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【140年前、わが家近所での開拓屯田兵の暮らし】


住宅の取材というのは、必然的にその家での「暮らしぶり」に密着する。
どうしてこのような家になったのか、ということ。
言い換えれば、家というイレモノは暮らしのために存在すると思う。
いまで言えばまことに寒々とした140年ほど前の、
札幌市西区琴似での生きた暮らしぶりとの相関関係への想像力が
いつも求められるし、なるべく生き生きとした情景を思い浮かべたい。

この琴似屯田兵村は、わが家から1kmも離れていない距離。
歩いていけば7-8分の場所にあります。
地割りは基本的にそのままと言ってもいいほど。
これほど近い位置に日本人なら誰でも知っている歴史痕跡があることに
今更ながら気付かされている次第。
残存している「清野さん」の入居した屯田兵屋には、
ごらんのようなイラストまで掲示されているのでわかりやすい。
一番上にはクマさんが繰り返し集落を襲った様が描かれている。
この屯田兵村は200戸の集住として最初から1,000人単位の村落形成がされた。
この事実は、初期の北海道移住の困難への「対応策」だったと考えられます。
江戸期以来、散発的な「移住」「開拓」の試みはされたけれど、
やはり人間生活というのは、ムラという共同体の存在が大きいのだと思う。
縄文以来のこの列島での人間の営みでは、最低400人程度の集落が
基本生存要件を満たしていたとされています。人間というのは
集団・ムラのような共同体なくしては存在し得ない。鉄則なのでしょうね。
たぶん明治国家もいくばくかの試行錯誤の結果、
そうした人類的共通性に気付き、まずは移住のためのコアとしての
集落・ムラを造営したのだと思われるのです。
この琴似屯田兵村は1,000人規模であり、さらに「軍隊組織」でもある。
共同の危機に対して対応できるだけの基本組織だったと思う。
一番上にはクマさんの襲撃の様子がありますが、
実際にクマの襲撃で恐怖に陥れられた記録は北海道内で相当数に上る。
屯田兵村は、そういった安全保障の基本で地域の「カナメ」を形成していた。
実際に周辺の集落にクマ駆除のために動員された記録が多数残っている。
クマ1頭を駆除すると現在貨幣価値で10万円弱の「報奨金」まで支払われている。
クマ撃ちの名人は弾丸3発で仕留められた、みたいな話も伝承している。
こんなくらしが主に東北の維新戦争敗残諸藩の旧士族によって営まれた。
そんななか、くらしが始まって1−2年後、西南戦争が勃発して
この屯田兵たちも仇敵・薩摩討伐の機会を得た。・・・

マンガ表現では、こんなくらしの句読点のような光景も。
夏場は集住の力もあって、比較的暮らしやすかっただろうけれど、
冬場の寒さへの「戦い」はいまの時代の想像を遙かに絶するものだった。
マイナス20度、30度といった寒冷気候に対して、
断熱の知恵もなく、ただ囲炉裏の暖だけで立ち向かう過酷さは
クマの恐怖の比ではなかっただろうと思います。

【北海道開拓最初の住宅施策は大量生産志向】


北海道庁は少し前まで「試される大地」というキャッチフレーズを
アピールしていました。
けっこう反響があったように記憶していますが、
北海道は開拓初期のはじめから確かに「試され続けてきた」のは事実。


写真上は開拓当時一般的に建てられていた小屋、もしくは簡易な住宅。
だいたいこのように萱葺き・草屋根というのが常識的な建て方だった。
こういった屋根の建物に対して開拓使としてはどうも批判的で
その後、下の写真の「琴似屯田兵屋群」を始原の「公共住宅」として
建設したときには「柾葺き」の屋根としたのですね。
いわば開拓使初源の「住宅政策」であったように思われます。
江戸期には都市住宅に対して間口の広さによる税負担を基本政策にして
火災延焼の危険防止のため屋根を瓦葺きにさせたりしている。
この北海道開拓・札幌本府創設に当たって、測量などの作業進行で
まずは「街割り」を行った。で、大量動員された一時的「出稼ぎ」労働者たちの
簡易な草屋根「小屋がけ」が、かれらの退去後放置されていて
ほかの永住的な建物に対して火災延焼の「火だね」になっていたので
強制撤去させるのが目的で「御用火事」まで仕掛けたといわれる。

たぶんこのようなプロセスから北海道の「住宅政策」は始まっていった。
初源的な官の政策としては合理的大量生産の屋根問題だったかと思える。
柾屋根というのは、薄くスライスした木板片を屋根に張っていく工法。
草屋根が繊維質で空気を内包したストロー状の萱などを使うのに対して
いわば紙のように処理した板材で被覆させる工法。
北総研の建築研究者・高倉さんからの情報では、
「開拓使は、明治4年にシングルマシン(柾板の製造機)をアメリカより購入し、
器械柾を製造し始めます。」との情報が寄せられた。
草屋根がいかにも自然的な非大量生産的なつくられようであって、
そういった自然環境依存型ではなく、機械的な合理的均質性を優先させたのだ。
開拓使としては最初期の最大政策は定住人口増の推進だったから
その生活基盤である住宅については、まずは大量生産志向で
プレファブ的な志向を強く持っていた可能性がきわめて高い。
「シングルマシン」による製材がどの程度のコストだったかは不明ですが、
草屋根のように、どっかから調達する「粗雑」なつくられ方は良しとしなかった。
琴似屯田兵屋は明治7年に一気に200戸ほどが建設されたので、
この住宅を「モデル住宅」事始め的に仕掛けたように思われる。
ただし、当時北海道に滞在していたアメリカのもと農務次官ケプロンは
「薄紙のような」というように表現している。
すでに北米の寒冷気候に対して住宅の気密断熱の重要性に気付いていた北米人には
初源の開拓使の「住宅政策」に奇異の念を抱いていたことがうかがえます。

【堤防決壊広域被災、宮城大崎市・進まない復旧】

昨日、いつもお米を直接購入させていただいている
宮城県大崎市鹿島台の農家の方から緊急のSOSがメールなどで来た。
「今回の台風19号での当地での吉田川決壊により浸水した水が引かず
避難所生活をされている方が150名近くおります。
みなさん決壊を予測できず、着の身着のままの避難だったので
今に至っても、着替えもなく過ごしております。
日々寒さが増してきております・・・。あつかましいお願いですが、
古着でよいので防寒着・防寒下着などを送っていただけないでしょうか?」
という切実極まりないお申し出。
こういうふうに直接頼まれたのは初めての経験でもありました。
たしかに急に堤防が決壊して氾濫して家が浸水すれば、
対応する用意を事前にしておけるという人は少ない。
命を守ることはできたとしても衣類が全滅する事態までは想定できない。
季節的に寒さに向かっていくのに、当然防寒着は心許ないだろう。
こういった事態なのに今回はあまりにも広域同時多発的なので
地元自治体の事実把握・対応すらきちんとされていないようです。
この地域は広域行政合併で「大崎市」に統合されたのですが、
浸水家屋の数自体も行政側での把握が遅れてしまっていたようです。
ご存知の通り、台風による決壊は12-13日ですが
地元テレビ局TBC(東北放送)16日報道ニュースでは
「大崎市は14日現在6軒の浸水被害と発表してきましたが、
実際にはそれを大きく上回る200軒以上に上っています。」
ということだそうです。以下、報道の抜粋。
「濁流で台所の冷蔵庫を押し倒された赤間浩子さん(53)。
被災後15日に初めて住まいの様子を見て愕然とした様子。
片づけの見通しが全く立たず、り災証明発効のために必要な
被害の様子を写真に収めるのが精一杯だと話します。
吉田川の堤防決壊では大郷町で水が引いている一方、大崎市鹿島台では
浸水したまま。土地が低く大郷町側から水が流れ込み
水位は引くどころか上がった場所もあったといいます。
15日になり、ようやくポンプ車による本格的な排水作業が始まりました。
約30年前に大崎市鹿島台を襲った豪雨で1週間、水は引きませんでした。
住民は落胆と憤りの顔色を見せています。」(抜粋終わり)

ということで、とりあえず冬用衣類の古着を昨日送らせていただいた。
発災直後カンパなどは送っていたのですが、家屋復旧に忙しい中で
いちいち連絡してはそれへの対応も迷惑だろうと考えてしまいます。
都合7つの段ボールで物資を送付したのですが、今回はこうした送料も
まったく全額自費負担のようです。ふつう支援物資の場合、
配送料には減免処置が取られるのではと勝手に想像していたのですが、
まったくありませんでした。
どうも今回の被災地支援の行政対応は後手後手のように思われます。
っていうか、情報の把握自体もきちんとされていないのは、
どうにも疑問が膨らんできてしまいます。
それにしても、12-13日の堤防決壊からすでに8日経過なのに、
写真のような状況だと言うことに驚かされます。・・・

【わが家直近の「歴史」屯田兵屋再探訪】

きのうは、最近わたしのライフワークに強力な助っ人をしてくれている
娘とわが家のすぐ近く1kmほどにある「有形文化財」
琴似屯田兵屋を再探訪しておりました。

わたしは人生でいろいろなところに住んできました。
各地をめぐって39歳の年に現在地・札幌市西区山の手に住み始めた。
なので人生時間30年近くを今の場所で住んでいる。
っていうか、札幌市西区琴似周辺という意味では40年以上。
最近、北海道の住宅始原の探究をテーマにしてきて
ようやくにして、地元のことに思いが至るようになって来た。
まことに恥ずかしながら、であります(笑)。
屯田兵というこの地域の基盤になった歴史事実にも、
こういう興味が向いてきてようやく気づき始めているという愚かさ。
図は琴似地域の屯田兵入地の配置図と、現在の地図とが
ほとんどピッタリ重なっていることを示しているもの。
図の真ん中あたりの⬇は、都下鉄琴似駅1番出口で、
現在はよくお世話になっている北洋銀行琴似中央支店。
で、その面している左右が現在メインストリートの琴似栄町通り。
軍隊組織形態の指揮命令系統所在地も現在の「札幌西区役所」に
ほぼ相当する位置に当たっている。
屯田兵村の「街割り」が約150年後のいまでもその原型のママ、
今の時代までつながってきていることが一目瞭然であります。
この屯田兵村は、明治8年・1875年に総戸数198戸、
約1,000人規模の集団移住によって開かれたという
北海道でもごく最初期にあたる「街の造成」事業だったのですね。
探訪している「屯田兵屋140号」という建物も、清野さんという方の
お住まいだったそうですが、その家系の方とおぼしき高校同級生も
いることに今更ながら気付いたりしている。
屯田兵の末裔と思われる友人も数えられるほどいるのです。

灯台もと暗し、歴史が大好きなのですが、
こんな150年ほどの身近で事実発掘が容易である街にいることに
あらためて驚かされながら、大きな「テコ」を手にできた
そんな思いが強まってきております。
歴史把握は行ったり来たりすることと言われますが、
ちょうど寸法の基本が人間の肘から手までの長さであることと
似たような把握感覚として、この歴史時間150年間がテコになれる。
ふ〜む、と深く気付かされるところであります。

【専門誌デジタル読み放題 Biz SHERPAにReplan参加】

リコーは全国の事業所にコピー端末を販売事業を展開している。
ビジネスモデルとして機械単体での展開では今後の成長性が見えにくい。
しかし既存の顧客層の厚みは巨大な蓄積を持っている。
一方で雑誌ビジネスもまた紙にだけ依存した形態では存続が難しい。
そういった相互事情からまったく新たなサービスが生まれた。
ビジネス誌・業界専門誌読み放題サービス「Biz SHERPA(ビズ・シェルパ)」
~業種・業界に特化した専門性の高い情報をデジタルコンテンツで提供~
で、リコーの顧客層でも最大なのが「住宅建築系」企業群ということで、
先行的にそうした専門的雑誌群が選択された。以下雑誌メンバー。

こういう「専門雑誌群」は、一般的には東京で全国向けに
書店流通させてきた雑誌ばかりということになるのですが、
なんと、わたしどものような「地域型住宅雑誌」にも声が掛かった。
Replanは北海道と東北、関西でも発行している高性能住宅雑誌。
デジタル版は北海道版を継続発行。「地域住宅雑誌」が基本出自ですが、
なんといっても北海道の住宅が情報基盤なので「高断熱高気密住宅技術」の
最先端事例、その啓蒙雑誌という側面もあります。
日本の高断熱高気密運動を牽引する鎌田紀彦氏の連載記事や
不可欠な住宅設備研究の最先端、東大・前真之氏の連載記事も掲載。
住宅実例として幅広く先端的技術力を持った作り手の最新事例を紹介し、
その建築技術風土の中で革新的なデザインに挑戦している
いわば性能とデザインを止揚する地域の建築家も多く事例発掘してきた。
一般ユーザー目線でありながら啓蒙的に住宅進化も志向させたいという
やや特殊な立ち位置の「地域住宅雑誌」。
地域全体として高断熱高気密住宅に取り組んできた北海道の動きを伝えている。
地域密着型と言うよりも半ばは住宅建築専門誌的とはいえるかも。
そういったポイントに注目されてメンバーに選定されたようです。

さらにこのサービスは「情報ビジネス」の最先端的なビジネスモデル。
どちらかといえば、BtoB的な意味合いとしての展開。以下要旨。
〜近年、パソコンやスマートフォン、タブレット端末などの普及とともに、
電子書籍デジタルコンテンツ移行が進んでいます。
また定額制の読み放題サービスなどのサービスが数多く登場しています。
しかし、業種や業界に特化した専門誌はデジタルデータとして
横断的に閲読できるサービスが少なく法人ユーザーにとっては、
「出所が確かで質の高い」専門情報を収集、閲読するのが難しい状況。
「Biz SHERPA (ビズ・シェルパ)」は各業種業界の専門誌データを、
記事単位に分割して分類し利用者の関心ごとに情報に再構成して提供する
月額制の読み放題サービスです。ビジネスに役立つコンテンツを、
出版社の枠をなくしWebブラウザ上で一元的に閲読できます。
専門性が高い良質コンテンツを「見る」「探す」「集める」に特化します。〜

運営はリコー・富士山マガジンサービス・電通で、以下のように協業。
リコーは全国の法人顧客基盤を活用し法人ユーザー開拓。
富士山マガジンサービスとmagaportは各出版社からの情報の統合管理。
電通はサービスの発展に向けてビジネスプロデュースを担う。
詳細は以下のリンクでご確認ください。富士山マガジンサービス
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000019.000003823.html

【五輪マラソン札幌へ 気候変動と寒冷地開拓価値】

IOCから来年の東京オリンピック・マラソン開催地に札幌の名が上がった。
要因はあきらかで、年々凶暴化する「気候変動」による酷暑。
35度を超える大会期間中の気温条件では、
アスリートたちにとって危険な状況であることはあきらか。
決定までにはまだ曲折もあるかも知れないけれど、
アスリートファーストで考えれば、流れは決まっているのだろう。
国際都市として相当充実したインフラを持ちつつ、
首都と気温で5度以上違う日本のバックアップシティにIOCは着目した。
日本の大都市の年平均気温は東京から福岡までだいたい16度前後だけれど
札幌はおおむね9度前後。(仙台は12-13度)
しかも飛行機移動では世界有数の旅客数路線で羽田から1時間半程度。
この時間距離も東京からたとえば千葉までの移動を考えても
そう大きな「距離感」とはいえないだろう。
このような緊急的な選択多様性は国の価値を高め対外的に有益だと思う。
札幌に住んでいる人間からすると、この期間中(8月上旬)は、
当地としてもものすごく暑いので大丈夫か、という不安はあるけれど・・・。

このことが暗示的だが、巨視的な近未来気候変動対応として、
日本にとって寒冷気候の北海道の開拓・領土経営に成功したことが
大きなプライオリティとして浮かび上がってくる可能性が高い。
人類全体では蒸暑地域に8割以上が生きているけれど、
科学技術発展は、やや冷涼な西欧から発祥していった。
関東以西・以南地域が気候変動によって夏期、暮らしづらいほどに
過酷な環境になっていく可能性は年々高まってきている。
亜熱帯化する関東以西・以南地域の人口集積は80%を越すけれど、
冷涼な札幌・北海道の活用可能国土はまだ余力を十分持っている。
・・・しかも、寒冷条件をクリア可能な「居室内環境」技術が高い。
国が定めた住宅性能基準を地域全体レベルとしておおむね満たしているのは、
誰の目にもあきらかだという事実がある。
新住協の今年の総会ではおおむね蒸暑の夏期対策が検討されたけれど、
寒冷地の住宅技術がより広い地域の人間居住環境に劇的変化をもたらすことに
多くのひとが気づき始めていると実感した次第。
人類危機的な巨大な気候変動への国家対応は
ようやく北海道がニッポンの役に立つことができる局面なのかもしれない。

<写真は明治8(1876)年竣工の「琴似屯田兵屋」群>

【Mac接続環境不都合の主犯?】

ここのところ、作業環境の整理をせねばならず、
十分ではないアタマをあれこれ悩ましていました。
Mac本体の記憶容量がまったく増えずむしろSSD化で極小化しているけれど、
常時扱いたいデータは20年以上撮影し続けている写真データを中心に
数テラサイズ以上とどんどん増加傾向。
そういうことなので、WEB上のクラウドサービスも試してみるけれど、
レスポンスの悪さには閉口してしまう。
追加するにも削除するにも、いちいち時間が掛かって実際的ではない。
人間には「作業レスポンス」の許容範囲というのがあると思うのです。
たしかにクラウドにデータがあれば便利ではあるのだけれど、
やはり常時管理できるデータ領域というのは身近になければ
ストレスが掛かりすぎる、というか、その点については
あまりにも身近すぎるので他者にデータ管理を依存することに
どうも納得できないのですね、それこそ「試行錯誤」する自由がなくなる。
試行錯誤にいちいち「通信環境」が介在されたのでは
発想の自由にまで「GAFA」支配が及んでしまうのではないか、
おいおい、表現の自由を超えるレベルの大問題だ、
内心のこころの自由にまで関わってくる超現代的人権問題だ。
という実感がぬぐえない、困った中高年なのであります(笑)。
でもこういうのって、多くの人も感じているのではないでしょうか。
デジタルデータの「自由」をクラウドに委ねたくはない。

なので、数テラサイズのデータを自由に扱える環境としては
どうしても「外付け」ドライブに依存することになる。
わたしが扱うのは通常は静止画写真データが多いので、
応答速度としてはUSB2.0程度でもまったくストレスは感じない。
今後、動画編集が本格化していけば、USB3.0が必須化するかも、だけど。
そういう進化は徐々にできればいいや、と考えています。
たぶん環境よりコンテンツ創造の試行錯誤の方がはるかに重要でしょう。
こういったことからの「データアクセス」環境検討なワケです。
しかし、Macの場合には絶対の「バックアップ」としてTimeMachineがあり、
それでまずは絶対必須の「外部ドライブ」接続が不可欠。
そのほかに本体Macのデータ容量不足を「補う」外部ドライブが不可欠。
さらにそれ自体も、外に持ち出して扱うモバイル化が不可欠。
というようないくつもの「不可欠」が積み重なっている。
・・・あ〜、悩ましい(笑)。
本日朝から環境が挙動不審のため入念にチェックしたところ、
ようやくにして、最近の不都合の原因のひとつが特定できた。
非常に疑わしいのがこの写真の存在であります。
お〜、なんとも容疑者らしいコードの絡まりぶり(笑)。
USBハブであります。
こうした外部ドライブが複数になればこの装置が必要になる。
でもときどき外部ドライブが認識されないとか「接続解除されました」
とかの挙動不審な事態が頻発していた。
外部ドライブ自体の問題か、とか、そもそもMac本体側か、
いろいろ悩ませられていたのです。
で、それらの環境をしっかりチェックした末、こいつの問題が特定された。
電源パワーの問題もあろうかと独自電源を持たせてもいるのですが、
通信不安定はどうもやはりこれの不具合の可能性が高い。
いまはようやく静穏な環境でブログを久しぶりに書けております。
この環境が安定して継続して欲しい・・・。

【台風被災 ラグビー精神 水の国ニッポン】

日本は水の国だと思う。
四方を海に囲まれ、とくに日本海を吹き渡る偏西風が
水蒸気を日本の国土に雨となって降らせる。
そのために国土は放っておいても基本的には緑が元気に繁茂する。
その水は水道でそのまま飲める水としてニッポン人に供給される。
「水に流す」という世界でも独特の精神を日本人にもたらしている。
しかし、そうであるがために水による災害と常に日本は隣り合わせだった。
ときには熱帯太平洋の巨大な雲塊が襲ってきたりもする。
今回の未曾有の台風による水害は、まさに想像を絶している。
きのう連休が明けてさまざまな台風被害の状況があきらかになってきた。
スタッフのひとりも床上浸水に遭遇していたし、
仕事関係の知人のみなさんの多くも被災したことが明らかになってきた。
これまでは日本のどこかでの局所的な被害という
自然災害への思い込みがあったけれど、
それこそ家族の住む直接的な関与地域だけではなく、
まさに広範な地域すべてが災害に遭遇している。
まことにその深甚さに驚くとともに、深くお見舞い申し上げます。

そういうなかでラグビーワールドカップ大会。
このスポーツをしっかり観戦するのはわたしは今回がはじめてだけれど、
どこか、相撲と球技が合体したような魅力に取り付かれています。
非常にはげしい格闘技スポーツでありながら、
つねに「ルールとマナー」について覚醒させられる競技だと。
日本戦よりも他国同士の戦いの方が「見やす」かったりする(笑)。
日本戦だとついわたし自身もエキサイトしすぎるのだ。
そういうエキサイトしやすい肉体同士のぶつかり合いがベースにありながら、
試合後は「ノーサイド」という「水に流す」風のカタルシスがある。
そのことで殺伐さが拭い去られて、お互いへのリスペクトが交感される。
先日の対スコットランド戦で戦場でエキサイトはしたけれど、
しかし敵ながらあっぱれな活躍をした選手に対して、マンオブザゲームとして
日本チーム主将のリーチ選手が「日本刀」をプレゼントしたそうだ。
また、水害被災した釜石でのカナダチームの清掃奉仕活動。
きわめて一体的な社会であるこの国では一般人に広く情報共有され
かれらカナダチームに対し、民は空間を超えて感謝を示していたとされる。
「国際」ということについて、最近
いろいろな動きが目まぐるしく騒がしいなかで、
この水の国ニッポンでのノーサイド精神のラグビーワールドカップが
わたしたち日本人のこころに染みわたる浄化作用を見せている。

【Mac環境移行に長時間かかる件】

写真は先日訪問した「土の博物館」土壌層の展示。
土って普段はなにも考えない存在ですが、
地球の創世は46億年前で、土って4億4千年まえころから出来てきた。
っていうことなのだそうです。
まぁそういった年代時間からすれば、あっと言う時間ではありますが、
Macの環境移行にずいぶんと手間取っている(笑)。
昨日娘にこれまで使っていたMacbookAirは仕事の依頼とともに
持って行ってもらったのですが、
移行先のMacBookProの方の環境整備はまだまだ終わっていません。

そもそもこれまでの20年以上の仕事などのデータを
「全部」持っていたいというのが特定の仕事を長く続けてきたことからの
大きな要件になっている。
デジタルデータなのでディスク容量はどんどん巨大化するので
はじめのうちは「なんぼでも大丈夫」みたいに考えていた。
なので、ソフトの側のデータもドンドン巨大化していった。
画像のPhotoshopデータなど、隔世の感があるほどの容量差。
ところがパソコンの側で、不安定なHDDへの見直しが始められて
記憶媒体がSSD化していく趨勢になった。
それもすぐに大容量化するとタカをくくっていたけれど、
これがなかなか進まないというか、ほとんど停滞している。
パソコンは高齢化、移動の日常化もあって、なるべく軽量化したい。
そういうなかでデータの個人管理の重要性が増しているのですね。
しかしSSDとHDDの混在が一般化して、さらにHDDの方が
なかなか安定しない、またSSDにしたってそのうちボロも出るだろう。
HDDは壊れるということを前提にすれば、大容量のドライブのその
バックアップも必要になる、ということなので、イタチごっこ。
さりとてクラウド管理もまた情報管理の面でイマイチ信頼性がない。
というような2019年段階というようにいえるのでしょうか?

まぁ大容量データ記憶媒体それ自体がおかしてなってくると、
バックアップに次ぐバックアップ地獄で、それも大容量なので、
時間はとにかくかかることになっている。
われわれは、便利になったのか、それとも機械の奴隷になってきたのか。
う〜む、わかんない。

【明治末年北海道移民、長旅の写真記録】



わが家の家系はわたしの祖父の代に、広島県から渡ってきた。
北海道の歴史的な写真を検証しているなかで、
ほぼ同様の時期の「移民」たちの様子の写真があって、
気分として追体験しているような不思議な感覚に襲われています。
伝承として家族から聞いていたのは、
小樽に船で着いた、ということ。
そこから転入先である栗沢町まで荷物をかかえて、
一家祖父母、叔父叔母父の5人兄弟が移動したという。
移動手段は「幌内鉄道」を利用したということ。

まず、「船で着いた」ということの実質が見えなかった。
というか、想像すら出来なかった。
なんとなく大きな旅客船をイメージしていたけれど、
考えてみれば、そんな交通の発展した時代ではない。
このちょうど同時代の上陸写真からは、桟橋もなく、
大きな船は直接陸地に着岸できずに、
船から「はしけ」のような小舟に乗り換えて上陸したとみえる。
旅の出発港はたぶん広島県の尾道だったと推定できるので、
さてこの旅には何日かかったのか。
どう考えても1週間は間違いないだろうから、この上陸には
やっと船旅から解放されるという歓びがあっただろうか。
それとも地獄にでも突き落とされるような気分だったのか。
祖父は事前に「下見・準備」で往復はしていただろうから、
その祖父の「旅の慣れ」だけが家族に安心をもたらしていたのだろう。
そして北海道で石炭が産出され産業資源基地となった時代の
大動脈、幌内鉄道に家族全員で乗車した。
広島県福山市西部から尾道港までは十数キロの行程だと思われるので
この間で鉄道に乗車できたとも思えない。
だとすれば、祖父以外の家族は「はじめて汽車に乗った」のかも。
こういった移民行程体験での家族それぞれの心事には想像が膨らむ。
そして最後の行程は、歩いてということになったのだろう。
3番目の写真は北海道に多かったとされる「谷地」を行く様子が写っている。
このみなさんは「測量隊」一行のようですが、
開拓の時代、まずは目的地までの「道」すらこんな状況だったことが
自然とつたわってくる。先人の労苦が偲ばれ胸がすこし熱くなる。

北海道住宅初源の旅探索中ですが、しかし豊富な歴史資料写真が、
その時代のナマな空気感を伝えてくれることに感動致します。
時代は近いけれど、日本人が経験した歴史事象のなかでも
北海道開拓というのは相当に大きな民族体験だったと気づき始めています。
幕末ものテーマが一段落すれば、そのあとの最大の日本史の舞台は
どうも北海道の原野になっていたのではないか。
休日の1日、こんな想像に包まれておりました。