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104年前からの北海道での生活記録

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わが家の家系は、明治38年に広島県の福山にほど近い
「今津」という村から北海道に渡ってきました。
西暦で言えば、1905年と言うことになります。
いまから104年前なんですね。
当時の日本の人口は、推計で4500万人程度。
そのうち、北海道は推計で100万人に満たない程度。
人間というのは、
それほど本質的に考えることややることは違いはないと思います。
世の中の移り変わりのなかで、祖父や父親の世代たちがどんなことをして、
どんな考えを抱いていたのか、
自分自身も、そういう来し方行く末を考えるようになってみて、
多くの示唆に富んでいます。
そんな記録を、年長の従兄弟が書いていてくれました。
わたしよりもかなりの年長で、大正13年・1924年生まれですから、
ことし85才になります。
父の世代は大体、60代で亡くなっていますから、
高齢化社会というのは、確実にわたしたちに来ることが証明されている。
たぶん、この記録文章はもう7〜8年前くらいにもらっていましたが、
今回、じっくり読んでみた次第です。
104年前、31才で長兄から家督を受け継いだというわたしの祖父。
祖母は、山口という旧姓で岡山県の農村出身と言うこと。
代々庄屋さんだったという家柄だそうで、
祖父の家も、そこそこは釣り合いが取れていたと言うことのようです。
しかし、長兄からどのような事情で4男であった祖父に
家督がバトンタッチされたのか、いくつか断片的な情報がある程度。
まぁ、温暖な瀬戸内海沿岸地域から、極寒の新開地に一家移住したのですから、
事情は推して知るべしだと思います。
・・・、というような記録を書き残してくれて
本当にありがたいと思いました。
ほかの誰でもない、自分の血がつながった祖父・父の息づかいが
克明に伝わってきます。
わたし自身も、父が死んだときに覚えている範囲で
その記録を書いておいたことがあります。
従兄弟の記録は、それ以前の記録に当たるわけで、
日本人が、どのように時代の中で生きてきたのか、
そういう状況を生々しく知ることができますね。
読んでみて、時代的な貧しさというものを実感することができます。
ものは圧倒的に少なく、それを生産したりすることがいかに大変であることか、
ひるがえって、現在はいかにものが溢れかえっているか、
消費社会といえばそれまでだけれど、
ものに対しての感受性のようなものが、著しく鈍くなっていると思う。
家についての記述もあって、まことに参考になります(笑)。
やはり化学物質利用が進んで、ものが圧倒的に溢れかえり始めたのだと思う。
端的には、「実子縄」という一語がわからなかったことなんですが、
昔の農家、というか、人口構成では圧倒的に農民が多かったわけですから
日本人一般と言って過言ではないけれど、
縄という生活の基本用具は、全部、イネなどのワラをなうことで創りだしていた。
農業生産物の入れものの袋類も全部生産し、
草鞋や、その他生活道具は概ね、そのような「納屋仕事」で作っていた。
その基本的な縄の名前が、「実子縄」というのだそうです。
こんなことすら、わたしのような年代のものでも知らない。
この記録文でも、大量生産の「便利な」化学製品が出てきて
一気に市場からこうした手作り品が消えていく様子が知られます。
それまでは、「荒物商」という仲買人が、農村各地を回って
こういう手作り品を現金仕入れして都会の消費地に運んだ実態が書かれている。
戦後以降の社会が、それまでの社会常識とは
まったく異質に走ってきた様子が見て取れる。
むしろ日本人は、戦前までの「ものがない」中で知恵と努力で
独特の「もったいない」精神による生活文化を創り上げてきていたのだと、ハッキリわかります。
いま、こういう文章をしっかり読んで、
行間にあるものを可能な限り追体験していく必要があると思っています。
北のくらしデザインセンター
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