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戻ってきたモノトーン世界

棟方志功さんの言葉の残像が頭のなかに残っています。
靑森の人というのは、その底にどこかあたたかみがある、
っていうような言葉から、同じ雪国の人間として、
ある共通項を感じて、北海道人として共感を抱いてしまうのです。
気候条件がきびしく冷涼になっていって、
そういう状況に追い込まれていけば、お互いに通じ合うものが生まれて
そのきびしさを、人間のペーソスでギャグにしてしまおうという
そんな心情が沸き起こって来るのだろうか。
たしかにそういう人間交歓の状況は、東京ではあまり生まれない。
たまに年に数回、雪が降ってスローダウンするしかない状況は生まれるけれど、
東京・関東の場合には巨大な社会資本が解決してしまうようなことがある。
先年、東名高速が一部区間で崖崩れで通行不能になったけれど、
たしか、丸1日か2日くらいに超スピードで通行可能な状況に復旧した。
こんな「公共投資」は、まず北国では考えられない。
北国・雪国では、日常化した自然の抵抗値の大きさが
人間社会に対して、それとの共生の思考を持たせる。
自然の猛威には立ち向かえないのだ、
おとなしくされるがままに落ち着いて、冷静に対応方法を考えるしかない。
そうなると、へんな「ゆとり」も生まれて、
同じ人間の営為をじっくり観察するようになってくる。
モノサシは自分自身の感受性なので、そこに「やさしさ」もこもってくる。
それが、北国・雪国の人間の「あたたかさ・ユーモア」の必然性なのではないか。
そんなような共感の実質が見いだされたように思いました。

ついに最近、札幌でも雪が降り始めています。
しかし雪は、外気温の低下から地表温度の低下を防ぐ断熱の働きをする。
そしてさらに雪は雪明かりという言葉があるように
少ない光源からの光を増幅して
白く反射して、底の部分での「明るさ」を雪国にもたらしてくれる。
これからまた5ヶ月間くらい、
こういう見慣れた世界の中で過ごしていくことになる。
そのことに、だんだん、感謝の念も持てるゆとりが出てきたのか。
棟方さんが見ていた靑森と、この北海道ではまた、
少し違う部分があると思う。
とくに札幌で過ごしていると、やはり「都会性」という部分で違いが顕著。
これから、内語の世界で棟方さんと対話し始めていく気がしています。
すごい芸術家ですね、棟方志功さんって。

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