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【北海道&朝鮮 660年前後阿倍比羅夫の出撃】

北海道住宅始原の旅シリーズですが、本日はややスピンアウト。
一昨日は北海道江別古墳群の造営者たちとヤマト朝廷側との対粛慎
(異文化性の強いオホーツク文化人)の同盟関係推定に触れました。
6000年前の「古石狩湾」地形から気候変動、大地変動を経て
安定的地盤地域「江別半島」にこの時期「続縄文」の社会が存在した。
高校後輩の考古の碩学・瀬川拓郎さんの「アイヌの世界」での
「阿倍比羅夫は誰と戦ったか」条を下敷きにしてみた次第。
かれは、石狩低地帯以西の続縄文社会とヤマト政権が
共通の敵対勢力として粛慎を特定し「戦った」事跡を掘り起こしている。
瀬川さんの記述では奥尻島で阿倍比羅夫は大いに粛慎を撃破した。
そして北海道・続縄文とヤマト政権との連携・同盟関係を作り
安定的な「交易」基盤を作るために軍事活動したのだろうと。

阿倍比羅夫はこの時期執政の天智天皇の政治外交的ブレーンであり、
軍事指導者だったことは、直後663年対朝鮮の白村江参陣でもあきらか。
天智の中央政権はこうした対外的進出作戦に積極的だった。
この北方での軍事作戦の「成功」があって、
それがまた白村江軍事進出の「自信根拠」になった可能性も高い。
朝鮮では百済が、北海道の続縄文勢力と同列視できたのだろうか。
天智にして見れば北伐を終え意気揚々帰還の凱旋将軍・阿倍比羅夫が
「この将軍なら朝鮮の戦線でも勝てる」とも思えたのかもしれない。
阿倍比羅夫がどの程度の軍勢規模での「出征」を行ったか?
日本書紀記述では1000人規模の北海道「続縄文」側の参陣記録が書かれ
200艘の軍船を仕立てた東北蝦夷との同盟軍勢に触れている。
この時期の北海道の人口規模を考えれば、地域を揺るがすほどの
大戦争だったことが十分にうかがえる。
このような歴史事実から、日本中央社会での北海道の存在とは
外的安全保障対象地域と認識されていたと思える。
明治開国時に北海道開拓が対ロシアの北方安保国家戦略であったことと、
この阿倍比羅夫の北征記録が重なり、既視感をもって見えてくる。
明治のときにも北海道でのこの国家・軍事戦略が成功し
同時並行で征韓論が盛り上がった事実とが非常に既視感たっぷり。
たしかに地形的に日本のカタチをみれば、北と西が
対外的な興味対象であることは自然でもあるのでしょうか。

ということで、まことに「スピンアウト」版でした(笑)。
明日以降、また住宅ネタに復帰しますのでよろしく。

<写真は韓国の「河回村〜ハフェマウル」遠景>

【最北の「木組みの家」見学往復500km】

北海道は広い・・・。
「ちょっと行ってみるか」の「ちょっと」がハンパない。
でもやはり士族の移住が多かったせいか、建築の世界でも、
ちょっとオモシロいことをやってみたい、という人が多いとも思う。
わたしなどよりもはるかに若い世代の方から
「こんなオモシロい家を建てました」みたいな案内が来ることがある。
木組みの家という住宅運動があって、伝統木造の家づくりを
全国で盛り上げようと頑張っている。
主導者の松井郁夫さんとはやや驚愕の初対面でのやり取りがあって
「伝統派の人って断熱も気密もなんもやらないんでしょ」
と挑発した(と受け取られた)。そこまで強い言い方ではなかったのですが、
いまでは、松井さんは「北海道の三木からこう言われた」と枕詞だそう(笑)。
わたしなんかのメディア人間ではなく実践者である松井さんは
しかし、そこから高断熱高気密に真剣に取り組んで
伝統工法の革新に意欲的に邁進してこられた。
まことに畏敬すべき運動だと思っています。
そういう運動の「敵役」にしていただけているのであればそれは光栄でもある。

そういう「木組みの家」の伝統工法を北海道でつくろうという
志向を持った若い世代の作り手が現れて来ている。
道東の足寄の工務店経営者、木村建設・木村祥吾さんであります。
前記のような「流れ」があるので、見学する「義務」はある(笑)。
ご丁寧な「案内」もいただき昨日、夫婦共運転で足寄往復。
朝7時前に出て、途中日帰り温泉も入っての道中でしたので、
まぁ休日の「句読点」的な楽しみ方とも言えます。
取材のための基本調査みたいなことなので、詳細は今後に譲りますが、
写真は床の間見立ての居間の「塗り壁」壁面の様子。
こういった作り手のネットワークではこだわりのある職人気質も呼び起こす。
「その地域にある素材」にこだわって土を探したけれど、
どうしてもこの地域ではいい土に巡り会えなかった。
しかし施主さん生業の農家の古い土壁の土を見て、それを再活用した。
築後数十年は経っているその土は土壁に適した材を
本州地区からかわざわざ持ってきた塗り壁に最適の土のようだったのですね。
それを「発見して」今回の新築の象徴的な部位に使った。
よく伝統工法の家では、古い家の土壁を大事に扱って次世代に受け継がせる
そういった工法伝承がありますが、現代の北海道足寄で、
そういう心意気で仕事する職人気質が存続していたワケです。
さらに設計者のHOUSE&HOUSEの須貝日出海さんによると、
この左官仕事では、画面左側に色違いの部分があるのですが、
この部分は意図的な「ひびわれ」が意匠されているという。
写真でその様子がハッキリ伝わるかどうかですが、オモシロい表情。
で、その意図は左にある木製窓の外に農地が広がっていて
その土が「ひび割れている」ので、それをデザインとして活かした、
という説明だったのです。しかもその発案はその職人さんからのものと。
「おお」であります。数寄のものづくりマインドが立ち上る。

ということで休日の老夫婦の交互運転ドライブ500km。
ちょっと遠かったけれど(笑)オモシロい家を見学できた次第です。

【658年阿倍比羅夫遠征で江別古墳勢力と接触?】


さて北海道住宅始原の旅シリーズ・古代史続篇です。
いろいろなみなさんから情報のご支援などもいただけますので、
やる気倍増で、たいへんウレシク思っております。

やはり北海道住宅は、明治の開拓初期開始された本格的な移住促進、
そのプロセスで建てられた住宅が中心軸になります。
そうなのですが、しかしそれ以前の「前史」もまた、
6000年前の古地形の時代まで含め、奥行きと深さがあると思います。
そして7−9世紀にかけて造営された現地民の痕跡が江別地域に遺っている。
「江別古墳群」であります。
この時代、日本書紀に「阿倍比羅夫の遠征記録」がある(658-660年)。
阿倍比羅夫はその2年後663年には国際戦争・白村江の戦いにも参陣する。
この当時のヤマト政権中枢の国家意志を体現した存在であることは間違いない。
660年の条では「比羅夫は大河(石狩川あるいは後志利別川と考えられる)
のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる」という記述。
一方でこの江別古墳群の創始は7世紀・600年代とされる。
当時の航海技術として難所である積丹半島を回り込めたかどうか微妙だけれど、
この記述の「大河」が石狩川だとすれば、この江別古墳の造営者たちと
阿倍比羅夫が接触し対粛慎(オホーツク文化人と目される)同盟を結んだと、
日本書紀の記録、この条を読むことができる。
古墳なので有力者の死後造営されると考えれば、年代的にも符合する。
この江別古墳群は古地形を踏まえれば「江別半島突端部」であって
石狩川・古豊平川の合流地点の高台に立地する。
古地形としての古石狩湾にも照応する立地と言うことがいえるでしょう。
現代でもこの水系との段丘状の高低差は目視で10m以上はある。
古代においての交通路である河川水運には最高適地で、石狩川の河口までは
指呼の間と言うことができる。
阿倍比羅夫はこの北海道での活動の前には秋田能代や津軽で蝦夷勢力と
平和的外交も行っている記述がある。
一方、この江別古墳群の造営者はその古墳スタイルが
青森県東部・八戸周辺地域の古墳と酷似しているとされている。
古代の勢力分布として考えれば、北東北-北海道一帯に同系統の
勢力が存在し、かれらが阿倍比羅夫・ヤマト政権と協和したとも思える。

どうもこのあたり、日本の中央政権と北海道地域との
歴史的な最初の接触だったという推測を強く持っています。
日本中央国家社会との「交易」の開始も、この接触時に
「生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上」との658年日本書紀記録。
その後、日本中央国家社会は北方交易に強い興味を持ち始める。
北方からもたらされる毛皮やタカの羽根といった「威信材」などに、
深く魅了されて、東北地域への権力拡大を強く志向するようになる。
一方、北方には日本社会から鉄器などが旺盛に交易移出されたと推測。
<しかし実は最重要なものは日本の酒だっただろうけれど。>
その後、こうした日本からの物資を基礎的に受容したアイヌ文化が成立する。
アイヌ文化の住居チセは、鉄鍋を自在鉤で囲炉裏に下げる食文化に変化する。
そしてその「台所革命」の結果、古来の竪穴から平地住居に変わっていく。
この北方の住居革命は、鉄鍋の日本からの移入受容がもたらしたものではないかと。
このような日本と北海道の異文化接触の最初の対象として
この「江別古墳群」という文化勢力に強く興味を惹かれております。

【出張時のFacebookトラブル遭遇】

今週は東北に出張してきておりました。
本日は故あって函館で1泊してクルマごと本日帰還予定。
「三木さん、若いですね(笑)」と冷やかされながらであります。
そういうときに限って、WEB環境でトラブルが発生する。
ということで「北海道住宅始原の旅」シリーズは明日以降に順延。

きのう朝いつものように年寄りの「日課」、
ブログを書き上げてアップさせた。
わたしはWordpressというブログを書くソフトで書いておりまして
それがfacebookに「連携」する設定にしてあるのです。
年寄りながら、情報関連でやってきたのでなんとか、
今の時代の環境にも対応したいと考えている次第です。
でもまぁそこは詳細な知識とか、スタッフに保守して支えてもらっている。
で、書き上げてアップしたけれど、Facebook上に反映されない。
もう一度試してもダメ。
・・・ということで思い出したのが以前もこういうことがあったこと。
だいたい年に1回くらい発生している。
それはWordpress側で「連携機能」が勝手に切断されていたのです。
頻繁にバージョンアップグレードのアナウンスがされて
そういうのには従順な方なのですぐにアップするのですが、
たまにそのなかに不適合なものがあるようで、症状が出る。
で、その場合には「いったん接続設定を解除して、再度接続させる」
というパソコンの「再起動」のような動作をさせると復活する。
それで、今回もそうやって試してみた。
無言絶句。・・・ダメでした。
これはもうわたしには知識がないし、それときのう朝から多数の訪問を
こなしす予定だったので時間がない。
スタッフに朝1番の依頼で申し訳なかったけれどヘルプを発信して出掛けた。
で、昼頃にいったん出先でWEB接続したけれど、復活していない。
スタッフと連絡して現状の症状を伝え再度チェックを頼む。
移動の時間もあるのでわたしはタッチできないのです。
というようなWEB環境の1日を過ごしておりました。
受けるだけでなく発信する側の環境というのはやはりなかなかメンドイ。
で、青森からフェリーに乗船してようやくスタッフと応答が出来た。
結局は、Facebookの「法人向けページ」でだけ発生の不具合だという
原因特定がようやくできた次第です。
その旨Facebookには連絡したけれど、さてどうなるかは不明。
夕方7時過ぎに、ちょっとした「ウラ技」でアップは出来たけれど、
しかしサムネ画像は張り付かない(泣)という状況。
GAFAとか言われるWEBの基盤事業者たちでありますが、
やはり政府組織並みに環境を維持していくというのはどうなのか。
こういう「不具合」によるトラブル・損失について政府組織のようには
担保保全の「義務」がないと思います。

さて本日、復旧するのかしないのか、と思案投げ首状況であります。
う〜〜〜む。
おお、復活しているみたいです、やった!よく頑張ったFacebook。
<画像は大津波で流される人々の図。>

【石狩平野・古地形と開拓使の開発戦略】

北海道住宅始原の旅シリーズ、いろいろなご意見・反響が。
とくにわたし的にビッグスパンとしての古地形が心に強くあったので、
6000年前は広大な運河的な海が石狩平野を覆っていた事実について
絶対に抑える必要があると考え、掘り起こして触れてみた次第です。
図示したのは江戸期に描かれた「蝦夷地山川地理取調図江別付近」。
明治の開拓使の活動に先行して、江戸幕府もさまざまな活動をこの地では
先駆けて行ってきていたし、測量など基礎的な調査は行われている。
とくに「場所請負制」も最後期になると、閉鎖的独占に凝り固まった
支配形態の弊害が大きくなってきていて、
その弊害を打破するために「イシカリ改革」というような施政転換もあった。
その結果、多くの新規参入がこの地域を中心に図られて
祝津などでの底引き網漁などで大成功を収める青山家などがあらわれる。
こういった幕府時代からの改革が北海道の開拓期の経済基盤を支えもした。
明治大正昭和と、開拓の基盤になった沿岸漁業の発展の存在は大きい。

おっと、つい横道にそれましたが、
北海道開拓と同時に明治初年以来、対ロシアの戦略的要衝としての
石狩平野の開拓殖民こそは、日本の国家戦略のカナメだった。
蝦夷地南部、函館周辺について日本国家の実質もあったけれど、
この石狩の平野部という地域をもし樺太同様にロシアに支配されると
その後の日本国家の基本スタンスが大きく揺らぐことになったのでしょう。
日露雑居状態であった樺太と千島を領土交換して、
蝦夷地北海道は日本領土であるとロシアにも公的に認めさせたことは
非常に大きな明治初年国家の外交選択だったと思います。
こうした交渉も、樺太も管轄した「開拓使」の関与するものだった。
その後、開拓使長官になる黒田清隆は当初は、この樺太専任だった。
こういった経緯で石狩平野部の開拓は精力的に進められた。
で、これはよく言われることなのですが、
明治初期に敷設された「鉄道」の小樽−札幌間の用地選択では、
古地形からの地盤面に注意しながら線路敷設したとされているのですね。
たしかに非常に注意深く「泥炭地盤」地域とのギリギリを選択している。
口伝的な情報で、このことは「都市伝説」かもと思っていたのですが、
古地形との照合から考えてみると蓋然性がある。
この用地選択に当たって、江戸期からの古地形調査結果が
どのように反映されていたのか、非常に興味深いと思っています。
北総研の高倉氏からも、この古地形についての強い反応があった次第。
古地形的に「半島部」ともいえるのが札幌の基本的な特徴であって
しかも、石狩川水系、豊平川・伏古川などの「水運」も持っていた。
その水運強化のために江戸期末期に篤農家の二宮金次郎の教えを受けた
大友亀太郎が豊平川と伏古川との連結のために創成川を開削している。
そのような地盤面での調査結果と、水運の基礎的な強化という
大都市建設の基本的な着目、着眼が札幌開府には大きく資している。
まことに先人たちの慧眼に目を瞠らされる思いが募ります。

【窓・建具を彩る明治の職人の手業】

きのう紹介した野幌屯田兵中隊本部の「ガラス窓」です。
明治17年の建築に装置された窓は、当然のように木製です。
木製窓って、その窓の先の外だけを見ているのか、
あるいは額縁の木枠と一体化した「窓のある風景」としてみているのか、
心象的に微妙なあわいところに立ち至っていると思います・・・。
ある画家から、額縁の存在感に負けないように頑張ると聞いたことがある。
今日とは違って、こうした窓は「建具仕事」として現場で造作された。
しかも、見よう見まねの「洋風建築」の窓であります。
たしかにこの頃には北米などから専門技術を持った「お雇い外国人」が
多数、北海道・札幌に滞在し、働いてくれていた。
そうしたかれらのための住宅として洋風住宅の需要があって、
それがまた反射して日本人のインテリ層を中心に住宅デザインに反映した。
そもそもこの当時建設された開拓使庁舎や時計台、北大のバーン建築などの
ランドマーク建築はまったくここは北米か、という街並みを見せていた。
したがって、見よう見まねとは言っても技術の熟成進化もあったのだろう。
いま、130年近い時間の経過と幾度かの修復を経ているけれど、
さすがに木製の味わいと、手仕事ならではの端部のやわらかさが
そのたたずまい、表情から伝わってくると思えます。
当時はガラスは小さい小片でのみ生産されていたので、必然的に桟がある。
その木の表情が、ガラスの反射ゆがみも加わって目に優しい。

そのような窓ですが、この建物でもいろいろな開け方のタイプがあった。
大きな広間を飾る大窓は今に至るも一般的な「引き違い」タイプを採用。
たぶん日本人的に障子や雨戸の使い勝手がイメージされ、
さらに大開放させるに、この引き違いが最優先されたのだろう。
締める金物としてネジの締め上げタイプが採用されている。
ネジを最後まで締めたときの「気密感」を日本人は初めて感覚したのでは?
明治の人たちの「おお・・・」という吐息も聞こえるかのようです。
続いて「上げ下げ窓」であります。
こちらも日本人には「ハイカラ」そのものだったでしょう。
そもそもガラスの窓というのが驚かれるのに、
その上、上下にスライドして開閉されるとは度肝を抜かれたのではないか。
さらに窓が「回転する」というに至っては、魔術を見ていると(笑)。
こういった建具の仕掛けたちが、いかにも古美た金物で造作されている。
明治になって洋風という建築技術に触れた職人たちが、
この新たな技術体系に対して真摯に立ち向かっている様が伝わってくる。
回転の中心には「ダボ」の木が軸に嵌め込まれていてユーモラス。
回転する範囲を決める枠の段差の仕掛け、計算など手業感が感じられる。
古びた金物も独特の質感で、ノスタルジック。
高々10数年程度の期間の間に、欧米の職人仕事に肩を並べたのではないか。
そしてなお、日本人の感性に似合うように工夫も重ねたに違いない。
明治の職人さんたちの手仕事と対話する時間を過ごしていた。

【明治モダニズム=ガラス窓 野幌屯田兵中隊本部】



北海道住宅始原期への旅です。
きのう触れた江別市の地質的な高台地形、舌状台地に立地する建物。
古地形的に見ても、北海道の石狩低地帯のなかの「要衝地」。
石狩川は上川地方の淵源地から扇状地を作りながら南下して
この周辺になってくると、平地になって蛇行が大きくなる。
古来、氾濫を繰り返してきたことが明らかに見て取れるそうですが、
明治の開拓期の地形測量でもそのように判断して
やや高台になっているこの「野幌丘陵」地域を屯田兵村地域と定めた。
舌状台地の突端が石狩川に対面するような位置関係に相当する。
兵村の展開は波状的に数回にわたって行われ、
旧軍隊組織の「中隊」規模にまで多数の屯田兵屋が配置された。
札幌の琴似、山鼻に続いて3番目に入地が進んだ地域です。
農地という選定基準もさりながら、交通も当然、北海道内内陸地の
戦略地形的な要衝地という認識があったということでしょう。
兵村の展開としては、琴似が「集村」形式で一戸あたりの家屋面積が
150坪と小さめの敷地の都市型であるのに対して、
こちらでは一般的には4,000坪程度の区割りで「散村」形式が取られている。
もちろんこの4,000坪でも「農地」としては小さいので、ほかにも
土地は割り当てられていたということです。
屯田兵村の各戸配置計画はその兵村ごとにいろいろな試みがされている。
また建築工法としても、間取り計画としても変遷が見て取れる。
開拓使の後継組織という性格も強い地方政府組織「北海道」が
全国でも稀有なほどに「住宅政策」について強い関心を持つのは
こういったDNAの作用が大きいと思っています。

この建物は建築年代は明治17年とされています。
翌年18年から「中隊本部建築」として供用されたということ。
面積は1階が42.6坪、2階が36.1坪の総面積78.7坪。
面積が不整合な数字になっていることからわかるように
ツーバイフォー工法の原型である「バルーンフレーム」構造の木造。
時計台と同じ建て方で、洋風建築といえるのですが、
玄関ポーチなどは、日本の神社仏閣の建てられようを採用した
「和洋折衷」というような説明でした。
日本最初期の洋風建築というのは「ガラス窓」という概念が特徴的になる。
北海道開拓使の公邸として岩村判官が住んでいた建物は明治初期、
「ガラス邸」というように呼ばれていたそうで、
このような「ガラス窓」がモダニズムの象徴だったことが偲ばれます。
それまでの日本建築には仏教建築での幾何的デザインの窓などを除いて
窓についての文化伝統は見出しにくい。
ガラスが本格的に導入されて「洋風建築」が作られるようになってはじめて
日本人は、内から外の眺望を楽しむ窓の歓びを知ったのではないか。
もちろん引き戸の建具で閉じられた室内を開放して庭と一体化するという
そういう感覚はあったけれど、身を内側の落ち着いた空気環境に置いたまま、
風景だけが切り取られて額縁付きの「絵画」として認識できたのは、
このような明治の建築がはじめての「体験」を提供した。
その初源の気分をなんとなく感じさせてくれる室内情景です。

【6000年前「古石狩湾」地域の交流痕跡】

北海道住宅始原期への探究です。
明治の新政府による移住政策の推進、民の動向が探究のメインですが、
やはりより古い時代からの「流れ」というものも存在する。
直接の日本国家による「投資」的進出、住宅建築とは別に
先史からのこの地域の動向というものも押さえておきたいと思います。

図示しているのはきのうの「6000年前の石狩湾」の平面図表現。
いまの道央地域、石狩低地帯の6000年前の姿。
この状況から現代見ている石狩平野状況まで推移してきた。
普段の生活認識では、石狩平野地域での「高低差」というのは
なかなか感覚しにくいのですが、しかし先人たちにとって
こういう高低差というのは決定的だっただろうと思います。
まずは海からの高さがあることで、安定的な陸上生活が可能になる。
その基本ポイントで見る習慣が現代人から失われているのかも。
しかし、最近の気候変動・水害被害などは、そうしたことへの
気付きをわたしたちに再度求めてきているのかも知れない。
この図で気付くのは、この石狩低地帯・古石狩湾地域での
「江別」地域の位置です。
この地域は明治以降、2つの札幌地域での展開に続いて
屯田兵村が3番目に展開した、明治期にも重要と目された地域に当たる。
石狩川は北から南下し、この周辺から西に大きく流れを変える。
その流域に対してやや高台に位置する舌状の「突き出し」地形。
考古的に遺跡群が、この古石狩湾とのウォーターフロントで
たくさん存在し続けている。この海ではクジラ生息まで確認される。
また歴史年代8世紀には日本社会中央と関係の強い「古墳」も造営された。
近現代の地理認識からいえば、交易といえば日本の西海岸地域、
日本海側地域との交流が自然と思われるのですが、
この古墳から出土する遺物からは、青森県東部地域との連関が浮かぶ。
むしろ八戸周辺の文化との交流が感じられるという。
この図の南側、太平洋側・苫小牧方面との「交易路」が想像されるワケ。
遺物からは地元人か、あるいは青森県東部地域の「出先」であるか、
どちらともと類推できるとされている。
そもそも石狩川自体、ずっと南流していたのが本来で、苫小牧方面
太平洋に流れていたという説も強いのです。

縄文の世13,000年前ころからこの列島には人が定住してきたので、
6000年前のこの図の地形当時も相互での交流はあったでしょう。
なにしろ、この図の右上側「東蝦夷」オホーツク側の「白滝」から
「黒曜石」がたくさん本州島各地に「出荷」されている事実がある。
江別地域の舌状台地はこのような位置にあったのですが、
明治以降、日本国家はこうした先史からの流れを知ってか知らずか、
古石狩湾地形上でもやや同質性の感じられる札幌地域に
北海道開拓の首府を構想し、旺盛に北辺経営に乗り出していった・・・。

【6000年前は海だった北海道石狩平野】


写真は北海道の石狩湾の上空から南東・ニッポン方向を見下ろした様子。
上の図が今から6000年前で、下が現在の様子。

わたしのブログでは数回、こうした「過去地形」を考えてきています。
最近の「気候変動」の原因についてそれをCO2の問題と
教条的に決めつけるのには単純には同意できません。
むしろそれ以上に、過去から繰り返されてきた地球気候全体としての
温暖化、寒冷化のサイクルということが大きいだろうと思っています。
そのことを明確に証明しているのがこのような「大地の変容」。
以前にも、関東や関西の大地の姿が歴史年代でも変化していると書きました。
直近では大阪平野が実は、河内湖、さらにそれ以前は瀬戸内海とつながった
内海であって「浪速」という地名自体がその事実を痕跡として伝えている
事実などに注目していました。
大阪の場合、このことが「神話」とされてきた神武東征に
どうも深く関わっている可能性があるとも思われる。
日本史としてはたいへん重要な背景に大地の変容が関わっている。
で、そういう考古的事実発掘を、ここ最近取り組み始めた
「北海道住宅始原の旅」の随伴事実として掘り起こしている。
昨日、以前から気に掛けていた石狩〜江別周辺の歴史探究めぐり。
たくさんオモシロい発見もありました。
やっぱり実際に目で見て現地で体感するのは貴重な機会。
このジオラマ鳥瞰図にはいたくリアリティを刺激された。
石狩平野が日本海と太平洋とつながる大きな「運河」地帯だった
そういうことは知識があったのですが、
それをもっとリアリティたっぷりのビジュアルで感覚できた。

石狩平野はそこで人生を長く過ごしてきたのに、
その地形全体についてあんまり考えたことはなかった。
このジオラマ図では石狩低地帯といわれる全体像が浮かび上がる。
遠い記憶で小学校時代に「泥炭地」という表現を繰り返し
授業で耳にしたけれど、それはこの図のような考古事実が反映している。
6000年前というのは、縄文も後期になる時期であり、
三内丸山などは十分に射程に入ってくる時代だと思います。
江戸期でも「東蝦夷地・西蝦夷地」という区分があるけれど、
この図のようにそもそも地形的に分かれていたと知れば
想像力がもっと飛躍できると思います。
もともと北海道では和人の進出前の記録に乏しいので、
いきなり考古の時代に遡って遺跡群が残されている。
その地形的背景理解としてこのジオラマは、大きな気付きになる。
文化の日の1日、大きな収穫が得られた気分であります。

<ジオラマ図は石狩市教育委員会2016.8.31・志賀健司氏資料より>

【許認可電波メディアでの五輪マラソン札幌ディスり】

いまの時代は転換点なのだとつくづく思わされる。
これまで情報の庶民的「ホンネ」領域をほぼ独占的に担っていたテレビが
インターネット上の「炎上」にさらされることが常態化してきた。

11月1日放送された「ミヤネ屋」という昼間の情報バラエティで、
東京オリンピックマラソンの東京から札幌への会場変更が
話題として取り上げられ、そのなかで司会者の宮根某という人物が
どういう心理からなのか、いかにも上から目線で、
勝手に予測した札幌のマラソンコースをディスりまくったそうです。
娘から送られてきたリンクで動画を確認させてもらった。
「放送するアナウンサーは、青い空、白い雲くらいしか言えない」
「最寄り駅から40分もかかる、ありえない。年寄りや子どもも応援したいだろうに」
「東京だったら、東京タワーですとかランドマークを連呼できるけど、
こんなところでは、なんもアナウンスできない」
その上マラソン選手経験者に「それで、札幌にしたら日本選手に有利か?」
と質問し「そうとはいえない」と答えられたら、
それならまったく意味がないというようなコメントまで発していた。
本来競技は公平であるべきで日本に有利不利はあってはいけないコメント。
・・・いずれにせよ、決まってもいないコースを勝手に酷評していたとのこと。
「全国放送」なので当然札幌北海道でも放送された。
きのう夫婦で買い物などに出掛けている途中に札幌在住の娘からLINEで
怒りまくりのコメントが送られてきていた。
一応札幌には190万、北海道では550万人口がある。
これって地方地域への反感助長ではないか? なんとも悲しい。

わたしは東京・横浜圏に学生時代から8年以上住んでいたので
それなりの地域感情というものもわきまえているつもりだけれど、
8月初旬の猛暑について地域として誰もが体感的に理解している。
そのなかでの過酷なマラソンレースは相当危険だということは一般常識。
このことは、そういう判断基準が第1であるべきだろう。
競技を管理するIOCはアスリートファーストの結論を下したということ。
札幌はこのことにどういった意味でも関与はしていない。
本来「全国メディア」であれば、IOCに対して意見を言うのならわかるが、
それがなぜ、たまたま名前が挙げられた同じ日本の地方地域を
ディスる方向に向かうのかが理解出来ない。
こういう地域へのディスり放送が、当該放送局自前で得た権利でもない
国民全体の所有権である電波の、単なる「許認可」放送局でなされている。
まぁ、誰でも口が滑ることはあるので許せないというものでもないけれど、
わたしも娘の怒りがよく理解出来た次第です。