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【蒸暑地居住性能論 エアコン冷房+ブースターファン】

先日の新住協総会で学習してきた冷房必須地域での住宅と設備の相関。
暖房の場合には熱源は多様に考えられる。
北海道の場合にはFFストーブというのが基本であって
その気流感がイヤだ、ということから、
輻射熱源からの放射をカラダで受け取るパネルヒーターが登場した。
それに一時期は蓄熱暖房器によるオール電化が一世を風靡したり、
その後の現在では、熱源も暖房器も百花繚乱状態。
エアコンまで含めるのであれば、もう一回FFストーブという選択もあり、
また北海道でもエアコン1台での暖房という選択も出てきている。
高断熱住宅を基本に考えれば、単純に設備の費用対効果では
そういった判断もあり得るかという状況になっています。

一方で温暖地、蒸暑地の住宅設備選択では
安価なエアコンが主流であって、その手法・設置場所などでの論議が熱い。
某住宅メーカーの「全館空調」大宣伝などがあって、
ユーザー的にもそういったイメージに左右される層も存在している。
ただ、全館空調とはいっても住宅性能的には疑問な建物で
導入されている場合、光熱費が計画的に管理可能かどうか疑問ではある。
そんななかで家の中に「チャンバー」ゾーンを作って
そこから暖気や冷気を家中に循環させるタイプの試みが展開されてきている。
本州地域でも北海道と同様に「基礎断熱」を導入している
高断熱住宅も多く、そういった住宅では床下空間がそのチャンバーになり、
冬場の暖房についてはまったく技術的には完成しているとされる。
夏場対策としてはもう1台、階段や吹き抜けを利用した壁掛けエアコンで
家中に冷房させるという手法がとられているケースが多い。
しかし、コスト問題やどうしても冷房気積が大きくなりすぎることから
温暖地では「床断熱」をとくに鎌田紀彦先生は提唱されてきている。
そうすると、チャンバーを1階と2階の「階間」に推移させることになる。
<この階間という言葉、鎌田先生は「かいかん」と発音するのが建築用語的に
本来的とされますが、人によっては「かいま」とも発音しているそうです。
まぁこういうのは、自ずと定まっていくのでしょうが。>

で、この階間にエアコンの冷気流を送り込んで
夏型結露を防止するため外周部には建物内側に十分な「付加断熱」をして
そこから特に夏期には冷房された「重たい空気」をファンを使って
2階に「吹き上げる」必要が生じてくる。
そのための低コストな電気代で済む装置としてブースターファンが必須になる。
で、この吹き出し箇所や、個数などの判断指数のようなものを
それぞれ設計条件の異なる注文住宅に特定していく基準を
どう考えたらいいのか、そのファンの性能・消費電力などとの
相関関係も踏まえながら、目に見えにくい領域の検討課題。
さらに言えば、ほぼ寒冷地北海道の作り手には体感しにくい領域。
なので、論議主体は蒸暑地・温暖地のファーストペンギンのみなさんに
絞られて行かざるを得ない。
論議を通じて、寒冷地側の作り手からはほとんど意見が出なかった。
それこそ豊かな「経験知」が不可欠なテーマですが、寒冷地は関与しにくい。
そういった難しさも感じながら聞き入っていた次第です。

【都市札幌の鬼門に神社配置、国防的「街割り」】

図は札幌に開拓判官・島義勇が入地したあと、
札幌街区の「鬼門」にあたるとされた位置に建てたという
始原の「札幌神社」の地図。現在の札幌市中央区北5条東1丁目周辺。
その後、円山のふもと、札幌市中央区宮の森に移転しています。
きのうも書いた「創成川」が図の横軸になっていて、
上が東、下が西、右が南、左が北という方向になる。
島義勇は明治2年箱館を出発後、小樽から銭函に至り、
そこでやや留まらざるを得ず10.12に「開拓使仮役所」を設置した。
この間、兵部省がすでに市街形成されていた小樽地域を支配していたので
「開拓使」という新設の官庁が北海道開拓を仕切ることに不満の態で
さまざまに判官・島義勇に嫌がらせをした、とある。
ことは開拓使の札幌開発での食糧の確保にまで及んでいたとされている。
この年6月には樺太にロシア軍艦が来て破壊活動・基地設置をしていたので、
それへの国防対応もあって兵部省がこの地を支配していたとされる。
なにやら「省庁縦割り弊害・明治初年版」といった趣で一興(笑)。
しかし箱館では榎本軍の抵抗活動、蝦夷共和国反乱もあり、
こうしたロシアの挑発活動もあるなかでの「開拓」事業。
まことに内戦・侵略と騒然とした時代感覚に目眩するほどですね。
しかしロシアという国は太平洋戦争末期の中立破棄など、
日本への領土野心・工作活動の歴史的執念深さには驚かされます。
少年期、私の年代の友人たちも、もしロシアが攻めてきたら
こう行動するという話をしていました。国防はまさに北海道のキーワード。
ロシアは剥き出しの帝国主義であり、明治以降ニッポン国家最大の脅威。

明治初年は日本資本主義の資本蓄積が十分ではない時代なので、
開拓事業も官主導で行われたのですが、
今日の「経済感覚」とは違って食料流通まで官が統制関与していた実態。
判官・島義勇は銭函から、11月になって雪が降り積もる道をたどって
札幌までやってきたとされています。途次クマの足跡が散見されたとある。
まずは明治天皇からの官命の最たる「神社創建」大命履行が島義勇の任務。
このとき、稲田銀蔵ら3人の大工が札幌に入ったとされています。
土方という土木事業と同時に「建方」「作事方」ともいえる
建築工事者が都市建設に着手したということ。
その後、札幌の建設では請負の建築業者が出てくるのだけれど、
経済構造的にも官主導の時代、この段階ではそれこそ
官直営工事であって直接大工を使ったのだと思われます。
いわゆる官庁による公共事業・発注工事とは言えないように思われる。
街割りの配置としては、前述のような対ロシアの緊張時局そのままに
都市札幌の「鬼門」守備という計画になったものでしょうか。
そういえば全国の神社が基本的にすべて南向きに建っているのに
北海道神宮だけは北を向いて建っている。
北方からの脅威に対して備えるという姿勢を表しているとされています。
この地図でも神社参道が角度を振っているのはロシアを睨む方位体勢かも。
ついでにいえば、札幌は風水的には京都の街をちょうどひっくり返したような
そういった配置になっているとされているのですが、
このような発祥時点での国家意志が街区形成に影響していったのか?
札幌という街はこういった経緯で誕生していった。

【心にしみる地域の山並み景観】

最近のこのブログ執筆で強力な「協同者」をしてくれている
Shigeru Narabeさんからはいろいろな写真データ発掘提供があります。
深く感謝する次第。高校時代からの旧知。
若干恨まれ気味の学生運動つながり(笑)以来であります、懺悔。
わたしがブログを書き始めてから旧交をあたためている。

で、先日送ってくれた明治初年の札幌の写真、
たぶん明治4年撮影のようですが、
開拓本府・札幌都市建設初源時期の写真を発掘していて
ごらんの写真を掘り起こしてくれた。
「よく見るとかすかに藻岩山のスカイラインが見えます」
「あたり前ですが、山容が変わらないのが何だか心に染みます。」
・・・その通りなのであります。
写真は創成川という名前のその意味合いが深く刻み込まれた
札幌の開拓・街割り当時の基幹物流大動脈人工河川から、
西側を見晴らしたアングルで撮影されています。
街並みの風景はまったく違うけれど、この見慣れた山並みは変わらない。
「国破れて山河あり」という叙景句が日本人には馴染み深いけれど、
時間を超えて変わらない山には、深く癒されるものがある。
きっとこの列島に人間が住み始めてからずっと、
こうした「山岳信仰」というものが連綿とあり続けているのでしょう。
だれもがこういう風景をこころに持っている。
あ、東京は不明(笑)。富士山の遠景や丹沢山系くらいでしょうか?
この藻岩山体には札幌に長く住みつづけていて、つたわるものがある。

開拓以前の札幌市付近は豊平川が形成した広大な扇状地であり、
豊平川はいくつもの分流を形成していた。
創成川は1866年(慶応2年)に幕府(箱館奉行石狩役所)役人・大友亀太郎が
札幌村を開く際に開削した用水路・大友堀が前身。
札幌に物資を搬入する場合、石狩川から豊平川を遡上し、
そこからこの人工河川をさかのぼらせたということですね。
先日紹介した写真でも、川原に大量の木材が堆積された様子が映っていた。
後にこの川に橋を架けたときに「創成橋」と名付けられたことから
川の名前も創成川と変更されたのだとされています。
いずれにせよ、札幌人にはソウルフルな河川名として記憶されている。
しかし、川は人工の手がどんどんと加わっていくので、
「山河あり」というコトバ本来の意味の継続は難しいかも知れない。
いまは創成川は南北の大動脈道路として変貌している。
人間の手が加わりやすい、というか創成川の場合は最初から
人間が開削した人工河川ということもあって、
その姿は時代の変化に即応して変化して行く必然。
やはり、山岳信仰のほうが永続性がある。
日本人であることを深く実感させられた写真であります(笑)。

<画像がやや薄目だったのでヘタなPhotoshop加工を。ご容赦>

【稀有な日本国家の新開地・北海道経営の成功】


さて昨日書いたブログ記事で開拓初期札幌での
「御用火事」と、その理由になった「草小屋」について。
札幌市公文書館に所蔵された歴史学者とおぼしき方の講演記録で
話が及んでいて、その説明写真を詳細に観察して
「これが草小屋」とされた建物について特定し、その疑問を書きました。
そうしたところ、読者のShigeru Narabeさんから
「各地に建てられた開拓民の草ぶき屋根の仮小屋でも構造的には
拝み小屋と掘っ立て小屋があった。三木さんが示した写真の小屋は
ログハウスのような構造にも見え小屋と呼ぶにはちょっと大きい印象がある」
というご意見をいただきました。
こうしたご意見にはわたしもやはり同意できると思います。
上に掲載した写真は、北海道建築士会がまとめた写真資料から。
これらは「開拓者」として入植した人々の入地当座の仮住まい。
テントについては複数の写真資料が散見されるので、
テントの布生地と制作マニュアルとが事前取得されていた形跡がある。
開拓地に到着したら、とりあえずこうしたテントを設営する場所を開削し、
数日程度過ごした後、下の写真のような「拝み小屋」と呼ばれる
仮設住宅を、入植地周辺から材料を入手して造作した。
常識的に考えて、官府札幌とはいえ入地当座はこのような「住」が
一般的だったと考えた方が自然だろうと思われます。
こうした「拝み小屋」の屋根(壁)は周辺の草、萱などで被覆され、
タバコの不始末などからの火災発生源として危険だった。
住み手がいて、生活管理できていればまだしも、
流動性の高い都市サッポロ創成期には「とりあえず」建てられた
こうした「小屋群」がその後うち捨てられ、火災発生源として
危険極まりない存在であった可能性・蓋然性はきわめて高かっただろう。
そのような危険姓を訴えていた「世論」は「さっぽろの昔話」でも
たくさん証言されています。
やはり自然に考えて、こういった危険姓を除去するために、
消防隊を組織しての「御用放火」だったと考えた方が納得できる。
・・・今後とも、この「草小屋」と名指された開拓初期の建物について
歴史事実の掘り起こしは続けたいと思いますが、
おおむねこのような理解で、探究を続けたいと思います。

というように「北海道での住宅建設事始め」探究をしていますが、
いろいろな資料を整理して、この時期の実相を見るに付け、
1868年の明治維新時期から着手した日本国家の「北海道経営」総体は
まことに人類史的にも稀有な国民国家的事業としての
北方新領土経営の様子が血肉的な情報として迫ってくる。
なぜに日本人は「地域好感度ランキング」でこの寒い北海道を
ナンバーワンと考え続けているのか、
そういった心情的な部分にまで思いが至ってきます。
江戸幕府もたしかにこの地の経営に苦闘してきたけれど、
成功を見ることはなかった。しかし端緒的な基盤は整備された。
この新領土開拓は第1に対ロシアの「国防」が起点であって、
青年国家明治ニッポンにとって、北海道は民族自立の焦眉。
さらには有色人種国家へのさげすみとか差別的な国際秩序に対して
日本人が行い得た明瞭な「民族意志」の発露だったと思えるのです。
欧米列強にしてみたら、極東アジアの有色人種国家がこのような
新領土建設を、必要な情報・知識を貪欲にアメリカなどから入手して
苦難に耐えながら成功させた事実は刮目する事態だっただろう。
その後の日清・日露という流れ、国家としての大きなスタートアップが
この北海道開拓だったのだ、という思いが強くなってきています。

【明治4-5年札幌 「草小屋」住宅と家作料補助】


本日はふたたび「北海道戸建て住宅事始め」テーマ復帰であります。
明治初年ですがまだ150年程度なので、先人の残された資料も多いし、
なんといっても「写真記録」までもあるので、実相にも迫れる。
先日、この明治4年時期、2代目判官・岩村通俊の官制放火について書いた。
その放火対象になった「草小屋」住宅というものがどんなものだったか、
どうもこれについては確たる写真資料がよくわからない。
札幌市公文書館所蔵の資料である歴史学者とおぼしき方の講演記録が残っていて
そこでの写真説明で、特定する情報が記載されていて、
上のような住宅写真が、草小屋というように把握できます。
当時の開拓判官や官吏にはこうした住宅が「憎むべき」と考えられていた。
2枚目の写真には「草小屋」の施工途中とおぼしきものがある。
それをみると柱梁の構造に野地板が張られた上に、
どうも草の生えたままの土壌表面を切り取った「土草」が置かれている。
置くだけではたぶん心許ないので一定の固定化はされていたでしょう。
こういう屋根を持った住宅を草小屋として、場合によっては焼くぞ、
とまで憎んで破却するように「指導」警告を行ったとされるのです。
後述のように「家作料」まで渡しているのに、という怒りだと。
では、よき屋根施工とはどう考えられていたかというと、
どうもその後の屯田兵屋で採用されている「柾葺き屋根」が想定される。
柾葺き屋根と茅葺き屋根、そしてこの草葺き屋根とで、
そこまで憎むべきほどに違いがあるとする判断に即同意はしにくい。
むしろ今日的「断熱」の考えからは、柾葺き建築を「薄紙のような」と表現した
当時の開拓総設計者ケプロンの言が正解のように思える。
現代のわれわれからすると、草屋根って好感イメージなのです(笑)。
アイヌチセを参考にすれば居住性は萱葺きの方がマシだっただろうし、
草屋根もいごこち優位性は多少はあったのではないかと思える。
わたしの個人的な思い込みでは、草小屋というのはこんなイメージだった。

こういうものなら「およそ文明人が住む建物とは思えない」というのもわかる。
見るからに草深く、非文明そのものと断じたくなる気分。
官の側には下の写真の「琴似屯田兵屋」のようなイメージが
強かったのではないか。規格的であることの方が「文明的」だと。

いわば「見てくれ」的価値感を優先させ住みごこちは顧慮しなかった?
このあたりは日本的な「恥」文化気質の明治国家の一面なのかも。
後述の家作料補助金支給の「条件」として近代的住宅のあるべき屋根として
柾葺き屋根を上位とする観念が強かったのかも知れません。
この草小屋についてはさらに正確な情報をもっと探りたいと思います。
ただ、建材費用の中で屋根材が占める割合は高かったことは伝わってくる。
なにか情報があれば、ぜひお知らせ願いたいです。

で、河野常吉氏編の「さっぽろの昔話」で
<佐藤金治>さんが家作料補助金について以下証言されている。
当時の開拓使の主要任務として人民募集を行っていたその具体策として
「家作料」を永住希望者に渡していたと明治4年3月の条で証言されている。
当時は札幌市街地での住宅はわずか30-40戸であり、そのうち妻帯家庭には
「1戸分の地135坪に家作料として総額金100円」を渡したとされるのです。
「女房同道」が補助金の条件だった。ところが実際には「妻あるは21戸」。
で、方便のため民たちはバイト料を支払ってご近所の奥さんを「女房だと」
偽って役所に同道した。当然その担当者は同じ「女房」と毎日顔見知りなのに
「あれ、似ているかなぁ(笑)」と見て見ぬ振りをして許諾したとされる。
そんなこともあって同年8月には40戸が250戸に増えたと。
思い切って単純化するとこの当時の100円は、現在価値では200万円ほど。
イマドキの住宅補助金もこの金額程度なので妙に納得できる。
しかし内戦による財政危機もあっただろうなかで、
いかに移民増加が明治政府の宿願であったか、偲ばれます。

【9.26-27新住協総会 in 仙台に参加】


26-27日と仙台で開催された新住協全国総会に参加。
北海道内では顕著なのですが、基本的には高断熱高気密住宅運動は
いま、世代交代期に差し掛かってきて、
どのようにその運動を根付かせて日本の住宅建築風土、構造の中に
定着させていくのか、ということが課題なのだと思っています。
そのなかで北海道は建築内部の気候環境を制御する技術が
特定の作り手だけのものではなく地域全体として共有されつつあり、
そのレベルをしっかり維持しつつ、どう社会的に認知を拡大するのか、
ということが最大の課題。歴史的に住宅建築に深く関わる地域政府・北海道と
地域の工務店+建築家などのシンボリックな新たな「枠組み」が進展しつつある。
そういうなかで技術集団として、どのような役割を果たすべきかの
模索が続けられてきて、そのなかで世代交代が大きなテーマになっている。
わたしどもも含めて、今回の総会参加では北海道の作り手は次世代が中心。
30年を超えた実践活動の中心世代は一歩道を譲ろうとしている状況。
そんな空気感が支配的だと感じていました。
そんな空気も反映してか、今回の総会では北海道からの「発表・提起」は
2日間を通してありませんでした。

一方で本州、それも関東以南地域では、
蒸暑の夏、という北海道とはややニュアンスの違う、
より広域地域の室内環境制御の基本的な主要テーマに向かって、
まさに取り組みを始めた熱い「ファーストペンギン」世代が中心層。
北国発の住宅内部環境制御技術を学んだ人たちが
本格的にやっかいな「ニッポンの夏」に向かって叡智を傾けている。
そこで展開される技術言語はエアコンに関連する空気質論議。
結露についても「夏型結露」との戦い、あるいは、
エアコン冷房での必然的発生水分のコントロールが主要なテーマ。
2日目の主要発表者である新潟オーガニックスタジオの相模氏の豊かな語彙では
従来、エアコンの設備開発企業内部で論じられていたような内容を
よりヒューマンな素材や技術を使って建築的に立ち向かっている、
いわば中世の「一向一揆」みたいなカタチで環境技術を「民衆化」させている。
事実、鎌田紀彦先生からも「最近、エアコンメーカーからの
技術情報提供が細り気味」というような話題も出ていました。
メーカーにすると「エアコンが売れなくなるんじゃないか」という危惧。
こうしたファーストペンギンのみなさんに共感しつつ、
では北国人はどのように「血肉化」できるのかと自問もしていた。
やがて温暖化が加速して、こうした論議が北国のあすの住環境に
決定的「要素技術」になっていくと考え、学んでわがモノとしていくのか、
あるいはそれに共感しつつ、また別の志向性を探っていくべきなのか。
いずれにせよ、全体として運動の変化・移行期と感じた次第です。

【先住アイヌ社会も協力した札幌都市建設】

昨日書いた記事の参考資料として札幌公文書館所蔵のデータに
「琴似又市」というアイヌの「乙名」のことが書かれていた。
開拓のとき、明治天皇の詔勅を背中にくくりつけたまま、
明治2年に海を渡ってきた判官・島義勇は、いったん「銭函」で逗留し
そのあと、正式に札幌を開拓のための根拠地・本府と定め、
入地したという記録が残されています。
このあたりは記述者の立場の違いによって書き方が変わると思います。
間違いなく先導して現地札幌に入って準備しているメンバーはいて
さらに受け入れのための作業は相当に進んでもいたことでしょう。
たぶん記述者は島義勇と同行して、その目線で書いたと思える。
国家意志としての「北海道開拓」は天皇の詔をもって創始されるのが建前。
維新回天から連続した時間経過、また箱館戦争の戦陣同時進行中、
北海道の地はまさに明治国家にとって国防であり民族独立の焦眉だった。
緊迫した時局認識、政治動乱の沸騰点でもあったのでしょう。

しかし開拓とは言ってもその当時は本州地域から
基本土木整備、測量実施、森林伐採などのための人手を確保するのが
緊急の課題であって、使えるのであれば誰でも使うということで、
札幌に隣接するコタンのアイヌの協力も仰いだとされているのです。
この「琴似又市」という首長は、和語にも通じていたそうです。
その後、かれは内地に留学もしているということなので、
明治政府に対して親和的なスタンスで協力していたことがわかる。
琴似、という名前はいまの札幌市北区の北大構内から、
桑園競馬場、さらにその西部にいたる一帯の地名を指したようです。
いまは、JR札幌駅から桑園駅を経過した次の駅が「琴似」。
わが社のある山の手に隣接する町名にあたります。
琴似の地名の語源は、アイヌ語「コッ・ネ・イ」(窪地になっている所)。
1872年(明治4年)開拓使によって「琴似」と命名された。
上の図は明治25年当時の札幌の手書き市街図とされますが、
碁盤の目状の市街配置の上側、北側には幾筋もの小川が流れていて
それぞれに「コトニ・・・」という名前が付けられている。
札幌地名も(乾いた大きな川を意味するサッ・ポロ・ペツ)であり、
いずれもアイヌへのある種のリスペクトがなければ
大命を奉じての開拓に当たって、こう地名は付けないだろう。
ふつうの日本人感覚では、北京というような地名がふさわしく感じられる。
<現実に対ロシア軍団配置された旭川には、この名を付けて
天皇の在所を作る、そうした計画も立案されたりした。>
であるのに、さっぽろと名付けた先人たちには共感をもつ。
江戸幕府以来、対アイヌの日本国家対応には納得できるものが多い。
平和的で民族和解的な対応を心がけていた様子が伝わってくる。
武人支配の革命政権だけれど、明治政府の心象も興味深い。

「琴似又市」さんのこの頃の心事にある感慨も持つ部分はある。
「同胞意識」は共有されていた部分の方が大きかったのか、
あるいは長いものには巻かれろ意識だったのか、
さらには、それまでの松前藩、請負場所経営支配構造と比べて
明治政府・日本国家の対アイヌの対応ぶりがはるかに納得できたのか、
など想像を巡らせられる部分は大きい。
できればこのあたりについて歴史の掘り起こしを試みてみたい。

【官府札幌始原期の判官命令「御用放火」】

さて、北海道の住宅史を歴史に沿って見始めております。
北海道での住宅の流れ、実像を掘り起こしてみたい。
アイヌ地名起源である琴似に屯田兵屋が建てられた
北海道での官制公営始原住宅は明治7−8年のことですが、
それに先だっての、明治4−5年頃の状況を探ってみることにします。
というのは、きのう書いた「官制放火」のことについて
読者の方から、実否定かならずではという情報が寄せられたのです。
札幌市公文書館所蔵の、ある「講演会」資料を教えていただいた。
この講演者が誰であるのかまだ調査中で不明なのですが、
公文書として保全された講演記録であり、
言葉遣いなどを考えると、名のある歴史学者の方のように見られる。
文書解釈についての厳密性への言及が文中多く見られる。
ただ、放火について基本的に平和な時代の価値感、一般的倫理解釈に
基づいていて開拓期の札幌本府建設の騒然たる社会状況が見えにくい。
この当時の「開拓判官」は天皇の新領土開拓・経営の勅命を奉じて
札幌に来て札幌神社(後の北海道神宮)頓宮設置などの国家意志を体した
島義勇の後任として判官になった岩村通俊であります。
<この間、開拓方針を巡っての意見対立の結果ともされる>
かれは土佐藩の出身で「陪臣」の長男とあります。
坂本龍馬が「郷士」出身で領主・山之内家の本来家来ではなく、
在来の長宗我部家臣家系で身分格差があったとされますが、
どうもそれですらない陪臣という。あるいは山之内家上級家臣の
その家来(陪臣)であったのかもと想像できる。
しかし明治政府の「薩長土肥」勢力として活躍の機会は広がっていた。
かれもまた、幕末の軍事動乱をくぐり抜けてきた歴戦の武士。
荒々しい開拓期の混乱する開拓本府・札幌建設での「施政」は
平和な時代の日常感覚とは自ずと違いがあると思われます。
佐賀藩士とはいえ天皇に勅命を託されるように純なところの感じられる
島義勇はどちらかといえば、理想家肌だったように思われる。
一方の岩村通俊は、その後西南戦争後の鹿児島県令を務めているように
武人的な統治の傾向を持っていたに違いないと思えます。
西郷隆盛の遺骸を丁重に葬って、人心を掌握するなどの事跡がある。
硬軟織り交ぜながら、武人的「統治」を基本政治手法としたのではないか。
実際にかれが「草屋根」の小屋掛けに放火するという命令を発したとき
下僚たちは思わず「そこまでやるのか」と息をのんだという一節がある。
当時の札幌での定住促進のために民に家作料まで与えたのに、
便宜的な小屋がけ・草屋根で済ましていた民たちの現実に対して
「一罰百戒」として、見せしめ的な統治手段に踏み切ったことは、
容易に想像しうるのではないか。

この御用放火に際し事前にそれを告諭したところ、豊平川対岸地域で
民の側でも自ら「草小屋」を棄却した事実があり、岩村は喜んだとされる。
その上で、青年層による「消火隊」も組織した上でことに当たっている。
この官制放火のあと、まちづくりは粛然と進んだとされるので、
「一罰百戒」の政策的果実は確実に成し遂げられている。
その後、開拓建設のための大量の作業員たちのために
「ススキノ遊郭」の建設を行ったりもしている。現実は理想ではない。
現実家・武断統治者としての才をそこに見る思いがする。
そういった「評価」が後のかれのさらなる出世につながっていると感じる。
平和な時代の価値感では想像力不足であり、当時の統治実相を見る思い。
このような武断的「住宅政策」がその後の北海道のある部分を
歴史的に物語っているのかもと、思い至ってきております。

<写真は、開拓期明治4年の札幌創生川周辺。大量の材木と一部に
「草小屋」も見えるとされるけれど、どうも白黒で判別困難>

【寒冷地の人口定着 「住」が北海道最大テーマへ】


きのうまでは明治初年、屯田兵の住宅を検証してみた。
やはり公営住宅としての機能性格が似通っていた江戸末期の
下級武家の公営住宅がその原型だったことが浮かび上がってきた。
江戸末期の八王子千人同心組頭の家と琴似・屯田兵屋との設計類似は
同時代の観察者からも指摘が遺されていました。
では、一般の移住者・入植者の状況はどうであったか、
こういった建築は保存されることはなく、また写真記録もほとんどない。

ただ、司馬遼太郎の北海道歴史紀行文に
明治開拓初期、札幌市内に建てられていた移住者の「小屋」に
開拓使の官人たちが火を点けて回っていた、という一文が残っている。
説明すれば、当時は北海道移住には「補助金」なども支給し、
それなりに官費も使って、北海道の開拓・定住人口の増加を
積極振興していた。しかしその移住への官給資金をなるべく残して
とりあえず「家を建てる」という条件をうわべだけクリアさせる
ギリギリの「小屋がけ」で済まそうとした「民の思惑」だったのだ。
「こんな不正は許さない」という官人の心理が昂じてという次第。
こういった経緯なのでもちろん正規記録として残るわけもなく、
明治初年、混乱期開拓地での住宅の実相をただす方途は難しいけれど、
脈絡としては、理解出来なくもないとは思われる。
一方、上の写真は北海道の公的な記録として残された写真で
「終戦直後」の北海道入植者の小屋がけの様子。
その下の「間取り図」は明治末年・大正初年当時のわが家、
北海道岩見沢市近郊・栗沢村に入植当時建てられた住宅の「記憶図」。
明治初年と終戦直後、北海道移住への日本人の受け止め方がどうなのか、
確実に確かめる術はないが、終戦直後、北海道は全国一の人口だった。
空襲で焼け野原になった首都東京から、農耕可能な土地ということで
北海道に生きることを選択した人は多かった事実がある。
敗戦という荒廃のなか物資のレベルは明治初年と大差のない状況、
とりあえず「着の身着のまま」というなかで建てられた住宅、
という意味では明治初年との近似性根拠は高いと想像できる。

とりあえず周辺の木を伐採して建築構造をつくり、
そこに同様に採取した萱などのストロー状繊維植物で屋根を掛ける。
徐々に壁に使う板材を切りだして張っていく、というような
小屋がけから木造住宅へという段階ステップを踏んでいったに違いない。
見よう見まねの建築技術。写真ではすでに構造が傾斜している・・・。
まだしも明治初年の方が官の支援が全面的に得られただけ
居住生活環境つくりとしてはマシであったかも知れない。
また一方で、開拓の最初期というのは北海道の土地は「地味」が豊かで
その農産品は驚くほどに大きくでき高品質なものが採れたとされる。
人間農耕の歴史が及んでいなくて集積されていた土壌自体に
積層されていた自然肥料、落葉腐葉土品質がきわめて高かった。
今日に至るまで「食の北海道」というブランドバリューが残り、
同時に終戦直後、北海道に行けばなんとか食えるのではないかという
そういった地域の特性評価が形成されたのも事実だっただろう。
その時期に建てられた「成功農業者」の家は北海道初源の古民家として
いま、徐々にその価値が見出されつつある。

こうした状況の中で住宅問題について、北海道という地方政府は
その寒冷気候での「安定的な人口定着」というテーマを抱え込んで
全国最高の住宅性能研究・実践に奮闘するようになっていった。

【明治初年・屯田兵屋「住みごこち」と設計者】


きのうの続きです。琴似屯田兵屋の「設計者」は以下だという。
村橋久成(1842年〜1892年)幕末薩摩藩士、開拓使官吏。英国留学経験あり。
事跡からは特段「建築を学んだ」形跡は見られず、薩摩軍人として
明治戊辰の箱館戦争〜慶応4年/明治元年・明治2年(1868年-1869年)で
旧幕府・榎本軍と戦い戦功により400両の恩賞を受ける、とある。
明治6年(1873年)12月、北海道の七重開墾場に赴き、測量と畑の区割りを行う。
翌明治7年(1874年)屯田兵創設に伴う札幌周辺の入植地を調査、
琴似兵村の区割りを行う。明治8年(1875年)4月、七重開墾場と琴似兵村の
立ち上げを終えて東京に戻る。〜ということのようなので、
軍人・明治国家の高級官吏として関わったようなのだけれど、
建築は専門家とはいえないだろうと思われる。
設計者として名前は残っているけれど、建築計画は担当者が別にいて
かれは高級官僚として政府側との折衝責任者であったように見える。
その後官職を辞して数奇な人生を歩み、神戸で行き倒れて死んだという。
たぶん配下意識を持っていた明治の元勲・黒田清隆が葬儀を出した。
札幌市にある北海道知事公館前庭に村橋の胸像『残響』が建てられている。
屯田兵屋当初企画案では、煉瓦製の洋式炉が切られていたが、
実際には予算不足から一部土壁で純日本式の囲炉裏付きの兵屋に。
窓は隙間のある無双窓で煙出しからも雪が吹き込むなど
寒冷地対策はほとんど施されなかった。
琴似兵村の兵屋は「東京旧幕組屋敷足軽乃宅也」(松本十郎大判官)、
「薄紙様ノ家屋」(ホーレス・ケプロン)などと評価されたようです。
ケプロンの多くの発言からは北米式寒冷地住宅との乖離が読み取れる。
・・・付記すれば、村橋の下僚は旧幕府の建築担当役所である作事奉行の
組織がそのまま新政府の官僚機構として引き継がれた形跡が濃厚で、
一昨日記事掲載の「八王子千人組頭の家」との設計プランの酷似ぶり、
などを勘案すれば、徹底的にコストパフォーマンスを追求した
江戸幕府機構の合理的設計だったように推量可能かと思えます。
ただ、あいついだ戊辰戦争の戦費からの財政圧迫で
屋根が重厚な萱葺きから柾屋根葺きに変更、洋式ストーブから囲炉裏になど
設計後退を余儀なくされたものかも知れない。
そういう政策決定判断に関東人でもなく薩摩人があたっていたことは
本格的な日本寒冷地公営住宅事始めとしては残念だったかも知れない。

どうしてもこの屯田兵屋の住み手の感想が知りたくて探したら
以下、WEBでいくつかの証言を発見。北海道屯田倶楽部HPより。
〜屯田兵家族らの証言(一部・要旨・抜粋)
「天井が張ってなかったので屋根裏が直に見えた。冬になると柾釘先に
霜が着いて屋根裏が真っ白になった」(湧別・三浦清助・上湧別町史)
「屋根に煙出しが付いていたんですが、炉で薪を焚いたので煙たくて
いつも眼がクシャクシャ」(湧別・西潟かぎ、上湧別町史)
「5日がかりで永山へ入ったが来て驚いた。兵屋の中に蕗や笹がいっぱいで、
度肝を抜かれた。雪が五尺六尺と積もるのにも驚いた。雪中伐採木のため
兵屋が壊れたり死傷した者もあった」(永山将校・野万寿、北海タイムス)
「はじめて家に入ってみると土間に三尺 (約114cm) ある切り株が二つもあった。畳はカヤだった」(一已・原タマ、深川市史)
「家は粗末で焚き火に向かった前だけ暑かったが背中から寒くて煙たくて
吹雪の時は雪が入った。大きな囲炉裏に薪をいっぱいくべて寝たが朝起きたら、
蒲団の上に雪が積もっていたことも」(納内・北出長一、深川市史)

まさに前記の2人の「感想」がそのままに生活実感として語られている。
わたしの感覚で、この屯田兵屋の先行形態として旧幕府武家住宅との
類縁性を感じていたのですが、「東京旧幕組屋敷足軽乃宅也」(松本十郎大判官)
という当時の観察者の証言もあるようですね。
こういった住居から明治期北海道の住環境は始まった・・・。
この先人たちの「住みごこち」の感想は時代を超えて迫ってきます。