期というのは、白村江の敗戦から半島からの大量移民などがあり、
フロンティア国家として経済発展が急激で、律令国家体制と鎮護国家という
東アジア世界のなかで日本国家創成意識が強かったのでしょう。
国の人口が450万人くらいのときに現在の貨幣換算で4600億円もの巨費を
この大仏建造にかけたと言われるのですから、その熱情はすごい。
そういう時期に言語までの開発創造努力に取り組んでいた。
そして大仏の完成が迫ってくる中で、
その表面を被覆する金を求めて、半島からの帰化人・百済王敬福が
先端技術集団としての探査技術を持って陸奧から産金した。

この写真資料は宮城県涌谷の「黄金山神社」資料館からですが、
奈良期は、明治期とも共通性の高い重要な時期だったと思えてきます。