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【家族LINEで台風対応&Mac-HDメンテ】

全国で固唾をのんでの台風の通過状況チェック。
被害が出たみなさんに深くお見舞い申し上げます。
こんなに広範囲に被害がおよぶ台風もあまり記憶がない。
わが家でも息子が東京都町田市周辺に居住しているので
家族LINEで台風通過事前段階から深夜の通過状況などを確認し合って
災害への備え、安否確認などをしておりました。
幸いにしていまのところは無事が確認されております。
しかし、深夜10時になって地域に「避難勧告」が出されていたということ。
「22:06 避難指示出たけど・・・」
「22:07 絶対今避難するより7階いた方がいいよな笑」
というようなことでした。
しかしこれから一夜が明けてから、どんな広域被害が確認されるか、
関東から東北にかけて心配な状況ですね。

そんな過ごし方をしていましたが、一方で普段使いのMacに一部不調。
加齢と共に「より軽量に」ということでMacBookAirに乗り換えているのですが、
データ容量が少ないので、どうしても外付けHDなどにデータ依存する。
それらのディスク、いまはご覧のように3台のHDに分散している。
1つはバックアップ専用のものですが、
ほかのふたつは普段使うデータの保存先でメインとそのバックアップ用。
メインは出張などもあるので携帯性優先のために
2.5インチサイズのHDでして、こちらがどうも動作に不安。
メンテチェックしたら、バックアップを取っておく必要性のあるアラート表示。
過去20年以上分のあらゆる活動のデータなので、
全体で3−4TB以上のデータ総量になっている。
バックアップも、その指令を出すのがやや非力なMacBookAir仕様でもあり、
なかなか時間が掛からざるを得ないのであります。
いっぺんには難しいようで昨晩から1TB程度の最低基本データ移行させていますが、
「12時間」という時間表示が出て、けさ起きて確認してもまだ1/4程度完了。
本日は本格的に各種メンテナンスと、あらたなデータ環境構築にと
取り組まざるを得ないようです。
まぁ、新しい仕事領域の開発に取り組んでいることが
こういった環境整備の必要性を生んでいる次第ではあります・・・。
それとそもそも、MacBookAirの環境がメインでいいのかまで要検討。
・・・ということで、本日は住情報そのものではなく
そのマシン環境についてのチェック状況ということでした。
明日以降、はやく住情報に復帰したいと考えております。どうぞよろしく。

【北海道開拓判官・島義勇の「石狩大府指図」】


さて週末になったので再び「北海道住宅初源の旅」であります。
調べるほど、北海道開拓、札幌都市建設は日本国家の意思そのものであり、
日本人に深く刻み込まれた「共同幻想」そのものと気付かされている。
比較するとすれば、奈良の都の建設、京都の建設、そして江戸建設
などと並ぶ、日本人がその後長く共有した民族のロマンそのもの。
前例はすべて国内的要因からの「首都」建設だったけれど、
札幌の場合は、対ロシアあるいは白人支配の帝国主義列強との民族国家闘争。
生まれてすぐの青年国民国家ニッポンの命を賭けた戦いだったのだと思う。
明治維新の達成と同時にロシアは樺太を占領しはじめ、北から圧迫した。
この北海道を明確な自国領とロシアに対し認めさせられるかどうかは
まさに日本の独立が勝ち取れるかどうかの瀬戸際だった。
国際の外交としては、黒田清隆が中心になってロシアとの交渉が成立したけれど、
まさに虎狼のようなロシア国家との約定などは、ほんの一時しのぎだと、
正確に明治国家は肝に銘じ、ひたすら北海道の開拓に全力を注いだ。
近代国民国家のスタートは、まさに北海道開拓だったといえる。

図とGoogleマップは、島義勇判官の「石狩大府指図」と比定する鳥瞰写真。
各資料からは図は上下反対で示されているけれど、
開拓者目線で考えれば、このように日本海を下に見た方がわかりやすい。
ということで、わたし的に図を修正してみた次第です。
この図は、明治2年10月に小樽市銭函・白浜園の仮官符を定めた段階で
同行した誕生早々の官庁「開拓使」メンバー20名弱に示されたものとされる。
開拓使という官庁設立の政令そのものも十分に徹底されていない時期。
ようやくにして榎本軍の函館での反乱が鎮圧されたばかり、
江戸幕府との「権力引き継ぎ」もようやく江戸で始まったばかり。
この図にも「札幌」大府というようには書かれていない。
この段階では北海道西部海岸地域は漁業資源の基地としての
「場所」が13箇所で開かれ、この近くの「石狩」は有力な秋鮭漁場として
それなりの集落蓄積があった。
小樽もそれなりには集落形成があったけれど、
その後の発展のようではなかったとされている。
国家の地名確定で札幌となるまでにはいくつかのプロセスがあったことが、
この「石狩大府」の名前からも推量できる。
まだ現地入りもしていない段階ながら、この原始の森が覆っている札幌に
「五州第一の都」を造営しようというグランドデザインが描き込まれている。
たった半年程度の北海道での在任期間だったけれど、
島義勇さんという人物のロマンチストとしてのDNAが、はるかに
わたしたち北海道人には刷り込まれてしまったようにも思える(笑)。

【リビングルーム床材にタタミ】


わたしも不勉強でリビングルーム床はフローリングという固定観念。
このキクザワさんの恵庭のモデルハウスでは「畳」が敷き込まれていて
足裏で感じさせられた肌合いについ「おお」と意表を突かれてしまった。
こちらは積水さんの「MIGUSA」という床材で、
芯材と表材ともポリプロピレンなど化成品仕様でカビダニの不安はない。
そういう仕様なので面材のカラーバリエーションは豊富。
肌ざわりについては畳との違和感は感じませんでした。
短時間の滞在だったので、これが普段の暮らしの場になれば、
長期的な感受性ではどう反応するのかは不明ではあります。
ただ、やはり足裏に感じる感覚は肌に優しい感じが伝わってくる。
天然のいぐさ畳とこの「MIGUSA」とで大きな感覚の違いを感じるかどうか、
具体的に比較してみなければよくわからない。
厚い足裏なので、たとえばフローリングの木材樹種の違いを見分けられるか
といわれれば、わたしにはムリだろうと思います。
しかしフローリングと畳床との違いはすぐに感受できる。
で、そういった感覚で言えば、こちらは畳的な素材の持つ
微妙なやわらかい反発力はいごこちとして魅力的だと思う。

しかし面材の色合いがそれこそ無限に選択できそうというのは
これはこれで「決め手に欠ける」という印象も持った。
人間というのはある程度は「受け身」で生きているので
無限に選択肢がある、というのは長所ばかりとはいえない。
ほかの商品で「無限に選べます」みたいなものの「成功例」が思い浮かばない。
ムクの木材が支持されるのは「オレって、これだから」みたいな
単純で強いメッセージ性を持っているからだと思うのです。
色味・質感・雰囲気総体が人間の「保守的」感受性を刺激するのだろう。
人間は革新的な部分ももちろん強く持つのだけれど、
突然変異的な世代更新は3%ほどだという説があって、
逆に言うと97%は「継続」していることの安心感が優勢なのだと思うのです。
ある新規のものが生活スタンダードとして受け入れられて行くには
総体としてのメッセージが「一挙に」つたわって来たほうがわかりやすい。
そういった「生活合理性のユーザー判断」での「市場濾過」の力が
選択肢としての「安心感」につながるように思える。
写真の面材も2枚で微妙に色合いが違うのですが、
「目移り」してしまって、商品への「特定」認識を持ちにくくなる?
本畳はいぐさという自然素材の表情の「ホンモノ」ぶりで
ニッポン人から歴史的な「信頼」を獲得してきたことを忘れてはならないかと。

っていうような印象を持った次第ですが、
さてユーザーの反応はどうであるのか、強い興味を持った次第であります。

【北海道で太陽光発電14k キクザワモデル住宅】

北海道はZEHについては後進地域といえるでしょう。
最近はあまり統計データなども参照しなくなりましたが、
やはり積雪寒冷という条件から躊躇するひとは多い。

冬の間は、屋根の雪のことが最大の心配事という地域性では
ユーザー心理的にも、その上心配のタネを背負い込みたくない心理が強い。
そうでなくても北海道の家では積雪荷重を考えた構造の負担があり、
雪の処理の仕方についても、落とす敷地が狭くなってきて
無落雪タイプの屋根選択が多くなってきた流れがある。
しかしこういった北国人の心理的負担感は実はある意味では杞憂ともいえる。
北国住宅が克服してきた「課題解決力」からすれば、
十分に対応可能な条件であり、ユーザーのメリットをきちんと確保することが出来る。
なんといっても売電を計算に入れられる生活コストメリットは大きい。
そのようなユーザーメリットを活用している地域工務店の代表とされるのが
札幌近郊・恵庭のキクザワさん。
高い性能的技術力を背景に、北国での太陽光発電に積極的に取り組み、
ユーザーにとって経済的メリットが大きい太陽光発電住宅の先端を走っている。
写真は今回の住宅見学で披露されていたモデル住宅。
ゆったりとした片流れだけれど、車庫も組み込みさらに中庭も組込むことで、
生活デザイン的な開放感を実現させると同時に
大きな屋根面積を確保して、合計14kの太陽光を搭載している。
比較的に敷地条件にゆとりのある北海道のメリットを活かせば、
こういった「賢い生活設計」可能な住宅をユーザーに提供できる。
そもそも住宅性能の進化は、よりあたたかくということはもちろんだけれど、
暖房のコストを下げるという大目的から支持されてきた。
そういった技術を使えば、鬼に金棒的にくらしにゆとりを生み出せる。
コスパ的には売電の価格が変動するけれど、
自家使用分の電力を確保した上で、現状でも10年以内程度で償却可能。

最近、北海道住宅の始原期、明治維新直後のさっぽろ住宅事始め
みたいな歴史探究を始めていますが、
開拓使でも当時の住宅資金としては破格の「家作料」補助という施策を
行っている事実が発掘できてきた。
この制度は明治3年頃から明治6年頃まで短期間、実施されたようですが、
その状況をつぶさに見ていると、民の側としては大いに活用すべきだと。
当時のお金で100円というお金が貸し付けられたのですが、
たぶん住宅資金の1/3相当のお金が「ゆるめに」貸し出されている(笑)。
その当時の世相状況などを見ていると、これは大いに役立っている。
今日でいえばこの太陽光のシステムということになるでしょうね。
大手住宅メーカーの戦略競争でも、
この対応の差で大きく企業業績に違いが出てきています。
ユーザーとしては賢く、しっかり活用するべきでしょうね。

【北海道でも「大谷石」をインテリア利用】


昨日は北海道の工務店グループ・アース21の例会。
写真は北清建設さんの長沼町の現場です。
北海道は地域らしい暖房として薪ストーブがたいへん人気がある。
高断熱高気密を追究していけば、薪ストーブのような
エネルギー消費のコントロールのしにくい暖房は非論理的ではあるけれど、
やはり人間はそういう論理だけでは生きていない。
とくにこちらの住宅は農家住宅なので、屋外での作業から
室内に帰ってきたときに、炎が持っている体感輻射と
目で感受するその美感というか、DNA的なやすらぎが癒してくれる。
むしろ熱的には補助的な暖房装置ですが、設置を希望される方が多い。

そうなると、この輻射熱を効率よく「蓄熱」させることで、
より効果的な暖房とさせる必要が生じてくる。
石系の保温壁が効果が高いのですね。
で、ごらんの写真のような石の背景壁が装置される。
北海道ではこういった場合、レンガを積むのが一般的。
開拓期以来、北方建築の素材としてレンガは多用されたので
今に至るも、レンガ関係の流通が盛んに行われます。
しかしこちらでは、奥さんが「大谷石、使って」というリクエスト。
奥さんの希望は個人の出身地域的なこだわりからなのか、
あるいは「大谷石」ブランドへのこだわりなのか、は不明ですが
こういう施工が行われたのですね。
大谷石は東京でも明治以降、洋風建築などで多く使われた栃木県の特産品。
わたしは切り出しの現場も見学したことがありますが、
北海道では先日来触れてきた「石山軟石」が石材としてはポピュラー。
わが社の玄関前には石山軟石を踏み段として利用しています。
この石山軟石、最近、北海道遺産という指定を受けたとのことで、
注目度が高まったからか、需要と供給の関係から値段が上昇気味とか。
そういった間隙を突いて大谷石流通が盛り上がってきているのかも。
こういう輻射熱壁利用の場合には、たしかに石山軟石は軽い分、
蓄熱性能は劣る。まぁレンガの方がもっと性能はいいけれど、
っていうような市場状況、性能比較状況が見て取れますね。
地域の人間として地域産品への愛着もありますが、
物流が大きく変化した時代にあって、こういう選択肢の拡大も頷ける。
大谷石をこのような用途で利用するのはありそうでないかも。
ちょっと輻射感を体感してみたいなと思いました。

【2019札幌円山ふもとオオウバユリ残照】


さてここのところ、すっかり明治初年札幌開拓期のことに
ほぼ集中してきております。
ブログ執筆を通して目的的に探究することができます。
そう考えて取り組み始めてみると、わが家は札幌山の手図書館から歩2分。
とくに地元地域ですので、いろいろ調べ物やらには便利そのもの。
日々の仕事デスク環境もそういう目的に対し微調整も。
人間にはそれぞれ好みの生き方というのがあるものでしょうが、
わたし的にはこういうライフスタイルが老後の生き方シアワセ感がある。
・・・というのはいいのですが、
今年はひどい夏風邪を2度もひいてしまって以来、
すっかり散歩習慣が途絶えてしまっておりまして、
長時間のデスク集中もあってか、やや腰のまわりに張りが感じられるように。
やはり健康にも留意して1日8,000歩程度は歩きたい。
で、先日久しぶりに円山公園、北海道神宮周辺のマイロードを散策。
春から夏に目を楽しませてくれていた「オオウバユリ」が結実していました。

このオオウバユリ、芽を出した頃から観察し続け
もっともドラマチックな開花時期をことしも楽しませてくれた。
それがイマドキにはこんな見事な変身ぶりを見せてくれる。
この結実がタネになって、やがて翌年のいのちを紡いでいく。
生々流転、万物は季節の輪廻をかさねていく姿を見せてくれますね。
と、そのまわりには「萩」とおぼしき花たち。と思ったのですが、こいつは
どうやら「イヌタデ」という1年草の雑草だそうです。掻き分けていたら、
あとで衣類にたくさんお土産をくれた(泣)。
この円山自然林は150年前の開拓当時の自然を保全している地域。
いま、このように見ている自然のうつろいが繰り返されてきている。
すっかりモノクロ写真の世界にどっぷりと没入しているのですが、
先人たちも、こうした天然カラーの世界でこの地で生きてきた。
日本という国にとって、北海道開拓という民族体験は、
まことにかけがえのないものだったのだと思う日々であります。
島義勇さんはこの札幌開闢のときに「五州第一の都」(世界一の都)という
ロマンチズムを掲げて計画策定に取り組み、骨格をこの地に残した。
いまでは190万人を超えるアジア有数の「北方の都」になっている。
このロマンに結実を感じられることが、日本人が北海道を愛してくれる
その大きな根拠になっているように思う。
日本国家という共同幻想のなかでも北海道開拓事業というのは、
さらにまた「共同幻想」の結節点なのだと実感しております。

【札幌草創期の「建築請負業」中川源左衛門】


北海道開拓判官・島義勇は任命され現地に赴いてから数ヶ月で
その任を解かれてしまった。明治2年箱館五稜郭戦争の戦塵止まぬ
箱館から10月に札幌開府拠点としての小樽市銭函に仮庁舎を設ける。
現地入りしてから海岸線を防衛・支配していた兵部省とあつれきを起こしている。
札幌の開基に奔走し「島判官が住んだ家」仮庁舎も建てたが
滞在すること1カ月そこそこで明治3年1月19日には解任されてしまった。
しかしこの3−4カ月の間に「五州第一の府」としての札幌の街割り構想に
基づいた開発計画を推進しようとした。
その「財政基盤」当時の北海道の唯一の経済主体である漁場支配階層に対して
あまりに拙速にも、その利権を収奪すると通告した。
明治2年秋の漁期を終えてまもない時期、来期の計画を立てていた
漁場経営者にとってみれば、暴虐無人の施政方針宣言といえる。
当然、既得権益を剥奪された漁場支配者たちは明治政治権力に接近・工作し
その決定をあっさりとひっくり返してしまった。ほどなく島義勇は解任された。
この経緯をみれば、開発独裁の権力構造が手に取るようにわかる。
たぶん、当時の樺太へのロシアの侵略活動があり、
北海道西海岸国防と同時に支配した「兵部省」が政治力で解任したと推認できる。
死活を掛け漁業主たちはそういったルートを最大限活用しただろう。
大きな枠組みとして、この兵部省は薩摩閥の黒田清隆が実権を持ち、
その後のかれの北海道経営10の建議はすべて採択されている。
対ロシアの戦争瀬戸際状況が樺太で勃発しており、
日本国家として樺太と千島列島をバーターにすることで、
北海道をロシアから守り、国土として経営することをロシアとの間で
一種の不可侵条約案として成立させていたのだろう。
この方針は事実として、黒田によって一命を生かされた旧幕臣・榎本武揚が
全権としてロシアと交渉をまとめ上げている。
そういった外交事案、国家的政治判断という流れで考えるべきだと思われる。
ただしその後も島義勇は秋田の県令になったりしているから、
決して政治生命ごと「失脚」させられたワケではないようだ。

で、当時の唯一の北海道経済有力層であるこの漁業支配者と融和的に対応し
かれらの利権を守りつつ、開拓資金を負担させるという現実路線をとったのが、
2代目の開拓判官・岩村通俊ということになる。
稀有壮大なロマンチストの側面のある前任者の島義勇に比べて
その事跡から現実的重商派武断政治家タイプだったように受け取れる。
この岩村の路線によって札幌開発計画は進められていくことになる。
大量に動員される労働力に対してススキノ歓楽街を創始させるなど、
清濁併せ飲む、というような為政者像をみる思い。
千人を超えた労務者へのススキノの吸引魅力は今に至るもその余韻がある(笑)。
そうした開拓使動向の中で、建築業で成功を収めたのが中川組・中川源左衛門。
この中川源左衛門の履歴・事跡についてはWEBマガジン・カイに詳しい記事がある。
北海道マガジン カイ 地図を歩こう「創成東」1
要旨としては江戸時代から明治初頭に掛けてのゼネコン的存在かと思われる。
記事ではこの「中川組」の消息も丹念に掘り起こしている。

写真は復元の「箱館奉行所」だけれど初源工事を受注したのが中川組。
この奉行所創建は幕末であり、それからほどなく
札幌の開基という国家的建設事業が始められることは必至の情勢。
そういうなかでこの中川組は「受注活動」を本格化させていく。
記事では札幌神社の移転候補地の敷地を提供した、という件がある。
それを喜んだ2代開拓判官・岩村通俊が源左衛門を「御用請負人」と定めた。
このあたりは、バーター取引の匂いがきわめて濃厚といえる。
これ以降「札幌建設をまるごと任せ」られた源左衛門は、
全国各地から千人を超える工事人員を集めて札幌に送ったとされ、
札幌近郊から材を切りだし、秋田能代などから秋田杉、南部ヒノキなどを
大量に買い付けして北海道に送っている。
初期の公共事業である官舎建築、ススキノ遊郭建設、監獄など
あらゆる事業、工事を独占的に受注したとされている。
岩村とこの源左衛門の関係がどのようなものであったか、推して知るべしだろう。
開発独裁政権というのはしかし、そういうのが仕方ない側面もある。
そういった「成功」は同時に破綻も生む。
その後の幌内鉄道工事(1880-82年)では大損失を被りやがて廃業している。
政治権力との深すぎる関係は、身も滅ぼすことにもなるのでしょう。

【北海道開拓・札幌本府最初の家】


きのうは北海道神宮のご神体「開拓三神」が北海道に来られて
最初に腰を落ち着けられた「一の宮」について書きました。
でもそれよりも前に、北海道開拓判官・島義勇さんの札幌入地の推移が
当然、想像力の根源事実として抑えておく必要がある。
ということで、札幌区史にそのあたりを検証してみる。
明治2年5月の五稜郭戦争終結後箱館を10月頃に発して
いまの小樽市銭函で仮役所を建てて滞在した島義勇の下僚4名が、
まず先発隊として札幌に入って、円山の丘から(とあるけれど225mほどの
小さな山ですので、たぶん登頂してそこから見たのでしょう)
全体の地形を観望して、いまの大通り西4丁目に仮小屋を建てた。
明治2年11月10日に至って島義勇も雪を冒して札幌に入地し11-12日で
「開拓本府の縄張りをおわり」と区史には書かれている。
そして大工の福原亀吉・伊勢屋弥兵衛・稲田銀蔵、
木挽・金十郎、土方・裕次郎及び由松などを指揮し南部地方より募集の
職人135人(うち大工35人、木挽50人、鍛冶50人)をもって、
まずいまの北1条西1丁目の地を相し(札幌元村の)大友亀治郎の
役宅を移し一官邸の建築に着手せり、とある。
この大友亀治郎さんは創成川の元になった「大友壕」に名を残す
江戸幕府の役職者として札幌経営の基礎を築いている。
この「役宅」を北1条西1丁目に移すことで当座の役宅としたのでしょう。
写真には「島判官が住んだ家(推定)」という説明書き。
区史編集段階(明治44年)写真点数も少ない中でも確認できなかったのか。
しかし前後事情や雰囲気からこの写真が役宅だったように思われます。
島判官は明治3年(1870年)1月19日、志半ばで解任されたので
この短期間に住むだけの住宅を別にわざわざ建てるとも思えない。
そう考えるとこの家は江戸から明治移行期の北海道の象徴的住宅かと。

大工棟梁3名と木挽き職人、土方職人など総勢135人で
当座のおおまかな縄張り、計画を策定して突貫工事にかかっていった。
総設計者である島義勇は、銭函と現場を馬で行き来して工事を督励した。
しかし時すでに降雪にいたっており工事は「寒中施工」に突入した。
「昨日築いたところが、朝来てみたらみんな雪の下になって埋没」状況。
佐賀藩出身の島義勇には想像を絶する気候条件が襲ってきた。
「よって前夜にムシロを工事現場に敷き並べ速く除雪できるようにした」
などと、今日の「ブルーシート養生」同様の対処をしている。
そういう工事の結果、20日間で竣工したとされるので、
前後関係を整理すれば、12月3日には竣工し島は入居している。
翌年1月にはかれは罷免されこの家には1カ月ほどしか在所していない。
罷免には漁業権についての政治的利権争闘があったようです。
Wikipediaの記述では以下のよう。
「(島義勇は)石狩や小樽など西部13郡の場所請負人を呼びつけて
請負人制度の廃止を通告した。すると函館から、制度名を「漁場持」と
変えて制度自体は「従前通リ」とするよう通達が回ってきた。
そして判官の後任になる岩村通俊が制度廃止を時期尚早とし、
開拓費用を彼ら請負人に負担させるべきという意見書を書き送っている。
開拓長官・東久世通禧とも予算をめぐり衝突した。
明治3年(1870年)1月19日、島は志半ばで解任された。」

しかし工事計画はこの島判官罷免後も活発に行われた様子が活写される。
勇払土人を雇い上げて(札幌)元村地方で木材伐採させて近隣地に
職人さんたちのための「長屋建築5戸続き2棟」を建設させたり、
同所に米蔵および倉庫2棟を築き、高官住宅数棟や「御本陣」という
旅宿施設、倉庫建築、病院などの施設建築を進めさせている。
こういった建設工事と同時に道路工事なども活発な計画が進行。
稀有壮大すぎたことで島義勇は解任された事情もみえます。
どうも明治政権の揺籃期で試行錯誤が見られたということなのでしょう。
そういった最初期を経て札幌建設は緒に就いていった。

<参照資料:札幌市公文書館講演会
「島判官の本府建設と札幌経営」札幌市公文書館 榎本洋介>
〜平成30年5月28日 於:札幌市公文書館講堂〜

【共同幻想としての神社 北海道開拓一の宮建築】

国家というのは人類社会での「共同幻想」だと思います。
国家は成員相互と国際で認め合うことでのみ存立しうる共同体と規定できる。
北海道開拓に当たり明治帝は「開拓三神」をもって
この地の長久なるを祈願され、その証し・マインドとして神社を創建された。
詔により東京の神祇官において「大国魂神、大那牟遅神、少彦名神」の
三神を祀る「北海道鎮座神祭」が執行され、北海道開拓の守護神と規定し
石狩に本府を建て、祭政一致の建前から神を祀る事を命令された。
明治の時代がスタートすると同時に明治帝の大命を奉じ開拓判官・島義勇が
明治3年5月15日、北5条東1丁目に仮社殿を造営して遷座し
「一の宮」と称されたが明治4年5月14日「札幌神社」と社名が定まった。
写真は「開拓三神」がとりあえず「一の宮」として現在の北5条東1丁目に
安置された建物とされる。その後この建物は現在地の「円山」に移転された。
写真は明治4年に撮影されたもののようです。
後背の森は、まさに開拓期の原始の札幌の地の雰囲気を讃えて清々しい。
この地は、小鳥たちのさえずりが多かったとされる。そういう土地は
大きな街区形成に好適という瑞祥でもあったとされている。
まことにファンタジーそのものの共同幻想であるけれど、
日本人的心性からはこのことをリスペクトし尊重してきた。
人間が形而上的な世界観、倫理観を持つ以上、
こういったファンタジーにはやはり大きな力があると思います。
そういうことに粉骨砕身することには共同体へのリスペクトが存在する。

個人主義と資本主義的な考え方に
世界的に行き詰まりが見られてきていると思います。
友人でアメリカでずっと活躍してきたけれど、彼の地で一個人として
たとえば介護付き施設などでの最後の迎え方を想像したときに
人間としてのこころの問題で、どうしても受容しきれなかったという。
たまたまそういう歳になって老母を札幌で見送ってから、
やはり日本での最期を選択したいと考えたというのです。
日本も個人主義、核家族社会の進展が顕著ではあるけれど、
しかしこのような「共同幻想」にまだしも社会として力がある。
ポスト個人主義というようなことを考えなければならなくなった現代、
ある気付きを与えられたように思っております。

【「木造」で涼房環境をつくる、住宅の挑戦】

さてきのうの新住協総会、研究会発表の報告について
そこそこ反響をいただきました。
ということで、若干の追記をしたいと思います。

この「階間エアコン冷暖房」の発表者であった
オーガニックスタジオ新潟の相模さんはなかなか表現力のある方で
「ホントは冷蔵庫メーカー巨大企業のやっているナカミを、
その原理に基づいて零細企業と研究者の連合が木造住宅を使って
まるで中世の一向一揆みたいに住宅で実現しようとしている」と表現していた。
高断熱高気密住宅というのは、外気の気候条件とは
高いレベルでの「隔絶空間」を作り上げる基礎的要素技術であり、
その内部の気候をコントロール可能にするというもの。
寒冷地では寒ければ死ぬという切実なテーマ解決が要請されることから
まさに必須技術として、それも道庁など地方政府組織まで含めた
「オープンな」技術として進化してきた。
その技術を蒸暑の日本の夏の気候に対してアジャストさせると、
その要素技術として、これも世界最先端のヒートポンプ技術、
日本のエアコンを「オープンな」カタチで解析していくことになる。
エアコンはコンパクトな「家電製品」として流通させる商品。
扱う「素材」も鉄であったり樹脂であったり化学素材であるのですが、
木造住宅はもっと「自然」な素材、木とか紙とか、土とかを使ってつくる。
もちろん工場管理され出荷される設備機器も部材としては導入されるけれど、
それはワンパートであり、総体としては自然な素材で基本構成される。
寒冷地発祥の建築技術体系で自然な気候コントロールができて
やわらかい自然素材の組み合わせでそのことが実現可能になったので、
その先で、木造の気候コントロール装置つくりが現実的に見えてきた。
個人的には「涼房」という概念に近いのではないかと思うのですが、
基本的にそういうことなのだろうと思います。
冷蔵装置の場合は「冷凍」までの必要があるのですが、
この「木造涼房建築装置」は、あくまでも結露点を管理しながら、
温度で言えば25-28度前後、相対湿度も50-60%程度を維持する目標になる。
人間の体感センサーの「快適」範囲を維持するということ。
寒冷地発祥の気候コントロール技術ですが、それが確立することで
人類人口が圧倒的に多い世界の蒸暑地域での
潜在的「発展可能性」はより広い、というように言えるでしょうね。

さて拙ブログ、一方で北海道住宅の進化初源への歴史相関的探究ですが、
たいへん心強い研究者の方から協力の申し出もいただきました。
整理整頓して、徐々に進めていきたいと思います。乞うご期待。