きのうは現代の「高断熱高気密技術」について
技術をより高めて継承していくには、目的的な行動が必要という
そういうテーマで書きましたが、いろいろ反応が寄せられました。
高断熱高気密住宅についての「民族史」的な意義ということも念頭に
北総研さんに資料などの提供を求めて、快諾いただけましたので、
基礎資料として参考にさせていただきながら、
「記憶の継承・発展」の一端に取り組んでいければと念願しています。
わたしどもができることと言ってもなにもできないとは思いますが
なにかの痕跡、きっかけになれればと思っています。
そんなことを考え始めていると
わたしたち民族には偉大な先人たちと、その事業痕跡がすばらしく遺っている
そういうことに深く思いが至ります。
写真は法隆寺2016夏の様子でありますが、
あわせて、竹中大工道具館展示で示されていた「法隆寺で採用された工法」
についてのイラストであります。
上の写真は回廊部分ですが、その柱がどのように礎石に立てられたか、
そしてどのように「製材」されたか、がわかりますね。
Wikipediaの「鋸」について見てみると、この写真のような板材や角材は
〜古代・中世の社会では鋸はほとんど普及せず、斧、ちょうな、槍鉋で
樹木の伐採から製材までをこなしていた。
斧で樹木を伐採して手ごろな大きさに断ち切り楔(くさび)で引き割って
大まかな形を取り、ちょうなや槍鉋で表面を仕上げる。〜
っていうような工程だったとされています。
こういった作業工程で建築工事が進められたけれど、
五重塔のような高層建築まで建築されるほど木造の技術が確立していた。
金剛組など大陸から技術者たちも移入してきていたとはいえ、
大量に動員されただろう職人たちは大部分が日本人「使役」でしょう。
総敷地面積18.7万㎡(5.6万坪)という広大な寺院建築であります。
こういう工事を、人口規模がこれより100年後の奈良時代で450万あまりの
経済規模段階で取り組み、完成させたということですね。
たぶん、300万人台だっただろうと思います。
今の時代で言えば、北海道が560万人口で、
たしか予算規模が2.6兆円程度。そのうち「建設費」項目で2000億円なので、
だいたい割合は7-8%程度ということですね。
人口比を考えれば経済規模はたぶん半分程度。
当然この予算(おおむね1000億円として)との対比では
新国立競技場の総工費が1490億円とされている。さて彼我の価値感は?
さまざまな技術開発、道具の開発もあっただろうし、
現代でもはたして法隆寺建築を建てられるかどうか。
しかしまぁ、こんな巨大公共事業、
それも仏教を導入するというきわめて文化性に特化した事業に
国費をほぼ傾けたという国家意志の特異性に目眩がするほど。
それだけ、アジア世界での自立化が急務だったのでしょう。
木造建築の美感が民族に深々と浸透していっただろうことは、明白ですね。
Posted on 9月 7th, 2019 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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