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緑を「縁取る」

写真は、京都での見学先、大徳寺龍源院玄関先の様子。
知人から、龍安寺石庭とはまた違った禅の庭園と知らされて、ということで
見学に訪れました。
まぁ、きっかけはそういうことですが、
やはり、京都の街を歩く楽しみは
積層された木造建築群の民族的デザイン感覚を浴びること。
ちょうど、修学旅行シーズンで、
「わぁ、すごい、チョーいい!」とかという、
若々しい感受性の歓声を浴びるように聞くのも、
日本的風景のひとつにもなっているのでしょうね(笑)。
大いに若い人たちも感覚して欲しいなぁと思いますね。
京都が、そのような修学旅行のメッカになって、
大多数の日本人が若い時期に訪れるように教育がされるようになってから、
たぶん、明治以降100年以上経っているのでしょうね。
このような民族的教育体験というものが、
日本人にどんな変化と、精神的痕跡を造形しているのか、
一度調査してみる必要はあるかも知れませんね。
確実に言えることは、
このような民族的木造デザイン感覚を共有していること。
たとえば、この写真でわたしは、緑の室内への取り込みについて
屋根の大きな日本建築の内部の特徴である暗さと、
床面の木に手入れをすることで
黒く磨き上げられた鏡面が得られ、それに四季折々の外部風景、
この時期であれば新緑が取り入れられていることが見て取れる。
こういう空間性、美的感覚に、
心の襞の隅々が満たされていくような感覚を覚えざるを得ない。
こういう緑に対する「縁取り」は、
緑を愛でるこころにとって、演出装置としてすばらしい。
金閣を引き立てる池の水の映り込みのように、
こういう美の反響装置を、どうも日本人は目的的に心がけてきた。
庭に面した木の床面を米糠等も使って磨き上げるということを
日常生活習慣にしてきたという
そういった文化を持っている。
家の手入れをする、ということの目的の中に
こういった感性を楽しむという側面もきわめて重要な要素だったのだろうと
そんなふうに思われます。

ただ、
最近の日本住宅から、こういった感受性の部分が
どんどん鈍磨してきていると感じるのも、
これもまた、事実ではありますね。

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