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【藤原清衡の平泉開都、奥州振興計画】

さて今週が終わると、新天皇即位関連の大型連休が始まりますね。
それまでに片付けなければならない案件が山積なのですが、
どうなるか、頑張るしかない。

なんですが、しばらくカラダも酷使してきたので、
きのうはひたすらの体調調整日。
しばらく歴史探訪系のことは封印してきてしまっていますが、
ふと、中尊寺参詣の時の写真データとにらめっこしていて、
清衡さんの事跡とされる以下のことがふつふつと湧いてきた。
「白河の関から外ヶ浜まで、1町(109m)ごとに1基の笠卒塔婆を建て、
その中心になる中尊寺に1基の塔を建てた」という件。
そして、その「中心」たる平泉に都市を造営する。
北上川の水利を活かす「港湾施設」を中心にして
平泉の街区を造営して、宗教施設としての中尊寺・毛通寺などを
盛大に造営することで、中央権力とは異質の地域権力を作った。
その経済的基盤ということを意味するように、
この「街道建設」を行ったとされている。
いわゆる「奥大道」といわれる幹線道路ですね。
その後の平泉の繁栄を基礎づけたという意味では、
たぶん、もっとも大切な「地域振興策」であったにちがいない。
奥州の経済を支えただろう,産金産業、ウマ生産やその他の北方産品の
基本的な輸送ルートを担ったのでしょう。
今日に至っても、この道筋に東北道が縦貫しているのですから
古来、東北の経済大動脈を造成しようと考えれば、
必然的にこうした地理活用になるのでしょうね。
現代の東北道を往来してみるとわかるけれど、
仙台平野北部を抜けて、奥六郡と呼ばれた岩手県中央部平野部に至るには
この平泉地域が全体として、分水嶺のような位置に当たっている。
奥州全体の「地域開発計画」としてきわめて至当だと思います。
たぶん、こういった経済的な施策がうまくいったので、
平泉政権は3代にわたっての栄華を築き上げることができた。

滅亡の時には、武力の面では関東軍に鎧袖一触でやられるほどに
「貴族化・弱体化」していたとされますから、
経済に特化していた政権だったのでしょう。
この「奥大道」をどんな物資が往来していたのか、
長く、ずっと妄想をかき立てられてきています。

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