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【ラグビーWC大団円 五輪マラソン札幌開催へ】

さて長かったラグビーワールドカップもきょうが決勝戦とのこと。
日本中に誇らしげな「にわか」ファンの渦を巻き起こしての大団円です。
なにが何だかよくわからないけど、相撲の立ち会いのぶつかり合いの迫力と
独特のチーム一丸球技のオモシロさ、さらに国別対抗というわかりやすさ、
その上、終わったあとの「ノーサイド」の清々しさと、
まさに「にわか」的盛り上がりには事欠きませんでしたね。
ちょうど、韓国との外交あつれきが盛んな時期に重なったことで、
そういった国際意識のモヤモヤした部分がストレス発散されていた。
国同士がいがみ合うのはある部分仕方のない「サガ」ではあるけれど、
同時にお互いをリスペクトすることの大切さを
再度確認させてくれたイベントだったと思います。
決勝戦は日本に勝ち上がった南アフリカと、イングランド戦。
にわか、としては日本戦のように血が騒ぎすぎず、
純粋にスポーツとして楽しませてもらいたい(笑)。
両国チームの熱いファイトを期待したいと思います。

というような爽やかなスポーツニュースと並行して
東京オリンピックのマラソン競技の札幌開催という微妙さのある動き。
わたしのブログでは気候変動対応としてのバックアップシティとして
札幌を活用していただける、困ったときに役に立てるという
そういうスタンスで歓迎させていただいていた。
その後、東京の人たちのやるせなくツライ思いも伝わってきて
なんともと思っていましたがどうやら正式に「同意なき」決定のようです。
このような経緯であったことを踏まえて、
オリンピックの華の開催というこの好機を当地として無にしたくない。
全市民、オール北海道でおもてなしの心を持ってあたりたいですね。
コメの国日本が亜寒帯に近い気候地域でも大都市を成功させている
そういった国の多様性の力を世界にアピールする好機と思えます。
ほんの150年前には海岸線地域での漁業収奪しかなかった国土を
「食糧基地」と呼ばれるまでに農業振興させ、
地球上でも航空路線第4位乗客数の吸引力ある地域に、日本社会は
北海道を開発してきた、そのことを世界にアピールできるようにしたい。
日本国家が育て上げたこの地域が、いまやアジア圏からの観光でも
有数の魅力的地域に育ってきている。
五輪開催都市・東京にとっては、マイナスとも思える今次機会を
むしろ日本全体のビッグチャンスに変えられたらと念願しています。
魅力あふれる風土・景観を、ぜひアピールしてほしいものです。

【城郭と支える城下町 「首里城」再建を期待】

首里城が焼失した。

家族が移住していた経緯があって沖縄へ何度も往復していた。
首里城も数回は見学していたけれど、とくに写真には収めていなかった。
名にし負う観光地であり、回を重ねるごとにそうした気持ちが消えたのかも。
北海道のひとが道庁赤煉瓦建築をあまり写真には収めないみたいなものか。
テレビを見る習慣がほとんどなくなったので、今回のニュースは
WEBで知った。沖縄と建築という類推から建築家の伊礼智さんの
FBページでの反応なども知った次第。
建築にはさまざまな要素があるのだろうけれど、
この琉球王朝時代の象徴建築はひとびとのこころに触れていることが明瞭。
ある意味、沖縄そのもののアイデンティティという受け止め方。
わたしも一瞬、沖縄が失われたという思いを抱いた。
伊礼さんの言葉では「建て直すしかない」という意志的なフレーズが
とくに印象に残った気がしました。
首里城建築は数度の「再建築」を繰り返してきているとされる。
京都の金閣も放火による悲しい焼失を経験してきている。
建物は消えるけれど、人々の記憶は決して消えない。
令和の時代の再建築として復活を期待したい。

こういう「記憶の建築」にはそのような役割があるだろうけれど、
写真はわたしの好きな歴史民俗博物館(千葉県)「江戸橋広小路模型」。
こちらはレプリカなのに、どうもWEBでの検索でも
その名前が通っているという不思議な存在。
江戸期の経済の実態を視覚化した展示として深く驚かされるもの。
生きていた「建築群」リアリティ、江戸経済そのものみたいな。
城郭建築というのは象徴性で永続するものでしょうが、
その「城下」街というのは、きわめて流動する存在。
戦争などがあれば、その都合から最初に焼き尽くされる存在。
しかし直近の日本最後の国内戦争である戊辰戦争では
薩長もこの江戸の生きていた経済実態そのものには手を出さなかった。
いや、出せなかったというのが真実であるのかも知れない。
明治新政権の大資金源は大坂の資本家たちだった。
かれらは江戸の「経済」を無傷で得たかったに違いない。
いまこのレプリカからつたわってくる民衆的な経済実態には目を見張る。
秀吉が着目した江戸の水運優越性が人工的大都市の成功をもたらした、
その実態そのものがつたわってくるものだと思います。
よくみると、市街の中心施設として「火の見櫓」がみえる。
繰り返された江戸の火災災害から都市自身が自衛していた。
街づくり思想として先人たちからさまざまな警句を教えられる。

【繰り返す災害と日本人の心性】

先般の台風19号の猛威については、諸外国とくに中国でも
その情報が逐一SNSで活発にやり取りされ高い関心を持たれていたという。
旺盛な民間交流で日本に在住、または滞在している中国人も多い。
そういった意味では自然のことでしょう。
今回の台風についてはアメリカの情報機関も「地球史上最大」というような
情報を流してもいたので、関心が高かっただろうことはわかる。
しかもそれが首都直撃コースであることが明確になって来て
より一層切迫感を持っていたのだろうと思われます。
心配していただけることはありがたいことだと思います。感謝。

そういう情報から、しかし日本とほかの国、国民性の違いにも気付いた。
日本人であれば繰り返す災害に対してのある「心性」を持っている。
他国民というモノサシ情報から、そのことに気付かされた次第。
図は、関東大震災の被害状況を報せた絵巻風のイラスト表現。
<横長画面だったので上下に分割しました。富士山が左・西側>
1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒ごろ発生した
いまも永く日本人に刷り込まれた民族記憶としての大災害。
このような災害との遭遇が、いったい日本人にどんな「特殊な」心性を
植え付けているだろうか、という分析が求められている。
そんな風に思われてならないのですね。
悲しいことだけれど日本人であれば、災害は必ずやってくると諦観している。
備えておく必要は常にあるけれど、しかし災害自体は不可抗的であると。
この自分自身の「諦観」に実はわたしたちは普段あまり気付いていない。
外国の目から見たら、こういう心性というものの根拠はわからないだろう。
日本人は、どうもこのことに気付いていない。
日本が他国と摩擦を生じる場合のひとつの要因として
むしろこういった日本人的心性が関与しているのではないかと思えてきた。
日本人は他人を思いやるというか、おもんばかるという心性が強い。
それは繰り返される災害から日本人が獲得した「無常心」の発露ともいえる。
諸行はつねに無常であるのでせめて人間同士はいたわりあう、みたいな。
自分がそうであるから他者もそうであると思い込んで止まない。
しかし、日本人同士であれば通じ合えるこうした部分だけれど、
対外的な国・国民相互ではメンタルには違いがあるのが国際常識。

こういった地理的・民族的体験からの「特殊心性」が由来での
対外的相互理解の欠如、相互フラストレーションもあるのかもと、
中国からの情報メッセージを見て考えさせられていた。

【写真とマンガ表現力の違い in屯田兵屋 】


写真とイラストでそっくりな構図を発見した(笑)。
北海道住宅の始原を探るシリーズですが、
当然歴史事実の発掘がたくさんありすぎて興味深さが加速する(笑)。

この屯田兵屋は、わが家のすぐ近くに総数208戸が1875年に竣工した。
いまから144年前ということになりますが、
明治以降ということなので、写真という情報基盤が現代と共通する。
写真が残されていると、その「表現力」の奥行きの深さに驚く。
それまでも瓦版や、大和絵から出自の筆絵での表現はあったのですが、
そこには主観の余地が大きすぎて「事実」感覚は一歩後退している。
この2枚の写真とイラストの表現内容の違いでしょうか。
写真からは、その時代の人々の写真というものへの「好奇」の視線も感じられる。
社会に写真が導入された当座、精神が「吸い取られる」みたいな
そういった反応があったとされていますが、
明治初期の写真に写った人々の表情からはそういう雰囲気もつたわる。
それに対して、大和絵を起源とする日本の筆絵表現、
その現代版といえるマンガ・イラスト表現には、掻いた人間の
内面性がそこに付加されて、諧謔性やぬくもりのようなものがつたわる。
このイラストで言えば、お父さんの表情には
「ああ、いやだいやだ、きょうも兵隊訓練かよ」
という表情が見て取れるし、目をこすりながら父親を送り出す子どもの
体表現に、時空を超えるかわいらしさが感じられる。

たぶんこの両方があって過去という「人間と時間」がつたわってくるのでしょう。
いまでは人間も写真というものに慣れて「ヘン顔」映りを自慢したりする。
そのような人間の対応変化もあるけれど、
同時に写真撮影の側も、大いに変化してきていると思う。
モノクロからカラーに変わったということももちろんだけれど、
それ以上にアナログからデジタルに変わり、しかもそれが
カメラだけでなくスマホというツールに変化したことで、
写真点数というものが、たぶん幾何級数的にビッグバンしている。
そう、それこそ「ビッグバン」ということに近いのだと思う。
現実ということの「記録」について、
人類はまったく未踏の領域にいま、立ち至っているのでしょう。
この写真とマンガイラスト世界とは、また違う地平で
いま大きな「情報の転換点」を迎えているといえるのでしょう。
アナログの写真雑誌と、デジタルのWEBメディアの両方で
ビジネス展開しているわが身として、現在進行形でいつも考えることです。
でもやっぱ、マンガの子どもの愛らしさには、負けてしまいます(笑)。

【浸水など災害からの住宅防衛と復旧】

もうすぐ11月ということで、さすがに台風の発生は
ニュースとして聞かれなくなってきている。
しかし今年はながく記憶に残りそうな災害の年。
とくに千葉県の度重なる被害には深くお見舞い申しあげますとしか、
まことに言葉もありません。
住宅の「安全」というものの範囲、領域がすべて再検討されてくる。

1 強風への対応というのは、住宅自体としては瓦などの葺き方への
再検討を余儀なくさせている。しかし千葉での倒木被害に見られるように
戦後の経済成長で内外価格差が発生し自国木材資源有効利用がはかられず
海外材に押され続けてきた市場構造問題が浮かび上がる。
うち続く災害から住宅を復元させる後世への遺産、知恵として
先人たちが杉などの木をたくさん植えてきたけれど、
経済原理からうち捨てられてきた結果が、風倒木被害につながった。
それが停電復旧の妨げになって長期間の被災になってしまった。
こうした国内資源の木の管理問題は、ながく続きそうな問題。
ひとり千葉県だけの問題ではなく、全国に同じ問題は大きく横たわっている。
たまたま台風は千葉県を直撃してクローズアップさせただけだと。
2 さらに深刻なのが「治水」問題。
自治体が整備した「ハザードマップ」に即して
そこで起こりうる災害への備えを家づくりに生かしていく必要が高まった。
古くからの地名で、水に関係のある地名では注意が必要とか。
そもそもの立地条件についての注意は不可欠になる。
ただ、日本は古くから「水運」が発達して商業が発展してきたので、
商業繁盛している地域というのはほとんど水利のよい都市。
そこに人口は大集積している。その上での安全確保ということになる。
写真は床上浸水した住居の様子。床板は剥がしている状態。
基礎部分には大量の泥が入り込んで、水の引くのを待って
ドロを掻きだして、薬剤を散布してから乾燥させている。
高断熱住宅では断熱気密との取り合いをどう調整していくのかの問題もある。
また、基礎断熱と床下断熱での復旧の方法に違いも留意事項。

こうしたテーマが、これからの家づくり相談で大きな要素に
なっていく可能性は高いだろうと思われます。

【明治3(1871)年建設の札幌官舎】

北海道開拓期からの住宅事跡探訪であります。
上のような写真が、記録として北海道大学に保存されている。
今から148年前の住宅外観写真です。
このような開拓初期の様子について多くの写真が残されているのは、
開拓使側の用として写真記録の要請がカメラマンに対してあったのか、
あるいはカメラマンが自費で他日の用を期して撮影したのか、
まずはこういった状況も調査する必要はある。
たぶんカメラという「舶来文化」はまだ希少だったはずなので
日本人の民間でそのような数寄に生きた存在は考えにくい。
開港して海外公館も存在していた箱館からは陸路で1週間程度なので
カメラ機材をもって「北海道開拓・札幌首府建設」の記録を
残そうと考えた、そのような意志が存在したということでしょう。

島義勇一行という最初期の札幌入地者たちは、
「北海道開拓使」の官人たちと、主に測量や土木整備、建築の
雇用された職方たちの一団というような構成だったのでしょう。
前年の新暦11月になってようやく開拓拠点・銭函に入って
そこから創成川周辺を起点にした工事に着手していった。
判官・島義勇は明治3年1月19日(旧暦)に解任され3月にはこの地を離れる。
そこから11月までの期間にこの建物は建てられたとされる。
「使掌」「小主典」というのは判官同様、王政復古の明治期の官人職制。
「小主典」は戸建て住宅が与えられ、それ以下の職制である「使掌」は
長屋建築に住居することになったということでしょう。
当時の真壁木造工法では外壁押し縁〜外壁板のタテ方向押さえ材〜は
基本的に「半間」ごとに建てられているので、
左手の「小主典」邸宅は妻側は4間と見て取れる。
その対比で見ると平入り玄関側壁面は5間程度。
それに奥行き半間の玄関が加えられ、さらに妻側両側に「下屋」が
各半間で張り出されている。
この下屋は室内から出入りできるように考えられるだろうから、
本体部分約20坪、下屋部分4坪の総計28坪面積の平屋とみえる。
手前平側に玄関と並んでもうひとつの「開口部」がみえる。
これは内部の「土間」につながる出入り口と想像できる。
その右手の妻側下屋には「窓」もあるので、
その後の明治7年建築の屯田兵屋と同様に「無双窓」だったと思える。
(雨戸仕様であれば外壁側に戸袋が必須だけれど写真では見られない)
屋根はこけら葺きか、柾葺きのように見られる。
屋根傾斜がゆるやかで一寸勾配程度。
木で屋根を葺いていてクギでしっかり留めているかどうか。
開拓のまったく初めの建築で十分にクギを使えたか、もっと調査が必要。
ですがこのような仕様でこの4年後にも屯田兵屋は建てられているので
屋根積雪荷重にはそこそこ対応できていたということなのでしょう。
写真奥には「使掌」の長屋建築も見えているのですが
建て方はたぶん同様のつくられようだろうと思います。
手前側には「草屋根」と後に岩村判官が名指した「倉庫」がある。
岩村判官も「官舎でもそういうものはあるが・・・」と言っているので、
物資の保管場所として、この程度の小屋がけは必須だったでしょう。
というか、開拓使としての必要備品類がこのように収納されていた?
春からは乾燥気候の札幌では、火の用心は不可欠だったことでしょう。
建築用材は基本的に「現地調達」だったとされるので、
この建物群はたぶんいまも北大植物園に残っているような樹種で
建築構成されたに違いありませんね。
いまは植物園の樹木は伐採御法度なので、復元不可能(笑)。
さらに写真の一番手前には、重厚に薪が積み上げられている。
煮炊き暖房のバイオエネルギーは開拓地では豊富に得られただろう。
また、生活用水は創成川がすぐ近くに流れている。

・・・これ以上は内部に入って「取材」したくなる(笑)。
住宅取材ってやはり生活の実相の「掘り起こし」という要素が強い。
こういう写真資料があると時空間を超えて想像力は膨らんできますね。

【漢文記述公文書から開拓期事実の読解】

「北海道ノ内九郡兵部省支配被仰付置候得共、諸事手々ニ相成候テハ
双方共開拓ノ手紛ト相成ニ付、兵部省支配被差免、開拓使へ被相属度事」
・・・相当に根性を入れて読み進むか、あるいは読解アンチョコでもないと
読み下してその事実を正確に把握することは難しい。

明治の北海道開拓と同時に進んだ北海道住宅始原への探究。
いろいろな資料を参照しながら、オモシロく進めております。
別に戦国期の合戦模様とか、幕末の動乱というものとは違うのですが、
記載される内容のひとつひとつが北海道の基本的な成り立ちように直結する。
歴史と言うよりも、どうももっと血肉的な温度感がハンパない。
なんですがこれは「開拓使」という、省庁と同列の政府機構での推移。
幕末戊辰戦争や、日露の樺太を巡っての外交的対峙という
のっぴきならない事態との同時進行状況での政府内部のやりとり。
複線的な動きがどうしても一体的に進行した。
そして電話もインターネットもない時代での東京、京都から遠隔の
北海道が現場である事態。しかも国家意志との複雑な絡みもある、
というようなことで、まるで巨大交響楽を見るような思いがしてきます。
主にいまは、札幌市が編纂した非売品の「新札幌市史」という本を参照している。
この本は昭和56年発刊なので、現代用語で書かれているのですが、
どうしても明治初年の「公文書」に基づいて書かれるので、
その公文書記述は江戸期の漢文尊重気風が残っていて、
はじめに書き記した「兵部省から太政官への上表文」のような記述の山。
〜ちなみにこの文書では、当時樺太での対ロ緊張から北海道の防備強化として
軍を管轄する兵部省が複層的支配だったものが、現地で軋轢を生み
開拓使が北海道一円支配としたい「手打ち」の上申書が書かれている。〜
表現される意味性の高い漢字と、候文のような慣用句、
一部に漢字仮名のような表現もあったりするので、
現代口語文に慣れたわれわれを挑発するような文体が提示されてくる。
官庁の使う言語は基本は漢文的表記で書かれ続けた日本。
それは基本的にアジア世界に限定された世界観だったのが、
明治の開国によってほとんどが欧米列強との対応に変化した。
結果、現代にいたる「日本語の再構築」が進められた歴史事実を
いやになるほどに思い知らされる(笑)とともに、
現代口語文を創造した先人たちの努力に深く感謝の思いを持ちますね。

しかし明治以降の近現代史は高校までの歴史授業では
ほとんど触れられなかったのが事実だということに今頃になって
ようやく気付かされます、なんとも口惜しい。
明治の始め頃にはこういった北海道経営の基本問題があったこと、
基本的には対ロシアの軍事的脅威に対応して、
兵部省・軍が北海道を掌握・経営したかも知れなかった、
そういった経緯があったことを初めて知った次第であります。

【「知はタダ」はどこまで拡大するのか】

わたしは図書館というものはごく最近までほとんど利用したことがなかった。
生きてきて、知に対してお金を使わないということを
なんとなく「それでは知を身に付けることはできない」のでは、と
固く信じ込んでいたような気がする。
だからこそ、新聞を定期購読して本を買い続けてきたように思う。

最近、わが家のすぐ近くの「札幌山の手図書館」をよく利用する。
たくさんの知の集積とタダで接することが出来る。
そのように得られた知見をもとにインターネットで再確認しながら
思惟を進めている自分がいる。
総じて「知はタダ」という世界にどっぷりと浸かり始めている。
インターネットの普及に先駆けて、図書館という存在は
基本的にこういう「知はタダ」の世界を広げてきているといえるのだろう。
現代世界のスタートの時に教育の「機会均等」のようなことがあったのか、
知の拡大に経済的な差を設けてはいけない、みたいな
そういった思想が根強くあったのかも知れない。
いま、基本的にはインターネットの世界ではかなりこの「知はタダ」が
世界中で大きく拡大し、常識化してきている。
しかし、当然だけれど知はタダではない。
それを提供するためにひとは膨大な「生産コスト」を支払っている。
そのうえで多くの人に「拡散」するためにメディアなどが存在し、
その維持コストはさまざまな形で負担されてきていた。
しかし、膨大な知の蓄積はいまほとんど、タダで得られるようになってきた。
少なくとも、これまでのように本という流通形態で取引されることが
基本的には減少する局面を人類は「はじめて」見ていると思う。
この趨勢が進展していった先に、どのような知の循環システムが出現するか、
まだまだ先は見通せていないように思う。

中国の共産党専制独裁では、AIを徹底活用する「顔認証」システムが
盛大に進行しているとされている。「顔パス」が実現しようとしている。
たしかに「便利」ではあるだろう。
全国民を監視するシステムが完了寸前になってきていて、
こういう方向が人類進歩の基本趨勢だという論説まである。
しかし香港ではこうした情報支配に対して「マスク」での人権防御が
先端的に進んでいるともされている。
「知はタダ」という趨勢の先に、どうもこのような深刻な事態が
未来予見的にみえてくるのではないかと、不安がよぎることがある。

<写真は鹿島神宮です。>

【水害から人を守る家とは?】

水害は毎年のように繰り返される。
気候変動によって台風の脅威は確実に増大している。
この気候変動がどういう要因かは論議のあるところだけれど、
少なくとも戦後の経済成長期は気候安定期だったことがわかってきた。
そういう時代を「常識」として社会構成されてきているけれど、
現在では、その常識を気候変動が超えるようになってきたといえる。
今回の台風の大雨と各地で相次いだ堤防決壊の規模は
まことに「常識を越えて」甚大化してきています。

知人が宮城県吉田川流域での堤防決壊で被災した。
住宅のことを考える仕事でもあり、お見舞いに訪問させていただいた。
以下、地域の情報でありその内容の確認は十分ではありませんが、
被災された方からの伝聞情報に基づいて記述します。
日本の農業は基本的に米作適地を選んで展開している。
河川の流域がそういう好適地として考えられるのは必然。
毎日その生産管理の利便のため住居もその流域に展開する。
水利の利便性最優先で居住地選択がされるのは当たり前です。
この吉田川に隣接した「集村」では高い堤防が川に沿って造成されていた。
しかし、上流の1箇所で決壊した洪水が川に沿って大量に流水していった。
この集落は平成の大合併で地元のより大都市の一部として
自治体が「統合」された。地元に万一の「排水ポンプ」の備えもあったけれど、
広域自治体の中心地域ではそういうきめ細かい判断ができなかったので、
現に水害に遭っているこの地域でこの排水ポンプを使えなかった。
それは他の地域に「貸し出されていた」のだという。
こうした対応には相当に怒りのマグマが溜まっているように思われた。
事実、広域自治体の担当者がこの地域を訪れたのは発災後3日後。
テレビニュースでもそのときの様子が伝えられていた。
堤防決壊はこの自治体とは別の隣の町での出来事であり、
この自治体としては縁辺のさらにとなりの自治体での決壊情報に対して
やや機敏さに欠ける判断だったようなのです。
この決壊の危険性について情報も十分ではなかったようで
集落全体で避難したけれど、「万が一」と考え身一つだけで避難した
そういう人が多かったとされていました。
結果、予想をはるかに超える災害になって、足であるクルマは壊れ、
衣類の大部分も着用できなくなってしまったというのです。

住宅の状況では、基礎と冠水被害のことが気に掛かった。
知人宅では床下断熱を採用していたのですが、
水が引いてから床下のドロを掻き出して薬剤散布後、
木材の乾燥を待ってから復旧させることになります。
しかし「基礎断熱」の場合には、構造材を乾燥させるのに相当の
時間や手間が掛かってしまう可能性が高い。
ドロや水を掻き出すのに手間も掛かり、乾燥にはさらに時間が掛かる。
基礎レベルを超えない場合には問題がないけれど、
それを超えての「越水」に対しては、復元させるのに相当時間が掛かる。
また、この地域では基礎自体を高くしている住宅もあったそうで、
その家では床面までは冠水しなかったとのこと。
過去の水害での浸水レベルを考えて造作していたということ。
水害被害に対しての第1の留意点は
「冠水被害」に対してどう対応すべきかが最大のポイントでしょう。

<写真は今次水害で各家庭から排出の災害ゴミ群>

【建築の祖形からの叫び声】


2日間、仙台オフィスの環境メンテナンスの用があって往復した。
で、片づいたあと、知人の水害の様子を見舞ってきた。
まことに堤防決壊の爪痕はおそろしい。
仙台市北方の吉田川近辺なのですが、その帰り道、
無性に気になって写真のような「農業倉庫」建築に吸い寄せられた。
この周辺にはなんどか取材などの用事があって
クルマを走らせているのだけれど、
なぜなのか、不思議にこころが吸い寄せられてしまう「祖形」。
簡素な切妻、たぶん農業倉庫なのだろうと思われる用途建築。
屋根がやや大きく掛けられているのは、
ひょっとして何度かの補強工事の結果であるのかも知れない。
構造は素朴そのものの建て方で、ただ、素材の木材の表情は
年月をそのまま刻んでいるかのように経年美をみせている。
吸い寄せられたのはたぶんその立地が高台にあって、
矩勾配の屋根面が「仰ぎ見る」ようになっていることで、
ある初源的な建築の美感のところにさわったのでしょうね。
思わず、その「横顔」にも目が向いてしまって
2枚目の写真、シャッターを押していた。
水平と垂直を修正しているのですが

野の花の美しさにも似た、その祖形美にうたれていた。
住宅や建築を見続ける長い旅をしている気がする。