先日、身内の兄弟姉妹であつまる機会があった。
わたしは6人兄弟(姉1名)の末っ子。
従っておおむねは高齢社会の問題で話が盛り上がる。
兄弟での話なので、いちいちは確認のしようもない情報が行き交う。
「高齢者の免許返納は認知症対応だけど、返納した人のその後の
認知症進行が進んでいるそうだぞ」「おおお」
というような話題が大きな盛り上がりで展開する(笑)。
結局は終の問題、「死に方」ということになる。
それまでの自宅を売って資金を作ってケア付きの施設に
入居した知人の高齢夫婦がいるけれど、ご主人に最近病気が見つかって
入院せざるを得ず、90を超えているのでその病気は直せても
いったんベッド生活になると、筋力が急速に衰えて身動きがままならず、
リハビリに明け暮れる入院生活を余儀なくされるという。
なんとか、奥さんのいるケア付きの施設に戻れるかどうかと。
また、それまで戸建ての自宅で過ごしていて
急に多人数での「共同生活」に「閉じ込められる」という
社会関係収縮的な状況も精神的に大きなストレスになるとも言われる。
・・・といったような「高齢社会」の現実を見続けている高齢者なのです。
ことし、義母は長年過ごし慣れていた戸建ての自宅で
90を過ぎて眠るように亡くなったけれど、
それまでの間、息子が同居し娘はつかず離れず様子を見に通っていた。
ケア付きの施設に入った自分の母親の様子を見ていて、義母は
施設にだけは入りたくないと考え家族も協力して
なるべく家事もさせるように仕向けていたのです。
日本は英米的な資本主義を受け入れ、そのもうひとつの側面である
「核家族」システムもそれと知らされることなく基本的に受け入れた。
その結果、江戸末期約3,000万人人口社会から今日1億2000万人超の
大きな人口規模、経済社会が実現してきた。
大家族制度から核家族に移行し経済拡大があれば人口増加は加速する。
しかし、こういった人口増加は今後はまったく見込めず、
人口規模の急激な縮小が目の前に迫ってきている。
当面、労働力を海外から受け入れる方向に舵を切ってきているけれど、
もっと本質的には家族制度をどうするか、どうなるか、
という問題が最大のテーマになってくるのだと思う。
日本的なムラ社会としての相互関係も含めた
「田舎」での大家族形態から「都市」での核家族へ。
約150年やってきたシステムが日本民族として「経験知」のないまま、
そのシステムの急激な破綻を迎えようとしているのではないか。
ケア付きの老後施設というものは核家族の終着駅のような気がする。
どうも大家族の社会復元が迫られているのではないか。
その復元とは、ようするに家族がもう一度寄り集まるということ。
一度「核家族」のありようを経験したあとで、
そこから再度、意図的に作り上げていく「大家族」という考え方。
若年層から、高齢層までその意義を見つめ直して
より積極的に希求するような「家族関係」として再構築できないか。
そのときの「いごこち」「ありよう」を考える住宅の知恵も必要だと思う。
住宅「作家」たちもまた、核家族型のデザインを競ってきたのかも。
大家族成立のための「集合力復元」に気付くべきではないか。
Posted on 9月 10th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 状況・政治への発言
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